ゲヘナ風紀委員会本部の窓から、夕方の光が差し込んでいた。
机の上には、エデン条約に関する警備資料が積まれている。古聖堂周辺の地図、当日の移動経路、ゲヘナ側参加者の一覧、トリニティ側との共有範囲、万魔殿から送られてきた式典参加予定者の名簿。資料の角はきちんと揃えられていたが、内容はどれも揃っていなかった。
トリニティ側から渡された情報は、必要最低限に近い。条約締結の場における警備責任は、基本的にトリニティ側が持つ。ゲヘナ側は代表者の移動と、周辺での最低限の警戒に留める。そういう形で整理されていた。
ヒナは資料を一枚めくり、目を細めた。
「先生は、まだトリニティに?」
横に立っていたアコが、手元の端末を確認する。
「はい。現在の予定では、先生は補習授業部の顧問としてトリニティに出張中です」
「補習授業部……?」
「トリニティの成績不良者を集めた部活動のことです。先生はそこの顧問として、補習と試験対策に関わっているようです」
ヒナは資料から顔を上げた。
「このタイミングで、トリニティに」
「大方、私たちに先手を取られたと思い込んだ一部の暴走でしょう。くだらない話です」
アコの声には、隠しきれない苛立ちがあった。
ゲヘナとトリニティは、エデン条約を締結しようとしている。表向きには、両校の対立を終わらせるための式典だった。だが、その準備の段階でさえ、互いの警戒は薄れていない。情報を渡しすぎれば不利になる。相手に主導権を握らせれば、条約後の立場に影響する。そんな計算が、資料の余白にまで染みついているようだった。
ヒナは静かに息を吐いた。
「まあ、向こう側のことを考えれば理解できなくはないけど」
「それは、そうですが」
「補習授業部のメンバーを確認したいわ」
「はい」
アコは端末を操作し、資料を表示する。
ヒナはそこに並ぶ名前を、ひとつずつ声に出した。
「阿慈谷ヒフミ。白洲アズサ。浦和ハナコ。下江コハル」
読み上げたあと、ヒナはしばらく黙った。
アコが眉をひそめる。
「何か気になることでも?」
「全員、というわけではないけど、情報部の方で動きを追っているメンバーが集められているのよ」
アコの表情が変わった。
ヒナは端末の画面に目を落としたまま続ける。
「阿慈谷ヒフミは、常習的なブラックマーケットへの出入りが確認されている。白洲アズサは経歴が不透明。浦和ハナコは、一時期はティーパーティー入りも噂されていたのに、突如として奇行に走り出した」
「下江コハルは?」
「正義実現委員会への牽制かしら」
アコは小さく息を呑んだ。
正義実現委員会。トリニティの中でも、比較的ゲヘナとの現実的な協力関係を築ける組織だった。剣先ツルギと羽川ハスミ。その二人を中心にした武力組織は、ゲヘナに対して敵意を持つ生徒ばかりではない。むしろ、今の状況では親ゲヘナ派の最大組織と言ってもよかった。
「……そうですね。今の正義実現委員会は、親ゲヘナ派の最大組織と言っても差し支えありません」
アコの声が低くなる。
「誰が飼い主であるか、という警告でしょう」
ヒナは否定しなかった。
補習授業部が、本当に成績不良者を集めただけの部活動なら、それでいい。だが、そこに偶然と言うには整いすぎた顔ぶれが並び、先生が顧問として置かれている。トリニティ側が何を警戒し、何を囲い込もうとしているのか。今の情報だけで断定はできないが、何もないとは思えなかった。
アコは額に手を当てる。
「ほんっとに、こんなことに気を揉ませないでほしいものです」
その時、廊下のスピーカーから音が鳴った。
『空崎ヒナ。至急、生徒会室まで来い。繰り返す。空崎ヒナ。至急、生徒会室まで来い』
声の主はマコトだった。
いつものように、必要以上に大きく、必要以上に偉そうで、必要以上にこちらの仕事を増やす声だった。
アコの表情が固まる。
「……ほんっとに、気を揉ませないでほしいものです」
ヒナは資料を閉じた。
「生徒会室に行くわ。何かあったら連絡を頂戴」
廊下は静かだった。普段なら、どこかで違反者を連行する声や、報告に走る風紀委員の足音が聞こえる。だが、その日は空気が妙に薄かった。エデン条約を明日に控え、風紀委員の多くが外部警備と待機任務に回っている。ゲヘナ全体が、何かを待つように息を潜めていた。
生徒会室の前に着いたが、扉の向こうに感じる気配が一つしかない。
マコトが奥にいるのだとしたら、イロハも、イブキも、サツキもチアキもいないことになる。
「入るわ」
返事を待たずに扉を開ける。
広い生徒会室の奥、椅子に座っていたのはマコトだけだった。彼女はいつものように玉座めいた椅子に腰掛けていたが、周囲に誰もいないせいで、その姿は普段よりも不自然に見えた。
ヒナは扉を閉める。
「……超人に関する話?」
マコトの口元がわずかに歪んだ。
「当たらずとも遠からず、といったところだな」
「それで、人払いをしたの」
「貴様相手に余計な前置きはいらんだろう」
マコトは肘掛けに手を置き、ヒナを見た。
「先日、アリウスという組織から接触を受けた」
「アリウス?」
「トリニティが現在の三頭体制になる前に存在していた分派の一つだ。今では表の記録からはほとんど消えているがな」
ヒナは眉を寄せた。
「……第一回公会議は、もう随分前の話になったと思うのだけれど。今になってどうして」
「詳しくは知らん。様子からして、復讐の類だろう」
マコトは軽く言った。
ヒナは少し考える。
「このエデン条約を機に、両校へ損害を与える。あわよくば、互いに戦争を始めてほしい。そういうところかしら」
「さすがだな。概ね合っている」
「その作戦の中で、超人が使用されるということ?」
「その通りだ」
マコトはそこで、初めて不快そうに目を細めた。
「ただの銃火器を振り回しての戦闘であれば、貴様の顔に泥を塗れることを期待したが、あれは駄目だな」
ヒナは黙っていた。
マコトが普段から風紀委員会を嫌い、ヒナを嫌っていることは、ゲヘナの誰もが知っている。だからこそ、アリウスは接触したのだろう。ヒナを妨害したい、ゲヘナとトリニティの条約を壊したい。そういう話なら、マコトが乗る可能性があると見た。
だが、マコトの中にも、超えてはならない線がある。
ロカ。
超人。
シェマタ。
それらが再び表に出るなら、話は別だった。
「それで、私たちで情報を共有して対策を行おうというわけね」
「いや、まったくだ」
ヒナは一瞬、マコトの言葉の意味を測りかねた。
「……どういうことかしら」
マコトは鼻で笑った。
「考えてもみろ。超人などというものは千差万別だ。能力の規模、破壊能力、発現する性質、何を取ってもピンからキリまで存在している。そんな奴らへの対策を、事前に綿密に考える? 馬鹿馬鹿しい」
ヒナは少しだけ目を伏せた。
「それもそうね」
「もしロカに匹敵する超人が現れたのなら、その者の一撃によって会場である古聖堂は焼け野原になるだろう。陣形を少し変えた程度の対策に意味はない」
マコトの声は冷えていた。
ヒナは、その言葉を否定できなかった。ロカという生徒が何をしたのか、ゲヘナは知っている。シェマタが何をもたらしたのか覚えている。超人に対する警備計画など、結局は「出ないことを祈る」ものに近い。
マコトはヒナを見据えた。
「この話を貴様にした理由は一つだ。イブキたちを、貴様らのところで匿ってほしい」
ヒナは目を細める。
「彼女たちを?」
「ああ。私はこれからも、奴らと接触を続ける。その中で後顧の憂いを断っておきたい」
「……随分、信用されているのね」
マコトの顔が露骨に歪んだ。
「業腹だが、このキヴォトスにおいて、貴様以上の逸材はほとんど存在しない。転じて、貴様の傍が最も安全というわけだ」
「理解したわ。彼女たちは風紀委員会本部で預かる」
「感謝する」
その言葉は短かった。
普段のマコトなら、礼を言うにも余計な飾りをつけただろう。だが、この時の彼女はそうしなかった。ヒナはそのことに、事態の重さを改めて感じた。
「話を戻すのだけれど」
ヒナは言った。
「トリニティ、少なくとも先生にはこの話をしてもいいと思うの。いくら対策の打ちようがないといえど、協力者が多いに越したことはない」
「残念だが、それは叶わない」
「……なぜ?」
「まずトリニティ。この情報の出所があまりにも怪しいからだ」
マコトは椅子の肘掛けを指で叩いた。
「普段貴様に対して敵対的な態度を取っている存在が、アリウスなどという組織に共にエデン条約を破壊しようと接触され、奴らの作戦に超人が登場するからそれは駄目だと貴様に情報を流した。旧生徒会に所属していた私が、だ。どこを信用できるというのだ」
ヒナは黙った。
言われてみれば、その通りだった。
マコトはイツキの指示のもと、旧生徒会でのスパイ活動を行っていた。それに対する報酬として、イツキは生徒会長の座をマコトに用意していた。
ウキウキの気分でその座に就いたマコトへの風当たりは、意に反して厳しいものであった。生徒会という曰く付きの組織、スパイ活動という経歴。
ゲヘナの内部ですら、マコトの言葉を全面的に信じる者は多くない。まして、トリニティにとってマコトは、信用できる情報源ではない。条約前にそんな情報を渡せば、罠か挑発だと受け取られる可能性が高い。
「……それは、そうね」
「分かったか」
「でも、先生なら」
「先生個人なら、何も問題はないのかもしれんな」
マコトはそこで、笑みを深めた。
「先生は今、トリニティにいる。この意味が分かるか?」
ヒナはマコトを見る。
すぐには答えが出なかった。
「今一つ、理解ができないわ」
「キキキキ」
マコトは愉快そうに笑った。
「私が貴様の上を行くとは、こうも気分がいいものだな」
「早く言って」
「アリウスは私に声をかけた。ならば、トリニティにも接触していて何ら不思議ではあるまい」
ヒナの表情がわずかに変わる。
マコトは続けた。
「奴らが私と協力することで、どのような恩恵を受けられる?」
「物資、あとは……情報」
ヒナの声がそこで止まった。
マコトの笑みが深くなる。
「ようやく理解できたようだなぁ」
その声には、普段の芝居がかった調子が戻っていた。だが、内容は笑い事ではなかった。
「奴らが行動を起こす時、最も厄介なのは貴様の存在だ。貴様一人が戦場に赴くだけで、戦局など簡単にひっくり返る」
マコトは指を立てる。
「それはトリニティにも言えること。ましてや、エデン条約締結会場はトリニティの土地で行われる。剣先ツルギの動向と、正義実現委員会の配置。これらは必ず押さえておきたい要素だ」
ヒナの頭の中で、先ほど見た補習授業部の名簿が浮かぶ。
阿慈谷ヒフミ。
白洲アズサ。
浦和ハナコ。
下江コハル。
先生は今、その中心にいる。
「トリニティも、裏切者の存在には気づいたのだろうな」
マコトが言った。
ヒナは小さく呟く。
「そのための補習授業部……」
「断定はできん。だが、先生の周囲には、トリニティが囲い込んだ不審要素が集まっている。もし、そこにアリウスへ通じる者がいたらどうなる?」
ヒナは答えなかった。
先生に情報を渡す。
先生は善意で動く。
だが、その周囲から情報が漏れる。
アリウスに、マコトが情報を流したことが知られる。
ゲヘナ側が警戒していることも知られる。
ヒナの配置を変えたことも、ツルギの動向を探られていることも、すべて相手の次の手を呼ぶ材料になる。
「今は、先生に情報を流すことそのものがリスクだ」
マコトは言った。
「残念だが、我々の中で対応を行うしかあるまい」
ヒナは目を伏せた。
先生なら信じられる。
だが、先生がいる場所までは信じられない。
その事実は、ヒナにとって重かった。
「……理解したわ」
「話は以上だ」
マコトは手を振った。
「もう帰っていい」
「受け入れの体制を作っておくわ。完成次第、連絡する」
「ああ。早くしろ」
生徒会室を出ると、廊下の空気が少し冷たく感じられた。
ヒナは端末を取り出し、アコへ連絡を入れる。
「アコ。万魔殿のイロハ、イブキ、サツキ、チアキを風紀委員会本部で預かる準備をして」
『委員長? 何があったのですか』
「詳細は戻ってから話すわ。今は受け入れを優先して」
『承知しました』
ヒナは窓の外を見た。
遠くの空は、夕焼けで赤く染まっている。明日、あの空の下でエデン条約が結ばれる。ゲヘナとトリニティが手を結ぶための式典。その場所に、ロカの遺したものが戻ってくるかもしれない。
「あと、当日の配置を見直す必要があるわ」
通信の向こうで、アコが息を呑む気配がした。
ヒナは歩き出す。
先生に連絡することはできない。
トリニティにも、まだ話せない。
それでも、動かなければならない。
明日の式典に何が起きるのか、正確には分からない。だが、何も起きないと考えるには、あまりにも多くの線が一つの場所へ向かっていた。
ロカ。
超人。
シェマタ。
アリウス。
エデン条約。
ヒナは端末を握る手に、少しだけ力を込めた。
その名前のどれも、もう誰かの青春を壊す理由にはさせない。
廊下の先で、風紀委員たちが慌ただしく動き始めている。
エデン条約前夜。
ゲヘナは、静かに戦いの準備へ入っていた。