黒原イトの青春 作:ナポリタン
「言って。二人で、皆で勝とう」
ヒナちゃんは、そう言った。
瓦礫の向こうでは、まだ銃声が続いている。アコちゃんが指揮を飛ばし、カヨコちゃんが煙と瓦礫の隙間を読んで、残った風紀委員たちがロカの注意を無理やり引きつけていた。誰も、ロカに勝てるとは思っていない。それでも、今この瞬間だけは足を止めるために、全員が削られながら戦っている。
三十秒。
アコちゃんが持たせると言った時間。
私は息を吸う。
体はまだ痛い。レイズで戻ったはずの傷が、肉の奥で熱を持っている。何度も死んだ記憶が、骨の内側に張りついているようだった。立っているだけで視界の端が白く滲み、少し気を抜けば膝が折れそうになる。
でも、頭は戻った。
私はここにいる。
まだ修学旅行に行っていない。
だから、ここで終われない。
「これ、持って」
私は手の中の黒い刃へ意識を落とす。
金剛星刀は、私の手の中で形を少しだけ変えた。刃が薄くほどけ、黒い羽のような断片がいくつか生まれる。それをヒナちゃんの手に重ねた。
ヒナちゃんは、何を受け取ったのかを問わなかった。
ただ、頷いた。
「あと、動かないで。少しだけ」
「分かった」
私はヒナちゃんの肩へ手を伸ばす。
黒い羽が一枚、指の間でほどけた。羽はヒナちゃんの制服の肩口に触れ、そこへ沈むように残る。見た目にはほとんど分からない。けれど、コールだけを見れば、そこに私の気配が薄く絡む。
「ごちゃごちゃやってるみたいだけど」
ロカの声が瓦礫の上から落ちてくる。
さっきまでの遊ぶような声とは違う。苛立ちと期待が、同じ場所で絡み合っていた。私が戻ったことに気づいている。金剛星刀がまだ消えていないことも、ヒナちゃんがこちら側に来たことも、全部見ている。
ロカの腕が変形し始めた。
皮膚の下で骨が軋む。肉が裂ける音と、金属が組み上がるような音が重なり、腕だったものが砲身へ変わっていく。肩から背中へかけて、巨大な機構が無理やり生えていく様は、生き物の変身というより、壊れた兵器が人の体を押し広げているようだった。
私は、その形を知っている。
アビドスの砂漠で見た。
街を焼き、連合部隊の半数を葬ったとされるもの。
列車砲シェマタ。
その縮小版が、ロカの腕に象られていた。
「全部無駄だよ!」
ロカが笑う。
砲口がこちらを向く。
避けられない。
逃げても、周囲ごと吹き飛ばされる。
受ければ、死ぬ。
けれど、あれを切らなければ、次へ進めない。
私は金剛星刀を構え、前へ出た。
「アコちゃん!」
「はい!」
「減衰!」
アコちゃんは一瞬も迷わず叫んだ。
「……ッ、ハルカさん!」
その名前を聞いて、私は一瞬だけ反応が遅れた。
ハルカちゃん。
この戦場で、一度も呼ばれていなかった名前だった。
次の瞬間、回線に別の声が割り込む。
『は、はいぃっ!』
震えている。
けれど、逃げてはいない声だった。
『生成!』
地面が鳴った。
私の前に、鉄の壁が生える。
一枚ではない。
二枚、三枚、四枚。まるで地面そのものが金属を吐き出すように、分厚い鉄板が次々と立ち上がっていく。十層の鉄壁は、完全に密着していない。それぞれの間にわずかな空間があり、衝撃を受けるたびに砕け、歪み、次の壁へ力を逃がすように配置されていた。
キミカ会長とイツキ先輩が、ロカがシェマタ級の一撃を再現する可能性に備えて残していた、最後の保険。
伊草ハルカ。
その名前が、ようやく戦場に現れた。
ロカの砲口が光る。
世界が白く染まった。
弾頭が放たれる。
一枚目の鉄壁が砕ける。
二枚目が溶け、三枚目が折れ、四枚目が爆ぜた。五枚目が弾頭の軌道をほんの少しだけずらし、その反動で六枚目が根元から引き千切られる。
耳が潰れそうな音の中で、私は前へ進んだ。
七枚目。
鉄が裂ける。
八枚目。
熱が頬を焼く。
九枚目。
足が止まりかける。
十枚目が砕けた時、弾頭はまだそこにあった。
けれど、最初の速度ではない。
最初の熱ではない。
最初の絶望ではない。
「ッああああああ!」
私は金剛星刀を振り抜いた。
黒い刃が、弾頭を斬る。
ロカの神秘で形作られたシェマタの一撃が、刃の向こうでほどけていった。消しきれなかった熱と衝撃が体を叩き、全身の傷がまとめて開くような痛みが走る。
それでも、弾頭は消えた。
「……ハハッ!」
煙の向こうで、ロカが笑う。
「いいよ、最高だよ!」
その声は、本当に楽しそうだった。
『ご、ごめんなさい……これ以上は、たぶん……』
「十分です! ハルカさん、退避!」
アコちゃんの声が飛ぶ。
ハルカちゃんが作った十枚の壁。
アコちゃんが繋いだ三十秒。
キミカ会長とイツキ先輩が残していた最後の保険。
全部が、今ここに繋がっている。
無駄にはできない。
砕けた鉄壁の破片が、煙の中で落ちていく。
煙が晴れた瞬間、金剛星刀を持った影がロカへ迫る。
ロカは笑う。
「来ると思った」
黒い刃が振り下ろされる。
ロカは体を傾け、その一撃を避けた。傷ついた体とは思えない反応だった。人の形は崩れているのに、動きだけはまだ速い。いや、むしろ壊れたことで、関節や筋肉の制限を無視しているようにも見えた。
「いいねぇ」
ロカは、金剛星刀を持つ影へ手を伸ばす。
「でも、見えてるよ」
カウンターが入る。
そう思った瞬間、ロカの表情が変わった。
背後。
そこに、『黒原イト』のコールがあった。
ロカは反射的に振り返る。
全身からショットガンが生える。肩、背中、脇腹、腕。さっき私を殺した銃口が、一斉に背後の気配へ向けられた。
撃発音。
血が散った。
「後ろから?」
ロカが笑う。
「ばればれだよ」
煙が広がる。
ロカが牽制のために吐き出した煙が、瓦礫の上を這い、アコちゃんたちの射線を潰す。カヨコちゃんの弾が右側の煙を裂いたが、全部は消せない。ロカは自分の感知した気配の正体を確かめるように、ゆっくりと背後へ意識を向けた。
その瞬間、ロカの胸から黒い刃が生えた。
ロカが血を吐く。
笑みが止まる。
「……え?」
背中側に、私がいた。
未変身のまま。
ショットガンの迎撃を受けて、全身から血を流していた。肩も腹も脚も撃たれている。息をするたびに、胸の奥で何かが擦れる音がした。それでも、私は背後に残っていた。
金剛星刀の刃を、ロカの内側へ突き刺している。
「なんで」
ロカの声が、初めて揺れた。
「さっき正面に」
正面から迫っていた影が、煙の中で輪郭を取り戻す。
そこにいたのは、ヒナちゃんだった。
ヒナちゃんの手には、黒い刃がある。
私が託した、金剛星刀の一部。
完全な一本の刀ではない。私の羽とコールで形を保たせた、黒い刃の外側。けれど、ロカには十分だった。金剛星刀を持っているものがイトである、という前提で反応するには、それだけで十分だった。
ヒナちゃんの肩には、黒い羽が絡んでいる。
私の羽。
私のコール。
だから、ロカにはヒナちゃんの位置から私の気配が混ざって感じられていた。
一方で、本物の私は未変身のまま、羽の気配を囮にして、ロカの背後へ回った。
ロカは、イトが金剛星刀を持っているという前提で見た。
金剛星刀を持つ影を、イトだと思った。
背後のコールを、囮だと思った。
その前提を、崩した。
「……ふ」
ロカの口元が震える。
怒りか、笑いか、分からなかった。
「ふざけるな」
ロカの腕が私へ向く。
殺される。
そう分かっていても、私は刃を抜かなかった。ここで離せば、届かない。ロカの内側に刃を入れたまま、神秘の奥を抉り続ける。
ロカが私を撃とうとした瞬間、正面からヒナちゃんが突っ込んだ。
黒い刃を持って。
ロカは舌打ちし、頭部を変形させる。
口が裂け、顔の輪郭が崩れ、砲身が生える。小型のシェマタ。さっきより小さい。だが、至近距離のヒナちゃんを撃ち抜くには十分すぎる。
砲口が光る。
放たれた一撃は、ヒナちゃんを撃ち抜かなかった。
ロカがヒナちゃんだと思って撃ったものは、黒い羽で作られた影だった。
私がヒナちゃんに残していた羽。
それが、ヒナちゃんの輪郭を一瞬だけずらしていた。
二段目の誤認。
ロカの目が見開かれる。
本物のヒナちゃんは、その死角にいた。
黒い羽をまとい、金剛星刀の黒い刃を握り、真っ直ぐにロカへ踏み込む。
ヒナちゃんの刃が、ロカを切り裂く。
私の背後から刺した刃と、ヒナちゃんの正面からの斬撃が、ロカの内側で交差する。神秘反応が悲鳴のように軋み、絡み合っていた無数のコールが一斉にほどけていった。
ロカは、目を見開いたまま、ヒナちゃんを見ていた。
黒い羽。
金剛星刀。
ロカの口元が、少しだけ動いた。
「ああ」
声は小さかった。
「これだったんだね」
ロカの体が崩れた。
ロカは瓦礫の上に倒れ伏した。
まだ息はある。
体の輪郭は崩れ、人の形を保つだけでも限界に見えた。腕の一部は途中で溶けるように床へ沈み、背中から伸びていた兵器の残骸も、形を失っていく。さっきまであれほど濃かったコールが、傷口から空気へ漏れ出していた。
私は膝をつきそうになる。
でも、まだ倒れなかった。
ヒナちゃんが金剛星刀を構え、ロカの前に立つ。
「何か、言い残すことは」
ヒナちゃんが問う。
ロカは、薄く笑った。
「……なーんにも、教えてあげない」
ヒナちゃんは何も返さなかった。
ただ、刃を振り下ろす。
金剛星刀が、ロカの首を断ち切った。
空気が落ちる。
耳鳴りのように鳴っていたコールが途切れ、遠くの銃声が急に現実の音として戻ってくる。瓦礫の外で獣化個体の咆哮が乱れ、統制を失った生徒会側の兵たちが動きを止める気配がした。
終わった。
誰かがそう言った気がした。
でも、勝ったという感じはしなかった。
キミカ会長が死んだ。
イツキ先輩が死んだ。
ホノカも死んだ。
ロカも死んだ。
東側は壊れ、たくさんの生徒が傷つき、戻らない人がいる。
終わった。
ただ、それだけだった。
私は金剛星刀を消そうとした。
けれど、その前に膝から力が抜けた。
「イト」
ヒナちゃんの声が近づく。
倒れる前に、ヒナちゃんが私を受け止めた。腕の中に収まった瞬間、ようやく自分の体がどれほど冷えていたのか分かる。血を流しすぎた。レイズを繰り返しすぎた。
もう、立っていられない。
「イト」
ヒナちゃんが呼ぶ。
返事をしようとした。
でも、声が出なかった。
視界の端が暗くなる。ヒナちゃんの顔が近くにあるのに、輪郭がぼやけていく。赤い目が、初めてはっきりと揺れていた。
「……ッ、誰か! 救護班!」
ヒナちゃんの声が遠くなる。
アコちゃんの声も、カヨコちゃんの足音も、誰かが走ってくる音も、全部が水の中から聞こえるみたいに鈍くなっていく。
もう、目を開けていられなかった。
ヒナちゃんの手が、私の手を握っている。
その温度だけを最後に、世界は暗くなった。
ロカの死後、生徒会側の統制は急速に崩壊した。
獣化個体の一部は暴走を止め、糸が切れたようにその場へ倒れた。別の一部は統制を失ったまま逃走し、風紀委員会と後詰めの部隊が追跡に移った。マヤとメルリは拘束され、残った生徒会側の兵も次々と武装解除されていく。
ゲヘナ東側は、静かだった。
勝利の歓声はない。
瓦礫の撤去、負傷者の搬送、死者の確認、暴走を止めた獣化個体への処置。やるべきことだけが積み上がり、誰もそれを喜ぶ余裕を持っていなかった。
確認された死者の中には、公佳キミカと坂間是イツキの名前があった。
キミカは、旧ゲヘナ本校舎の中枢で発見された。
イツキは、ホノカとの戦闘区域で発見された。
二人とも、最後まで自分の役割を果たしていた。
後日、イツキが残していた戦後復興案が見つかった。
そこには、ゲヘナ東側の統治計画、獣化個体の治療と隔離、アビドス分校へ避難した生徒たちの帰還手順、トリニティ境界線への対応、連邦生徒会との交渉方針、そして風紀委員会の次期体制案までが記されていた。
次期会長候補として、空崎ヒナの名前があった。
副会長候補として、黒原イトの名前もあった。
ただし、イトは目を覚まさなかった。
ロカとの戦闘後、黒原イトは長期昏睡に入った。
治療班は肉体の損傷だけでは説明できないと言った。レイズの過負荷、神秘の消耗、金剛星刀の連続使用、そして自己同一性の崩壊。理由はいくつも挙げられたが、どれか一つに原因を絞ることはできなかった。
ヒナは毎日のように病室を訪れた。
最初の数日は、何を言えばいいのか分からなかった。ただ椅子に座り、眠ったままのイトの手を握るだけだった。手は温かい。生きている。その事実だけが、ヒナをかろうじて支えていた。
窓の外では、ゲヘナの壊れた街に、少しずつ春の気配が近づいていた。
戦争が終わっても、壊れたものがすぐ戻るわけではない。焼けた壁は焼けたままで、死んだ人は戻らず、空席になった椅子には誰も座らない。それでも、時間だけは進んでいく。瓦礫の隙間には小さな草が生え、冷たい風の中に、わずかに湿った春の匂いが混ざり始めていた。
ヒナは、眠ったままのイトの手を握る。
「もうすぐ、春になるわ」
イトは返事をしない。
それでも、ヒナは続けた。
「起きて」
「……起きて」
箱庭の青春。
その最後が、迫ってきていた。