黒原イトの青春 作:ナポリタン
先生を呼ぼう
春が来ていた。
ゲヘナ学園の東側にも、ようやく新しい季節の気配が戻り始めていた。崩れた校舎の一部には足場が組まれ、焼け焦げた壁には補修用の幕がかけられている。瓦礫の山は以前よりも小さくなり、仮設通路の脇には、簡素な案内板が立てられていた。
だが、すべてが元に戻ったわけではない。
舗装にはまだ砲撃の跡が残っている。古い本校舎は封鎖されたままで、風が吹くたびに、剥がれかけた立入禁止のテープが乾いた音を立てた。仮設診療所の前には、今も生徒たちの出入りがあり、獣化治療に関する記録や、矯正局への移送書類は風紀委員会の本部に積み上げられている。
季節だけは進む。
春は来る。
焼けた壁も、戻らない生徒も、眠ったままの誰かも、置き去りにして。
ゲヘナ風紀委員会本部の執務室で、空崎ヒナは書類に目を通していた。
机の上には、東側復興計画、獣化治療報告、矯正局移送記録、旧生徒会関係資料の管理記録が並んでいる。量は多いが、どれも目を通さないわけにはいかなかった。
ヒナは三年生になった。
肩書きも、背負うものも、以前より重くなっていた。公佳キミカの後を受け、ゲヘナの秩序を保つ立場に立っている。けれど、椅子に座って書類を処理しているだけで、失われたものが戻るわけではない。
扉が控えめに叩かれる。
「入って」
入ってきたのは、天雨アコだった。手にはいくつかのファイルを抱えている。表情はいつも通り整っているが、目元には疲れが残っていた。
「ヒナ委員長、仮設診療所からの追加報告です。獣化の後遺症が残っている生徒について、経過観察の対象が三名増えています」
「分かった。あとで確認するわ」
「それと、矯正局からマヤ、畳紙メルリ両名の定期検査報告が届いています。身体変質の進行は急激ではありませんが、完全な停止とも言えないようです」
ヒナはペンを止めた。
「……そう」
アコはファイルを机に置く。
「蛇状の特徴、紙状の硬化。どちらも、以前よりわずかに進んでいるとのことです。ただ、本人たちの意識は安定しています」
「安定、ね」
ヒナは小さく息を吐いた。
超人の力は、戦いが終われば消えるものではない。使った本人の身体に残り続ける。少しずつ、元の形を変えていく。
ロカが最後に人の形を保てなくなっていたことを、ヒナは忘れていない。
そして、それはイトにも起きている。
アコは一瞬だけ視線を落とし、それから別の書類を差し出した。
「それから、旧生徒会関連資料の管理記録です」
ヒナは書類を受け取る。
その表紙には、五摂ロカの名があった。
指先がわずかに止まる。
「遺体の件は?」
ヒナがそう尋ねると、アコの表情が硬くなった。
「封鎖区画の管理体制は強化しています。ただ、盗まれた一部については、まだ行方不明のままです」
冬の終わり、封印されていたロカの遺体の一部が何者かに持ち出された。
公表はしていない。
風紀委員会の一部と、ゲヘナ生徒会のごく限られた者だけが知っている。広まれば混乱は避けられず、ロカを巡る恐怖も、雷帝事件の記憶も、再び表に出る。
けれど、隠しているからといって、問題が消えるわけではない。
「マコトには?」
「最低限の共有は済んでいます。ただ、追加報告はまだです」
「なら、私が行くわ」
アコがわずかに眉を動かした。
「ヒナ委員長が直接ですか?」
「これは書類で済ませる話じゃない」
ヒナは立ち上がる。
アコは何か言いかけたが、すぐに言葉を飲み込んだ。ヒナが決めた以上、止められないことを知っている。
「では、資料をまとめます」
「お願い」
ヒナは机の端に置いていた帽子を手に取り、執務室を出た。
ゲヘナ生徒会室は、以前よりも静かになっていた。
かつての争いの中心だった場所は、今では万魔殿の議場として整え直されている。新しい旗、新しい机、新しい椅子。けれど、そこに残る空気まで新しくなったわけではない。
玉座のような椅子に、羽沼マコトが座っていた。
周囲にはイロハ、イブキ、サツキ、チアキがいる。資料を持っている者、退屈そうにしている者、話を聞いているのかいないのか分からない者。それぞれがいつもの調子でそこにいたが、ヒナが入室すると空気が少し変わった。
マコトは大仰に笑う。
「キキキキ! これはこれは、風紀委員長どのではないか。わざわざ生徒会室まで足を運ぶとは、よほど私の威光を認める気になったと見えるな!」
ヒナは表情を変えない。
「報告があるわ」
「ふむ。復興計画か? それともまた風紀委員会が予算を寄越せとでも言い出すのか?」
「ロカに関する件よ」
その一言で、マコトの笑いが止まった。
場の空気が、はっきり変わる。
マコトは数秒だけヒナを見て、それから手を振った。
「イロハ、イブキ、サツキ、チアキ。少し席を外せ」
「えー? イブキも?」
イブキが首をかしげる。
マコトはいつもの調子を崩さずに笑った。
「キキキ、これは大人の会議……ではなく、偉大なる生徒会長たる私の重大な執務だ! しばし待っていろ!」
イロハが小さく息を吐き、イブキを促す。サツキとチアキもそれに続き、室内から出ていった。
扉が閉まる。
広い生徒会室に、ヒナとマコトだけが残った。
マコトは椅子に座ったまま、先ほどとは違う声で言う。
「ロカの死体の件か?」
ヒナは頷く。
「盗まれた部分は、まだ見つかっていない」
「死んだ後まで迷惑をかける女だ」
吐き捨てるような言葉だった。
だが、その声に軽さはなかった。
マコトはヒナを嫌っている。生徒たちが今もヒナを実質的な秩序の中心として見ていることも、気に入らない。自分が玉座を得ても、ゲヘナの危機となれば風紀委員会とヒナの名が先に出る。そのことを、彼女が面白く思っていないのは明らかだった。
それでも、ロカの件でふざけるほど愚かではない。
「犯人の目星は?」
「まだ。ただ、通常の墓荒らしや資料漁りとは考えにくい。盗まれた部位が限定されている」
「血か。あるいは、それに近いものか」
マコトは肘掛けを指で叩いた。
ヒナは黙っている。
マコトは続ける。
「ロカの名を出せば、今のゲヘナでは混乱が起きる。しかも遺体が盗まれたなどと広まれば、旧生徒会の残党だの、雷帝の再来だの、くだらん噂が勝手に増えるだろうな」
「だから、公表はしない」
「気に入らんな」
マコトは目を細める。
「また貴様ら風紀委員会が情報を握り、私たちは後から知る。ゲヘナ生徒会長たるこの私がだ」
「必要な情報は共有しているわ」
「必要かどうかを決めるのが、いつも貴様らだという話だ」
ヒナは反論しなかった。
マコトの言葉には、感情だけではなく事実も混じっている。ロカの時代、生徒会という言葉は多くの生徒にとって恐怖と結びついていた。だから、今のマコトが表に出すぎれば、復興途中のゲヘナで余計な反発が起きる。
それをマコト自身も理解している。
理解しているからこそ、腹が立つ。
沈黙の後、マコトは深く息を吐いた。
「よかろう。万魔殿側でも、外部流出の経路を洗う。旧生徒会関係者、ブラックマーケット、矯正局周辺。必要なら人員を出す」
「助かるわ」
「勘違いするな。貴様を助けるのではない。ゲヘナの玉座に座る者として、当然の対応をするだけだ」
「分かってる」
ヒナは短く答えた。
マコトは少しだけ不満そうに顔を歪めたが、すぐにいつもの笑みに戻る。
「キキキキ! ならばよい。風紀委員長、せいぜい私の足を引っ張らぬことだな!」
ヒナはそれ以上言わず、生徒会室を出た。
廊下に出ると、窓の外に春の光が差していた。
光だけ見れば、穏やかな日だった。
けれど、どこかで何かが動いている。
ロカの遺体の一部。
矯正局に残る超人の変質。
イトの身体に進む侵食。
それらは、終わったはずの戦いが、まだ終わっていないことを示していた。
午後、ヒナは病室へ向かった。
ゲヘナの医療棟の一室。外の喧騒から少し離れたその部屋では、機械の小さな作動音だけが響いている。
黒原イトは、ベッドの上で眠っていた。
眠っている、という言葉で済ませるには、その姿は少しずつ変わってきていた。
背中からは黒い翼が伸びている。以前よりも羽は濃く、影のように広がっていた。指は細く硬くなり、鳥の脚を思わせる形へ変わりつつある。爪は人のものより厚く、関節の角度も、少しずつ人間の形から外れていた。
それでも、顔だけは眠っている生徒のままだった。
ヒナはベッドの横に立つ。
「イト」
返事はない。
ヒナは椅子に座り、そっとイトの手を取った。硬くなり始めた指先に触れるたび、胸の奥が小さく痛む。
超人の力は、役目を終えても消えない。
戦いが終わった後も、身体を変えていく。人であった部分を、少しずつ別のものへ置き換えていく。
ロカがそうだった。
そして、イトも同じ場所へ向かっているのかもしれない。
ヒナはしばらく黙っていた。
窓の外では、春の光が揺れている。遠くからは、生徒たちの声がかすかに聞こえた。復興作業の音、風紀委員の巡回、仮設通路を走る足音。ゲヘナは動いている。
イトだけが、動かない。
「まだ、修学旅行に行ってない」
ヒナは小さく言った。
トリニティでお茶を飲む。
アビドスの砂漠を見る。
ミレニアムの妙な機械に驚く。
あの時、引き戻すために口にした約束は、まだ果たされていない。
イトは答えない。
ヒナは握った手に、ほんの少しだけ力を込めた。
「だから、まだ終わらせない」
病室には、機械の音だけが残った。
同じ頃、アビドス分校では別の不穏が動いていた。
生徒会室の机には、いくつかの資料が広げられている。
カイザーPMC基地の輸送記録。
ブラックマーケット周辺の治安報告。
ヘルメット団の活動増加。
行方不明になった生徒の聞き取り。
そして、薬の噂。
小鳥遊ホシノは椅子に座り、資料を眺めていた。
いつもの緩い表情は薄い。
奥空アヤネが端末を操作しながら報告する。
「ここ数日、カイザーPMC基地への搬入が増えています。通常の補給とは車両登録が一致しません。時間帯も深夜に集中しています」
「中身は?」
「不明です。ただ、医療品や薬品の保管ケースに近い形状のものが複数確認されています」
砂狼シロコが窓際から戻ってくる。
「ん。基地周辺の巡回も増えてる。見られたくないものがあると思う」
黒見セリカは机に手をついた。
「何を企んでるっていうのよ」
十六夜ノノミは表情を曇らせる。
「ブラックマーケットの方でも、行方不明の話が増えているんですよね?」
アヤネが頷く。
「はい。確定ではありませんが、生徒が連れていかれたという話が複数あります」
ホシノは資料の一枚を手に取った。
そこには、聞き取りで集められた噂が書かれている。
薬を打てば強くなれる。
戻ってこなかった生徒がいる。
誰かが生徒を集めている。
人を売る話が増えている。
ホシノの目がわずかに細くなる。
「嫌な感じだね」
その言葉に、部屋の空気が少し重くなった。
アビドスは、もう一度立ち上がり始めている。借金の返済も進み、分校としての形も整いつつある。けれど、砂漠に残った傷は消えていない。シェマタの記憶も、カイザーの影も、簡単には薄れない。
そして今、また別のものが近づいている。
アヤネが先生への連絡画面を開いた。
「ホシノ先輩、……シャーレに依頼を出しますか?」
ホシノは少しだけ黙る。
それから、ゆっくり頷いた。
「うん。先生を呼ぼう」
ホシノは窓の外を見る。
アビドスの砂漠には、春の気配は薄い。
けれど、季節は確かに進んでいる。
進んでしまう。
眠ったままの誰かを置き去りにして。
終わったはずの事件の残骸を、別の場所へ運びながら。
ホシノは小さく息を吐いた。
「今度は、早めに止めないとね」
その声は、誰に向けたものでもなかった。