黒原イトの青春 作:ナポリタン
「与太は良い」
焦げた空気の向こうから、東宮斎ホノカの声がした。
低く、静かな声だった。怒鳴っているわけではない。こちらを威圧しようとしているわけでもない。ただ、そこに立っているだけで、空気の重さが変わる。雷の光が消えた後も、肌の表面には細い針を当てられているような感覚が残っていた。
ホノカは、白く焼けた地面の向こうに立っていた。
反抗作戦の記録で、五摂ロカに次いで多くの損害を出したとされる生徒。雷の超人。ロカの側近。資料の中では何度も名前を見た。けれど、実際に向かい合ってみると、そこにいるのは記録の中の脅威ではなく、こちらを静かに見据える一人の生徒だった。
それが、余計に嫌だった。
怪物のように笑ってくれた方が、まだ分かりやすかったかもしれない。
「黒原イト」
ホノカが私の名前を呼ぶ。
「お前が来ると思っていた」
「有名人になった覚えはないんだけど」
「黒い刃」
「それを知ってるなら、話が早いね」
私は手を握る。
まだ刃は出さない。
出せば、ホノカは必ずこちらを潰しに来る。あれがロカに届く可能性のあるものだと、向こうも分かっている。
「ここを通して」
「通せない」
返答は早かった。
迷いはない。
「ロカを守るため?」
「そうだ」
ホノカは頷いた。
けれど、その声の奥にあるものは、忠誠というには少し乾いていた。ロカのために死ぬと決めた者の声ではある。だが、そこに熱はない。燃えているのは、周囲を走る雷だけだった。
イツキ先輩が拳銃を抜く。
動作は速い。けれど、引き金に指をかけた瞬間、イツキ先輩の眉がわずかに動いた。
撃たない。
銃口が、ほんの少し下がる。
「イツキ先輩?」
「銃は使えない」
「撃つ前から?」
「撃つ前だから分かる」
イツキ先輩は拳銃を見た。
私にも、よく見れば分かった。弾倉のあたりで金属が妙に重く鳴っている。装填機構が、ほんのわずかに噛み合っていない。銃身の先も、目に見えない何かに引かれるように揺れている。
「磁化、帯電、神秘による電磁干渉。どれか一つではなく、全部かな」
イツキ先輩は拳銃をしまい、代わりに軍刀を抜いた。
「撃てないわけじゃない。が、使わない方がいい」
「雷相手に軍刀?」
「さっさと構えたまえ」
「はいはい」
軽く返したつもりだったが、声は少し硬かった。
ホノカは動かない。
ただ、周囲の空気だけが少しずつ変わっていく。髪が逆立ち、皮膚の表面がぴりぴりと痛む。足元の水たまりには細かい泡が浮き、薬液と雨水が混ざった薄い膜の上を、青白い電光が走っていた。
私は足だけを獣化した。
翼はまだ出さない。
金剛星刀も、まだ出さない。
まずは見る。
そう思った瞬間、ホノカが消えた。
音より先に、体が動いた。
動かしたのは私ではない。
頭の奥に、イツキ先輩の声にならない感覚が入ってくる。左、少し下、踏み込みを止めろ。言葉ではない。意識の縁を撫でるような、微かな誘導だった。
私の体のすぐ前を、白い雷が通り過ぎる。
遅れて風が来た。髪が煽られ、頬に熱が走る。ホノカの貫手は、さっきまで私の胸があった場所を貫いていた。
速い。
見えていない。
見えていないのに、避けられた。
「避けるか」
ホノカが呟く。
感情は薄い。だが、こちらの動きを観察しているのは分かった。
イツキ先輩が軍刀を構え、半歩横へ動く。
ホノカの視線が、ほんの一瞬だけそちらへ向いた。
次の瞬間、ホノカはイツキ先輩へ踏み込んでいた。
雷を纏った右手が、鳩尾を狙う。
イツキ先輩は、すでにそこから体をずらしていた。軍刀の背で腕を逸らし、刃をホノカの首筋へ返す。だが、ホノカは首をわずかに傾けただけでそれを避け、足元へ雷を落とした。
床が爆ぜる。
イツキ先輩が後退する。
私は横から踏み込む。
ホノカの視線が私へ戻るより早く、足だけを獣化して加速した。だが、追いつけない。ホノカは私の接近を見てから動いたはずなのに、すでにこちらの懐にいる。
右の貫手。
それが来ると分かった。
分かったのは、私が読んだからではない。
イツキ先輩が、そうさせたからだ。
ホノカ本人も気づいていない癖。近接の初手で右を選びやすい、左右から迫られた時に左側を優先して潰しやすい、そういう本来なら癖と呼べるほどでもない小さな傾向を、イツキ先輩がサイコ・シェアーで行動として固定している。
なんとなく選びやすいだけの選択を、選ばざるを得ない形に変える。
そのせいで、ホノカの攻撃は速いままなのに、ほんの一瞬だけ読み筋を持つ。
私は体をひねり、ホノカの貫手をかわす。
頬のすぐ横を雷が走り、熱で皮膚が焼けるように痛んだ。
そのまま翼を片側だけ出し、急制動をかける。ホノカの背後へ回ろうとしたが、彼女はすでにこちらを見ていた。
足元の水たまりが光る。
私は金剛星刀を出した。
黒い刃で、立ち上がる雷を斬る。
青白い光がほどけ、霧のように消えた。
しかし、消えたのは雷だけだった。
電熱で熱せられた水と薬液が爆ぜる。白い蒸気とともに、熱い飛沫が顔や腕にかかった。金剛星刀はホノカの神秘を斬れる。けれど、そこから生まれた熱や圧力までは消せない。
「万能ではないようだな!」
ホノカが言う。
「残念ながらね」
私は腕の痛みを無視して答えた。
その瞬間、またホノカが消えた。
イツキ先輩の誘導が来る。
左。
低い。
遅れるな。
私は動く。
イツキ先輩も動く。
ホノカの攻撃は、ことごとく紙一重で外れていった。右手の貫手、足払い、背後からの電撃、壁を蹴った高速移動。どれも見えてからでは遅い。けれど、動く前に分かれば避けられる。
ホノカは速い。
だが、今の彼女は、自分でも気づいていない選択の偏りを固定されている。
パターン化された行動を取らされている。
操り人形。
そう言うには、あまりにも速すぎる人形だった。
ホノカの動きが止まった。
ほんの一瞬だった。
雷の残光が消えないうちに、彼女は私たちから数歩離れた位置へ立っている。息は乱れていない。こちらは、避けるだけで肺が焼けるようだった。
ホノカは、自分の手を見る。
「おかしい」
静かな声だった。
だが、そこには初めて明確な違和感が混ざっていた。
「速さはこちらが上。反応も、移動も、出力も。なのに、先に動かれている」
イツキ先輩は答えない。
軍刀を構えたまま、わずかに足の位置を変える。
ホノカはイツキ先輩を見る。
「心を読んでいるのか?」
「どうだろうね」
「……読まれているだけなら、まだ分かる。でも、私の動きが少しだけ狭くなっている?」
ホノカは一歩踏み出す。
足元で電光が弾ける。
「選択肢を、削られている」
気づいた。
私は喉の奥が冷えるのを感じた。
イツキ先輩も表情を変えないが、空気がわずかに硬くなったのは分かった。
「……無駄な考えだな」
ホノカは言った。
「読めていようが、対応できなくなればいいだけだ」
直後、雷光が線ではなく面になった。
視界の端から端までが白く染まり、音が遅れてくる。窓が割れ、壁の金属部分が火花を散らし、足元の薬液が一斉に沸いた。空気が焼け、呼吸をしただけで喉が痛む。
ホノカの速度が上がった。
先ほどまでの速さが、まだ抑えられていたのだと理解する。
サイコ・シェアーで読み筋を作っても、体が追いつかない。読めても避けられなければ意味がない。未来の形が見えたところで、その未来が来る前に動けなければ潰される。
白い線が迫る。
私は足を獣化し、翼を広げる。
イツキ先輩の誘導が入る。
右。
いや、間に合わない。
私は金剛星刀を斜めに振った。
雷を斬る。
だが、ホノカ本体は斬れない。
すれ違いざま、肩に衝撃が走った。何かが裂け、血が飛ぶ。痛みより先に、腕の感覚が一瞬消えた。神経を直接掴まれたような不快感が走り、指が勝手に開きかける。
落とすな。
そう思うより早く、手に力を戻す。
金剛星刀はまだある。
ホノカはもう次の動きに入っていた。
イツキ先輩が軍刀で受ける。受けたというより、受け流した。雷を纏った一撃が刀身に触れ、火花が散る。イツキ先輩の手が焼けた匂いがした。それでも、彼女は刀を離さない。
「イト君」
イツキ先輩の声が、通信ではなく直接聞こえた。
「次で決める」
「次って、こっちが?」
「そうだ」
言い方はいつも通りだった。
でも、その声で分かった。
次が、イツキ先輩の限界だ。
ホノカは金剛星刀を無視できない。雷を斬れる刃。ロカへ届くかもしれない刃。だから、ホノカはまず私を潰そうとする。
イツキ先輩は、それを利用するつもりだ。
「何を」
聞こうとした。
けれど、イツキ先輩は答えなかった。
ただ、私の意識の奥に、ひとつの像が流れ込んでくる。
私が正面から突撃する。
足を獣化し、翼で加速し、金剛星刀を構えて、ホノカへ一直線に向かう。
それは鮮明すぎるほど鮮明な像だった。
まるで、本当に私がそう動いているように。
ホノカが動く。
狙いは、私。
正面から迫る黒い刃を、雷を纏った貫手が迎え撃つ。
貫いた。
私の胸を、ホノカの腕が貫いたように見えた。
でも、違う。
貫かれたのは、イツキ先輩だった。
時間が止まったように感じた。
ホノカの腕が、イツキ先輩の腹部を貫いている。雷が肉を焼き、服の焦げる匂いが広がる。イツキ先輩の口元から血が落ちた。
先輩。
そう呼ぼうとした。
でも、声は出なかった。
出す時間もなかった。
イツキ先輩の目が、こちらを見ている。
行け。
言葉にはなっていない。
けれど、それだけは分かった。
単純なスペックではホノカに届かない。
小細工も、いつまでも通じない。
差し出せるものが命だけなら、イツキ先輩はそれを差し出した。
なら、私が止まるわけにはいかない。
止まれば、イツキ先輩の命が無駄になる。
私は別方向から踏み込んでいた。
本物の私は、ホノカの死角にいる。
金剛星刀を出す。
ホノカが気づいた。
速い。
貫いた相手がイツキ先輩だと理解するより早く、彼女は体をひねり、こちらへ貫手を放つ。雷を纏った右手が、私の顔面を狙う。
間に合わない。
そう思った瞬間、イツキ先輩の最後の誘導が入った。
ホノカの目に映る私の位置が、ほんの少しだけずれる。
実際の体ではなく、認識の方がずれる。
ホノカの貫手は、私の頬をかすめた。
皮膚が裂け、熱い血が飛ぶ。
でも、それだけだった。
黒い刃が、ホノカの体を袈裟に斬った。
雷が消える。
空気が急に重くなる。
ホノカは数歩よろめき、膝をついた。切断された神秘が、青白い火花になって彼女の体からこぼれていく。金剛星刀に斬られた傷は、ただの傷ではない。レイズでも容易には戻れない、もっと深い場所を断つ傷だ。
ホノカは私を見た。
「……すまない」
声は小さかった。
血が唇から落ちる。
「お前を……」
その先は言葉にならなかった。
誰に謝ろうとしたのか。
ロカを止められなかったことか。
私をロカへ向かわせることか。
あるいは、ホノカ自身にも分からなかったのかもしれない。
ホノカの体が崩れる。
雷の超人は、それきり動かなかった。
「イツキ先輩!」
私は駆け寄った。
イツキ先輩は壁にもたれて座り込んでいた。腹部の傷は深い。ホノカの貫手が貫いた場所は焼け焦げ、血が止まらない。雷の熱で一部は焼かれているのに、その奥から新しい血が流れ続けていた。
死に体。
そんな言葉が頭をよぎって、すぐに否定した。
否定したかった。
「治療を、アコちゃんに、救護班を」
「何をしている」
イツキ先輩の声は、驚くほど静かだった。
顔色は白い。
唇から血が滲んでいる。
それでも、目だけはいつも通りだった。
「ロカのもとへ向かえ」
「何言って」
「行け」
胸を掴まれたような気がした。
「でも、先輩が」
「僕のことはいい」
「よくないですよ!」
声が荒くなる。
抑えられなかった。
イツキ先輩は、少しだけ目を細める。
「よくないと思うなら、なおさら行くべきだ」
「なんで」
「僕が君を行かせるために、ここでこうなっているからだよ」
言葉が出なかった。
イツキ先輩は、血で濡れた手をわずかに動かし、遠くを指す。
「コールで探せ」
私は歯を食いしばる。
目を閉じる必要はなかった。
旧ゲヘナ本校舎の方角で、巨大な気配がぶつかっている。そこへ向かわなければならない。分かっている。分かっているのに、足が動かない。
イツキ先輩を置いていけない。
でも、置いていかなければならない。
私は息を吸った。
肺が痛い。
喉も痛い。
それでも、言わなければならない言葉があった。
「……行ってきます」
イツキ先輩は、小さく笑った。
私は立ち上がる。
振り返らない方がいい。
そう思った。
振り返ったら、たぶん走れなくなる。
だから私は、金剛星刀を握り直し、旧ゲヘナ本校舎へ向かって走り出した。
「……世話の焼ける」
少し前、旧ゲヘナ本校舎の中枢では、公佳キミカが五摂ロカと向かい合っていた。
かつて本校舎と呼ばれていた建物は、すでに校舎の形をほとんど残していなかった。壁は半ば崩れ、天井の一部は抜け落ち、床には薬剤の痕跡と乾いた血がこびりついている。雷が焼いた跡が柱を黒く染め、異常な神秘反応が、空気そのものを歪ませていた。
その奥に、ロカはいた。
玉座のように積み上げられた瓦礫の上で、彼女は頬杖をついている。以前よりも人の形が崩れていた。腕の一部は皮膚の下で別の器官が蠢いているように脈打ち、背中からは何かの残骸のようなものが覗いている。笑っている。だが、その体は安定していない。
それでも、ロカは楽しそうだった。
「来たんだね」
ロカはキミカを見て、目を細める。
「びびって泣いてるんじゃないかって心配してたんだよ?」
キミカはショットガンを構えた。
その表情に、恐怖は見えない。
少なくとも、ロカからは見えなかった。
「心は置いてきた」
キミカは言う。
「成すべきことを」
ロカは、少しだけ嬉しそうに笑った。
「いいね」
私は走った。
息が切れる。
足が重い。
ホノカに焼かれた頬が痛む。肩の傷から血が流れ、制服の内側を濡らしている。それでも、止まらなかった。止まれば、イツキ先輩の最後の言葉が、キミカ会長の死に場所が、全部無駄になる。
旧ゲヘナ本校舎は、近づくほどに校舎ではなくなっていった。
崩れた壁。
折れた柱。
ひしゃげた階段。
瓦礫の隙間には薬剤の残滓が光り、ところどころで焦げた匂いと血の匂いが混ざっている。かつて教室だった場所も、廊下だった場所も、今はただ壊れた箱の内側でしかなかった。
その中心に、瓦礫の山があった。
私は足を止める。
頂上に、ロカがいた。
キミカ会長の死体の上に、座っていた。
「あっ、イトちゃん」
ロカは手を振る。
まるで、待ち合わせ場所に遅れてきた友人を見つけたみたいに。
「よく来たねぇ」
視界が、うまく定まらなかった。
キミカ会長がいる。
動かない。
血に濡れている。
「……ってことは、ホノカちゃんは死んじゃったのかな?」
ロカは首を傾げた。
私は答えなかった。
答えられなかった。
ロカは楽しそうに肩をすくめる。
「いやー、キミカちゃん強かったなぁ。三回だよ? 三回もレイズしなくちゃいけなくなってさぁ」
その声に、悪意はあったのだろうか。
たぶん、あった。
けれど、それ以上に、本当に楽しかったのだと思う。
それが、吐き気がするほど嫌だった。
私は怒りに震える体を、どうにか抑えた。
金剛星刀を握る手が痛い。
「……あなたは」
声が掠れる。
「あなたは、なにが、したいんだ」
ロカは顎に手を当てた。
考えるような仕草だった。
まるで、昼食のメニューでも選ぶみたいに軽い。
「うーん、そうだねぇ」
少しだけ間を置いて、ロカは言った。
「八つ当たり? ってとこかな」
言葉が消えた。
何も返せなかった。
キミカ会長が死んだ。
イツキ先輩が死んだ。
ホノカも死んだ。
ゲヘナ東側は壊れ、獣になった生徒たちが溢れ、アビドスもブラックマーケットも巻き込まれた。
その先にあった答えが、八つ当たり。
ロカは、キミカ会長の死体の上から立ち上がる。
人の形をした輪郭が、少しだけ崩れた。
笑っている。
体は壊れかけている。
それでも、五摂ロカは楽しそうだった。
「さ、始めようか」
その声で、私は金剛星刀を構えた。