ゴリアテの駆動音が消えた後も、実験室にはしばらく低い振動が残っていた。
破損した配管から白い蒸気が漏れ、赤い警告灯が壁と床を断続的に照らしている。割れたタンクから流れ出した液体は床の溝へ広がり、そこに薬品の臭いと焦げた金属の臭いが混じっていた。
先生は、端末の画面を確認する。
ゴリアテ、機能停止。
周辺の敵性反応、減少。
通信状態、不安定。
その表示を見ても、安心はできなかった。
実験室には、倒れた獣化個体と、動かなくなったゾンビの超人が残っている。砲撃で壊れた床には、カイザー兵の装備も散らばっていた。戦闘は終わった。それでも、ここで起きていたことは、まだ何も終わっていない。
先生は通信を繋ぐ。
「アヤネ、聞こえる?」
『はい、先生。通信は維持できています。基地内の一部端末で、まだ削除処理が続いています。外部への転送ログも検知していますが、転送先は追い切れていません』
「端末の位置は?」
『先生たちがいる実験室と、その奥の管理室に集中しています。急いだ方がいいです』
先生は顔を上げた。
「カヨコ、端末を押さえよう。ハルカは薬品棚と保管ケースの確認。アルとムツキは周辺警戒。ヒナ、危険個体が残っていないか確認をお願い」
「分かった」
「はい」
「任せなさい」
それぞれが動き出す。
ヒナは金剛星刀を手にしたまま、倒れた個体の周囲を確認していく。その横でハルカは薬品棚の前に立ち、ケースやラベルをひとつずつ見ていた。
「先生、空のアンプルケースが多数あります。未使用のものは、見える範囲ではほとんどありません」
「容器の種類は?」
「ブラックマーケットで見たものと同じ規格に近いです。ただ、こちらには保管番号らしきものがあります。ラベルが剥がされているものも多いです」
カヨコは端末の前に座り、アヤネと通信を繋いだまま作業していた。
「アヤネ、こっちの端末、まだ生きてる。削除処理を止められる?」
『試します。外部接続を遮断してください。左側の補助端末からアクセスできると思います』
「先生、そこのケーブルを抜いて。赤じゃなくて、黒い方」
先生は言われた通りにケーブルを外す。端末の画面が一度乱れ、削除処理の進行表示が止まった。
『止まりました。完全ではありませんが、一部は保全できます』
「できる限りでいい。記録を残して」
『はい』
先生は画面に表示されたフォルダ名を見る。
被験記録。
適合判定。
薬剤反応。
処分記録。
搬送記録。
原試料管理。
その文字の並びだけで、胸の奥が重くなる。
カヨコが無言で一つ目のファイルを開いた。
そこには、生徒たちの記録が並んでいた。
所属学園、年齢、戦闘経験、身体能力、精神状態、神秘反応、薬剤耐性。項目は細かく分けられ、数値と短い評価が機械的に入力されている。名前の一部は削除されていたが、完全には消えていないものもあった。
先生は画面を見つめる。
「強い生徒だけを選んでいたわけじゃないんだね」
カヨコが頷く。
「孤立してる生徒、行方不明になってもすぐ騒がれにくい生徒、耐性がありそうな生徒。ブラックマーケットで聞いた話と合う」
ハルカが後ろから画面を見る。すぐに目を伏せた。
「人を選んでいる資料じゃありません。壊れにくい道具を探しているみたいです」
アルの拳が震えていた。
「ふざけてるわ」
声は小さかったが、会議室で見せた芝居がかった調子はなかった。
ムツキは実験室の奥を見ている。
「アルちゃん、奥にも部屋がある。あっち、ひどいかも」
先生は頷く。
「確認しよう」
奥の扉を開けると、そこには複数の小部屋が並んでいた。
強化ガラスで仕切られた観察室。拘束台のある部屋。冷却装置の並ぶ保管室。焼却炉のような設備。床には排水溝があり、壁には爪痕や弾痕が残っていた。使用済みの注射器や破損した拘束具は片付けきれておらず、急いで放棄した跡があちこちに残っている。
先生は足を止めた。
ここで何が行われていたのか、説明されなくても分かってしまう。薬を打ち、反応を見て、使えるかどうかを判断する。壊れたら記録し、処分する。その作業を何度も繰り返した場所だった。
ヒナが、壁際の保管棚を確認している。
「先生、こっちに名簿があるわ」
先生が近づくと、そこには紙の資料が残されていた。端末から印刷されたものらしい。いくつかは破られ、床に散っている。
不適合。
短時間獣化。
ヘイロー消失。
肉体崩壊。
処分済み。
先生は、その文字を目で追う。
名前がない欄もある。番号だけの欄もある。誰かが意図的に削ったのか、最初から番号だけで扱っていたのかは分からない。
先生は紙を拾い上げた。
「処分済み、じゃない」
声が、自分のものではないように聞こえた。
ヒナが先生を見る。
先生は紙から目を離せなかった。
「この子たちは、生徒だ」
ヒナは何も言わなかった。
ただ、視線をわずかに伏せた。
カヨコの声が通信越しに聞こえる。
「先生、こっちで原試料管理のファイルが出た」
先生はすぐに実験室へ戻る。
カヨコが開いた画面には、いくつかの項目が並んでいた。
原試料。
血液由来成分。
神秘適合率。
極化反応。
レイズ干渉。
五摂ロカ。
その名前が表示された瞬間、ヒナの動きが止まった。
先生は画面を見る。
「ロカの名前がある」
カヨコが低く言う。
「……やっぱり」
ファイルの詳細はかなり削除されていた。残っている記録も欠けている。それでも、ロカ由来の材料が超人薬の安定化に使われていたこと、劣化した原料を再精製しようとしていたこと、複数回の失敗を重ねていたことは読み取れた。
アヤネが通信越しに言う。
『先生、原試料の保管記録があります。ただし、現在の保管場所は空欄です。直近の更新で、移送済みになっています』
「移送先は?」
『削除されています。通常のカイザーPMC内部ルートではありません。複数の中継点を経由していますが、最後の宛先が消されています』
先生は画面を見つめた。
ヒナが静かに聞く。
「いつ移送されたの」
『基地突入の少し前です。時間を見る限り、こちらの動きが完全に始まる前から準備されていた可能性があります』
カヨコが呟く。
「ここは、もう使い終わった場所ってわけ」
アルが顔を上げる。
「どういうこと?」
「重要なものは先に運び出されてる。ここに残ってるのは、失敗した個体と、空の容器と、消し損ねた記録」
ムツキが端末の別画面を覗き込む。
「たぶん、ゴリアテも足止め用だったんだろうね。理事も逃げたし」
先生は奥の非常通路を見る。
戦闘の間に、カイザーPMC理事は姿を消した。逃走経路はすでに封鎖しようとしているが、基地の構造を熟知した相手が先に動いた以上、捕まえられる保証はない。
それでも、残された記録はゼロではなかった。
「アヤネ、外部転送の断片を確認して」
『はい。いま復元できているのは、短い語句だけです』
画面に、断片的なログが並ぶ。
神秘の極化。
器の耐久性。
レイズとの干渉。
原試料の劣化。
再精製限界。
次段階への移送。
署名欄は黒く塗り潰されている。名前も所属もない。
ハスミが実験室へ入ってきた。周辺警戒を終えたのか、銃を下ろしながら画面を見る。
「つまり、この施設の外に、まだ関係者がいるということですね」
先生は頷く。
「カイザーだけでは、ここまでの理論を用意できなかった可能性がある」
カヨコが言う。
「理事は実用化してただけかもしれない。試料、理論、初期データをどこかから受け取って、ここで量産や運用試験をしていた」
ヒナは画面に残るロカの名前を見ていた。
「遺体を取り戻さないと」
その声は静かだった。
先生は頷く。
「それと、薬の流れを止める」
ホシノが実験室に戻ってきた。盾にはまだ戦闘の跡が残っている。
「先生。外の制圧はほぼ終わったよ。逃げた車両も、シロコちゃんが一台止めた。でも、中身は空だったって」
「空?」
「うん。運び出した後の囮かもしれないね」
ホシノは端末の画面を見る。
そこに並んだ断片を読んだ後、少しだけ目を細めた。
「カイザーだけじゃ終わらないってことだね」
先生は答える。
「うん。ここは終点じゃない」
カヨコが短く言った。
その言葉を聞いて、ハルカが顔を上げた。
「弱い人を探して、使えそうかどうかで分けて、壊れたら失敗にするなんて……そんなの、許せません」
アルがその隣に立つ。
「ええ。許さないわ」
ムツキは何も言わず、床に落ちていた破れた名簿を拾った。そこには番号だけが残っている。
先生はそれを見て、ゆっくり息を吐く。
この場所に残っているのは、証拠だけではない。名前を消された生徒たちの痕跡だ。番号で処理され、失敗例として扱われ、運び出されることもなく残されたもの。
先生はアヤネへ通信を入れる。
「アヤネ、記録できる範囲で全て保存して。削除された名前も、復元できるものは復元したい」
『はい。できる限りやります』
「救護班と確認班を入れて。危険物の扱いには注意して。遺体や倒れている個体は、番号で呼ばないで」
通信の向こうで、アヤネの返事が少し遅れた。
『……はい』
ヒナが先生を見る。
先生は、床に散らばった資料を見ていた。
「身元が分からないなら、身元確認中でいい。分からないままでも、生徒として扱う」
「分かったわ」
ヒナは短く答えた。
その言葉を受けて、周囲の空気が少しだけ変わった。何かが救われたわけではない。それでも、ここに残されたものをどう扱うのかは、いま決めることができた。
しばらくして、救護班と確認班が実験室へ入った。
セリカは口元を押さえそながらも、運び込む物資を落とさなかった。ノノミは救護対象の確認を始め、アヤネは現場記録のために端末を接続する。シロコは外から戻り、入口付近で警戒を続けた。
ハスミはトリニティ側への共有資料を整理していた。
「学園を問わず被害が広がる可能性があるなら、看過できません。トリニティにも、必要な範囲で共有します」
先生は頷く。
「お願いする。ただ、未確認の推測は広げないようにしたい」
「承知しています」
ツルギは実験室の扉の前に立ったまま、ほとんど動かなかった。誰かが近づけば視線だけで制し、危険がないと分かれば通す。その無言の警戒が、今はありがたかった。
カヨコとアヤネは、端末の復元作業を続けていた。
途中で、アヤネが息を止めるようにして言った。
『先生、最後に更新されたログがありました。かなり壊れていますが、読める部分があります』
先生は端末を覗き込む。
再配置完了。
原試料移送済。
中核データ転送済。
次段階へ移行。
それ以上の情報は削られている。日付と時刻だけが残り、宛先は空白になっていた。
先生は画面から目を離せなかった。
ここで見つかったものは、大きな証拠だった。生徒誘拐と薬、ロカ由来の材料、獣化と超人化、カイザーPMC基地での実験。そこまでは繋がった。
けれど、肝心の中心はもうここにない。
原試料も、中核データも、どこかへ移されている。
ヒナが先生の横に立つ。
「先生」
「うん」
「追いましょう」
その声には迷いがなかった。
先生は頷いた。
「うん。そのためにも、まずはここに残ったものを全部押さえる」
ホシノが少しだけ息を吐く。
「やることが増えたねぇ」
「そうだね」
先生は画面に残る文字を見る。
次段階へ移行。
その先に何があるのか、まだ分からない。誰が受け取ったのかも、何をしようとしているのかも見えない。ただ、止まっていないことだけは分かる。
先生は端末を閉じた。
「まだ、終わっていない」
実験室の赤い警告灯は、まだ点滅を続けていた。