シャーレに届いた依頼書は、表面だけを見れば珍しいものではなかった。
アビドス分校周辺で、ヘルメット団の活動が活発化している。補給路への妨害、分校生徒への威圧行為、ブラックマーケット周辺での小規模な強盗。被害はまだ大きく広がっていないが、放置すれば通学や物資搬入に影響が出る可能性がある。
そこまでなら、治安支援の依頼として処理できた。
先生が目を止めたのは、添付資料の量だった。
カイザーPMC基地への不審な搬入記録。深夜に集中する未登録車両の出入り。ブラックマーケット周辺で増えている行方不明者の噂。ヘルメット団と接触した生徒の証言。そして、真偽不明の薬物情報。
端末に表示された一文で、先生の指が止まる。
薬を打てば、理知外の力を得られる。
「理知外の力……」
声に出してみても、意味は定まらなかった。
誇張された噂かもしれない。ブラックマーケットに流れる怪しい薬物の売り文句としては、あまりに典型的でもある。それでも、依頼書を作成したアビドス側は、その一文をわざわざ添付資料に残していた。
先生は資料をめくる。
アビドス分校。
かつてのアビドス高等学校を基礎とし、現在はゲヘナとの関係を持つ分校として再編されている。借金返済は継続中。生徒数は以前より回復傾向。校舎の一部は修繕中。周辺治安は不安定。
書類の中のアビドスは、砂と借金と復興途中の学校だった。
そこにいる生徒たちの顔は、資料からは見えない。
先生は依頼受諾の返答を送り、アビドスへ向かう準備を始めた。
アビドスへ向かう道は、乾いていた。
車窓の向こうには、どこまでも砂が続いている。風が吹くたびに細かな砂が道路の端を流れ、視界の奥にある建物の輪郭を少し曖昧にした。
先生は端末で、もう一度依頼内容を確認する。
ヘルメット団の排除。
依頼書の表題にはそう書かれている。別途添付された資料まで合わせると、その言葉だけでは説明がつかなかった。
ヘルメット団だけなら、アビドス側だけで対処できたかもしれない。わざわざシャーレを呼んだ理由は、別のところにある。先生にはそう思えた。
やがて、砂の向こうに校舎が見えてきた。
古びた建物だった。
壁には補修の跡があり、校庭には資材が積まれている。仮設の掲示板には授業予定や作業分担が貼られ、生徒たちが物資を運んでいた。完成した学校というより、使いながら少しずつ直している場所に見えた。
正門には、かつてのアビドス高等学校の名残と、現在の分校としての表示が並んでいる。
先生が校門の前で足を止めると、校舎側から一人の生徒が歩いてきた。
眠そうな目。ゆるい口調になりそうな雰囲気。けれど、その歩き方は周囲をよく見ていた。校門の外、先生の背後、風の流れる方向まで、自然に確認している。
「初めまして、先生。遠いところまでありがとね」
小鳥遊ホシノ。
資料で名前は見ていた。アビドス分校生徒会長。
先生は軽く頭を下げる。
「依頼を受けて来たよ。君が小鳥遊ホシノ?」
「うん。こっちでは一応、生徒会長みたいなことをしてるよ。まあ、そんなに偉そうなものでもないけどね」
ホシノはそう言って笑った。
すぐに、他の生徒たちも集まってくる。
白い髪の生徒が、先生をじっと見る。
「砂狼シロコ。よろしく」
短い挨拶だった。
その隣で、黒見セリカが腕を組む。
「えっと、先生……でいいのよね? 本当に来たんだ」
「セリカちゃん、言い方」
十六夜ノノミが柔らかくたしなめる。彼女は先生へ向き直り、丁寧に頭を下げた。
「十六夜ノノミです。来てくださってありがとうございます」
奥空アヤネは端末を抱え、少し緊張した様子で挨拶した。
「奥空アヤネです。資料の整理と通信支援を担当しています。今回の件については、私からも説明します」
先生は一人ずつ顔を確認した。
資料の名前が、目の前の声と表情に変わっていく。先生はそこで初めて、アビドスという学校の輪郭を少し掴めた気がした。
ホシノが校舎の方へ歩き出す。
「とりあえず、中で話そうか。外は砂が入るし、長話には向かないからね」
校舎の中は、古さと新しさが混じっていた。
使い込まれた机。補修された廊下。壁に貼られた返済計画表。復興作業の進捗表。分校としての新しい連絡掲示。過去の傷を残したまま、その上に日々の生活が積み直されている。
先生は、廊下の壁に貼られた一枚の計画表に目を止めた。
借金返済計画。
校舎修繕計画。
生徒受け入れ計画。
物資搬入記録。
かなり大きな枠で作られた計画だった。
ホシノがそれに気づく。
「ああ、それ、ユメ先輩が最初に作った計画なんだ」
「ユメ先輩?」
「元生徒会長。たまに顔を出してきて、今も色々手伝ってくれてるよ。大まかな道筋はユメ先輩が作って、細かい数字は私たちで詰め直してるところ」
アヤネが補足する。
「当初の計画はかなり大きな方針でした。返済、修繕、分校としての機能維持、周辺治安の安定化。その全体像をユメ先輩が作り、現在は私たちで実現可能な形に調整しています」
セリカが少し胸を張る。
「まだ借金は残ってるけど、前よりはずっとマシになってるんだから」
ノノミも頷く。
「分校としての支援もありますし、生徒も少しずつ戻ってきています」
先生は計画表を見る。
大きな理想を、現実の数字へ落とし込む作業の跡がそこにあった。返済額、修繕箇所、必要物資、生徒数。どの項目にも、苦しさと粘り強さが残っている。
「ここまで続けてきたんだね」
先生がそう言うと、ホシノは少しだけ肩をすくめた。
「まあね。ここをなくすわけにはいかないから」
会議室に入ると、すでに別の生徒たちが待っていた。
先に立ち上がったのは、陸八魔アルだった。
黒い服。堂々とした姿勢。どこか芝居がかった目つき。先生を見るなり、彼女は自信ありげに口を開いた。
「よく来たわね、先生。私は陸八魔アル。アビドス分校風紀委員会の委員長よ」
その横で、浅黄ムツキが楽しそうに笑う。
「アルちゃん、練習通り言えたね」
「……ムツキ、今そういうことを言う場面じゃないわ」
アルは小さく咳払いをする。
先生は少しだけ笑いそうになったが、すぐに表情を整えた。アルの言葉は芝居がかっている。けれど、先生を見返す目は真面目だった。
その奥に、鬼方カヨコが座っている。
「鬼方カヨコ。副委員長をしてる」
短い自己紹介だった。
カヨコの視線は静かで、こちらをよく見ている。先生は、彼女が話す内容よりも先に、話してよい範囲を測っているように感じた。
伊草ハルカは、椅子から立ち上がって深く頭を下げた。
「い、伊草ハルカです。よろしくお願いします」
声は丁寧だった。緊張はしているが、逃げるような雰囲気はない。
ホシノが会議室の前方に立つ。
「じゃあ、始めようか。先生に来てもらった理由だけど、表向きはヘルメット団への対応だよ」
アヤネが端末を操作し、資料を表示する。
ヘルメット団の活動記録。
物資輸送への妨害。
ブラックマーケット周辺での目撃情報。
分校生徒への威圧。
小規模な強盗。
セリカが腕を組む。
「最近、あいつら調子に乗ってるのよ。補給の邪魔はするし、変なところでたむろしてるし」
シロコが短く続ける。
「ん。動きが不自然。普段より集まり方が偏ってる」
「偏ってる?」
先生が聞くと、アヤネが別の資料を出した。
「ブラックマーケット側への出入りが増えています。ただ、何をしているのかまでは確認できていません」
ホシノが机の上に肘を置く。
「ヘルメット団だけなら、こっちで何とかできると思う。でも、今回はそれだけじゃなさそうなんだよね」
アヤネが次の資料を表示する。
カイザーPMC基地の輸送記録。
「こちらは、カイザーPMC基地への搬入記録です。深夜帯に、未登録車両と思われるものが複数確認されています。通常の補給とは異なるルートを使っていて、搬入物の形状も一定していません」
先生は資料に目を通す。
「医療品か薬品のケースに見える、という記録があるね」
「はい。現物確認はできていません。外観と輸送条件からの推定です」
カヨコが静かに口を開いた。
「それと、ブラックマーケットで薬の噂が出てる」
会議室の空気が少し変わった。
先生はカヨコを見る。
「薬?」
「打てば強くなれる。撃たれても止まらない。戻ってきた生徒は少ない。そういう噂」
ハルカの指が、わずかに動いた。
先生はそれを見逃さなかった。
カヨコは続ける。
「強い子だけが狙われてるわけじゃない。目立たない子、孤立してる子、行方不明になってもすぐには騒ぎになりにくい子。そういう話も混じってる」
ノノミが表情を曇らせる。
「生徒を集めている、ということですか?」
「可能性はある」
カヨコの声は平坦だった。感情を消しているようにも、抑えているようにも聞こえた。
先生は資料の中にあった言葉を思い出す。
「理知外の力」
口にすると、カヨコの視線がこちらへ向いた。
「聞いたことがある。嫌な形でね」
ハルカが顔を少し伏せる。
アルは何か言おうとして、やめた。ムツキも笑っていない。
先生は、その反応を見た。
この場には、その噂をただの噂として聞いている者と、そうではない者がいる。何があったのか、先生にはまだ分からない。
ホシノが話を引き取る。
「ヘルメット団の排除は、表向きの依頼。先生に見てもらいたいのは、その奥にある方」
「カイザーPMC基地と、薬の噂と、ブラックマーケットの行方不明者」
「そういうこと」
ホシノは頷いた。
「疑ってるだけじゃカイザーの方には踏み込めない。だからまずは、ブラックマーケットでヘルメット団の動きを調べる。そこから繋がりが見えれば、次に進める」
ホシノが手を合わせて、申し訳なさそうに眉を下げた。
「騙すような形になってごめんね。カイザーに動きを悟られるわけにはいかなかったから」
「構わないよ。君たちにも事情があった」
先生は少し考える。
全員で動けば、戦力は十分だろう。校舎とカイザーPMC基地の監視を同時に空けるわけにはいかない。そこまで含めて、ホシノたちはすでに役割を分けていた。
「ブラックマーケットには、私たち風紀委員会が行くわ」
アルが言う。
「先生も同行してもらうわ。現地での判断と、シャーレとしての確認が必要になるでしょうから」
カヨコが補足する。
「アビドスの生徒会は、カイザーPMC基地の監視と学校防衛。通信はアヤネが繋ぐ。シロコは必要なら外から動ける位置にいる」
シロコが頷く。
「ん。逃走経路も見る」
セリカは少し不満そうに唇を尖らせた。
「本当は私も行きたいけど、学校を空けるわけにもいかないし」
ノノミが穏やかに言う。
「救護や搬送の準備も必要ですからね」
先生は全員を見る。
それぞれが、自分の役割を理解している。表情に不安はあっても、誰かに丸投げしている者はいなかった。
「分かった。ブラックマーケットには、私と風紀委員会で行く。アビドス生徒会は学校とカイザーPMC基地の監視をお願い」
ホシノが頷く。
「よろしく、先生」
会議が終わると、それぞれが準備に入った。
アヤネは通信機材を確認し、シロコは周辺地図を広げて移動ルートを見ている。セリカは補給品を確認し、ノノミは救護用品を用意していた。
アルは廊下で堂々と立ち、ムツキに何か言われて少し慌てている。ハルカは装備を丁寧に確認していた。カヨコは少し離れた場所で、ブラックマーケット周辺の地図を眺めている。
先生はカヨコの隣に立った。
「少し聞いてもいい?」
「何?」
「さっきの薬のこと。嫌な形で聞いた、と言っていたね」
カヨコはすぐには答えなかった。
地図から目を離さず、しばらく沈黙する。
「先生は、まだ知らなくていいと思ってた」
「でも、私が関わるなら?」
「いずれ知ることになると思う」
カヨコは端末を閉じる。
「たぶん、関係してる。少なくとも、私はそう思ってる」
「過去の事件に?」
カヨコは先生を見る。
何かを言いかけて、やめたように見えた。
「今ここで話すには、重すぎる」
先生はそれ以上、急かさなかった。
カヨコは続ける。
「現地で変なものを見つけたら、勝手に触らないで。アンプルとか、薬品ケースとか、拘束具とか。特にハルカが反応したものがあれば、すぐ止めて」
「分かった」
先生が頷くと、カヨコは少しだけ目を伏せた。
「ありがとう」
それは小さな声だった。
準備が整う頃には、外の砂が少し強く舞っていた。
校舎前に車両が用意される。
アヤネの通信確認が入る。
「先生、通信は繋がっています。ブラックマーケット周辺は電波が不安定になる可能性がありますが、可能な限りこちらで補助します」
「ありがとう、アヤネ」
「何かあればすぐ連絡してください」
ホシノが車両の近くまで見送りに来る。
「先生」
「何?」
「今回の件、たぶん見たくないものを見ることになると思う」
先生はホシノを見る。
ホシノは軽い笑みを浮かべている。その表情の奥に何があるのか、先生にはまだ分からない。ただ、額面通りのものではないことは理解できる。
「でも、見ないと止められないんだよね」
先生は頷く。
「逸らさないよ」
ホシノは少しだけ目を細めた。
「うん。じゃあ、お願い」
アルが車両の横で腕を組む。
「さあ、行くわよ。アビドス分校風紀委員会の初仕事……ではないけれど、先生に私たちの仕事ぶりを見せるにはちょうどいいわ」
ムツキが笑う。
「アルちゃん、またちょっと練習してた?」
「してないわよ」
ハルカが助手席側で確認を終える。
「装備、確認しました。いつでも出られます」
カヨコが運転席に乗り込む。
「じゃあ、行こう」
先生は車両に乗る。
エンジンがかかり、砂が後ろへ流れていく。
アビドス分校の校舎が少しずつ遠ざかった。
その向こうには、カイザーPMC基地がある。
さらに先には、ブラックマーケットがある。
先生は、カヨコの言葉を思い出していた。
聞いたことがある。
嫌な形でね。
砂の向こうに、まだ名前のつかない不安がある。先生にはそう思えた。
車両はブラックマーケットへ向かって走り出した。