黒原イトの青春   作:蝦蟇

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いつか、慣れてしまうんだろうか

 

 夜明け前のカイザーPMC基地は、戦闘の熱を失っていた。

 

 破壊されたゲートの周囲には砂が流れ込み、装甲車両の残骸が斜めに止まっている。監視塔のライトは消え、代わりにアビドス側の投光器が、基地の外壁と搬入口を白く照らしていた。

 

 先生は実験区画の入口に立っていた。

 救護班と確認班が中へ入り、保護された生徒の搬送と、倒れていた個体の確認を進めている。薬品棚、拘束台、破損したタンク、空の保管ケース。ひとつずつ記録しなければならないものが多すぎた。

 戦闘は終わった。

 けれど、終わったという言葉を使うには、目の前の現場はあまりにも静かすぎた。

 アヤネが端末を抱えて、先生のそばへ来る。

 

「先生、現時点で確認できている保護対象は、全員搬送準備に入りました。意識がない生徒もいますが、呼吸とヘイローは確認できています」

「分かった。救護班に優先して運んでもらって」

「はい」

 

 アヤネの声は固かった。彼女は端末に表示された一覧を見つめている。そこには、カイザー側の記録から復元できた名前と、まだ名前に戻せていない欄が並んでいた。

 不適合。処分済み。短時間獣化。肉体崩壊。

 カイザーの記録ではそう書かれていたものを、アヤネはひとつずつ別の欄へ移している。確認中。身元確認中。保護対象。死亡確認。

 言葉を変えただけで、起きたことが消えるわけではない。

 それでも先生には、そこから始めるしかないように思えた。

 

 

 

 

 

 

 実験室の奥では、ハルカが白い布を運んでいた。

 救護班が用意した、遺体を覆うための布だった。ハルカはそれを両手で抱え、床に倒れていた生徒のそばに膝をつく。獣化した身体は、もう普通の生徒の姿から大きく離れていた。それでも、彼女は目を逸らさなかった。

 

「この子たちは、失敗例じゃありません」

 

 ハルカの声が、静かな実験室に落ちる。

 近くにいたアルが足を止めた。

 ハルカは布を広げながら、続ける。

 

「処分済みでもありません。ちゃんと、生徒だったんです」

 

 アルはしばらく黙っていた。

 それから、ハルカの隣にしゃがむ。

 

「ええ」

「絶対に、犯人を捕まえてみせるわよ。私たちで」

 

 ハルカは小さく頷いた。

 ムツキも何も言わず、別の布を受け取る。普段なら軽口のひとつでも挟む場面だったが、今は必要なものを必要な場所へ運ぶだけだった。

 先生はその姿を見てから、実験区画の外へ出た。

 

 

 

 

 

 

 外では、セリカとノノミが救護物資を整理している。シロコは基地の外周確認から戻ったばかりで、ホシノは少し離れた場所に盾を置き、破壊されたフェンスの向こうを見ていた。

 先生が近づくと、ホシノがこちらを見た。

 

「先生、大丈夫?」

 

 先生はすぐには答えられなかった。

 大丈夫だと言えば嘘になる。大丈夫ではないと言えば、今ここで動いている生徒たちの前で立ち止まることになる。

 

「まだ、やることがある」

 

 先生がそう答えると、ホシノは小さく息を吐いた。

 

「うん。そう言うと思った」

 

 ホシノはフェンスの向こうへ視線を戻す。

 

「救えた子もいる。救えなかった子もいる。こういう時、どっちを先に数えればいいのか、たまに分からなくなるよ」

 

 先生は、ホシノの横に立った。

 砂漠の向こうは、少しずつ明るくなり始めている。夜の黒が薄まり、基地の外壁に残った弾痕や焦げ跡が、朝の光の中へ浮かび上がっていた。

 

「数にしたくない」

 

 先生は言った。

 ホシノは先生を見る。

 

「でも、数えなきゃいけない時もあるよ。搬送の数、足りない毛布の数、薬品ケースの数、身元確認中の数。現場を動かすには、数字がいる」

「分かってる」

 

 先生は基地の入口へ視線を向けた。

 

「だから、数字にしても、そのままにはしない。名前が分かるなら名前で呼ぶ。分からないなら、分からないままでも、生徒として扱う」

 

 ホシノは少しだけ目を細めた。

 

「先生らしいね」

「まだ、そう言われるほどのことはできていないよ」

「それでも、今そう決めたことは大事だと思う」

 

 ホシノはそう言って、盾を持ち上げた。

 

「私は外を見てくる。まだ残ってるカイザーの端末とか、逃走経路の確認もあるし」

「お願い」

 

 ホシノが歩いていくのを見送った後、先生は基地の仮設記録所へ戻った。

 アヤネ、ハスミ、カヨコが、端末を並べて資料の整理を続けている。カイザーの記録は破損しているものが多く、削除済みのファイルも少なくなかった。それでも残った断片を合わせれば、この基地で行われていたことの輪郭は見えてくる。

 

 誘拐された生徒。

 超人薬の劣化品。

 獣化。

 ロカ由来の原試料。

 次段階への移送。

 

 どれも、簡単に共有していい情報ではなかった。

 ハスミが先生に気づき、端末から顔を上げる。

 

「先生。トリニティ側には、被害が学園を問わず広がる可能性があること、ヒフミさんが巻き込まれかけたこと、薬物関連の危険があることを中心に共有します。未確認の移送先や、ロカに関する詳細は伏せます」

「ありがとう。その形でお願い」

「承知しました」

 

 ハスミの声は落ち着いていたが、先生には彼女の表情も硬く見えた。正義実現委員会の一員として現場を冷静に扱おうとしている。それでも、ここで見たものをただの資料として処理できるはずがなかった。

 カヨコは、復元された名簿を見ていた。

 

「先生。こっち、三人分だけ名前が分かりそう」

「本当?」

「完全じゃないけど、所属と一部の名前が残ってる。アヤネが照合すれば、たぶん分かる」

 

 先生は端末を覗き込む。

 削られた文字の隙間に、名前の一部が残っている。カヨコはそれを、所属学園の欠席記録や行方不明者の情報と照らし合わせていた。

 アヤネが隣から言う。

 

「この子は、おそらくブラックマーケット周辺で行方不明になっていた生徒です。家族への連絡が必要になりますが、どの学園を通すか確認します」

「お願い」

 

 先生は名簿を見る。

 そこに名前が戻るたび、胸の奥が少し痛んだ。救えたわけではない。けれど、番号のままではなくなった。その程度のことに、救いのようなものを感じてしまうことが苦しかった。

 カヨコが、端末から目を離さずに言う。

 

「見たくて見たわけじゃないけどね」

 

 先生はカヨコを見る。

 

「でも、見なかったことにはできない。イトのことも、ハルカのことも、ここで死んだ子たちのことも」

 

 カヨコの声は低く、淡々としていた。

 

「だから、次も行くよ」

「危険だよ」

「知ってる」

 

 カヨコは短く答えた。

 

「でも、ここで止まったら、使い終わった場所だけ見て満足することになる。それは嫌だ」

 

 先生は何も言えなかった。

 カヨコは端末を操作し、次のファイルを開く。その横顔には、怒りも悲しみも見えにくい。けれど先生には、彼女が何も感じていないようには見えなかった。

 

 

 

 

 

 

 実験区画の奥では、簡易的な弔いの場が作られていた。

 

 正式な葬儀ではない。祭壇と呼ぶほど整ったものでもない。ただ、布をかけられた遺体のそばに、身元が分かる子には名前を、分からない子には身元確認中と記した紙が置かれている。救護班が用意した小さな花と、アビドスから持ってきた水が添えられていた。

 

 先生は、その前に立った。

 ヒナも少し離れて立っている。金剛星刀は布で包み直され、彼女の手の中にあった。戦闘中に見せた動きの鋭さは、今は影を潜めている。先生には、その静けさの方が重く感じられた。

 

 ハルカが花を持ってきた。

 白い造花だった。基地の中に本物の花などあるはずもない。アビドスの搬送車に積まれていた、救護用の物資の中から見つけたものだと、ノノミが言っていた。

 ハルカはその造花を、身元確認中と書かれた紙の前に置いた。

 

「ごめんなさい」

 

 アルが隣で言う。

 

「ハルカが謝ることじゃないわ」

「分かっています」

 

 ハルカは紙を見つめたまま、ゆっくり言葉を続けた。

 

「でも、言いたかったんです。私も、ああなっていたかもしれません。だから、助けられなかったことが、悔しいです」

 

 アルはしばらく黙っていた。

 それから、ハルカの肩に軽く手を置く。

 

「だったら、次は助けるわよ」

 

 ハルカがアルを見る。

 アルは、少しだけ胸を張った。

 

「私たちは風紀委員会よ。壊された後に泣くだけじゃなくて、壊される前に止めるの」

 

 ハルカは目を伏せた。

 

「はい」

 

 ムツキが二人の少し後ろに立っていた。何かを言いかけて、やめたように口を閉じる。その代わりに、彼女はもう一輪の造花を紙のそばに置いた。

 

 先生はその光景を見ていた。

 謝ることではない。そう言うのは簡単だった。けれど、ハルカが謝りたいと思ったことまで否定していいのか、先生には分からなかった。

 

 

 

 

 

 

 弔いが一段落した後、先生は基地の外へ出た。

 朝日はすでに砂漠の上に昇り始めていた。冷えていた空気が少しずつ温まり、夜の間に固まっていた砂が淡く光っている。遠くでは、搬送車両がアビドス分校へ向かって走り出していた。

 

 先生は、少し離れた場所にヒナが立っているのを見つけた。

 彼女は基地の外壁にもたれることもなく、まっすぐ立っていた。小柄な姿は朝の光の中でさらに細く見えたが、近づきがたいほどの静けさがあった。

 

「ヒナ」

 

 先生が声をかけると、ヒナは振り返った。

 

「先生」

 

 しばらく、二人とも何も言わなかった。

 先生は、布に包まれた金剛星刀を見る。あの刀で、ヒナは獣化した生徒を止めた。ハイエナの超人も止めた。先生がそう判断したから、彼女は前に出た。

 その事実が、先生の胸に残っている。

 

「君たちは、ずっとこれを見ていたの?」

 

 先生がそう聞くと、ヒナは少しだけ目を伏せた。

 

「ええ」

 

 短い返事だった。

 先生は言葉を選ぶ。

 

「……いつか、慣れてしまうんだろうか」

「慣れないわ」

 

 風が吹き、彼女の髪を少し揺らした。

 

「慣れたら、私はここにいないわ」

 

 先生は黙って聞く。

 

「私が強いから、平気なわけじゃない。平気じゃないから、忘れないようにしている。斬った相手が、敵ではなく、生徒だったことを」

 

 その言葉は、静かだった。

 責める響きはない。慰める響きもない。ただ、ヒナが自分の中で何度も確かめてきたことを、先生に渡しているようだった。

 先生は、実験区画に並んだ布を思い出す。

 

「私は、責任を背負うと言った」

「はい」

「でも、それで君たちの痛みが消えるわけじゃない」

 

 ヒナは頷いた。

 

「先生がいてくれることは、意味があるわ。判断を一人で抱え込まなくていいと思えるだけでも、違う」

 

 彼女はそこで少しだけ間を置いた。

 

「でも、それでも、斬るのは私たち。それを選ぶのも」

 

 先生は拳を握る。

 その通りだった。

 大人として責任を背負うと言っても、引き金を引く手、刃を振るう手、目の前の命が止まる瞬間を見る目は、生徒のものだった。先生はそこを代わることができない。

 

「全部を代わることはできないんだね」

「ええ」

 

 ヒナは先生を見る。

 

「だから、見ていて。止めると決めたなら、その後も。斬った相手がどう扱われるのか、残った子たちがどう記録されるのか、私たちが何を背負ったのか。そこから目を逸らさないで」

 

 先生は、ゆっくり頷いた。

 

「……分かったよ」

 

 ヒナは小さく息を吐いた。

 

「それなら、私は動けるから」

 

 先生はその言葉を、すぐには返せなかった。

 彼女たちは平気だから動けるのではない。強いから傷つかないのでもない。傷ついたまま、それでも動いている。

 そのことを、先生は忘れてはいけないと思った。

 しばらくして、ハスミが近づいてきた。

 

「先生。トリニティ側への第一報を送ります。ヒフミさんの保護と、薬物関連の危険、学園を問わない警戒の必要性に絞っています」

「ありがとう。お願い」

 

 ハスミは頷き、ヒナにも視線を向ける。

 

「ゲヘナ側とも、必要な範囲で情報を擦り合わせます。被害が広がる前に、各学園が備える必要があります」

 

 ヒナは静かに頷いた。

 

「ええ、お願い」

 

 少し離れた場所では、ツルギがまだ無言で警戒を続けている。戦闘は終わっているのに、彼女は最後の搬送が終わるまで持ち場を離れなかった。先生には、それが彼女なりの弔いにも見えた。

 

 

 

 

 

 

 基地の制圧は、昼前に完了した。

 押収した資料はシャーレ、アビドス、ゲヘナ、トリニティで分担して保全された。危険物は封印され、遺体は身元確認のために慎重に搬送される。カイザーPMC理事の逃走経路は途中で途切れ、原試料と中核データの移送先はまだ分からないままだった。

 

 先生は最後に、実験区画を振り返った。

 もぬけの殻になった場所。

 使い終わった場所。

 そこに残されていたのは、空のケースと、消し損ねた記録と、名前を奪われかけた生徒たちだった。

 ホシノが隣に立つ。

 

「先生。今回は、ありがとう」

「まだ終わっていないよ」

「分かってる」

 

 ホシノは少しだけ笑った。

 

「それでも、ここまで来てくれたことには、ありがとうって言わせて」

 

 先生はホシノを見る。

 そして、小さく頷いた。

 

「どういたしまして」

 

 

 

 

 

 

 その日の夜、ヒナはゲヘナの医療棟にいた。

 

 廊下の灯りは落とされ、窓の外には夜の学園が広がっている。昼間の基地とは違い、ここには消毒液の匂いと、規則正しく動く医療機器の音があった。

 ヒナは病室の扉を静かに開ける。

 

 ベッドの上で、黒原イトは眠っていた。

 黒い翼は以前よりも大きくなっている。指先は鳥の爪のように硬く、関節の角度も普通の生徒のものから少しずつ離れていた。眠っている顔だけが、かろうじてヒナの知るイトのまま残っている。

 ヒナは椅子に座り、布に包んだ金剛星刀を膝の上に置いた。

 

「まだ、終わってない」

 

 小さな声だった。

 イトは答えない。

 ヒナは、今日見たものを思い出す。

 

「でも、先生が来た」

 

 ヒナはイトの手に触れる。

 硬くなりかけた指先を、壊さないようにそっと包んだ。

 

「だから、今度は……少しだけ、違うかもしれない」

 

 医療機器の音が、静かに続いている。

 ヒナはしばらく、その手を離さなかった。

 

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