黒原イトの青春 作:ナポリタン
自由行動と言われると聞こえはいいが、実際には監視付きの一時帰宅である。
自由とは。私は風紀委員会本部の廊下を歩きながら、そんなことを考えていた。横にはヒナちゃんがいる。怪我はだいぶ治ったらしいけど、それでもまだ万全ではない。
少なくとも、私はそう見ている。本人は平然としている。そういうところだぞ、ヒナちゃん。
「本当に一人で帰れる?」
「帰れるよ。子どもじゃないんだから」
「イトは子どもとかそういう問題じゃない」
「むむ」
返す言葉がない。自分でも少し分かっている。私は危ない場所に首を突っ込みがちだ。首を突っ込んでから、自分には首を引っ込める力がないことに気づく。大体いつもそうだ。
でも、今は違う。変身できる。戻ることもできる。空だって飛べる。たぶん。いや、飛ぶ練習はまだ怖い。落ちると痛い。とても痛い。あと着地が下手だと床が割れる。風紀委員会本部の床には、既に私のせいで三か所くらいヒビが入った。申し訳ない。
「今日はまっすぐ寮に帰る。寄り道しない。境界にも近づかない」
私は胸を張って宣言した。ヒナちゃんはしばらく私を見ていた。疑いの目だ。大変心外である。
「……分かった」
信じ切ってはいない声だった。
「何かあったらすぐ連絡して」
「うん。ヒナちゃんもちゃんと休んでね」
「私は大丈夫」
「それ、大丈夫じゃない人がよく言うやつだよ」
「イトに言われたくない」
ぐうの音も出ない。私は両手を上げて降参の意思を示した。ヒナちゃんは本部に残る。イツキ先輩に呼ばれているらしい。私は先に寮へ戻ることになった。大丈夫。
まっすぐ帰る。寄り道しない。危ないことはしない。私は心の中で三回唱えた。
三回唱えたのに。
「あの、すみません」
声を掛けられた。知らない人だった。細身の生徒。長い髪。少し困ったような顔。どこの所属か分からない制服。少なくとも、風紀委員会ではない。その時点で少し警戒するべきだった。しかし悲しきかな。困っている人を見ると、私は反射で立ち止まる。
「どうしました?」
「道に迷ってしまって。西寮に行きたいんですけど、こっちで合ってます?」
「西寮?」
私は首を傾げた。合っていない。むしろ反対に近い。どう迷ったらここに来るのか。ゲヘナの道は確かに分かりにくいけど、それにしてもかなり豪快な迷い方である。
「西寮なら、こっちじゃないですね。途中まで案内しますよ」
「いいんですか?」
「いいですよ。どうせ帰り道なので」
寄り道ではない。人助けだからセーフ、ということにした。誰に対する言い訳なの
かは分からない。私はその生徒を連れて歩き出した。
しばらくは普通だった。雑談もした。どこの学年かとか、最近の授業がどうとか、ゲヘナの道が分かりにくすぎるとか。彼女は受け答えが軽く、声も柔らかかった。
でも、途中から少しずつ違和感が出てきた。人通りが減っている。風が冷たい。それから、耳の奥にざらつくような感覚がある。声ではない。音でもない。でも、前にも感じた。マナカの時と似ている。
私は足を止めた。
「……あの」
「うん?」
その生徒が振り返る。困ったような顔は、もうしていなかった。
「本当に西寮に行きたいんですか?」
「うーん」
彼女は少し考えるふりをした。そして、首を傾げる。
「スカウト?」
私の背中に、冷たいものが走った。
「……スカウト」
「そ。黒原イトさんだよね」
名前を呼ばれた。私は一歩下がる。右手が震えた。
「誰ですか」
「野蛇マヤ」
彼女はあっさり名乗った。
「生徒会の方から来ました」
私はスマホへ手を伸ばす。ヒナちゃんに連絡。その前に、画面が暗くなった。圏外。まただ。
「通信、繋がらないでしょ」
マヤは楽しそうに問いかける。
「近くに超人がいると、そういうことあるんだよね。便利だよねぇ。不便だけど」
「……あなたも、超人」
「うん。蛇の超人」
彼女の髪が揺れた。風ではない。髪の束が、意思を持ったみたいにうねった。先端が裂ける。鱗が覗く。蛇だ。細い蛇が、何匹も、彼女の髪からこちらを見ていた。これは無理だと、体が先に判断した。鳥好きではあるが、蛇と仲良くした覚えはない。
「大丈夫大丈夫。別にいきなり殺したりはしないよ」
「その言い方がもう大丈夫じゃないんですよね」
「試験みたいなものだから」
「筆記でお願いします」
「実技かなぁ」
言い終わる前に、蛇が飛んできた。私は反射で変身した。黒い羽根が腕を覆う。爪が伸びる。視界が高くなる。マヤの蛇が私の腕に巻き付いた。引き剥がそうとする。固い。細いのに、力が強い。気持ち悪い。いや、相手に対して失礼かもしれないけど、気持ち悪いものは気持ち悪い。
私は翼を広げ、後ろへ跳んだ。跳んだ。つもりだった。体が軽すぎて、建物の壁に背中から激突した。
「ぐえ」
変な声が出た。鳥の超人なのに、カエルみたいな声だった。
「へぇ。速いね」
マヤはのんびりと感想を口にした。
「でも、下手」
「自覚あります」
「素直だ」
マヤの姿がぶれた。蛇が地面を這う。右から来る。そう思った瞬間、左足を取られた。転ぶ。石畳に嘴をぶつけかけた。危ない。顔面からいくところだった。
体勢を立て直す前に、マヤが目の前にいた。速い。腕が伸びる。違う。腕ではない。蛇みたいにしなる体が、ありえない角度から私の腹を打った。
息が抜けた。そのまま地面を転がる。痛い。普通に痛い。強くなったはずなのに、痛いものは痛い。
「もうちょっと頑張ってよ。ロカが期待してるんだから」
「ロカ……」
その名前に、喉が詰まる。雷帝。五摂ロカ。マナカをあんな風にした薬の元。たぶん、全部の中心にいる人。
「なんで、私を」
「新しい超人だから。あと、黒い羽根だから」
「それだけ?」
「それだけで十分じゃない?」
マヤは肩をすくめた。
「行かないって言ったら?」
「うーん」
マヤは少し考える。
「痛い目見てもらう?」
「でしょうね!」
私は地面を蹴った。今度はちゃんと前へ出た。速さだけなら、私の方がある。たぶん。マヤの横へ回り込む。爪を振る。外れた。いや、当たった。でも、当たった感触が変だった。マヤの体がぐにゃりと曲がり、爪の軌道から逃げる。
人の骨格ではない。マナカとは違う。あれほど無茶苦茶な軟体ではないけど、関節の使い方が人間のそれではない。蛇。その言葉が、今さら重くなる。マヤの髪から伸びた蛇が、私の首に巻き付いた。
「っ」
息が詰まる。翼を広げる。飛ぼうとする。でも、別の蛇が腕を縛る。足を縛る。翼の付け根に噛みつく。痛い。熱い。毒。そう思った時には、体が痺れ始めていた。
「はい、捕まえた」
マヤが私の顔を覗き込む。
「ねえ、レイズ使える?」
レイズ。イツキ先輩の説明を思い出す。再生。蘇生に近い現象。死んでも戻ることがある。
「分かんない、って顔してるね」
マヤは笑う。
「一回死ねば、後は分かるよ」
冷たい指が、私の喉に触れた。まずい。本当にまずい。怖い。考えるより先に、その感覚が全身へ広がっていく。ヒナちゃん。
そう思った瞬間、銃声がした。マヤの手が弾かれる。蛇が数匹、地面へ落ちた。
「その手、離しな」
聞き慣れた声だった。カヨコちゃん。路地の入り口に、彼女が立っていた。銃を構え、いつもより少しだけ険しい目で、マヤを見ている。
「カヨコちゃん!」
声は出なかった。でも、気持ちは叫んだ。マヤが振り返る。
「誰?」
「イトを返して」
「友達?」
「同室」
「へぇ」
マヤは蛇を引っ込めながら、私から少し距離を取った。
「いいね、そういうの。面白い」
「面白くない」
カヨコちゃんは即答した。そのまま連射。マヤはひらりと避ける。蛇が弾丸を弾く。完全には避けきれず、肩から血が散った。
血。でもマヤは顔をしかめただけだった。カヨコちゃんは表情を変えない。私なら絶対に動揺する。いや、実際している。
私は地面に転がったまま、痺れる腕を動かそうとした。動かない。毒が回っている。呼吸が浅い。
「風紀委員会の子ってさぁ、だいたい真面目だよね」
マヤが蛇を操りながら、のんびりと口にする。
「撃てるところと撃てないところ、ちゃんと選ぶ」
「それが普通」
「その普通、私たち相手だと邪魔だよ」
蛇が地面を走る。カヨコちゃんは壁を蹴って横へ逃げた。銃弾が蛇を裂く。別の蛇が背後から伸びる。カヨコちゃんは身を低くして避ける。上手い。でも、押されている。地形を使って距離を取っているだけだ。
このままだと、捕まる。捕まったら。また。嫌だ。それだけは嫌だ。私は体を動かそうとする。動かない。痺れている。重い。役に立たない。まただ。また私は、見ているだけなのか。ヒナちゃんがやられた時みたいに。誰かが死ぬのを。ただ、見ているだけなのか。
「……っ」
動け。動けよ。私の体だろ。
いや、違う。
これはもう、人の体じゃない。
超人の体だ。
だったら。
レイズ。
『一回死ねば、後は分かるよ。』
マヤの言葉が頭の中で反響する。馬鹿げている。正気じゃない。でも、今の私にできることは、それくらいしかなかった。
私は自分の爪を見た。硬く、曲がった、猛禽の爪。これなら。できてしまう。嫌だ。怖い。死ぬのは怖い。当たり前だ。怖いに決まっている。
でも、このままだとカヨコちゃんが死ぬ。それはもっと嫌だ。
私は、自分の首筋に爪を当てた。ひどく冷静な自分がいた。
ここを切れば、たぶん死ぬ。
正しいかどうかは分からない。
間違っている気しかしない。
でも。
私は。
痛みは、一瞬だった。
その後は、何もなかった。どくん、と。胸の奥で何かが鳴った。肺に空気が戻る。喉が焼ける。目の奥が熱い。全身が、ばらばらになったものを無理やり縫い合わせるみたいに軋んだ。
死んだ。今、私は死んだ。そして。戻った。
「……は?」
マヤの声がした。初めて、余裕が消えていた。私は起き上がる。体が軽い。毒が抜けている。痛みはある。でも、動く。動いてしまう。怖い。でも、今はそれでいい。
私は地面を蹴った。今度は、壁にはぶつからなかった。低く飛ぶ。マヤの蛇を掻い潜る。爪を振る。外れる。でも、カヨコちゃんの銃弾がそこへ入る。マヤが避ける。避けた先へ、私が回り込む。
連携、ちゃんとできているのかは分からない。でも、カヨコちゃんは私の動きを見ていた。私も、カヨコちゃんの銃口を見ていた。
私が前、カヨコちゃんが後ろ。ヒナちゃんとやる時とは違う。私が倒すのではない。私が引きつける。カヨコちゃんが通す。
蛇が腕に噛みついた。痛い。でも、無視した。マヤの目が細くなる。
「さっきより、雑になってない?」
そうだと思う。たぶん雑だ。
だって、死んでも戻った。戻ってしまった。
なら少しくらい無茶をしても。
そこまで考えて、背筋が冷えた。今、何を思った?
「イト!」
カヨコちゃんの声で、意識が戻る。私は横へ跳んだ。マヤの蛇が、さっきまで私の頭があった場所を貫いた。危ない。本当に危ない。
「大丈夫! 多分!」
「多分じゃない!」
怒られた。でも、少しだけ安心した。カヨコちゃんが怒っている。生きている。それなら、まだ大丈夫。
私はもう一度踏み込む。マヤの懐へ。爪ではなく、肩からぶつかる。翼を広げて押し込む。マヤの体が壁に叩きつけられた。初めて、ちゃんと手応えがあった。
「っ、いった……」
マヤが呻く。カヨコちゃんの弾丸が、マヤの足元を撃ち抜いた。逃げ道が削られる。私が前に出る。カヨコちゃんが後ろから塞ぐ。
マヤの顔から、笑みが消えた。
「……ッチ」
空気が変わる。蛇がざわめく。髪だけじゃない。腕が。足が。首が。マヤの体そのものが、ぐにゃりと歪み始めた。
まずい。これはまずい。さっきまでとは違う。
「ックソがぁ……」
マヤの口から、低い罵声が漏れた。
「ぶち殺してやる!!」
彼女の体が膨れ上がる。制服が裂ける。鱗が浮き出る。人の腕が、巨大な蛇の胴体に呑み込まれていく。目が金色に光り、口が耳元まで裂ける。
完全獣化。言葉を知らなくても分かった。あれはもう、さっきまでのマヤではない。巨大な蛇が、路地を埋め尽くす。
カヨコちゃんが一歩下がった。私も翼を広げた。逃げる?無理。戦う?もっと無理。でも、下がれない。巨大な蛇の口が開く。毒の匂いがした。
死ぬ。
今度は、たぶん本当に。
「そこまでだ」
声がした。静かな声。場違いなくらい、落ち着いた声。巨大な蛇の背後に、イツキ先輩が立っていた。いつからいたのか分からない。足音もなかった。イツキ先輩は、蛇を見上げる。
「野蛇マヤ。君の試験はここまでだ」
マヤの瞳が、イツキ先輩へ向く。次の瞬間。巨大な蛇の動きが止まった。目の焦点がぶれる。何かを見ている。でも、ここではない何かを。イツキ先輩の目が細くなる。
「おやすみ」
その一言で、マヤの巨体が崩れ落ちた。地面が揺れる。鱗がほどけ、蛇の体が縮み、人の姿に戻っていく。野蛇マヤは、気を失っていた。私はその場にへたり込んだ。
「イト」
カヨコちゃんが駆け寄ってきた。
「今、何したの」
声が低い。怒っている。心配している。たぶん、両方。私は口を開こうとした。でも、言葉がうまく出てこない。
自分を殺した。レイズした。戻った。そう説明すればいい。でも、それを言葉にしたら、何かが決定的に壊れる気がした。だから、私は笑った。笑ってごまかそうとした。
「えっと」
口の中が乾いている。
「女は度胸ぉ……ってやつで……」
「イト」
カヨコちゃんの声が、さらに低くなった。ごまかせなかった。イツキ先輩がこちらへ歩いてくる。気絶したマヤを見下ろし、それから私に視線を向けた。
「黒原イト君」
「はい」
「君の判断は、結果だけ見れば有効だった」
淡々とした声だった。
「だが、自分を作戦資源として扱う癖は早めに直した方がいい」
ぐさっと来た。言葉が、胸の奥に刺さった。私は何も返せなかった。イツキ先輩はそれ以上責めなかった。ただ、気を失ったマヤを見下ろす。
「さて」
静かに言葉を続ける。
「生徒会のスカウトを、一人捕まえたわけだ」
遠くで、風紀委員会のサイレンが聞こえ始めた。
同じ頃。空崎ヒナの前にも、生徒会からの使者が現れていた。折り紙のように薄い鳥が、夜道を舞っていた。
一羽。二羽。三羽。紙でできた鳥たちは、街灯の光を受けて白く光りながら、ヒナの周囲を囲む。
「空崎ヒナやな」
声は、屋根の上から降ってきた。畳紙メルリ。彼女は瓦の縁に腰掛け、足をぶらぶらと揺らしていた。指先には、細く折られた紙片がある。
「ウチは畳紙メルリ、生徒会の役員。あんたをスカウトしに来たっちゅー訳」
ヒナは銃を構えた。
「断る」
「早いなぁ。もうちょい悩まへん?」
「生徒会に行く理由がない」
「せやろな」
メルリはつまらなそうに肩をすくめる。次の瞬間、紙の鳥が刃になった。夜道を裂く。ヒナは一歩下がり、銃弾で紙の刃を撃ち落とした。紙が散る。散った紙片が、また別の形へ折れ曲がる。蜂。蛇。刃。ヒナの周囲で、紙が生き物のように形を変える。
「今回は縁が無かったっちゅーことで」
メルリの声が低くなる。
「首だけ置いて帰りや」
ヒナは答えなかった。ただ、引き金を引いた。銃声が夜を裂く。紙の群れが破れる。メルリは屋根から飛び退いた。
「……ほんま、面倒そうやなぁ」
ヒナの目は冷えていた。
「イトに何かしたの」
「あ?」
「あなたが私の前にいるなら、イトの方にも、誰か」
メルリは目を細めた。
「勘ええなぁ」
その言葉で、ヒナの空気が変わった。眠たげな表情が消える。銃口が、まっすぐメルリを捉えた。
「そこをどいて」
「嫌や言うたら?」
「撃つ」
「怖」
メルリは笑った。紙の獣たちが一斉に跳ぶ。ヒナは前に出た。紙を撃ち抜き、刃を避け、距離を詰める。メルリは折り紙を増やす。紙の壁。紙の槍。紙の翼。
それでも、ヒナは止まらない。紙の壁に穴が開く。槍が砕ける。翼が破れる。弾丸がメルリの頬をかすめた。赤い線が走る。
「……っ」
メルリの笑みが消えた。ヒナは次弾を構える。そこで、遠くからサイレンが聞こえた。風紀委員会。メルリは舌打ちした。
「今日はここまでやな」
「逃がすと思う?」
「出来るから言うとんねん」
紙の鳥が一斉に広がる。視界が白で埋まった。ヒナが撃つ。紙片が吹き飛ぶ。けれど、その向こうにメルリの姿はもうなかった。ヒナは銃を下ろさない。しばらく、その場に立ち尽くしていた。
そして、スマホを取り出す。通信は戻っていた。着信履歴はない。それが、逆に不安だった。
「イト」
小さく声が漏れる。ヒナは走り出した。夜のゲヘナに、破れた折り紙だけが散っていた。
野蛇マヤ(のへびまや)
ゲヘナ学園生徒会所属1年生。蛇の超人。
畳紙メルリ(たたみがみめるり)
ゲヘナ学園生徒会所属1年生。折り紙の超人。マヤとは幼馴染。