北側の倉庫街は、ブラックマーケットの喧騒から少し離れた場所にあった。
店の呼び込みや発電機の音は背後で薄れ、代わりに古い金属板が風に揺れる音と、砂を踏む靴音が耳につくようになっていた。倉庫の壁はどれも錆び、塞がれた窓の隙間には砂が入り込んでいる。人の気配がないように見える一方で、地面には新しいタイヤの跡が残っていた。
先生は、端末に表示された位置情報と目の前の倉庫を見比べる。
古い建物だった。使われなくなって久しいように見える。それなのに、正面の扉には新しい鍵がかけられ、搬入口の周囲には最近動かされた痕跡がある。
隠すには、都合のいい場所だった。
「アヤネ、聞こえる?」
先生が通信を入れると、少しだけノイズが混じった後、アヤネの声が返ってきた。
「はい、聞こえています。先生たちの位置も確認できています。その倉庫の裏側に、細い搬出路があります。車両一台なら通れる幅です」
カヨコが端末を覗き込む。
「逃げるならそこだね」
「シロコ先輩が外側から確認に向かっています。必要なら、その経路は塞げます」
「分かった。今は待機して。中に拘束された生徒がいる可能性がある」
先生がそう返すと、通信の向こうでアヤネが短く息を呑む気配があった。
「了解しました。救護準備も進めます」
通信を切ると、アルが扉の前に立った。いつものように胸を張ってはいるが、声は軽くない。
「先生、指示を」
ムツキは横道の奥を見ている。ハルカは扉の近くに立ち、壁材や積まれたコンテナの位置を確認していた。何かあれば、すぐに遮蔽物を作れるようにしているのだと先生には分かった。
カヨコが鍵の状態を確認する。
「新しい。古い倉庫に後から付けたものだね」
「静かに開けられる?」
「やってみる」
カヨコが工具を取り出し、鍵に触れる。金属の小さな音が、風の音に混じった。先生は周囲を見回す。遠くに人影はない。ブラックマーケットの中心部から外れているせいか、誰かがこちらを見ている気配も薄かった。
数十秒ほどして、鍵が小さく外れた。
カヨコは扉に手をかける前に、先生を見る。
「中に入ったら、まず生徒の確認。危険物には触らない。ヘルメット団がいても、奥に薬品や拘束具があるなら、そっちを優先する」
「分かった」
先生は頷く。
「アル、前方の警戒。ムツキは横道と退路。ハルカは保護対象を見つけたら守れる位置に。カヨコは危険物の確認をお願い」
「任せなさい」
「了解」
「はい」
カヨコが扉を押し開ける。
中は薄暗かった。
倉庫の中には、古い機械部品や木箱、用途の分からないコンテナが雑に積まれていた。外から入る光は少なく、奥へ進むほど空気が湿っているように感じられる。砂と油の臭いに混じって、薬品のような刺激臭がわずかに漂っていた。
先生は足元を確認しながら進む。
床には新しい靴跡がある。複数人分。奥へ向かった跡と、搬入口へ戻った跡が入り混じっていた。使われていない倉庫という見た目とは、明らかに合わない。
ハルカが棚の横で立ち止まった。
「先生、こちらに薬品用の容器があります」
先生は近づく。
棚の下に、細長いケースがいくつも転がっていた。中身はない。蓋は外され、一部にはラベルを剥がした跡が残っている。
ハルカはケースに触れず、距離を取ったまま言う。
「空です。中身はありません。でも、ヘルメット団が普通に使うようなものには見えません」
声は硬い。けれど、報告は正確だった。
カヨコがしゃがんで確認する。
「アンプル用の保管ケースに近い。正規品かどうかは分からないけど、雑に扱うものじゃない」
先生は、会議室でカヨコが口にした言葉を思い出す。
アンプル。薬品ケース。拘束具。
その単語が、目の前の容器と重なった。
「回収できる?」
「後で。今触るのはやめた方がいい。奥を確認する」
カヨコがそう言った時、倉庫の奥から小さな音がした。
誰かが動いた音だった。
アルがすぐに銃を構える。
「奥ね」
先生たちは、積まれたコンテナの間を進んだ。薄暗い通路の先に、簡易的に仕切られた空間がある。近づくにつれて、誰かの息遣いと、布が擦れる音が聞こえてきた。
そこに、数人の生徒がいた。
手を縛られ、床に座らされている。制服はばらばらで、アビドスの生徒ではない者も混じっていた。口を塞がれている子もいる。全員が怯えた目でこちらを見た。
先生はすぐに手を上げる。
「大丈夫。助けに来た」
生徒たちの目が揺れる。
ハルカが前へ出た。
「今、ほどきます。急に動かないでください。怪我をしている人はいますか?」
ハルカの声は丁寧だった。彼女は一人ずつ拘束を確認し、無理に引きちぎらず、刃物で慎重に切っていく。先生はアヤネへ通信を入れた。
「拘束された生徒を確認した。人数は……今見えているだけで五人。救護と搬送をお願い」
「了解しました。シロコ先輩にも共有します。裏の搬出路は現在確認中です」
拘束を解かれた生徒の一人が、震える声で言った。
「薬を打たれるって……言ってました」
先生はその子を見る。
「誰が?」
「ヘルメット団の人たちが……。耐えられたら高く売れるって……」
ハルカの手が一瞬だけ止まった。
すぐに作業へ戻る。先生は、そのわずかな反応を見た。ハルカは目を伏せていたが、手元は乱れていない。
その時、倉庫の外側から足音が近づいてきた。
複数。荒い声。金属製の扉が開く音。
「おい、鍵が開いてるぞ!」
「誰か入ったのか?」
ヘルメット団が戻ってきた。
アルが先生の前へ出る。
「来たわね」
ムツキが横の通路に移動する。
「こっちにも回り込んでるよ」
カヨコは奥の拘束された生徒たちを一瞥し、短く言う。
「先生、後ろに下がって。ハルカ、保護対象をまとめて。アルとムツキは時間を稼いで」
アルが不満げに眉を上げる。
「指示は先生が出すものよ」
「今はそれでいい。前を頼む」
「……分かったわ」
アルは銃を構え、倉庫の通路へ向かった。
戦闘が始まった。
ヘルメット団は数で押してきた。狭い倉庫の中では、正面からの撃ち合いは危険が大きい。先生は積まれたコンテナ、救出した生徒たちの位置、搬入口から入ってくる敵の数を見ながら指示を出す。
「アル、右の通路を押さえて。ムツキ、奥の搬入口を塞いで。ハルカ、保護した生徒たちの前に壁を作れる?」
「できます」
ハルカが床に手を当てる。
金属片と倉庫の資材が組み上がり、即席の壁が生徒たちの前に立ち上がった。厚みは十分ではないが、直接の射線は切れる。救出された生徒たちは壁の後ろで身を縮めた。
ムツキの爆発が倉庫の奥で響く。通路そのものを壊すのではなく、相手が足を止める程度に抑えている。アルは正面から撃ち合い、相手の注意を引きつけていた。
「風紀委員会の前で誘拐なんて、いい度胸じゃない!」
「なんでアビドスの風紀委員がここにいるんだよ!」
「答える義務はないわ!」
アルの声が倉庫に響く。
先生は、正面で撃ち合うアルの姿を見ながら、彼女が虚勢だけで前に立っているわけではないと感じた。目立つ言葉を選んではいるが、立つ位置は正確だった。ヘルメット団の視線を引きつけ、救出された生徒たちへ向かう敵を防いでいる。
カヨコは別の通路から回り込み、武器を持った相手だけを狙って撃ち落としていく。動きは静かで、迷いがない。
戦況は、少しずつこちらに傾いていた。
その時、倉庫の奥で叫び声が上がった。
「嫌だ……捕まりたくない……!」
先生が振り向くと、ヘルメット団の一人が小さなケースを握っていた。
細いアンプルが、ケースの中で光を反射している。
カヨコの声が鋭くなった。
「止めて」
ハルカも振り向く。
「だ、駄目です……それは……!」
ヘルメット団の生徒は、後ずさりしながらアンプルを取り出した。目は血走り、呼吸は乱れている。逃げ場を失った獣のように、周囲を見回していた。
「これを打てば、強くなれるって……! 捕まらなくて済むって……!」
「やめろ!」
先生が叫ぶ。
だが、間に合わなかった。
ヘルメット団の生徒は、アンプルを自分の腕に突き立てた。
その瞬間、倉庫の空気が変わった。
注射を打った生徒は、喉を押さえて膝をついた。体が痙攣し、背中が不自然に跳ねる。ヘイローの光が濁り、輪郭が揺れた。苦しそうな呼吸が、次第に唸り声へ変わっていく。
先生は一歩踏み出しかけた。
カヨコが腕で制す。
「近づかないで」
注射を打った生徒の腕が膨れ、皮膚の下で何かが暴れるように動く。指が伸び、爪が床を掻いた。顔が歪み、口から言葉にならない音が漏れる。
ヘイローの光が、さらに鈍くなる。
そして、消えた。
先生は息を止めた。
キヴォトスの生徒は、普通なら簡単には死なない。銃撃を受けても、爆発に巻き込まれても、傷つきはするが、そこで終わるわけではない。ヘイローが、神秘が存在するからだ。
今、目の前の生徒から、その前提が抜け落ちたように見えた。
それはもう、普通の生徒の姿ではなかった。
獣のように体を歪めたものが、床を蹴って飛び出す。声は言葉にならず、目は濁っている。近くにいたヘルメット団が悲鳴を上げて逃げた。
アルが銃を向ける。
「ま、待ちなさい!」
獣化した生徒は止まらない。
壁を蹴り、コンテナを倒し、救出された生徒たちの方へ向かう。ハルカが即座に壁を厚くする。爪が金属を削り、耳障りな音が倉庫に響いた。
カヨコが先生を見る。
「殺すしかない」
その言葉は冷たく聞こえた。
けれど、先生にはカヨコの目が冷えていないように見えた。感情を殺している。あるいは、殺そうとしている。
「殺さないで」
先生は言った。
カヨコの眉がわずかに動く。
「先生」
「止める。まだ、殺さない」
先生は獣化した生徒を見る。
あれはさっきまで言葉を話していた。逃げようとして、追い詰められて、薬を打った。何をしたのかは許せない。けれど、今すぐ命を奪う判断を、生徒たちに背負わせることはできなかった。
「子どもが、子どもの未来を奪ってはいけない」
先生の声は、自分でも驚くほど硬かった。
カヨコは一瞬だけ黙る。
「正しいと思う」
それから、獣化個体へ視線を戻した。
「でも、正しいだけだよ」
「それでも、まず止める」
カヨコは短く息を吐いた。
「分かった。なら、時間は少ない」
先生はすぐに指示を出す。
「ハルカ、保護した生徒たちの前から動かないで。壁を維持して。アル、正面から注意を引いて。ムツキ、足場を崩して進路をずらす。カヨコは関節を狙える?」
「やる」
全員が動いた。
アルが正面で声を張り、獣化個体の注意を引く。ムツキの爆発が足元を崩し、動きをずらす。カヨコの射撃が膝や肩を狙い、進路を変えさせる。ハルカは壁を維持し、救出された生徒たちの前から一歩も引かなかった。
それでも、獣化個体は止まらなかった。
痛みに対する反応が薄い。関節を撃たれても、壁に叩きつけられても、すぐに立ち上がる。体の輪郭はさらに崩れ、呼吸は濁った音へ変わっていた。
先生は、そこに理性を探そうとした。
目の動き。声。手の動き。何か一つでも、まだ戻れると思えるものを探した。
見つからない。
獣化個体が壁に爪を立てる。ハルカが歯を食いしばり、壁を補強した。
「まだ、持ちます」
ハルカの声は震えていた。けれど、足は下がっていない。
カヨコが獣化個体の動きを見ながら言う。
「先生、もう長くない」
「何が?」
「体が持ってない」
その言葉の直後、獣化個体の動きが大きく乱れた。
膝が折れ、床に爪を立てる。起き上がろうとして、体がついてこない。背中が痙攣し、口から黒い血のようなものが床に落ちた。
先生は反射的に近づこうとした。
カヨコが強く止める。
「近づかないで」
「でも」
「もう無理」
その声は、押し殺されていた。
獣化個体は、最後に一度だけ顔を上げた。
先生には、それが何を見ようとしたのか分からなかった。救出された生徒たちか。逃げ道か。自分を止めようとした誰かか。あるいは、何も見えていなかったのかもしれない。
次の瞬間、体から力が抜けた。
倉庫の中に、重い音が落ちる。
獣化した生徒は、動かなくなった。
誰も声を出さなかった。
さっきまで銃声と爆発音で満ちていた倉庫が、不自然なほど静かになる。救出された生徒たちのすすり泣く声だけが、壁の向こうから聞こえていた。
先生は、床に倒れたものを見ていた。
ヘイローは戻らない。
いつもの戦闘後のように、気絶しているだけにも見えない。
死んでいる。
その事実が、先生の中にゆっくりと沈んでいった。
アルは銃を下ろし、何かを言おうとして口を閉じた。ムツキは笑っていない。ハルカは壁を消さず、救出された生徒たちの前に立ったまま、倒れた獣化個体を見ていた。
カヨコだけが、倒れた個体へ近づく。
先生はその背中を見た。
「今のは、何?」
カヨコはしゃがみ込み、状態を確認する。触れすぎないように、距離を取りながら見ていた。
「劣化品だと思う」
「劣化品?」
先生の声は掠れていた。
カヨコは立ち上がる。
「超人。その力を手に入れるための薬。今のは、たぶん失敗したもの」
先生は言葉を返せなかった。
超人。
理知外の力。
薬に耐えられそうな生徒。
会議室で聞いた単語が、目の前の死体へ繋がっていく。先生はそれを理解したくなかった。けれど、理解しないままでは、今倒れている生徒を見ないことになる。
アヤネから通信が入る。
「先生、救護班が向かっています。状況は……」
先生は答えようとして、言葉に詰まった。
代わりに、カヨコが通信を取る。
「拘束された生徒を保護。ヘルメット団も複数拘束。薬物使用者が一名、死亡。危険物あり。現場封鎖が必要」
通信の向こうで、アヤネが息を呑む。
「死亡……ですか」
「うん」
それ以上、カヨコは説明しなかった。
先生は、倒れた獣化個体から目を逸らせなかった。
その後の作業は、ひどく現実的に進んだ。
救出された生徒を外へ出し、ヘルメット団を拘束し、倉庫内の危険物を確認する。アヤネとシロコが到着し、搬送の準備を進めた。救出された生徒たちは震えていたが、全員生きていた。
倉庫の奥からは、さらにいくつかの物が見つかった。
空のアンプルケース。
拘束具。
搬送予定と思われる名簿。
適合、未確認、搬送済みといった文字が残る紙片。
買い手の名前はない。
カイザーの名前も、まだ出てこない。
それでも、ここで生徒が集められ、薬に関わる何かが動いていたことだけは明らかだった。
アルは名簿を見て、低く言った。
「こんなの、ただのヘルメット団の小遣い稼ぎじゃないわ」
ムツキも頷く。
「うん。後ろに誰かいるね」
ハルカは、空のアンプルケースの前で立ち止まっていた。
先生が近づくと、彼女は少しだけ背筋を伸ばす。
「先生、これは回収した方がいいと思います。ただ、直接触らない方がいいです。袋か、専用のケースが必要です」
「分かった。ありがとう、ハルカ」
「いえ」
ハルカは小さく首を振る。
「私は、大丈夫です」
その言葉が、自分自身に言い聞かせているように先生には聞こえた。
日が沈みかける頃、倉庫の外に出た。
ブラックマーケットの方角からは、まだ遠い喧騒が聞こえている。ここで一人の生徒が死んだことを、あの場所のほとんどは知らない。知ったとしても、すぐ別の取引が始まるのかもしれない。
先生は、倉庫の入口で立ち止まった。
カヨコが隣に来る。
「先生」
先生は、しばらく答えられなかった。
風が砂を運び、足元を流れていく。
先生はようやく口を開く。
「教えてほしい」
カヨコは何も言わずに待った。
先生は、倉庫の中を振り返る。
拘束されていた生徒たち。
アンプルケース。
適合と書かれた紙片。
そして、ヘイローの戻らなかった生徒。
そのすべてを見た後で、先生はカヨコを見る。
「超人とは、何なのか」
カヨコはすぐには答えなかった。
夕方の光が、錆びた倉庫の壁を赤く染めている。彼女はその光の中で、ほんの少しだけ目を伏せた。
「ここで話すには、短く済まない」
「それでも、聞かせてほしい」
先生の声は静かだった。
カヨコは、倒れた獣化個体が運び出された場所を見る。
「分かった」
それだけを言って、彼女は歩き出した。
先生はその後に続く。
ブラックマーケットの騒がしさは、もう遠くにしか聞こえなかった。