前半がヒナの話。後半がロカの話です。
いつかの話
人を助けるということは、何も特別なことではない。
転んでいる人に手を差し伸べる。落としたものを拾う。話を聞く。重い荷物を持つ。道を尋ねられたら教える。誰かが困っていると分かった時、少しだけ自分の時間を差し出す。
それは、誰にでもある当たり前の善性だと思っていた。
私は強い。
それは自惚れではない。少なくとも、そういう評価を受けてきた。風紀委員会に入ってから、誰かを止めることも、誰かを守ることも、誰かの代わりに前に立つことも、私は他の生徒より多くできた。
だから、人よりも伸ばせる手の範囲が広い。
倒れている生徒がいれば助ける。争いがあれば止める。銃を向ける生徒がいれば、撃つ前に制圧する。ゲヘナの中では、そういうことが毎日のように起きる。だから私は、そのたびにそこへ向かった。
見返りが欲しいわけではなかった。
感謝されたいわけでも、褒められたいわけでもない。私の周りが、少しでも平和で穏やかであってほしかっただけだ。誰かが泣いているより、笑っている方がいい。誰かが傷ついているより、何もなく帰れる方がいい。そう思っていた。
そう思っているはずだった。
それに鬱陶しさを覚え始めたのは、いつからだったのだろう。
どれだけ撃退しても、不良たちは現れる。昨日止めた生徒が、次の日には別の場所で銃を撃っている。些細な口論で爆発物が投げ込まれ、通行の邪魔だという理由だけで銃口が向けられる。助けたはずの生徒が、次に会った時には別の誰かを脅していることもあった。
助けても、変わらない。
止めても、終わらない。
昨日助けた人が、今日は私に銃を向けてくる。
そのたびに、私は何も感じないふりをした。面倒だと思うことはあっても、怒りに任せることはしない。失望しても、顔には出さない。私が崩れれば、その場で困る生徒が増えるだけだから。
それでも、心のどこかが少しずつ冷えていくのを感じていた。
「ヒナちゃんはさ、凄いっていつも思うんだ」
そう言ったのは、イトだった。
いつだったかは覚えている。風紀委員会の廊下だった。違反者の対応を終えて、本部に戻る途中。私は疲れていて、早く報告書を片付けて横になりたいと考えていた。
そんな私の隣で、イトはいつものように歩いていた。
「困ってる人を見つけたら、すぐ助けに行けるでしょ。あれ、ほんとに凄いよ」
違うの。
私はあなたが思うほど、素晴らしい人間ではない。誰かを助けたいといつも迷いなく思えるわけではない。面倒だと思うこともある。放っておきたいと思うこともある。どうせまた同じことを繰り返すのだろうと、冷めた気持ちになることもある。
あなたみたいに、真っ直ぐではいられない。
「私、ヒナちゃんに出会えてよかった」
イトはそう言って笑った。
まるで、本当にそれだけで世界が少し明るくなるみたいに。
私は返事をしなかった。何かを言えば、余計なものまで出てしまいそうだったから。だから、いつものように短く頷いて、先に歩いた。
私も。
私も、あなたに会えてよかった。
あなたのその善性が。
無償の愛が。
まぶしいと思うこともあった。どうしてそこまで誰かを信じられるのか、どうして傷ついても手を伸ばそうとするのか、理解できない時もあった。その明るさを、少しだけ鬱陶しく思ったこともある。
でも、その温かさが、その輝きが、私をここに留めていた。
誰かを助けることを、嫌いにならずにいられた。
ゲヘナは今日も騒がしい。
廊下の外では風紀委員が走っている。報告書は積まれ、呼び出しは絶えず、違反者は次から次へと現れる。いつも通りの風紀委員会本部。いつも通りのゲヘナ。
ただ、一つだけ足りない。
「イト」
名前を呼ぶ。
返事はない。
白い病室の中で、イトは眠っている。黒い羽根は少しずつ増えていた。指先は硬くなり、関節の形も以前とは違っている。呼吸はある。体温もある。けれど、目は開かない。
私はベッドの横に座る。
何度も来た。何度も名前を呼んだ。何度も手に触れた。けれど、イトは目を覚まさない。
「イト」
もう一度呼ぶ。
あなたがいた頃は、少しうるさいと思う日もあった。廊下で名前を呼ばれて、書類の山から顔を上げるたびに、また何か面倒なことを持ってきたのかと思った。危ないことに首を突っ込んで、怒る準備をしたことも何度もある。
それでも、あなたの声が聞こえると安心した。
あなたが笑っているなら、まだ大丈夫だと思えた。
あなたが誰かを助けたいと言うなら、私はもう一度前に出られた。
だから。
「イト」
帰ってきて。
私はあなたが思うほど、強くない。
あなたが見ていた私は、あなたがいたから立っていられた私だった。
病室の窓の外で、冷たい風が鳴っている。ゲヘナの空はいつも通り薄暗く、遠くで小さな爆発音が聞こえた。いつもの音。いつもの景色。いつもの日常。
けれど、あなたがいない世界は、少し冷たい。
走る。
走る。
走る。
息が切れていた。肺が焼けるように痛い。足元の石畳は濡れていて、踏み込むたびに靴底が滑る。それでも止まれなかった。路地の奥から、銃声が聞こえた気がした。
「ロカ!」
名前を呼ぶ。
返事はない。
「ロカ! どこだ!」
どうして。
どうして、あの子が。
ロカが何の罪を犯したというのか。誰かに殴られなければならないほど、何をしたというのか。撃たれなければならないほど、何を奪ったというのか。
胸の奥で、怒りと恐怖が混ざっていた。
ロカは強い。
それは知っている。私よりずっと強い。普通の生徒なら受け止められない攻撃でも、あの子は笑って立ち上がる。傷もすぐに塞がる。血を流しても、しばらくすれば何事もなかったように私の隣へ戻ってくる。
だから大丈夫だと、そう思おうとした。
でも、嫌な予感は消えなかった。
路地の奥に、赤いものが見えた。
「……ああ」
声が漏れた。
ロカが倒れていた。
私は駆け寄り、その体を抱きしめた。制服は破れ、肌にはいくつもの傷があり、頬には血が流れている。肩口から胸元にかけて、赤が広がっていた。
すぐに治る傷だ。
そう思った。
埋まり、塞がり、あの子はいつものように笑うのだろう。大丈夫だよ、ホノカちゃん、と言うのだろう。少し困ったように笑って、また馬鹿みたいに優しい声で謝るのだろう。
そう思おうとした。
けれど、ロカの体は震えていた。
私の腕の中で、小さく震えていた。
あの子は楽園の資格を持ちえなかった。
楽園。
誰も傷つかない場所。誰も奪われない場所。理不尽な暴力で、笑っていた時間を壊されない場所。
そんなものがどこにもないことを、私は知っていたはずだった。
それでも、ロカには届いてほしくなかった。
当たり前に振るわれる暴力が、あの子の肉を傷つけた。些細な理由で。意味のない苛立ちで。目についたから。弱そうに見えたから。気に入らなかったから。たぶん、それだけだった。
それだけのことで、ロカは血に塗れていた。
「ごめんね」
ロカの声が聞こえた。
私は顔を上げる。
ロカは薄く目を開けていた。呼吸は浅く、唇は血で濡れている。それなのに、彼女は私を見て、申し訳なさそうに笑おうとしていた。
「折角ホノカちゃんにもらったのに、財布」
その言葉で、ようやく私は気づいた。
ロカの手の中に、潰れた財布があった。
私が渡したものだった。たいしたものではない。高価でもない。特別な機能があるわけでもない。ただ、ロカがいつも小銭をそのままポケットに入れてなくすから、見かねて渡しただけの財布だった。
それを、ロカは守ろうとしたのだろう。
奪われそうになって。
抵抗して。
傷つけられて。
「……いいんだ、そんなこと」
声が震えた。
「謝らなくていい」
そんなもの、いくらでも買える。壊れたなら直せばいい。なくしたなら、また渡せばいい。ロカがそんなことで謝る必要なんて、どこにもなかった。
謝るべきなのは、傷つけた側だ。
奪った側だ。
笑いながら暴力を振るった側だ。
憎い。
胸の奥で、その言葉が膨らんだ。
憎い。
喉の奥が焼ける。
憎い。
その日は夕陽が鬱陶しかった。視界の端に入り込む夕陽、伸び続ける影。それらすべてが何か私に不吉なものを予感させるようだった。
「……はは」
小さな笑い声が落ちる。
「ははははは」
夕日の差し込む路地裏。
物言わぬ肉の前で、ロカが笑っていた。
その腕は、銃の形を模していた。指先が硬く変形し、手首から先が銃口のような形へ変わっている。さっきまでロカを傷つけていた者たちは、その腕によって壊されたのだと分かった。
ロカは自分の腕を見ていた。
笑っていた。
でも、それは楽しいから出る笑いではなかった。
「こうすればよかったんだ」
彼女は言った。
「こうすれば」
私は動けなかった。
止めなければいけなかったのかもしれない。抱きしめて、大丈夫だと言うべきだったのかもしれない。そんなことをしてはいけないと叱るべきだったのかもしれない。
でも、できなかった。
私の中にも、同じものがあったから。
壊したいと思ってしまったから。
ロカを傷つけたものを。ロカに謝らせたものを。こんなことが当たり前に起きる世界そのものを。
ロカがこちらに気づき、振り返る。
血に濡れた顔で、彼女は笑っていた。
「ねぇ、ホノカちゃん」
その声は、いつものロカの声だった。
優しくて、どこか幼くて、私の名前を呼ぶ時だけ少し明るくなる、あの声だった。
だからこそ、怖かった。
「壊そう」
ロカは言った。
「全部」
夕日が赤かった。
路地も、壁も、ロカの手も、私の制服も、何もかもが赤く染まっていた。
私は答えなかった。
否定もしなかった。
ただ、ロカの前に立っていた。
その沈黙が、きっと最初の罪だった。