黒原イトの青春 作:ナポリタン
私だけのトクベツなんていらないから、皆と同じものをください
「さ、始めようか」
ロカの声が、崩れた本校舎の中心に落ちた。
その声だけは、妙に軽かった。瓦礫の山も、薬剤の匂いも、焦げた血の跡も、キミカ会長の動かない体も、彼女にとっては戦場の飾りでしかないみたいだった。
私は金剛星刀を構える。
手の中の黒い刃が、震えていた。
いや、震えているのは私の手だ。怒りで、疲労で、血を失いすぎたせいで、それとも今ここにある全部に耐えられなくなっているせいで、指先がうまく力を保てない。
「あなたを、止める」
私の声は掠れていた。
ロカは少しだけ首を傾げる。
「止める?」
くすりと笑う。
「殺す、じゃなくて?」
返事はしなかった。
代わりに、足を獣化する。翼を広げる。金剛星刀を握り直し、瓦礫の上に立つロカへ向かって地面を蹴った。
距離は一瞬で詰まる。
ロカは避けなかった。
黒い刃が、ロカの肩から胸へ走る。確かにその体を切りつけたはずが、手ごたえがない。
ロカの体が刃の軌跡を避けるように変形している。
けれど、ロカは笑っていた。
「……やっぱり、これだよねぇ」
私はすぐに二撃目を入れる。
ロカの腕が変形した。
皮膚の下から銃身が生える。一本ではない。肩、脇腹、背中、腕の内側。ありえない場所から、ショットガンの銃口が花のように開いた。
撃発音が重なった。
逃げる暇はなかった。
視界が赤く弾け、胸と腹がまとめて砕ける。痛みは遅れてきた。自分の体が後ろへ飛んでいることを理解するより早く、肺の中の空気がなくなり、喉の奥に血が詰まる。
死ぬ。
そう思った瞬間、意識が落ちた。
次に目を開けた時、私はまだ瓦礫の上に立っていた。
レイズ。
体が戻る。
傷が塞がる。
壊れたはずの肺が息を取り戻し、折れた骨が音もなく繋がっていく。けれど、戻ったはずの体の奥には、死んだ時の痛みだけが薄く残っていた。
ロカは楽しそうに私を見ていた。
「一回目」
私は答えず、翼を広げる。
正面からでは駄目だ。速度も、力も、反応も、全部足りない。なら、視界を奪うしかない。
黒い羽をばら撒く。
羽は瓦礫の間を滑り、ロカの周囲を囲むように舞った。羽の影がいくつも分かれ、私の気配を複数に散らす。ブラックマーケットで覚えた攪乱。トモリの煙ほど綺麗ではない。
けれど、これでも一瞬なら誤魔化せる。
ロカの目が動く。
私はその一瞬へ踏み込んだ。
地面が裂けた。
下から蛇が出てくる。
一本ではない。瓦礫の隙間、割れた床、崩れた階段の影。そこら中から黒い蛇が噴き出し、私の足に、腕に、翼に絡みついた。噛みつかれた瞬間、肉が裂ける。獣化した足でも止められない。羽で振り払おうとしたが、別の蛇が喉へ飛びついた。
「君たちの力が、誰から生まれたのか忘れちゃったぁ?」
ロカの声が聞こえる。
「君たちにできて、私にできないわけがないよね」
喉が潰れる。
声が出ない。
蛇の牙が視界の端で光り、次の瞬間、私はまた死んだ。
「二回目」
ロカが指を折るように数えている。
私は息を吸った。
死んだ記憶が、体の内側に沈んでいく。胸を撃ち抜かれた痛みと、蛇に喉を噛み砕かれた感触が、まだそこにある。レイズで戻っても、なかったことにはならない。少なくとも、私の中では消えない。
今度は空へ逃げた。
地面から蛇が来るなら、足場を捨てればいい。翼を大きく広げ、崩れた天井の隙間へ向かって飛ぶ。空中で体をひねり、ロカの背後へ回る軌道を取った。
空が光った。
雷。
ホノカの雷とは違う。もっと雑で、もっと強引で、雷という形だけを乱暴に引きずり出したような一撃だった。それでも、威力は十分だった。
金剛星刀で斬る。
黒い刃が雷を裂く。
だが、斬りきれなかった光が体を焼き、翼の片側が痙攣する。空中で姿勢を崩したところへ、二発目が落ちた。
世界が白くなる。
焦げた匂いの中で、三度目の死が来た。
戻る。
息を吸う。
地面の感触を確かめる。
どこまでが今で、どこまでがさっきの死なのか、少し分からなくなる。
「三回目」
ロカの声だけが、やけにはっきり聞こえた。
私は金剛星刀を握り直す。
次は煙だった。
瓦礫の隙間から、白く濁った煙が広がる。
視界が奪われる。
距離感が狂う。
音の方向がずれる。
私は金剛星刀を構え、足元のコールを探ろうとする。だが、その前に、煙の中から折り紙のナイフが飛んできた。
一本目が肩を貫く。
二本目が腹に刺さる。
三本目、四本目、五本目。
数える暇もなく、紙の刃が全身を串刺しにする。メルリの折り紙。包丁を折れば切れ、針を折れば刺さる。紙の軽さで飛んでくるのに、肉に入れば本物の刃と変わらない。
膝が折れる。
倒れる前に、さらに刃が降ってくる。
私は四度目の死を迎えた。
「四回目」
「五回目」
「六回目」
……。
何度目かのレイズで、私は自分の手を見た。
指がある。
刃もある。
足も動く。
体は戻っている。
でも、何かが戻っていない。
ロカが何かを言っている。
たぶん、数を数えている。途中から、数字は意味を持たなくなった。ショットガンに撃たれ、蛇に噛まれ、雷に落とされ、煙に惑わされ、折り紙に刺され、獣の爪で裂かれ、見覚えのある力と見覚えのない力の両方で、何度も壊された。
レイズで戻るたびに、体は元に戻る。
けれど、戻るたびに、記憶の順番がずれていった。
トモリの煙と、黒い刃の感触が混ざる。
クヌギ先輩の声が、ヘルメット団の子たちの笑い声と重なって聞こえる。
ヒナちゃんの手の温度が、カヨコちゃんがくれた朝の静けさと繋がり、課題の紙に書かれた文字が、ファミレスのメニューの文字へ変わっていく。
どれが昨日の約束で、どれが昔の記憶で、どれがまだ起きていない未来なのか、分からなくなっていく。
わたしはだれ。
ここはどこ。
はげたかがみている。
おいていかないで。
「ひなちゃん」
声が出た。
自分の声なのに、ひどく幼く聞こえた。
「どこ」
瓦礫の上に立っているはずなのに、足元が見えない。ロカがいるはずなのに、ロカの顔がうまく結べない。ただ、怖かった。
「おいてかないで」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
ヒナちゃんに。
カヨコちゃんに。
クヌギ先輩に。
ヘルメット団の子たちに。
それとも、もう消えた自分自身に。
「すっごいねぇ」
ロカの声が近づいてくる。
楽しそうだった。
「こんなにレイズって出来るんだ」
私は顔を上げようとした。
うまくできなかった。
「その黒い刀といい、やっぱり君はトクベツなのかな?」
特別。
その言葉が、遠くで跳ねた。
私は特別なんかじゃない。
そう返したかった気がする。けれど、言葉が形にならない。口を開いても、息が漏れるだけだった。
「……おーい」
ロカが屈み込む。
「聞こえてる?」
聞こえている。
たぶん。
でも、意味が遅れてくる。
「……まさかこれで終わりなんて言わないよね」
ロカの声から、少しずつ楽しさが剥がれていった。
「……ねぇ」
瓦礫を踏む音。
「ふざけてないで、ちゃんとしてよ」
私は黒い刃を握っている。
でも、手に力が入らない。
「ちゃんと、私を、殺しに来てよ」
ロカの声が低くなる。
その言葉だけ、妙にはっきりと届いた。
殺しに来てよ。
私に、殺してほしいの。
なんで。
「……なんで」
声がこぼれた。
自分のものとは思えないほど、弱い声だった。
「わたしに、ころしてほしいの?」
ロカの動きが止まった。
それまで笑っていた気配が、すっと冷える。
長い沈黙のあと、ロカは言った。
「……なんで、私が死んであげなくちゃいけないの?」
声は静かだった。
初めて、遊びではない声に聞こえた。
「こんな狂った箱庭のために私が」
ロカは、何かを噛み潰すように笑う。
「癪に障るよね」
意味は、半分も分からなかった。
ロカの輪郭が揺れる。
私の視界も揺れる。
彼女はしばらく私を見ていたが、やがて興味を失ったようにため息をついた。
「……夢は、夢ってわけ?」
少しの沈黙。
「……全員殺すか」
その言葉で、空気が変わった。
ロカの腕が変形する。
トドメを刺すつもりだと、遅れて分かった。
避けなければならない。
立たなければならない。
でも、体が動かない。
その時、横合いから銃撃が飛んできた。
ロカの周囲に、鉄の防護壁が生える。
弾丸がそれに弾かれ、火花が散った。
ロカは銃撃の方向を見る。ほんの一瞬だけ、意識が私から逸れる。その隙に、何かが高速で飛び込んできた。
体が浮く。
誰かに抱えられている。
風が顔に当たり、瓦礫の影へ引き込まれる。
紫の目が見えた。
白い髪。
震えている手。
ヒナちゃん。
「イト」
呼ばれた。
私は返事をしようとした。
でも、声が出なかった。
ヒナちゃんの顔が近い。泣きそうな顔をしている気がする。でも、ヒナちゃんが泣くはずがないような気もする。いや、泣いてもいいのだと、どこかで誰かが言っていた気もする。
「イト、お願い、起きて」
起きている。
たぶん。
目は開いている。
でも、ヒナちゃんの言葉が遠い。手を伸ばそうとしても、自分の手がどこにあるのか分からない。
瓦礫の向こうでは、銃声と爆発音が続いている。
アコちゃんの声が聞こえる。
「左から抑えてください! 防護壁の生成に合わせて射線を切ります! カヨコさん、煙が来ます!」
「了解」
カヨコちゃんの声。
別の誰かの悲鳴。
風紀委員たちがロカを止めようとしている。止められる相手ではないと分かっていて、それでも時間を稼いでいる。
その間に、ヒナちゃんは私を抱えていた。
「イト」
ヒナちゃんの声が震える。
「黒原イト。お願い、帰ってきて」
帰る。
どこへ。
寮。
教室。
ファミレス。
カヨコちゃんの隣。
ヒナちゃんの隣。
修学旅行。
違う。
まだ行ってない。
何かを思い出しかけて、すぐに崩れた。
ヒナちゃんが私の手を握った。
その感触が、遠くから戻ってくる。
手のひらの温度。
指先の震え。
強く握りすぎないようにしているのに、絶対に離さないという意思だけは伝わってくる力。
「イト、聞いて」
ヒナちゃんは、私の顔を両手で包んだ。
「……大好き」
何を。
自分の唇に、何か温かいものが触れている。
少し血の味がする。
目の前に、ヒナちゃんの顔がある。
ヒナちゃんが、自分に口づけをしている?
「ヒヒヒっ、ヒナちゃん!!?」
あまりの衝撃に私は飛び上がった。
ヒナちゃんは少し顔を赤らめながら謝る。
「……ごめんね?」
「ええ? いやぁ、ええ?」
驚愕が抜けきらない私の手を、ヒナが握る。
「イト、状況は? 意識は?」
「いやぁ、ばっちりもばっちり……ッ!」
少し腑抜けていたけど、すぐに気を引き締める。
ロカの気配。
アコちゃんたちの戦線。
自分の損耗。
残された時間。
指揮を行っているアコちゃんに問いかけた。
「どれくらい持ちそう!?」
アコちゃんが叫ぶ。
「イチャイチャしたかと思えば……三十秒持たせます!」
「ありがとう!」
私はヒナちゃんに向き直る。
ヒナちゃんは、私の手を握ったまま頷いた。
「ヒナちゃん」
「うん」
私は金剛星刀を見る。
ロカを見る。
それから、ヒナちゃんを見る。
「……考えが、ある」
ヒナちゃんは一瞬も迷わなかった。
「言って。二人で、皆で勝とう」
その言葉で、私は立ち上がった。