襲撃が終わっても、すぐに日常が戻るわけではなかった。
古聖堂は崩れたままだった。白い石壁には黒い焦げ跡が残り、式典のために整えられていた床には、砲撃と戦闘の傷が刻まれている。救護班は何日も現場に残り、ゲヘナとトリニティの双方で、負傷者の確認と搬送が続いた。
助かった者がいた。
助からなかった者もいた。
超人薬によって獣に変わった生徒の中には、黒い刃によって元の姿へ戻れた者がいた。暴走した超人の力を失い、その場に倒れ込んだ者もいた。だが、すべてが戻ったわけではない。変質に体が耐えられなかった者、混乱の中で命を落とした者もいた。
先生は、その名前を一つずつ確認していた。
身元が分からない子には、身元確認中と記された。どの学園の生徒か分からない者も、生徒として扱われた。それはアビドスで決めたことだった。戦場が変わっても、変えてはいけないことだった。
その後処理が一段落した頃、先生は面会室にいた。
向かいに座っているのは、錠前サオリだった。
透明な仕切りの向こうで、サオリは静かに椅子に座っている。拘束具は必要最低限のものだけだった。逃げようとする様子はない。怒りをぶつける様子もない。ただ、視線を落としたまま、何かを考え続けているようだった。
先生はしばらく待った。
最初に口を開いたのは、サオリだった。
「私は、ずっと教えられてきた」
声は掠れていなかった。
だが、乾いていた。
「憎めと。奪えと。生き残るためには、そうするしかないと。私たちはそうやって育った。苦痛も、飢えも、命令も、すべて意味があるのだと教えられてきた」
サオリは自分の手を見る。
「それが、あの黒い刃で一瞬にして断たれた」
先生は何も言わなかった。
「ベアトリーチェが与えたものも、私たちが信じてきたものも、アリウスが積み上げてきた憎しみも、全部、根から切られたように感じた」
サオリの指がわずかに動く。
「なら、私は何だったのだろうな」
その問いは、先生に向けられているようで、そうではないようにも聞こえた。
サオリは戦ってきた。傷つけてきた。命令に従い、先生へ銃を向け、条約を壊そうとした。理由はあった。教えもあった。苦しみもあった。
だが、それが間違っていたと知った時、過去が消えるわけではない。
消えないから、苦しい。
「無くなったわけじゃない」
先生は言った。
サオリが視線を上げる。
「君がしてきたことは、無かったことにはならない。君が受けてきた苦しみも、無かったことにはならない」
「なら、何が残る」
サオリの声は静かだった。
「教えも、目的も、憎しみも断たれた。私が握っていたものは、何も残っていない」
先生は少しだけ間を置いた。
「本当に?」
サオリは答えなかった。
沈黙が落ちる。
その沈黙の中で、サオリの表情がかすかに変わった。何かを思い出したように、目が揺れる。
「……アツコ、ミサキ、ヒヨリ」
小さな声だった。
サオリは、もう一度その名前を口の中で確かめる。
「みんな、居るのか」
「いるよ」
先生は答えた。
「生きている。君を待っている」
サオリは目を閉じた。
それは救いと呼ぶには、あまりにも遅く、あまりにも傷だらけだった。けれど、何も残っていないわけではなかった。彼女の中には、まだ名前が残っていた。
サオリはしばらくして、低く言った。
「私は、償わなければならない」
「うん」
「許されるとは思っていない」
「それでも、生きて償うことはできる」
サオリは先生を見た。
その目には、まだ多くのものが残っていた。罪悪感、喪失、怒り、混乱。だが、空ではなかった。
「……そうか」
彼女はそう呟いた。
「なら、まだ終わっていないのだな」
面会室を出た後、先生はトリニティへ向かった。
特別校舎の一室で、聖園ミカが待っていた。
かつてティーパーティーの一角にいた生徒。多くの生徒に慕われ、同時に大きな罪を背負うことになった生徒。部屋の中でミカは、窓際の椅子に座っていた。
先生が入ると、ミカは顔を上げた。
「先生」
声は明るくしようとしていた。
けれど、その明るさは長く続かなかった。
「来てくれたんだ」
「話をしたかったから」
「そっか」
ミカは少しだけ笑った。
机の上には、処分に関する書類が置かれている。そこに書かれている内容は軽くない。特別監督下での謹慎。一定期間の特別校舎での隔離生活。卒業まで続く奉仕活動と定期面談。政治的権限の停止。ティーパーティー関連業務への関与制限。
本来なら、退学や除籍になってもおかしくなかった。
外部勢力を引き入れ、トリニティに重大な損害を与えた。その事実は消えない。だが、セイアの提言、ナギサの奔走、先生の働きかけ、そして被害を受けた側の一部からの意見によって、ミカはトリニティに残ることになった。
残ることは、許されることと同じではない。
ミカ自身も、それを分かっているようだった。
「不満はないよ」
ミカは書類を見たまま言った。
「むしろ、軽すぎるくらいだと思ってる」
「ミカ」
「だって、私がやったことだから」
声が少しだけ震えた。
「私は知らなかった。アリウスのことも、あの子たちが何を背負ってきたのかも、ちゃんと知ろうとしなかった。知る機会がなかったわけじゃないのに、見ようとしなかった」
先生は黙って聞く。
「セイアちゃんのことも、ナギちゃんのことも、信じきれなかった。友だちなのに。ほかにも道はあったかもしれないのに、私は自分の気持ちだけで動いた」
ミカは自分の胸元に手を置いた。
「これが、私の罪」
その言葉は、飾りではなかった。
誰かに言わされたものでもない。ミカが自分で見つけて、自分で口にした言葉だった。
「私は、ここに残っていいのかな」
ミカが聞く。
先生はすぐには答えなかった。
残っていい、と簡単に言うことはできなかった。彼女の罪で傷ついた者がいる。彼女が残ることを受け入れられない生徒もいるだろう。
それでも、先生は言った。
「残るなら、見続けることになる」
ミカは先生を見る。
「自分が傷つけた場所を。自分が信じられなかった友だちを。アリウスの子たちを。トリニティで、自分を見る目を」
「うん」
「それでも残りたい?」
ミカは少しだけ目を伏せた。
長い沈黙のあと、彼女は頷いた。
「……うん」
その声は小さかったが、確かだった。
「逃げたくない。ちゃんと、見たい。私が何をしたのかも、これから何をできるのかも」
先生は頷いた。
ミカは少しだけ笑った。
以前のような、無邪気で軽い笑みではなかった。それでも、完全に消えてはいなかった。
「見ててね、先生」
「見ているよ」
先生がそう答えると、ミカはゆっくりと息を吐いた。
トリニティを出た先生は、次にアビドスへ向かった。
アビドスの校舎には、以前よりも人の気配が増えていた。廊下には修復の跡が残っている。壁には新しい掲示が貼られ、古い傷の上から塗り直された箇所もある。完全に元通りではない。それでも、学校は動いていた。
生徒会室には、アビドス生徒会のメンバーと、アビドス分校風紀委員会の面々が集まっていた。
ホシノは椅子に座り、いつものように少し眠そうな顔をしている。だが、その机の上には、引き継ぎ資料がきちんと置かれていた。
アヤネはその前に立っている。
「それでは、確認します。会計資料、施設修繕計画、外部連絡先一覧、避難経路の更新記録、風紀委員会との連携表、すべて引き継ぎ済みです」
「アヤネちゃん、真面目だねぇ」
「ホシノ先輩が緩すぎるんです」
「おじさん、ちゃんとやってたよぉ」
ホシノは軽く笑った。
だが、アヤネは泣きそうな顔をしていた。
ホシノが引退する。
アビドス生徒会長は、アヤネへ引き継がれる。
その事実が、ようやく現実になってきたのだろう。
シロコは黙って見守り、セリカは腕を組みながらそわそわしている。ノノミは柔らかく微笑んでいた。
先生が見ている前で、ホシノは立ち上がった。
「じゃあ、アヤネちゃん」
「はい」
「アビドスをよろしくね」
アヤネは背筋を伸ばした。
「精一杯頑張ります!」
その声は少し震えていたが、力強かった。
ホシノは満足そうに頷く。
「うん。いい返事」
その横では、風紀委員会の引き継ぎも行われていた。
カヨコは資料を閉じ、ムツキへ渡す。
「じゃあ、これは任せる」
「えー、カヨコってば本当に引退しちゃうの?」
「するよ」
「つまんないなぁ」
ムツキはそう言いながらも、資料を受け取った。
アルは胸を張っている。
「安心しなさい、カヨコ。あなたが抜けても、私たちアビドス分校風紀委員会は、この陸八魔アルが立派に率いてみせるわ」
「うん。頼んだよ」
カヨコは短く答える。
アルは一瞬だけ拍子抜けした顔をした。
「……そこはもう少し、心配してもいいのよ?」
「心配してほしいの?」
「べ、別にそういう意味ではないわ!」
ムツキがくすりと笑う。
ハルカは両手を握りしめて、真剣な顔で言った。
「わ、私も頑張ります。皆を支えられるように……!」
「くふふ、ありがと、ハルカちゃん」
カヨコはその様子を見て、少しだけ口元を緩めた。
先生には、それが彼女なりの安心に見えた。
アビドスは変わっていく。
失ったものを抱えたまま、次の世代へ進んでいく。
次に先生が向かったのは、ゲヘナだった。
風紀委員会本部では、引き継ぎ式と呼ぶには少し騒がしい時間が流れていた。
ヒナ、イト、アコが並んでいる。
その前に、イオリとチナツが立っていた。
イオリは落ち着きなく視線を動かしている。周囲には風紀委員たちが集まり、期待と不安と興味を隠さずに新しい委員長を見ていた。
ヒナは静かに言う。
「イオリ。これからの風紀委員会をお願い」
「分か……りました」
イオリは少しだけ声を張った。
「分かってるけど……その、急に全員こっちを見るな!」
周囲の風紀委員たちが小さく笑う。
イオリは顔を赤くして、さらに声を上げた。
「あーもう! 全員覚悟してろよ! ヒナ委員長みたいにはいかないかもしれないけど、風紀委員会の名に恥じないように、片っ端から取り締まってやる!」
チナツが隣で穏やかに言った。
「イオリちゃん、その調子」
「チナツまでそういうこと言うな!」
「ですが、気合は大切です。手順と報告を守っていただければ、私は問題ありません」
「それが一番面倒なんだってば!」
アコが額に手を当てる。
「先が思いやられますね」
イトが小さく笑った。
その笑い声に、ヒナがわずかに視線を向ける。
イトはもう、黒い怪人ではなかった。黒い翼も、鳥のように硬くなった指もない。ただし、完全に何も残らなかったわけではない。腕や肩には黒い痕が残り、長時間動くと息が上がる。検査も通院も続く。
それでも、イトは立っていた。
自分の足で。
アコはヒナへ向き直る。
「委員長。本当に、よろしいのですね」
「ええ」
「まだ、あなたが必要だという声は多いです」
「分かっているわ」
ヒナは静かに答えた。
「でも、いつまでも私たちだけが残っていたら、次の子たちが前に出られない」
アコは黙った。
それは、アコ自身にも向けられた言葉だった。ヒナだけではない。イトも、アコも、風紀委員会を離れる。守ってきた場所を、次の世代へ渡す。
簡単なことではない。
だが、必要なことだった。
イトがイオリへ近づく。
「イオリちゃん」
「な、なん……ですか!」
「無理しすぎないでね」
「あなたにだけは言われたくない!」
即答だった。
周囲から笑いが漏れる。
イトは困ったように笑った。
「それもそうかも」
ヒナも、ほんの少しだけ笑った。
その光景を、先生は少し離れたところから見ていた。
ゲヘナも変わっていく。
変わらなければ、戻れない日常がある。
すべての引き継ぎが終わった後、季節は少し進んだ。
修学旅行の日が来た。
行き先は、古い街並みの残る観光地だった。石畳の道、古い建物、土産物屋、資料館、食べ歩きの店。戦場でも会議室でもない。警報も、砲撃も、血の臭いもない場所だった。
イト、ヒナ、カヨコ、アコ、ホシノ。
五人は並んで通りを歩いていた。
アコは旅程表を手に持ち、集合時間と見学予定を確認している。ヒナはその横で、時々イトの歩調を気にしていた。カヨコは少し後ろから周囲を見ていて、ホシノはのんびりと土産物屋の軒先を眺めている。
イトは、先に駆け出していた。
「ホシノちゃーん! ヒナちゃーん! 見てみて!」
声が弾んでいる。
四人が視線を向けると、イトは土産物屋の前で立っていた。手には、新選組と書かれた羽織風の土産物を持っている。安っぽい木刀も一緒だった。
「新選組だって! かっこよくない!?」
イトは嬉しそうに羽織を広げる。
アコの眉がぴくりと動いた。
「イトさん? またあなたはそんな無駄な出費をして。いいですか、今回の修学旅行はですね、限られた予算の中で見学、移動、食事を計画的に行う必要があり――」
「いいねぇ、すっごく似合ってるよぉ」
ホシノがにこにこしながら言った。
「イト、格好いいわ」
ヒナも静かに言う。
アコが二人を振り返った。
「ホシノさんもヒナさんも甘やかさないでください!」
イトは羽織を肩にかけて、嬉しそうにくるりと回った。
「えへへ。ヒナちゃんも着る?」
「私はいいわ」
「似合うと思うけどなぁ」
「イトの方が似合っているわ」
ヒナがそう言うと、イトはまた笑った。
その笑顔に、アコは何か言いかけて、結局ため息をついた。
「……今回だけですからね」
「やった!」
カヨコが近くの売店から戻ってきた。
手には小さな包みを持っている。
「イト」
「なに?」
「これ、そこの売店で買ってきた。食べてみて」
イトは包みを受け取る。中には、焼きたての小さな菓子が入っていた。ひとつ口に入れると、目がぱっと明るくなる。
「うん! ……これ、すっごくおいしいね! もっと買おうよ!」
「食べすぎないで」
「でもおいしいよ?」
「分かった。あとで少しだけ」
「やった!」
カヨコは小さく息を吐く。
「……まったくもう」
ホシノが笑った。
「れっつご~」
「ホシノさんまで……」
アコは旅程表を見直しながら、諦めたように肩を落とした。
道の先には、次の見学場所がある。観光客の声、店先の呼び込み、風に揺れる旗。どれも特別ではない。どこにでもある、普通の修学旅行の景色だった。
イトは少し先まで歩き、振り返った。
「ヒナちゃん!」
ヒナが顔を上げる。
イトは手を伸ばした。
「行こう」
ヒナはそっと手を取った。
「ええ」
イトは笑う。
箱庭の青春は、まだ続いていた。
完結です。
読んで頂き、ありがとうございました。