実験室の床が震えていた。
奥の格納部から立ち上がった巨大兵器は、天井近くまで届くほどの高さがある。厚い装甲、左右に展開する重火器、脚部に組み込まれた駆動機構。先生の端末には、警告表示とともに機体名が浮かんでいた。
ゴリアテ。
その名前を確認する間にも、機体の各部が起動していく。関節部のロックが外れ、装甲の隙間から熱が漏れ、複数の照準が先生たちの方へ向いた。
その奥では、タンクの中の生徒がわずかに指を動かしていた。
先生は、その両方を見なければならなかった。目の前には巨大兵器があり、横にはまだ生きている生徒がいる。カイザーPMC理事は、それを見せつけるように実験室の奥に立っていた。
「そんなものまで持ち出すんだ」
ホシノが盾を構えながら呟く。
理事は薄く笑ったように見えた。
「自社資産をどの場面で運用するかは、こちらが決める」
「生徒も資産って言うつもり?」
ホシノの声が低くなる。
理事はタンクへ視線を向けた。
「適性があるなら、運用価値がある。適性がなければ、処分する。それだけの話だ」
先生は息を吸った。
「生徒は資産じゃない」
理事の顔に表情はない。けれど、その沈黙は、先生の言葉を理解できないというより、理解する必要がないと切り捨てているように見えた。
「守るべき子どもたちだ」
「甘いな、先生」
理事はそう言い、片手を上げた。
ゴリアテの砲口が開く。
「その甘さで、どこまで守れるか見せてもらおう」
砲撃が来た。
ホシノが前へ出る。盾に衝撃が叩きつけられ、周囲の床材が跳ね上がった。先生の視界が砂煙と破片で埋まる。ハスミの射撃がゴリアテの右肩部へ入り、照準装置の一つを破壊した。ツルギはその隙に前進し、脚部へ向かって突っ込む。
「ツルギ、正面を押さえて。ハスミは肩部と火器管制を優先。ホシノは私の前を維持。ヒナ、タンクの方を見て」
先生が指示を出すと、全員が即座に動いた。
ヒナはゴリアテへ向かわなかった。彼女の視線は、タンクの中の生徒に向いている。布の外れた金剛星刀を握ったまま、距離を詰めすぎず、かといって離れすぎもしない位置へ移動した。
カヨコも同じ方向を見る。
「先生、タンクの中の子、起きるよ」
その言葉が終わる前に、透明な壁の内側で泡が大きく弾けた。
タンクの生徒が目を開く。
濁った目だった。完全に理性を失っているようには見えない。それでも、そこに普通の意識が残っているのか、先生には分からなかった。腕の一部は異常に膨れ、肩から背中へかけて獣のような筋肉が盛り上がっている。ヘイローはかすかに残っているが、輪郭は歪み、何度も明滅していた。
タンクのガラスに、内側から亀裂が入った。
ハルカが前へ出る。
「あの子の周囲を封じます」
「危険なら下がって」
「下がると、周りを巻き込みます」
ハルカは床に手を当てた。
鉄材が組み上がり、タンクの周囲に厚い壁が生まれる。壁の内側でガラスが割れ、液体が床へ流れ出した。生徒だったものは、濡れた体を引きずるようにして立ち上がる。
その瞬間、実験室の空気が変わった。
床に倒れていた獣化個体の死骸が、ぴくりと動いた。
先生は目を疑った。
獣化個体だけではない。先ほど通路で倒されたもの、実験室の隅に放置されていた失敗個体、砲撃に巻き込まれたカイザー兵の身体まで、ぎこちなく起き上がろうとしている。生命が戻ったようには見えない。糸で無理やり引き起こされる人形のように、関節の向きも、動きの順番もおかしかった。
カヨコが低く言う。
「……ゾンビ?」
先生は彼女を見る。
「ゾンビ?」
「超人には、それぞれモチーフになるようなものがある。あの子は、死んだものを使うタイプ……たぶん」
タンクから出た生徒は、喉の奥で笑うような音を漏らした。声と呼ぶには濁りすぎている。周囲で起き上がった死体たちが、一斉に動き出す。
ヒナが金剛星刀を構えた。
「先生、こっちは私が対応するわ」
カヨコが隣に立つ。
「私も行く。あれは数で押してくる」
ハルカも壁を作ったまま、静かに言った。
「私も、止めます。囲まれたら危険です」
先生はゴリアテを見る。巨大兵器の次の砲撃が来る。ホシノとツルギ、ハスミだけでも対応できるが、指示が必要だった。同時に、ゾンビの超人を放置すれば、死体の群れが後方へ流れる。
先生は短く息を整える。
「ヒナ、カヨコ、ハルカはゾンビの超人を止めて。倒れている個体を後方へ行かせないで。アルとムツキは遊撃、どちらかが崩れそうなら補助に回って」
「分かったわ」
「了解」
アルとムツキが左右へ分かれる。
その直後、ゴリアテが再び砲撃した。
ホシノが盾で受け、ツルギが爆風の中を抜けて脚部へ斬り込む。ハスミの弾丸が関節部の外装を削り、先生は端末に表示される装甲の薄い部分を確認した。
「右脚の膝部、外装が薄い。ツルギ、そこを崩して。ハスミは右肩の火器を止めて」
「承知しました」
「……壊す」
ツルギが低く答え、ゴリアテの足元へ潜り込む。
ゴリアテは重量で押し潰そうと脚を振り下ろした。ホシノが先生の前から動き、盾を斜めに差し込む。直撃ではない。軌道をわずかに逸らすための動きだった。脚部が床を砕き、そこへツルギが踏み込んだ。
金属が裂ける音が響く。
同時に、実験室の反対側では、死体の群れが広がっていた。
ヒナは金剛星刀で起き上がった個体を斬る。斬られたものはその場で崩れるが、少し離れた別の身体がすぐに動き出す。床に残った死骸、壁際に倒れていた獣化個体、処理台の上に放置されていた失敗作。数は減っているはずなのに、動くものが途切れない。
ハルカは壁を作るだけでは終わらなかった。
腕から伸びた刃が、横から迫る個体を切り払う。床から突き上がった鉄塊が、別の個体を天井近くまで押し上げ、崩れた配管に叩きつけた。さらに鎖が生まれ、複数の死体をまとめて縛り、ヒナの前へ流れる数を絞っていく。
先生は、ハルカの動きに一瞬だけ目を奪われた。
彼女は怯えていないわけではない。表情は強張っている。けれど、何を止め、何を通さないかを判断する動きに迷いは少なかった。守るために壁を作り、必要なら前へ出て斬る。その切り替えが速い。
カヨコは姿を消すように動いていた。
起き上がった死体の陰に入り、通路の影へ抜け、別の死体を盾にしてゾンビの超人へ近づいていく。彼女は群れ全体を相手にしていない。中心にいる生徒だけを見ていた。
ゾンビの超人が笑うような音を漏らす。
死体の一つがカヨコへ飛びかかった。カヨコは避けず、その身体を撃って軌道をずらし、自分とゾンビの間に盾として挟む。そのまま死体の脇を抜け、ゾンビの肩口へ銃撃を入れた。
ゾンビの身体が揺れる。
痛みはあるようだが、倒れない。周囲の死体が一斉にカヨコへ向かう。
「カヨコ!」
アルが叫び、援護射撃を入れる。ムツキの爆発が死体の進路を乱した。
「アルちゃん、右!」
「分かってるわ!」
アルはカヨコの退路を作りながら、ゾンビの注意を引いた。ムツキは爆発で群れをまとめて吹き飛ばすのではなく、死体同士をぶつけ、進路を絡ませている。軽い声は少ない。二人とも、笑って済ませる場面ではないことを分かっていた。
先生はゴリアテとゾンビの両方を見ながら、指示を重ねる。
「ハスミ、ゴリアテ左肩の砲口。ホシノ、次の砲撃は右へ受け流して。アル、カヨコの退路を維持。ムツキ、死体を中央に集めないで、壁際へ流して」
通信越しにアヤネの声が入る。
『先生、ゴリアテの背部に冷却機構と思われる熱源があります。そこを止めれば、出力が落ちる可能性があります』
「ハスミ、聞こえた?」
「確認しました。ですが、背部は正面から狙えません」
ツルギがゴリアテの足元で言う。
「……倒せばいい」
ホシノが盾を構え直す。
「じゃあ、倒す方向を決めようか。先生、右側なら空いてる」
先生は実験室の配置を見る。右側には破壊された棚があるが、退避は可能。左側にはタンクとゾンビの戦闘がある。倒すなら右へ倒すしかない。
「ゴリアテを右へ崩す。ツルギは右脚、ハスミは左肩の火器を止めて。ホシノ、正面から押し返すタイミングを合わせて」
「了解」
ゴリアテが次の砲撃姿勢に入る。
ハスミの弾丸が左肩の砲口へ吸い込まれ、内部で爆ぜた。火器が沈黙し、機体がわずかに傾く。ツルギが右脚部を裂き、ホシノが盾で正面から衝撃を受け止めながら、角度を変える。
巨大な機体が、わずかに右へ傾いた。
「今!」
先生の声に合わせて、ツルギが脚部へさらに踏み込む。
ゴリアテの関節が折れた。
機体が右へ崩れ、床を砕きながら倒れ込む。まだ停止はしていない。背部の冷却機構が露出し、熱を吐き出している。
ハスミが照準を合わせる。
「撃ちます」
一発目で外装が割れ、二発目で内部が露出し、三発目で冷却機構が破裂した。蒸気と火花が噴き上がり、ゴリアテの動きが大きく鈍る。
それでも、機体は腕部を動かし、先生たちを狙おうとした。
ツルギがその腕へ飛び乗る。
「止まれ」
短い声とともに、重い打撃が落ちた。
腕部が捩じ切れ、ゴリアテの上半身が床へ沈む。最後に機体全体が震え、端末の警告表示が赤から灰色へ変わった。
ゴリアテ、機能停止。
先生は息を吐く間もなく、ゾンビの方を見た。
そこでは、戦いがさらに荒れていた。
ヒナが何体も斬り伏せている。ハルカの鉄塊が死体の波を押し返し、鎖が床を走って個体を縛る。アルとムツキが左右から援護する。カヨコはもう一度、ゾンビの超人へ近づいていた。
ハイエナの超人は、傷だらけになっていた。
肩口、脇腹、脚。カヨコが入れた弾痕が増えている。それでも倒れない。死体を起こし、前へ押し出し、自分の身体が撃たれるたびに別の死体を盾にする。統制された戦術というより、周囲の死を全部かき集めて暴力に変えているように見えた。
カヨコは、倒れたカイザー兵の身体が起き上がる瞬間を待っていた。
その身体がゾンビの視界を遮る。カヨコはその陰に入り、足元を滑るように抜けた。ゾンビの腕が振るわれる直前、彼女の銃口が胸部へ向く。
銃声が続いた。
ゾンビの超人が膝をつく。
カヨコはさらに一歩踏み込み、至近距離で撃った。
ゾンビの身体が床に倒れる。
周囲の死体が、一斉に糸を切られたように崩れた。
先生は息を止めた。
終わったように見えた。
しかし、次の瞬間、倒れたゾンビの指が動いた。
ヘイローの濁った光が強く揺れ、身体が痙攣する。倒れていた死体の一部が、再び持ち上がる。ゾンビの胸部が不自然に膨らみ、折れていたはずの関節が音を立てて戻った。
カヨコが後ろへ跳ぶ。
「レイズ」
ヒナが前へ出る。
「次で仕留める」
先生は声を出そうとして、喉が詰まりかけた。
ゾンビの超人は、まだ生きている。薬に適合した生徒。失敗作ではないと理事が言った個体。けれど、その身体はもう限界に近いように見えた。動くたびに皮膚が裂け、呼吸のたびに黒い液体が床へ落ちている。
ヒナとカヨコが並ぶ。
ハルカが二人の前に流れ込む死体を壁で分断し、鎖で押さえた。アルとムツキが左右から援護を入れる。先生は、ゾンビの動きと周囲の死体の流れを見た。
「ハルカ、そのまま中央を維持。ヒナとカヨコの正面だけ通す。アル、左の群れを止めて。ムツキ、右奥の死体を遅らせて」
「はい」
「任せなさい!」
「了解」
ハルカの壁が左右に割れる。
その細い道を、ヒナが進んだ。
ハイエナの超人が吠えるような音を出し、周囲の死体を引き寄せる。カヨコがそのうちの一体を撃ち抜き、さらに別の死体を踏み台にして横へ抜けた。ゾンビの視線が一瞬だけカヨコへ向く。
その隙に、ヒナが間合いへ入る。
金剛星刀が振るわれた。
ゾンビの腕が落ちる。続いて、カヨコの射撃が脚を止める。ヒナがさらに踏み込み、胸部へ刃を通した。
ゾンビの超人の身体が、今度こそ床へ沈んだ。
それでも、ヘイローの濁った光がもう一度揺れようとした。
周囲の死体がわずかに動く。
先生はそれを見た。
まだ、戻ろうとしている。生きようとしているのか、薬がそうさせているのかは分からない。だが、その身体はもう耐えられない。皮膚は裂け、関節は変形し、呼吸の音はほとんど潰れていた。
ゾンビの口がわずかに開いた。
言葉にはならない。
次の瞬間、光が消えた。
動きかけていた死体たちも、同時に崩れ落ちる。
ゾンビの超人は、もう動かなかった。
実験室に、重い静寂が戻った。
ゴリアテは沈黙し、ゾンビの超人も倒れている。動いているのは、破損した配管から漏れる蒸気と、警告灯の赤い明滅だけだった。
誰も勝利を口にしなかった。
ハルカは鎖を解き、床に倒れた死体たちを見ている。アルは銃を下ろしたが、表情は硬い。ムツキは壁際に視線を向けたまま、何も言わない。カヨコは倒れたゾンビの近くに立ち、しばらく動かなかった。
ヒナは金剛星刀を下ろしている。
先生は彼女に近づきかけ、足を止めた。
聞くべき言葉が分からなかった。
つらくないのか、と聞くには、もう遅い。つらいことは分かっている。それでも彼女は斬った。先生が止めると決めたから、ヒナはそれに応えた。
先生は、倒れたゾンビの超人を見る。
まだ生きている、と思った瞬間があった。救えるかもしれない、と考えた瞬間もあった。けれど、最後には止めるしかなかった。
その判断の責任を背負うと言ったのは、自分だ。
先生は拳を握った。
理事の姿は、すでに実験室の奥から消えていた。
「逃げた?」
アルが低く言う。
カヨコが周囲を確認する。
「……奥の非常通路。戦闘の間に抜けたんだと思う」
ムツキが端末を拾い上げる。
「こっちはデータ削除中。まだ全部は消えてないけど、かなり急いでるね」
アヤネの通信が入る。
『先生、基地内部の一部端末で大量の削除処理を検知しました。外部への転送ログもあります。すぐに保全しないと、記録が失われる可能性があります』
「分かった。戦闘区域の安全を確認してから、資料を押さえる」
先生は実験室を見回した。
タンクは割れ、薬品棚は空のものが多い。端末のいくつかは破壊され、床には急いで運び出したような跡が残っている。ここで全てが行われていたのか、それとも、すでに重要なものは別の場所へ移されたのか。
先生には、まだ判断できなかった。
ただ、この場所が使い終わった後のように見えることだけは分かった。
ホシノが隣に立つ。
「先生」
「うん」
「たぶん、ここで終わりじゃないね」
先生は答える前に、倒れたゾンビの超人と、動かなくなったゴリアテを見た。
そして、実験室の奥に残された空の保管ケースへ視線を移す。
「まずは、ここに残ったものを全部確認しよう」
ホシノは頷いた。
遠くで、救護班を呼ぶための通信が入る。ハスミが周辺警戒へ移り、ツルギは黙って扉の前に立った。ヒナは金剛星刀を布で包み直さず、しばらくそのまま握っていた。
先生は端末を開く。
赤い警告の消えた画面に、今度は保存中の記録が並んでいく。
実験室に残ったものを、番号ではなく、名前へ戻すために。
先生は、最初の記録を開いた。
カヨコはゾンビの超人と言っていたが、正確にはハイエナの超人