黒原イトの青春   作:蝦蟇

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もう一度

 

 白い。

 

 どこまでも白い場所に、私は倒れていた。

 空もない。地面もない。境目もない。ただ白いだけの空間が続いていて、その中で私は仰向けに横たわっていた。

 

 体が重い。

 腕を動かそうとしても、動かない。指先に力を入れようとしても、指が自分のものではないみたいだった。息をしているのかも分からなかった。胸が上下している感覚はあるのに、空気が入ってくる感じがしない。

 

 痛みだけはあった。

 全身が痛かった。

 体の中から、何かに食い破られているようだった。皮膚の下で熱が膨らみ、骨の隙間から黒いものが染み出して、私の形を内側から押し広げている。痛いのに、痛みの場所が分からない。体の輪郭そのものが、少しずつ壊されているようだった。

 

 羽音が聞こえた。

 顔を動かせないまま、私はその音を聞いていた。

 

 何かが近くにいる。

 それは私の体に嘴を突き立てていた。肉を引き裂き、骨を削り、内側から溢れようとするものを啄んでいる。私は悲鳴を上げようとしたけれど、喉からは音が出なかった。

 

 黒いハゲタカ。

 それが、私を食べていた。

 死体を啄むみたいに、何度も、何度も。

 

 けれど私は死ねなかった。

 食べられても、また内側から黒いものが溢れてくる。穴が開いても、その穴を別の黒い羽が塞いでいく。私は壊れているのに、壊れたまま続いていた。

 

 もう、どれくらいこうしていたのか分からない。

 眠っていたのかもしれない。起きていたのかもしれない。誰かの声が遠くで聞こえた気がした日もあった。手に触れられた気がしたこともあった。泣きそうな声で名前を呼ばれたこともあった。

 

 でも、そのたびに羽音が大きくなった。

 私の中のハゲタカが、全部を覆い隠した。

 

 足音が聞こえた。

 白い空間に、硬い靴音が響く。

 私は顔を向けなかった。向けられなかった。見たところで、何も変わらないと思った。

 けれど、声がした。

 

「少し、彼女を借りたいだけだ」

 

 知らない声だった。

 静かで、落ち着いていて、白い空間にまっすぐ通る声。

 

「君も、本意ではあるまい?」

 

 その声は、私に向けられたものではなかった。

 ハゲタカに向けられていた。

 私の体を啄んでいた嘴が止まる。羽音が少し遠ざかる。重くのしかかっていた影が、わずかに私から離れた。

 

 何が起きたのか分からなかった。

 私はようやく、声の方へ顔を向けた。

 そこに、狐耳の少女が立っていた。

 白い空間の中で、その姿だけがはっきりとしている。金色の髪。静かな目。こちらを見下ろす表情には、驚きとも悲しみともつかないものがあった。

 

「……これが、英雄の姿か」

 

 少女はそう言って、私に手を差し出した。

 

「ついてきてほしい」

 

 私は手を伸ばそうとした。

 けれど、腕が上がらなかった。体のあちこちに穴が開いている。腹も、胸も、肩も、脚も、黒い嘴に食い荒らされたみたいに欠けていた。立つどころか、指を動かすことさえ難しかった。

 

「無理、です」

 

 声が出た。

 ひどく掠れていた。

 

「立てません」

「ここは意識の世界だ。君の気の持ちよう次第で、なんとでもなる」

 

 少女は静かに言った。

 

「立つということを意識したまえ」

 

 立つ。

 

 私はその言葉を頭の中で繰り返した。

 立つということ。

 足に力を入れる。膝を曲げる。体を起こす。地面を踏む。

 そんな当たり前の動きを、ひとつずつ思い出す。体に穴が開いていることは分かっていた。痛みもある。黒いものがまだ内側で蠢いている。それでも、私は立つことだけを考えた。

 

 指が動いた。

 腕が床を押す。

 白い地面に手をついて、私は上半身を起こした。欠けていたはずの脚に力が入り、震えながら膝が立つ。立てるはずがない体で、私は立ち上がった。

 痛みは消えない。

 けれど、立てた。

 

「さあ」

 

 少女が歩き出す。

 

「説明は後だ。ついてきてくれ」

 

 

 

 

 

 

 私はふらつきながら、その後を追った。

 

 ハゲタカは少し離れた場所にいた。こちらを見ている。翼をたたみ、首を傾け、私を待っているようにも見えた。今すぐ飛びかかってくる気配はない。

 

 私は少女の背中だけを見て歩いた。

 最初は白い空間だけだった。

 けれど、歩いているうちに、少しずつ景色が変わっていった。白い床に影が落ちる。壁が生まれる。遠くに建物の輪郭が浮かぶ。見覚えのある黒い校舎、荒れた石畳、風紀委員会の巡回路。

 私は足を止めそうになった。

 

「ゲヘナ……?」

「その通りだ」

 

 少女は振り返らずに答えた。

 

「ここは君の世界だからな」

 

 私の世界。

 その言葉を聞いて、胸の奥が痛んだ。

 ゲヘナが見える。風紀委員会本部がある。いつも通った廊下があり、見慣れた窓がある。けれど、誰の声も聞こえなかった。生徒の足音も、アコちゃんの叱る声も、ヒナちゃんの静かな声もない。

 ただ、建物だけがある。

 私は前を歩く少女に声をかけた。

 

「あの、あなたは?」

 

 少女は立ち止まり、こちらを振り返った。

 

「私は百合園セイアという。よろしく」

「百合園、セイアさん」

「セイアで構わない」

 

 そう言って、彼女はまた歩き出した。

 私はその後についていく。

 

 風紀委員会本部が近づいてきた。

 玄関を抜け、廊下を進む。足音が響く。誰もいないのに、そこには記憶だけが残っていた。資料を抱えて走ったこと。ヒナちゃんに報告したこと。アコちゃんに怒られたこと。カヨコちゃんと情報を整理したこと。

 

 全部、ここにあった。

 私はこの場所に帰りたかったのだと思った。

 

 でも、帰れなかった。

 戻りたいと思うたびに、自分の体が人ではなくなっていくのを感じていた。黒い翼が大きくなり、指が硬くなり、爪が伸びる。内側の神秘が膨らんで、私という形を壊していく。

 

 私は、私のままでは戻れない。

 

 それが怖かった。

 セイアさんは委員長室の前で止まった。

 

「この奥に、君を待っている人がいる」

「私を?」

「ああ」

 

 私は扉を見る。

 委員長室。

 その向こうにいる人。

 

 胸の奥がざわついた。ヒナちゃんかと思った。けれど、違う気もした。ヒナちゃんがここにいるなら、私はもっと怖くなると思った。会いたいのに、会いたくない。今の姿を見られたくない。

 私は手を伸ばし、扉を開けた。

 

 その向こうにいたのは、イツキ先輩だった。

 机の向こうで、彼女はいつものように座っていた。軍刀も、資料も、何もない。ただ、椅子に腰掛けてこちらを見ている。

 私は息を呑んだ。

 

「イツキ、先輩」

「久しぶりというべきか、黒原イト君」

 

 声も、表情も、記憶の中のままだった。

 私は立ち尽くした。

 イツキ先輩は死んだ。ホノカを止めるために戦って、最後に私たちを先へ行かせて、死んだ。もう会えないはずだった。ここにいるはずがなかった。

 

「どうして」

「説明が必要か?」

「必要です」

「セイア君が観測した未来の君に、サイコ・シェアーを置いた」

 

 私は黙った。

 説明されたはずなのに、何も分からなかった。

 イツキ先輩は少しも悪びれなかった。

 

「端的に言えば、私は本物ではない。坂間是イツキの思考をもとにした仮想思念体だ」

「……」

「不服か?」

「分かりません」

 

 私は正直に答えた。

 嬉しいのか、怖いのか、悲しいのか、自分でも分からなかった。会いたかった人が目の前にいる。でも、それが本物ではないと言われる。なら、私は何を感じればいいのか分からなかった。

 イツキ先輩は椅子から立ち上がった。

 

「では、本題に入ろう」

「本題?」

「なぜ目覚めない」

 

 その言葉は、真っ直ぐに私へ突き刺さった。

 私は何も言えなかった。

 

 目覚めない理由。

 目覚められない理由。

 

 ずっと考えていた気がする。ずっと考えないようにしていた気もする。白い空間でハゲタカに食われながら、私は何度も外の声を聞いた。ヒナちゃんの声も、カヨコちゃんの声も、ホシノちゃんの声も。

 聞こえていた。

 でも、戻れなかった。

 

「私が戻ったら」

 

 声が震えた。

 

「また、誰かが死ぬかもしれない」

 

 イツキ先輩は黙っていた。

 セイアさんも何も言わない。

 私は続けた。

 

「自分のせいで、これ以上人が死ぬことに耐えられないんです。ロカを止めた時も、シェマタの時も、私は何かを守りたかっただけなのに、たくさんの人が死んで、壊れて、戻らなくなって」

 

 言葉が喉に詰まる。

 それでも止まらなかった。

 

「戦うのが辛いんです。痛くて、苦しいんです。力を使うたびに、自分の中の何かが大きくなっていく。私じゃないものが、私の中で育っていく」

 

 私は自分の手を見た。

 穴だらけの手。黒い羽が張りついた指。人のものではない爪。

 

「日に日に、自分の中の神秘が大きくなっているのを感じます。私という檻を壊して、溢れ出そうとしているんです」

 

 怖かった。

 いつかロカのようになるのではないかと思った。

 自分の形を保てなくなって、力だけが残って、周りのものを巻き込んで壊してしまうのではないかと思った。

 

「だから」

 

 私は声を絞った。

 

「戻れない」

 

 委員長室は静かだった。

 その静けさの中で、イツキ先輩が言った。

 

「傲るな」

 

 私は顔を上げた。

 イツキ先輩の目は、冷たくはなかった。

 けれど、優しくもなかった。

 

「皆、大なり小なり死ぬ覚悟をもって戦いに臨んでいる。自分のせいだなんてぬかすな」

 

 胸の奥が強く痛んだ。

 

「でも」

「それは君が望んだものの結果だ」

 

 イツキ先輩は遮った。

 

「あの日、その力を手に入れることなく、ただ蹂躙されることが君の望みだったのか」

 

 私は何も言えなかった。

 

 違う。

 そんなことは、望んでいなかった。

 私は守りたかった。ヒナちゃんを守りたかった。誰かが壊されるのを見ているだけではいたくなかった。怖くても、痛くても、手を伸ばしたかった。

 

 だから、力を取った。

 

「君が選んだことだ。なら、その結果まで見ろ」

 

 イツキ先輩の声は容赦がなかった。

 

「誰かが死んだことを、全部自分のせいにするな。それは責任ではない。君以外の者が選んだものまで、君が奪っているだけだ」

 

 私は息を吸えなかった。

 責められているのに、どこかでその言葉を待っていたような気がした。

 私はずっと、自分のせいだと思っていた。そう思えば、まだ耐えられる気がしていた。全部自分が悪いのなら、誰かを恨まなくていい。誰かの選択を考えなくていい。私が悪いと言えば、そこで終わらせられる。

 

 でも、それは終わらせているだけだった。

 見ないようにしていただけだった。

 

「私は」

 

 声が小さくなる。

 

「怖いです」

「知っている」

「痛いです」

「そうだろうな」

「もう、自分が自分じゃなくなるのが嫌です」

「なら、そう言えばいい」

 

 イツキ先輩は言った。

 

「そういうのは仲間に任せてみろ。案外どうとでもなる」

 

 私は目を瞬いた。

 あまりに雑な言い方だった。

 セイアさんが横で眉を寄せる。

 

「イツキ。もう少し言い方というものがあるのではないか」

「僕はロマンチストじゃないのでね」

「それは説明になっていない」

 

 セイアさんの声は静かだったが、少し呆れているようにも聞こえた。

 

 私は二人を見ていた。

 胸の中で固まっていたものが、少しだけ緩んだ気がした。

 

 仲間に任せる。

 

 そんな簡単なことを、私は忘れていたのかもしれない。

 ヒナちゃんがいる。カヨコちゃんがいる。アコちゃんがいる。ホシノちゃんがいる。私が全部を背負わなくても、きっと誰かが手を伸ばしてくれる。

 私は助けを求めてもいいのかもしれない。

 自分が壊れそうだと、言ってもいいのかもしれない。

 

「……もう一度」

 

 私はゆっくり口を開いた。

 

「もう一度、頑張ります」

 

 イツキ先輩は、少しだけ目を細めた。

 

「……それでいい」

 

 セイアさんが私を見る。

 

「外は危機的な状況だ。君の力を必要としている者がいる」

 

 ヒナちゃん。

 その名前が、胸の奥に浮かんだ。

 私は顔を上げる。

 白い空間ではない。風紀委員会本部でもない。もっと遠くから、爆音と悲鳴が聞こえる。誰かが戦っている。誰かが倒れそうになっている。

 

 行かなきゃ。

 

 その言葉が、私の中から出てきた。

 ハゲタカの羽音がした。

 私は振り返る。

 黒いハゲタカは、委員長室の扉の向こうにいた。じっと私を見ている。私を食べていた怪物。私の中で膨らんだ神秘。私を壊そうとしているもの。

 怖かった。

 でも、もう目を逸らせなかった。

 

「行こう」

 

 私は言った。

 ハゲタカが翼を広げる。

 黒い羽が舞った。

 次の瞬間、私の体が崩れるような感覚がした。意識が上へ引っ張られる。委員長室が遠ざかり、セイアさんとイツキ先輩の姿も白い光の中へ薄れていく。

 目覚める。

 そう分かった。

 消えていく世界の中で、セイアさんの声が聞こえた。

 

「別れの言葉もなしか」

 

 イツキ先輩の声が、少しだけ笑ったように返る。

 

「僕はロマンチストじゃないからね」

 

 その声を最後に、世界が割れた。

 白い光の向こうで、私は目を開けた。

 

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