アビドス分校の会議室には、夜になっても灯りが残っていた。
机の上には、倉庫から回収された資料と、アビドスで集めた記録が並べられている。空のアンプルケースの写真。拘束具。搬送予定と思われる名簿。ブラックマーケットでの聞き取り。カイザーPMC基地へ向かった未登録車両の記録。マヤとメルリの証言をまとめたメモ。
先生は、それらを一つずつ見ていた。
どれも単独では、決定的な証拠とは言い切れない。ブラックマーケットの噂、ヘルメット団の端末、倉庫の残留物、カイザーへの不審な搬入記録。その一つ一つは、まだ逃げ道のある情報だった。
ただ、全てを同じ机の上に置くと、向かう先は一つに見えた。
アヤネが端末を操作し、壁面の画面に資料を映す。
「現在確認できている事実を整理します。ブラックマーケット北側倉庫で、拘束された生徒を複数保護しました。倉庫内からは、薬品用と思われる空のアンプルケース、拘束具、搬送予定と思われる名簿が見つかっています」
先生は黙って頷いた。
アヤネは次の資料を表示する。
「ヘルメット団の端末には、北側倉庫街への移動履歴が集中していました。聞き取り内容とも一致します。さらに、倉庫周辺の搬送時刻と、カイザーPMC基地への不審な搬入時刻には一部重なりがあります」
セリカが机に手をつく。
「それって、もうカイザーが怪しいってことでしょ?」
「可能性は高いです。ただ、現時点では状況証拠が中心です」
アヤネは少し慎重に言った。
「カイザー側が通常の補給だと主張した場合、アビドスだけで強制的に踏み込むのは難しいと思います」
シロコが静かに口を開く。
「ん。勝手に入れば、こっちが悪いことにされる」
「そういうことだね」
ホシノは椅子の背にもたれたまま、画面を見ていた。いつもの緩い声ではあるが、目は資料から離れない。
「疑ってるだけじゃ、向こうは開けてくれない。アビドスだけで行けば、カイザーはたぶん揉み消す。ヘルメット団を切り捨てて終わりにされるかもしれない」
ノノミが表情を曇らせる。
「でも、もし中にまだ生徒がいたら……」
「放っておく理由にはならないわ」
アルが強い声で言った。
会議室の視線が彼女に集まる。アルは一瞬だけ肩を揺らしたが、すぐに胸を張り直した。
「誘拐された生徒がいて、薬まで使われている。あの倉庫だけで終わる話じゃないなら、こちらから踏み込むしかないでしょう」
ハルカは机の上のアンプルケースの写真を見つめていた。
「劣化品が他にもあるなら、早く止めないといけません。打たされる前に、見つけないと」
声は小さい。けれど、聞き取れないほどではなかった。
カヨコが資料を一枚引き寄せる。
「基地内に薬品保管設備があるか、実験区画があるか、現地で確認する必要がある。ブラックマーケットの倉庫は末端だと思う。元を止めないと、また別の場所に流れる」
先生は、全員の言葉を聞いていた。
机の上の資料だけではない。倉庫で見たものが頭から離れない。拘束された生徒たちの震える手。獣化した生徒の濁ったヘイロー。戻らなかった光。カヨコが通信で告げた、死亡という言葉。
あれを、ただの治安案件として処理することはできなかった。
先生は端末を閉じた。
「カイザーPMC基地を調査する」
会議室が静かになる。
先生は、机の上に並んだ資料へもう一度視線を落としてから続けた。
「これは、アビドスだけの問題じゃない。ブラックマーケットだけの問題でもない。生徒を誘拐して、薬の材料や実験対象のように扱っている可能性がある以上、シャーレとして動く」
アヤネが小さく息を呑む。
「強制調査、ということですか?」
「うん。目的は三つ。誘拐された生徒の保護、薬品と記録の押収、ロカ由来の材料が使われているのかの確認」
先生はそこで少しだけ間を置いた。
「そして、これ以上、獣化や超人化を増やさないこと」
ホシノが頷く。
「先生がそう決めるなら、アビドスは協力するよ」
「危険は大きい」
「それは分かってる」
ホシノは軽く肩をすくめた。いつもの調子に近い声だったが、先生には、その奥に冗談では済ませられない硬さがあるように感じられた。
「でも、アビドスはもう巻き込まれてる。シェマタの時から、ずっとね」
アヤネが画面を切り替える。カイザーPMC基地の外観図、周辺地形、確認できている車両ルートが表示された。
「基地には装甲車両、監視ドローン、外周フェンス、複数のゲートがあります。内部の詳細な構造は不明です。正面から踏み込む場合、相当な戦力が必要です」
「アビドスだけじゃ足りないね」
カヨコが言う。
ホシノは少し考えてから、先生を見た。
「本校に連絡するよ。ヒナちゃんには、この件を伝えた方がいいからね」
カヨコの表情がわずかに動く。先生はその反応を見てから、ホシノに聞いた。
「ヒナ?」
「空崎ヒナ。ゲヘナ風紀委員会の委員長。今のゲヘナで、この件に一番深く関わってる人かな」
ホシノは端末を取り出し、通信を繋いだ。
しばらく呼び出し音が続く。やがて、画面に小さく空崎ヒナの姿が映った。背景には風紀委員会本部らしき部屋が見える。机の上には書類が積まれ、その横には天雨アコが控えていた。
「ホシノ。こんな時間にどうしたの」
ヒナの声は静かだった。
ホシノは表情を少し引き締める。
「ブラックマーケットで超人薬の劣化品が出た。それを投与した生徒が獣化して、死んだ」
画面の向こうで、ヒナの目が細くなる。アコもすぐに表情を変えた。
ホシノは続ける。
「ヘルメット団の倉庫から、アンプルケースと搬送名簿が確認できた。ロカ由来の材料が使われてる可能性がある。カイザーPMC基地への不審な搬入記録もある」
ヒナは少しの間、黙っていた。
「関連資料を送信します」
アヤネが端末を操作し、会議室の資料をまとめて転送する。画面の向こうで、ヒナとアコが資料に目を通した。
その沈黙の後、ヒナは低く言った。
「……ロカの遺体の一部が、盗まれているわ」
会議室の空気が止まった。
先生は画面を見る。
「遺体の一部?」
ヒナの視線が先生へ向く。
これが、先生とヒナの初めての会話だった。画面越しでも、彼女がただの協力者ではないことは分かる。小柄な姿なのに、視線が合っただけで場の空気が引き締まるようだった。
「……初めまして。ゲヘナ学園風紀委員会委員長の空崎ヒナです」
「連邦生徒会シャーレの先生だよ。よろしくね」
「冬の終わり頃、厳重に保管していたロカの遺体から一部が盗まれました。公にはしていません。知っているのは、風紀委員会と一部の関係者だけです」
カヨコが目を伏せる。
先生は、倉庫で見たアンプルケースを思い出した。
「今出回っている薬がロカ由来なら、その盗まれた遺体が使われている可能性がある」
「はい」
ヒナは即答した。
「その可能性がある以上、私も行きます」
アコが思わず声を上げる。
「委員長、しかし本部の指揮は――」
「アコ、本部はあなたに任せる。矯正局と医療班への連絡、関連資料の封鎖、ロカ関連記録の再確認をお願い」
「ですが」
ヒナはアコを見る。
「これは、私が行くべき案件よ」
アコは何か言いかけ、唇を結んだ。
「……承知しました。委員長が現地へ向かわれる間、本部の調整は私が行います」
ヒナは小さく頷き、再び先生へ向き直る。
「先生。作戦の指揮はあなたが?」
「私が取る」
「分かりました。ゲヘナ風紀委員会として協力します」
ホシノが息を吐く。
「助かるよ、ヒナちゃん」
「それと、トリニティにも連絡します」
先生は少し意外に思った。
「トリニティに?」
「ブラックマーケットで保護された阿慈谷ヒフミさんは、トリニティの生徒だと聞きました。被害が学園を問わず広がっているなら、情報共有が必要です。今は条約準備の時期でもあります。大きな衝突は避けたいはずですが、だからこそ、放置もできません」
ヒナは短く息を吸う。
「正義実現委員会に、限定的な協力を要請します」
通信が切れると、会議室にはしばらく沈黙が残った。
セリカがようやく口を開く。
「なんか、一気に大ごとになってきたわね」
ムツキが苦笑する。
「最初から大ごとだったんだと思うよ。見えてなかっただけで」
先生は窓の外を見る。
夜の砂漠は暗く、カイザーPMC基地の方角には、わずかな光が点々と見えるだけだった。その光の向こうに、誘拐された生徒がいるかもしれない。薬が保管されているかもしれない。ロカの遺体の一部が、材料として扱われているかもしれない。
考えるほど、時間を置く理由はなくなっていった。
翌朝、アビドス分校の外れに臨時の集合地点が作られた。
砂の上に車両が並び、アヤネが通信機材を設置している。セリカとノノミは救護物資と搬送用の準備を進め、シロコは基地周辺の迂回路と逃走経路を地図に書き込んでいた。
アル、カヨコ、ハルカ、ムツキは、少し離れた場所で装備を確認している。
先生が外へ出ると、遠くから一台の車両が近づいてきた。
先に降りたのは、空崎ヒナだった。
小柄な体に、静かな気配をまとっている。先生は資料で彼女の名前を見たことがある。ゲヘナ風紀委員会委員長。現在のゲヘナで、最も大きな戦力の一つとされる生徒。
その手には、布で包まれた長いものがあった。
カヨコの視線が、すぐにそこへ向く。先生もそれに気づいた。
「……それは?」
ヒナは先生を見る。
「……超人に対する、切り札のようなものです」
答えは短かった。
布の下に何があるのか、先生はまだ知らない。けれど、カヨコとハルカの反応を見れば、それがただの武器ではないことは分かった。
カヨコは布で包まれたものを見る。
「それ、使うんだ」
「必要なら」
「イトが見たら、怒るかもね」
ヒナは一瞬だけ目を伏せた。
その沈黙は短かったが、先生には見落とせなかった。
「……そうね。あの子なら、『そんな危ないもの、使っちゃだめだよ』なんて言うのかも」
カヨコはそれ以上言わなかった。
少し遅れて、別の車両が到着する。
降りてきたのは、トリニティの制服を着た二人だった。
一人は背が高く、落ち着いた所作で先生に礼をする。
「正義実現委員会、羽川ハスミです。今回は、トリニティ生徒の保護、および学園を問わず拡大する危険への対応として協力します」
もう一人は、何も言わずに周囲を見回していた。鋭い視線と、抑え込まれた圧がある。先生には、会話よりも戦闘で意思を示すタイプの生徒に見えた。
ハスミが隣を見る。
「こちらは剣先ツルギ。正義実現委員会の委員長です」
ツルギは先生を見る。
「……よろしくお願いします」
先生は一瞬だけ言葉に詰まりかけたが、すぐに頷いた。
「これから作戦の説明を行うよ」
臨時の作戦会議が始まった。
アヤネが地図を広げる。基地の外周、正門、裏手の搬入口、監視塔、確認済みの車両ルート。情報は完全ではないが、踏み込むために必要な最低限は揃っていた。
「正面ゲートは装甲車両で固められています。裏手には搬入口がありますが、道が狭く、逃走路として使われる可能性があります。通信妨害の可能性もあるため、こちらで中継を立てます」
シロコが地図を指差す。
「裏手は私が見る。逃げる車両があれば、足を止める」
ホシノが頷く。
「私は前線で防御に回るよ。先生や救護班へ流れる攻撃を止める」
ヒナが静かに言う。
「私は突破と危険個体への対応を担当します。獣化した生徒が出た場合、前に出ます」
その言葉で、場の空気がわずかに重くなる。先生がヒナを見ると、ヒナは視線を逸らさず、ただ次の指示を待っていた。
ハスミが続ける。
「私は後方からの制圧と狙撃支援を行います。監視塔、重火器、ドローンを優先的に落とします」
ツルギは短く言った。
「正面は、私が開ける」
それだけで十分だった。
アルが胸を張る。
「アビドス分校風紀委員会は、内部突入と保護対象の捜索を担当するわ。私が前に出て、カヨコが確認、ハルカが防御、ムツキが退路と攪乱。完璧ね」
ムツキが笑う。
「今日のアルちゃん、ちゃんと委員長だね」
「いつもよ」
カヨコは地図を見ながら言う。
「内部で薬品やアンプルを見つけても触らない。ハルカが反応したものは優先して確認する。資料や端末は可能な限り押さえる」
ハルカは小さく頷いた。
「私が知っているものなら、私が見つけます。危ないものなら、ちゃんと報告します」
アルがハルカを見る。
「ハルカ。無理はしなくていいわ」
「無理は、します」
ハルカはそう言ってから、少しだけ言葉を直すように息を吸った。
「でも、逃げません。私が見たことのあるものなら、私が見つけた方が早いと思います」
アルは一瞬だけ困ったような顔をした。
それから、委員長らしく頷く。
「分かったわ。なら、私が前に立つ。あなたは見つけるべきものを見つけなさい」
「はい」
先生は全員を見渡す。
アビドス。ゲヘナ。トリニティ。シャーレ。
立場も、過去も、抱えているものも違う生徒たちが、同じ地図を見ている。これから踏み込む場所には、武装したカイザーPMCがいる。薬があるかもしれない。獣化した生徒がいるかもしれない。
もし止めなければならない命が目の前に現れた時、誰かが引き金を引くことになる。
先生は、倉庫での出来事を思い出した。
殺すしかない。
殺さないで。
その言葉の間で、ひとりの生徒は死んだ。
先生はゆっくり口を開いた。
「最優先は、生徒の保護。カイザー側にいる生徒でも、ヘルメット団でも、薬を打たれた子でも、それは変わらない」
誰も口を挟まない。
「できる限り、誰も死なせない。そのために動く」
先生はヒナを見る。
ヒナは静かに聞いていた。
「それでも、誰かを守るために、命を奪う判断が必要になるなら――その判断は、私がする」
アヤネの手が止まる。セリカが息を呑む。
先生は続けた。
「撃つ生徒に、殺す責任まで背負わせない。救えなかった責任も、止めると決めた責任も、私が背負う」
風が吹き、砂が足元を流れていく。
ヒナは少しだけ目を伏せた。カヨコは先生を見ている。ホシノは何も言わず、その場に立っていた。
ハスミが静かに頭を下げる。
「承知しました」
ツルギは短く頷く。
「……分かった」
アルは胸に手を当てる。
「なら、私たちは先生の判断に応えるわ。悪党の企みを止めて、生徒を助ける。それが風紀委員会の仕事よ」
カヨコが小さく息を吐く。
「無茶な大人だね」
「そうかな」
「そうだよ」
それでも、カヨコの声に拒絶はなかった。
出発の準備が始まる。
アヤネが通信を再確認し、シロコが先行ルートへ向かう。セリカとノノミは搬送車両の配置を決め、ホシノは盾を手にした。ヒナは布で包んだ武器を持ち直し、ハスミは弾倉を確認する。ツルギは言葉少なに、正面ゲートの方角を見ていた。
先生は車両へ向かう前に、もう一度地図を見る。
カイザーPMC基地。
そこに何があるのか、まだ分からない。誘拐された生徒、薬品、実験の記録、ロカの遺体の一部。どれだけのものが残っているのかも分からない。
それでも、扉を開けなければ確認できない。
先生は端末を閉じる。
「行こう」
車両が動き出す。
砂の向こうに、カイザーPMC基地の影が見えていた。