黒原イトの青春   作:蝦蟇

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羽が舞う

 

 ゲヘナの医療棟は、外の騒ぎから切り離されたように静かだった。

 

 窓の外には青空が広がる。遠くでは警備のために移動する風紀委員の車両が見えたが、病室の中に届く音は少ない。医療機器の規則正しい音と、換気装置の低い駆動音だけが、時間の流れを刻んでいた。

 

 ベッドの上で、黒原イトは眠っていた。

 黒い翼は以前よりも大きくなっている。腕は細く、指先は鳥の爪のように硬く変形していた。関節の角度も、普通の生徒のものから少しずつ離れている。それでも、眠っている顔だけは、かろうじてホシノの知るイトのままだった。

 ホシノは椅子に座り、ベッドの横で小さく息を吐いた。

 

「おじさん、また来ちゃったよ」

 

 返事はない。

 イトは目を覚まさない。

 ホシノは慣れた手つきで、備え付けのテレビのリモコンを取った。画面が点き、トリニティで行われているエデン条約締結の中継が映る。古聖堂。整えられた式典会場。ゲヘナとトリニティの代表者たち。画面の向こうには、これから歴史が変わるのだと告げるような厳粛な空気があった。

 

「今日は大事な日なんだってさ」

 

 ホシノは画面を見ながら、眠るイトに話しかける。

 

「ゲヘナとトリニティが仲直りする日、って言えばいいのかな。まあ、そんな簡単な話じゃないんだろうけど」

 

 イトは動かない。

 ホシノは椅子の背にもたれた。

 ゲヘナには、ホシノだけが来ているわけではなかった。アヤネたちアビドス生徒会のメンバーも、風紀委員会本部に入っている。理由は、マコト以外の万魔殿メンバーの護衛と、緊急時の対応だった。エデン条約当日に何かが起きる可能性は、完全には否定できない。

 

 だからこそ、ここにいる。

 だからこそ、ホシノはテレビの中継を見ていた。

 画面の向こうで、古聖堂の鐘が鳴る。

 ホシノは小さく目を細めた。

 

「……あの子は、待ってるよ」

 

 誰に向けた言葉なのか、自分でもはっきりしなかった。

 ヒナのことかもしれない。

 カヨコのことかもしれない。

 それとも、眠り続けるイト自身のことかもしれない。

 

 次の瞬間、画面の中で光が膨れ上がった。

 大爆発。

 古聖堂の映像が乱れ、音声が割れる。白い石材が吹き飛び、黒煙が画面いっぱいに広がった。式典の厳粛な空気は、一瞬で悲鳴と警報に塗り潰される。

 ホシノは立ち上がった。

 同時に、ポケットの中の端末が震える。

 ホシノは端末を取り出し、通話を繋いだ。

 

「アヤネちゃん」

『ホシノ先輩! 中継、見ましたか!?』

「見た。そっちは?」

『風紀委員会本部は無事です。万魔殿の皆さんも保護できています。ただ、古聖堂方面の通信が不安定で、詳細が取れません』

「分かった。おじさんもそっちに――」

 

 言いかけて、ホシノはベッドの方を見た。

 イトは眠っている。

 この子を一人にしていいのか、と一瞬だけ考える。だが、古聖堂では今、誰かが倒れている。ヒナも、カヨコも、先生も、それぞれの場所で動いているはずだった。

 

「ごめんね、もう行かなく――」

 

 言葉は途中で途切れた。

 

 病室の中に、影が立っていた。

 

 ホシノは動かなかった。

 全身が黒い羽根に覆われている。羽根の下から覗く体には、包帯のようなものが巻きつき、輪郭を歪ませていた。腕は四本。顔はない。白くのっぺりとした面のようなものがそこにあり、口だけが裂けるように存在している。

 

 無貌の怪人。

 ホシノは、ゆっくりとベッドを見る。

 そこに眠っているはずのイトはいなかった。

 見覚えのある羽。

 いつかアビドスでシェマタに対応した時に聞いた、イトのもう一つの姿。

 けれど、目の前にいるものは、それよりもずっと人から遠かった。

 

「イ、イトちゃんなの……?」

 

 震える声で尋ねる。

 返答はない。

 怪人は、テレビの画面を見ていた。爆発した古聖堂。崩れた会場。走る生徒たち。黒煙の向こうで、誰かが戦っている。

 口がわずかに動いた。

 

「ヒ……な、きゃ」

 

 それは言葉になりきっていなかった。

 けれど、ホシノには分かった。

 

 行かなきゃ。

 ヒナちゃんのところへ。

 

 ホシノは目を閉じる。

 止めるべきかもしれなかった。今のイトが何なのか、どれほど危険なのか、何も分からない。目覚めたと言っていいのかも分からない。人の形を保っていないその姿は、まるでイト自身が超人の神秘に飲み込まれてしまったようだった。

 

 それでも、ホシノは知っていた。

 

 この子は、困っている人を見逃せない。

 誰かが待っているなら、行ってしまう。

 

「……ああ」

 

 ホシノは小さく息を吐いた。

 

「君はそういう子だったね」

 

 怪人は振り返らなかった。

 窓が開く。

 風が病室へ入り込み、黒い羽根が舞い上がる。

 

「……いってらっしゃい」

 

 次の瞬間、病室に怪人の姿はなかった。

 開け放たれた窓と、舞い落ちる黒い羽根だけが残っていた。

 

 

 

 

 

 

 羽が舞う。

 

 

 

 

 

 

 設計図より建造された、列車砲シェマタの複製。その運用地には、まだ熱が残っていた。

 

 遠方の丘陵に組み上げられた砲撃装置は、古聖堂へ向けて長い砲身を伸ばしている。ロカの遺した設計図をもとに作られた、雷帝戦の残骸。アビドスを焼き、ゲヘナを揺らし、多くの生徒の記憶に傷を残した兵器の影。

 

 次弾装填の警告灯が赤く点滅していた。

 作業員が叫ぶ。アリウスの兵が配置につく。制御盤には、削られたはずのシェマタの名が残っている。

 

 その上空に、黒い羽根が落ちた。

 誰も、最初はそれに気づかなかった。

 砲身の根元に、黒い刀が突き立つ。

 一つではない。

 二つ、三つ、十、百。

 地面から生えるように、空から降るように、大量の黒い刃が砲撃装置を貫いていく。装甲板が裂け、制御線が断たれ、神秘を帯びた機構が黒く崩れる。砲身の奥で凝縮されていた力が、火を噴くことなく消えていった。

 

 列車砲シェマタの複製は、音を立てずに沈黙した。

 

 

 

 

 

 

 羽が舞う。

 

 

 

 

 

 

 古聖堂の一角で、アコは声を張り続けていた。

 

「負傷者を中央に集めないでください! 壁沿いに移動、瓦礫の落下に注意! 第二班は右側の崩落箇所を塞いで、第三班はトリニティ側の避難経路を確保!」

 

 通信はまともに使えない。

 ノイズが混じり、声は途切れ、風紀委員会本部との連絡も不安定だった。それでも、アコは現場の指揮を続けている。近くにいる風紀委員を走らせ、見える範囲の情報だけで部隊を動かし、ゲヘナとトリニティの生徒を区別せず避難させていた。

 

 だが、限界は近かった。

 獣の数が多すぎる。超人化したアリウス生徒は、ひとりひとり能力が違う。通信妨害のせいで戦場全体の把握もできない。ヒナの位置も分からない。

 前線が歪む。

 アコはそれを見た。

 左側の防衛線が破られた。ガスマスクをかぶった獣たちが瓦礫を越え、負傷者の集まる場所へ殺到している。そこにいる風紀委員だけでは止めきれない。

 

「左、下がって!」

 

 叫ぶが、遅い。

 獣が跳ぶ。

 

 その瞬間、黒い刃が降った。

 獣たちの体を、黒い刀が貫いた。

 

 殺すための一撃には見えなかった。刃は肉を裂くのではなく、体の内側にまとわりついていた歪みだけを突き刺すように沈んでいく。濁っていたヘイローが一度大きく揺れ、獣の姿がほどけた。

 異形の体が縮む。

 爪が消え、毛皮が剥がれ、歪んだ骨格が戻っていく。

 そこに倒れていたのは、アリウスの生徒たちだった。

 アコは息を止める。

 黒い羽根が、彼女の足元に落ちた。

 

「……イトさん?」

 

 呟きに応える声はなかった。

 

 

 

 

 

 

 羽が舞う。

 

 

 

 

 

 

 古聖堂の外縁で、カヨコは数人の風紀委員と正義実現委員会の生徒を連れて、救助活動に当たっていた。

 

 瓦礫の下に取り残された生徒を引き出し、崩れかけた柱の影から別の生徒を逃がす。風紀委員と正義実現委員会。普段なら並んで動くことの少ない面々が、今は同じ方向を向いていた。

 

「右から来る」

 

 カヨコが短く言う。

 ハスミが射撃で獣の進路を止める。風紀委員のひとりが負傷者を抱えて下がる。カヨコはその隙に、倒れた生徒を安全な場所へ引きずった。

 だが、連戦の疲労は確実に積み重なっていた。

 

 視界の端で、別の獣が動く。カヨコはそちらへ銃を向けようとした。その瞬間、足から力が抜ける。

 体勢が傾く。

 踏み直すより早く、獣が飛び込んでくる。

 牙が迫る。

 カヨコは避けきれないと判断した。

 

 次の瞬間、獣の体に黒い刃が突き立った。

 ひとつではない。周囲にいた獣たちにも、同時に黒い刀が降り注いでいた。暴れていた体がびくりと止まり、濁った神秘が刃に吸われるように消えていく。

 獣が、生徒の姿へ戻る。

 カヨコは倒れかけた体を支え、目の前の光景を見た。

 黒い羽根が頬をかすめる。

 

「……うそ」

 

 

 

 

 

 

 羽が舞う。

 

 

 

 

 

 

 古聖堂の別の場所で、サオリは銃を構えていた。

 

 銃口の先には先生がいる。

 引き金に指をかける。あとは力を入れるだけだった。戦場は混乱している。獣、超人、銃声、悲鳴。ゲヘナとトリニティの生徒たちは分断され、ヒナも先生のそばにはいない。

 計画は進んでいる。

 そう思った。

 

 だが、次の瞬間、音が消えた。

 完全に消えたわけではない。

 遠くで瓦礫の崩れる音はしている。誰かの叫び声もある。けれど、戦場を埋め尽くしていた獣の咆哮と、超人化した生徒たちの暴走音が、急に薄くなった。

 サオリは目を細める。

 

「……何が起きている」

 

 視界の端に、黒い人影が映った。

 それが生徒なのか、獣なのか、怪物なのか、判断する時間はなかった。

 黒い羽根が舞う。

 次の瞬間、サオリの意識は闇へ沈んだ。

 

 

 

 

 

 

 先生は倒れたサオリと、戦場を横切った黒い影を見ていた。

 それが誰なのか、先生にはすぐには分からなかった。

 ただ、黒い刃に貫かれた獣たちが、生徒の姿へ戻っていくのを見た。

 そして、アビドスで聞いた名前が胸の奥に浮かんだ。

 

 黒原イト。

 

 

 

 

 

 

 羽が舞う。

 

 

 

 

 

 

 カタコンベの奥、アリウスの領地にある神台は、赤い光に包まれていた。

 

 アツコを生贄に捧げるために用意された場所。その中心で、ベアトリーチェは血を湧き出し続ける十字架を握っていた。石の床には赤い流れが広がり、それが細い溝を通って神台へ注ぎ込まれている。

 ロカの遺体から奪われたもの。

 再精製され、歪められ、泉のように血を湧かせるために作り替えられた残骸。

 超人薬を生み出すための核。

 ベアトリーチェはそれを抱き、恍惚とした表情を浮かべていた。

 

「もう少しで、全てが手に入る」

 

 その声に、返事はなかった。

 代わりに、黒い羽根が落ちた。

 ベアトリーチェの表情が変わる。

 

「何者ですか!」

 

 神台の周囲にいた者たちが動く。だが、次の瞬間、黒い刃が空間を貫いた。護衛の体ではなく、神台を流れる血の線を、十字架から溢れる神秘を、歪められた供給源そのものを突き刺していく。

 

「……っ! こんなところで私は!」

 

 十字架が軋む。

 血が逆流する。

 湧き出し続けていた赤が、黒い刃に触れた場所から色を失っていく。

 

「な……どうして!?」

 

 ベアトリーチェは十字架を握りしめる。

 だが、すでに流れは断たれていた。ロカの遺したものは、黒い刃によって殺されていく。超人薬の根にあった歪んだ神秘が、ひとつずつ消えていく。

 

「来るな……来るなぁっ!」

 

 叫びは、すぐに途切れた。

 

 静寂が戻る。

 

 神台には、血の流れを失った十字架だけが残っていた。

 

 

 

 

 

 

 羽が舞う。

 

 

 

 

 

 

 どこでもない場所で、黒服は目を細めていた。

 そこには戦場も、古聖堂も、神台もない。観測するための暗い空間だけがあり、その中心に彼は立っている。見えないはずのものを見て、届かないはずの場所へ視線を向けていた。

 だが、その視界に黒い羽根が落ちる。

 黒服はわずかに口元を緩めた。

 

「……これで終わりとは」

 

 彼の足元に、黒い刃が立った。

 

「惜しいものですね」

 

 黒服はそう言って、目を閉じた。

 

 男は眠る。

 

 

 

 

 

 

 羽が舞う。

 

 

 

 

 

 

 薄暗い部屋に、畳紙メルリと野蛇マヤがいた。

 

 部屋の隅には、破られた紙片と、抜け落ちた蛇の鱗のようなものが散らばっている。二人の体は、もう普通の生徒のものではなかった。メルリの肌には折り目のような硬い線が刻まれ、マヤの瞳は蛇のように細くなっている。

 黒い羽根が、床に落ちた。

 マヤが笑う。

 

「……あんたが迎えって訳?」

 

 返事はない。

 黒い刃が、二人の前に現れる。

 メルリはそれを見て、短く吐き捨てた。

 

「いらん」

 

 マヤが刃を拾う。

 メルリも、別の刃を拾った。

 二人は互いを見る。

 その顔に、反省はなかった。救いを求める表情でもなかった。ただ、幕が下りる瞬間を見ている者の顔だった。

 

「最後まで、私たちは」

 

 メルリの言葉はそこで切れた。

 黒い刃が、互いの胸に突き立つ。

 倒れた二人の上に、黒い羽根が降った。

 

 

 

 

 

 

 羽が舞う。

 

 

 

 

 

 

 ヒナは自身に迫る爪を見ていた。

 

 避ける。受ける。撃つ。斬る。

 選択肢が頭を過ぎるが、どれも少しだけ遅い。

 

 その時、黒い羽根が視界を横切った。

 獣の体に、黒い刃が突き立つ。

 爪がヒナの喉に届く前に止まった。

 周囲で暴れていた獣たちにも、同時に黒い刀が降り注いでいた。刃が突き立った体から、濁った神秘が削ぎ落とされていく。獣の輪郭が崩れ、骨格が戻り、毛皮が消え、そこに倒れるのは元の生徒たちだった。

 ヒナは息を呑んだ。

 黒い怪人が、彼女の前に立っていた。

 人の姿ではない。けれど、その気配をヒナは知っていた。

 

「……イト」

 

 怪人は答えない。

 ヒナの声に反応したように、ほんの少しだけ顔を向ける。そこに目はない。それでも、ヒナにはこちらを見ているのだと分かった。

 ヒナは一歩近づこうとして、足を止めた。

 

 怪人の体から、神秘が溢れている。

 大きすぎる。

 濃すぎる。

 今にも、その体という檻を壊して周囲へ溢れ出しそうだった。

 

 それはロカを思い出させた。

 自分の形を保てなくなった神秘。

 生徒の体に収まらない力。

 

 壊れる前の、最後の静けさ。

 怪人はゆっくりと腕を伸ばした。

 ヒナの手にある金剛星刀に触れる。

 ヒナの指が強張る。

 

「イト」

 

 怪人は何も言わない。

 ただ、ヒナの手ごと金剛星刀を握り、その切っ先を自分へ向けた。

 ヒナは動かなかった。

 分かってしまった。

 息を吸う。

 

「……分かったわ」

 

 金剛星刀の切っ先が、怪人の胸に触れる。

 ヒナは一歩踏み込んだ。

 

 刃が沈む。

 黒い羽根が一斉に舞い上がった。

 怪人の体から、黒い神秘がほどけていく。羽根が剥がれ、四本の腕が崩れ、白い無貌の面が割れて光の中へ消えていく。刃が殺しているのは、命ではなかった。イトを覆っていた超人の神秘。彼女を檻ごと壊そうとしていた力。その根だけを、金剛星刀は静かに断っていく。

 

 ヒナは刃を離さなかった。

 逃げなかった。

 最後まで、見ていた。

 

 羽が舞う。

 

 黒い羽根が落ちていく。

 

 その中に、イトが立っていた。

 翼は消えていた。指先の硬い爪も、歪んだ関節も、ほとんど元の形へ戻っている。完全に何もなかった姿ではない。肩や腕には黒い痕のようなものが残り、疲れ切った体は今にも倒れそうだった。

 それでも、そこにいるのは黒原イトだった。

 イトはゆっくりと目を開けた。

 

「……ヒナちゃん」

 

 ヒナは声を出せなかった。

 イトが笑う。

 弱く、けれど確かに笑っていた。

 

「私もね」

 

 その言葉に、ヒナの目が揺れる。

 イトは、かすれた声で続けた。

 

「ヒナちゃんが大好きだよ」

 

 ヒナは金剛星刀を落としそうになりながら、イトを抱き止めた。

 

 黒い羽根が、古聖堂の瓦礫の上に静かに降っていく。

 遠くで、まだ誰かが泣いていた。

 倒れたままの生徒もいた。

 助かった者も、助からなかった者もいた。

 壊れたものがすべて戻ったわけではない。

 それでも、ヒナの腕の中で、イトは生きていた。

 

 戦場に、ようやく静けさが戻り始めていた。

 




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