エデン条約締結の日、トリニティの空は晴れていた。
古聖堂へ向かう車の中で、ヒナは窓の外を見ていた。隣にはアコが座り、膝の上に置いた端末で警備配置の最終確認をしている。運転席には風紀委員会の一年生が座っていた。緊張しているのか、ハンドルを握る手に少し力が入りすぎている。
「もう少し肩の力を抜いて」
ヒナが言うと、運転席の生徒が小さく肩を揺らした。
「は、はい。すみません、委員長」
「謝らなくていいわ。安全運転でお願い」
「はい」
車内に短い沈黙が戻る。
アコは端末の画面を切り替えながら、険しい顔をしていた。風紀委員会本部には、マコト以外の万魔殿メンバーを預けてある。イロハ、イブキ、サツキ、チアキ。それぞれに護衛をつけ、アビドス側から来ている生徒会メンバーとも連絡を取れるようにした。
できる限りの準備はした。
だが、できる限りの準備で足りる相手ではないことも、ヒナは分かっていた。
窓の外の光が、不意に暗くなる。
ヒナは顔を上げた。
車の上を、巨大な影が通り過ぎていく。見上げると、空にはゲヘナの紋章を掲げた飛行船が浮かんでいた。派手な外装、過剰な装飾、式典に向かう代表者を見せつけるためのような航路。
マコトの乗る飛行船だった。
アコが窓の外を見て、露骨に顔をしかめる。
「一体あれにいくら予算をつぎ込んだのですか」
「マコトらしいわね」
「らしい、で済ませてよい規模ではありません。あれだけの飛行船を条約式典のためだけに動かすなど、予算審査をどう通したのか問い詰めたいところです」
「権威示威だけではないと思う」
ヒナは飛行船の進む先を見た。
マコトはゲヘナの表の代表として古聖堂へ向かう。ヒナは実戦の備えとして周辺警備に回る。二人が同じ経路を取らないのは、アリウスが何かを仕掛けてきた時、一度に両方を潰されないためだった。
飛行船は目立つ。
目立つからこそ、囮にもなる。
アコもそれを理解しているようだった。端末に目を戻しながら、短く息を吐く。
「分かっています。分かってはいますが、それでも腹立たしいものは腹立たしいのです」
ヒナは何も言わなかった。
飛行船が古聖堂へ近づいていく。
その時だった。
空の遠くに、細い光が走った。
ヒナが動くより早く、その光は飛行船へ向かって一直線に伸びる。次の瞬間、飛行船の側面で爆発が起こった。
車内に衝撃音が届く。
運転席の一年生が息を呑んだ。
「委員長!」
「車を止めて」
ヒナはドアを開け、走行中の車から外へ飛び出した。
空中で体勢を変え、翼のように外套を翻す。飛行船は傾き、装甲の一部を燃やしながら高度を落としていた。外壁が割れ、その隙間から人影が投げ出される。
マコトだった。
ヒナは地面を蹴り、落下地点へ向かって飛ぶ。爆風で舞い上がった破片が視界を横切る。飛行船の一部が崩れ、黒煙が空へ伸びていく。
ヒナは落下するマコトの腕を掴んだ。
「無事?」
「貴様に助けられるとは、不愉快極まりないな」
マコトは顔をしかめながらも、意識を保っていた。服は焦げ、額に浅い傷がある。それでも口調だけはいつも通りだった。
「この高度なら死なないわけではないわ」
「ならば今すぐ私を投げ捨てろ。この程度の高さで死ぬほど柔ではない」
「何を言っているの」
「次に備えろと言っている」
マコトの声が低くなった。
「今の一射で終わるはずがない。奴らが私だけを狙うなら、それで済む。だが、あれが本命だと思うか?」
ヒナはマコトを抱えたまま、空を見る。
金剛星刀から、微弱な電流のような感覚が伝わっていた。刃そのものが何かに反応している。肌の内側を細い針で撫でられるような、嫌な感覚だった。
砲撃。
アビドスで押収された設計断片。
ロカの遺したもの。
シェマタ。
ヒナは判断する。
「シェマタ、新しく造られていたのね……」
「やはりか」
マコトが歯を噛む。
「私を地面に落とせ、ヒナ。貴様は次を斬れ」
ヒナは高度を落とし、マコトを古聖堂から少し離れた屋根の上へ投げるように降ろした。投げ捨てるほど乱暴ではなかったが、丁寧でもなかった。
マコトは屋根を転がりながらも、すぐに体勢を立て直す。
「行け!」
その声と同時に、第二射が来た。
今度はヒナにも軌道が見えた。遠方から放たれた砲撃が、空気を裂いて古聖堂へ向かっている。通常の砲弾ではない。弾頭の周囲に、神秘を帯びた歪みがまとわりついている。
ヒナは金剛星刀を抜いた。
黒い刃が、光を吸うように空へ伸びる。
砲撃が迫る。
ヒナは空中で踏み込み、刃を振るった。
金剛星刀が弾頭に触れた瞬間、空が割れるような音がした。弾頭にまとわりついていた神秘が削ぎ落とされ、砲撃そのものが空中で崩れていく。光がほどけ、圧縮されていた力が消え、弾頭は黒い粒のようになって風へ散った。
迎撃は成功した。
だが、衝撃までは消えなかった。
空中には踏ん張る足場がない。ヒナの身体は、爆発的な反動に押され、古聖堂から大きく弾き飛ばされた。視界が回り、地上の建物が遠ざかる。
ヒナは空中で体勢を立て直す。
戻らなければならない。
そう思った直後、古聖堂の上空に別の影が差した。
ヒナの目が見開かれる。
シェマタの砲撃ではない。弾道が違う。速度も高度も違う。空を高く渡ってきた弾頭が、古聖堂へ向かって落ちていく。
弾道ミサイル。
ヒナは歯を噛んだ。
シェマタは本命ではなかった。
ヒナを古聖堂から引き剥がすための一手。
飛行船を落とし、第二射を迎撃させ、その反動で最大戦力を会場から遠ざける。
その隙に、本命を通す。
ヒナは加速した。
しかし、距離があった。
ミサイルが古聖堂へ落ちる。
光が膨れ上がった。
爆音が遅れて届く。古聖堂の壁が崩れ、屋根が吹き飛び、白い石材が粉砕されて空へ舞う。会場を包んでいた式典の静けさは、一瞬で破壊された。
ヒナは胸の奥に、鋭い悔しさが走るのを感じた。
一手、遅れた。
その言葉が頭に浮かび、すぐに捨てた。
悔しがっている時間はない。失敗を数えるより先に、今そこにいる生徒を守らなければならない。
ヒナは古聖堂へ向かって飛んだ。
第三射が来る可能性はある。もしシェマタレプリカが連射できるなら、今の状況では対応しきれない。迎撃のたびに位置を崩されれば、古聖堂はさらに壊される。ミサイルとの組み合わせを続けられれば、ゲヘナもトリニティも全滅に近い被害を受けるだろう。
だが、その対策を今考えても間に合わない。
今できることは、古聖堂へ戻ることだけだった。
古聖堂は、すでに式典会場ではなくなっていた。
石壁は大きく崩れ、床には瓦礫と破片が散乱している。ゲヘナの生徒も、トリニティの生徒も、混乱の中で倒れ、逃げ、互いに誰が味方なのか分からないまま声を上げていた。警備の陣形は崩れ、式典用の誘導路は瓦礫で塞がれている。
ヒナは着地と同時に、近くにいた生徒へ駆け寄った。
「動ける?」
「は、はい……!」
「負傷者を連れて、壁際へ。上から落ちてくる破片に注意して」
生徒が頷いて走る。
ヒナは端末を取り出し、アコへ通信を繋いだ。
「アコ、聞こえる?」
返答はなかった。
代わりに、耳障りなノイズが入る。
「アコ」
もう一度呼ぶ。
砂を噛むような音だけが返ってきた。
ヒナは眉をひそめる。
通常の妨害電波ではない。音の奥に、神経を撫でるような濁りがある。以前、コールの影響を受けた時の感覚に似ていた。通信機器だけではなく、人の認識や神秘にまで触れてくるような干渉。
その直後、古聖堂の外縁から、足音が聞こえた。
同じリズムで、いくつも。
崩れた門の向こうから、ガスマスクをかぶった集団が現れる。黒ずんだ装備、見慣れない紋章、規則正しい足取り。彼女たちは瓦礫の上に並び、一斉に手元のアンプルを打ち込む。
ヒナの目が細くなる。
「やめなさい」
声は届いたはずだった。
だが、ガスマスクの集団は動きを止めなかった。
彼女たちは同じ言葉を口にした。
「完全獣化」
直後、悲鳴が上がった。
それは苦痛の声であり、歓喜の声にも聞こえた。身体が膨れ、骨格が歪み、背中から異形の突起が伸びる。ヘイローが濁り、ある者は獣のように四肢を変え、ある者は人の形を保ったまま異常な力をまとった。
成功した者は超人に。
失敗した者は獣に。
古聖堂の中に、黒い波が流れ込んだ。
トリニティの警備生徒が射撃する。ゲヘナの生徒も応戦する。だが、状況を理解する前に、獣が前線へ食い込んだ。瓦礫の影から別の獣が飛び出し、超人化した生徒が壁を蹴って上から襲いかかる。
悲鳴が増える。
ヒナは走った。
獣がトリニティの生徒へ爪を振り下ろそうとしている。ヒナは横から割り込み、爪を撃ち抜き、続けて体を蹴り飛ばした。背後から別の超人が突っ込んでくる。ヒナは身をひねり、銃撃で軌道を逸らし、瓦礫へ叩きつける。
殺さない。
そう決めた瞬間に、動きは遅くなる。
だが、殺せば終わる相手でもない。
獣化した生徒たちは、まだ生徒だった。超人化した者たちも、薬に使われている。止めなければならないが、斬ればいいという相手ではない。
金剛星刀に手が伸びる。
ヒナは一瞬だけ迷い、手を止めた。
あの刃は強すぎる。アビドスで獣を止めた時とは違う。今ここには、まだ助かるかもしれない生徒が大量にいる。金剛星刀で斬れば、何が残るのか分からない。
ヒナは銃を構え直した。
「近くの生徒は下がって! 負傷者を中央に集めないで、崩れていない壁沿いに逃がして!」
声を張る。
聞こえた者だけが動く。聞こえない者は混乱の中で立ち尽くす。トリニティとゲヘナの生徒たちは互いに距離を取り、どちらの指示に従えばいいのか分からないまま、獣に押し込まれていく。
通信は使えない。
アコとも繋がらない。
先生もここにはいない。
トリニティ側との連携も取れない。
ヒナは目の前の生徒を助けるしかなかった。
瓦礫の下敷きになりかけたゲヘナ生を引き上げる。獣に追われるトリニティ生の前に立つ。暴走した超人の拳を受け流し、床へ叩きつける。崩れた柱の下から助けを求める声が聞こえれば、そちらへ向かう。
守るたび、別の場所が崩れた。
獣の数が多すぎる。
超人化した生徒の能力が読めない。
通信妨害のせいで戦場全体が見えない。
ヒナは息を整えながら、次の一体へ銃口を向ける。
その時、瓦礫の上から鋭い音がした。
狙撃。
反応はした。
だが、完全には避けきれなかった。弾丸が肩を掠め、ヒナの体勢がわずかに崩れる。痛みより先に、次の獣の気配が迫った。
ヒナは地面を蹴ろうとした。
足元の瓦礫が砕ける。
獣が、低い姿勢で飛び込んでくる。鋭く尖ったその爪を、ヒナの喉元へ向けて伸ばしていた。
古聖堂の上を、黒煙が流れていた。