黒原イトの青春 作:ナポリタン
五摂ロカと会ってから、数日が経った。
あの日から、私は何度か夢を見た。正門前。軽く手を上げるロカ。こちらへ向けられる指先。音より先に来る衝撃。弾いたキミカ先輩の腕。抉れた地面。
それから、あの言葉。期待してるよ。嫌な言葉だった。とても嫌な言葉だった。目が覚めるたびに、背中が熱い。羽根が出ていないか確認する。爪が伸びていないか確認する。嘴がないか、口元を触って確認する。
今のところ、ちゃんと人間の形をしている。それだけで少し安心する。
安心するのも、なんだか嫌だった。
「イト」
カヨコちゃんの声がした。顔を上げると、彼女は寮の部屋の扉にもたれていた。いつもの眠たそうな顔。けれど、目はちゃんとこちらを見ている。
「巡回、行くよ」
「巡回?」
「境界付近。人手が足りないんだって」
「私も?」
「そう」
カヨコちゃんは短く答えた。私は自分を指さした。
「私、行っていいの?」
「いいから呼ばれてるんでしょ」
「なるほど」
確かに。風紀委員会本部に呼び出され、変身制御を確認され、身体検査をされ、組み手で床と壁と天井を満遍なく味わった後、私は一応、風紀委員会の活動へ戻ることを許された。
許された。というより、使えるところから使われている。言い方。よくない。でも、たぶん事実だ。
「ヒナちゃんは?」
「別件。アコたちと本部」
「そっか」
少しだけ残念だった。でも、正直に言うと、少しだけ安心もした。ヒナちゃんがいると、私はどうしても自分を強く見せようとしてしまう。大丈夫だよ、と言いたくなる。無茶していないよ、と笑いたくなる。
そして、大体バレる。ヒナちゃんは鋭い。カヨコちゃんも鋭い。私の周り、鋭い人が多すぎる。
「準備して」
「はい」
私は立ち上がった。机の上には、半分残したメロンパンが置いてある。食欲がなかったわけではない。ただ、食べる途中で考え込んでしまって、そのままになっていた。カヨコちゃんがそれを見る。
「食べないの?」
「帰ってきたら食べる」
「硬くなるよ」
「それは困る」
私はメロンパンを手に取って、一口かじった。甘い。ちゃんと甘い。それだけのことに、少しほっとした。
境界付近は、昼間でも薄暗い。西側の整備された通りが、少しずつ荒れていく。壁の落書きが増え、割れた窓が増え、誰が置いたのか分からない廃材が路地の隅に積まれている。
風紀委員会の巡回路から一歩外れるだけで、空気の温度が変わる気がした。ここから先が、東側。生徒会の支配地域。
そう聞いてはいたけれど、実際に立つと、境界線なんてものが地面に引かれているわけではない。ただ、壊れた街並みと、人の気配の薄さと、遠くから聞こえる怒鳴り声が、ここから先は違う場所だと告げていた。
「……思ったより、近いね」
私はぽつりと言葉を零した。
「何が」
「東側」
「地図で見れば近いよ」
「そういう意味じゃなくて」
カヨコちゃんは少しだけこちらを見た。言いたいことは伝わったらしい。西側に住んで、授業を受けて、寮に帰って、ヒナちゃんに怒られて、カヨコちゃんと話していると、東側は遠い場所のように思える。
けれど、実際にはこうして歩いて来られる距離にある。同じゲヘナなのに。同じ学園なのに。
「近いから、厄介なんでしょ」
カヨコちゃんが応じた。
「完全に切り離せるなら、まだ楽だったかもね」
「……そういうもの?」
「そういうもの」
巡回といっても、やることは地味だった。破損した防犯カメラの確認。落書きに混ざった生徒会側の印の記録。怪しい物資の痕跡がないかの確認。境界付近をうろつく生徒への声掛け。戦闘はない。ない方がいい。ない方がいいのに、肩に力が入る。
私は何度も周囲を見回した。
「そんなにキョロキョロしなくても」
「いや、だって」
「蛇はいない」
「分かんないよ。髪から出てくるかもしれないし」
「通行人の髪を全部疑う気?」
「可能なら」
「やめな」
怒られた。しかし、蛇は怖い。正直、鳥の超人としては宿敵感がある。いや、ハゲタカと蛇が自然界でどういう関係なのかはよく知らないけど。とにかく、私は蛇に良い思い出がない。
「イト」
「はい」
「怖いなら、怖いって言いなよ」
私は口を閉じた。カヨコちゃんは前を見たまま歩いている。こちらを見ていない。見ていないけれど、そういう時の方がよく見ている。
「怖くない、とは言ってないよ」
「でも、茶化してる」
「それはまあ、癖というか」
「悪癖」
「手厳しい」
カヨコちゃんはそこで足を止めた。古いアーケードの入り口だった。
あの日。女の子が三人に絡まれていた場所に似ている。いや、似ているというより、たぶん同じ場所だ。私は喉の奥が少し詰まった。
マナカ。ミギ。ヒダリ。名前を覚えてしまった。覚えたくなかったわけではない。でも、覚えた後で、どうすればいいのか分からない。
「ここ、あの日の」
「うん」
カヨコちゃんは短く返した。
「調査は終わってる。今日は確認だけ」
「確認」
「変な残留反応がないか。アンプルの破片とか、血痕とか、そういうもの」
私は足元を見る。あの日砕けた石畳は、簡単に補修されていた。けれど、完全には戻っていない。
色が違う。継ぎ目が残っている。私がマナカを叩き込んだ場所。私が初めて、超人になった場所。ヒナちゃんが傷ついた場所。ミギとヒダリのヘイローが砕けた場所。全部、ここにある。でも、通りはもう何事もなかったみたいに静かだった。
「変だよね」
私は自分でも何を言いたいのか分からないまま、口を開いた。
「ここ、すごく怖かったのに。今見ると、ただの道なんだね」
「道は道だから」
「うん」
「でも、覚えてる人には違う場所に見える」
カヨコちゃんの言葉は静かだった。私は彼女の横顔を見る。
「カヨコちゃんも?」
「私は現場を見てない」
「でも、来てくれた」
「それは別」
「別?」
「イトが変なことしそうだったから」
「信用がない」
「あると思う?」
「ないですね」
自分で言って少し悲しくなった。カヨコちゃんはアーケードの奥へ歩いていく。私はその後を追った。壁のひび、割れた蛍光灯、古いポスター。何もかもがくすんでいる。その中に、黒く焦げたような跡があった。
「これ」
「超人化の痕跡。詳しいことはイツキ先輩たちが調べる」
「マナカの?」
「たぶん」
私はその跡に近づこうとして、途中で足を止めた。触りたくなかった。触ってはいけない気がした。耳の奥が、少しざらつく。声のようなもの。でも、もう誰もいない。
「まだ残ってるのかな」
「何が」
「コール、みたいなの」
「分かるの?」
「少しだけ。気のせいかもしれないけど」
「気のせいで済ませない方がいいと思う」
「ですよね」
私は苦笑しようとして、うまくできなかった。あの日から、私は自分の感覚が信用できない。いや、正確には、信用できるのかもしれない。
だから怖い。見えないものに気づいてしまう。知らなければよかったものが、こちらに触れてくる。
「超人って、何なんだろうね」
気づけば、そんなことを口にしていた。カヨコちゃんはすぐには答えなかった。古い自販機の前まで歩いて、壊れた取り出し口を覗き込む。それから、何もなかったのを確認して、こちらへ戻ってきた。
「私は専門じゃないよ」
「うん」
「でも、ただの力じゃないと思う」
「ただの力じゃない」
「力だけなら、強い生徒は他にもいる。ヒナとか、キミカ先輩とか」
確かに。ヒナちゃんは強い。キミカ先輩も強い。でも、二人を見ても、あの嫌なざらつきはない。血が出ることも、ヘイローが消えることもない。
「超人は、もっと内側のものが出てる感じがする」
「内側」
「願望とか、恐怖とか、そういうの」
イツキ先輩も似たようなことを言っていた。超人化は単なる肉体変化ではない。内面の像、願望、恐怖、記憶。そういったものを材料にしている可能性がある。
私の場合は、ハゲタカ。ヒナちゃんの翼に憧れた記憶。誰よりも高く飛ぶ鳥への憧れ。でも、それだけじゃない。ハゲタカは、死肉を食べる鳥でもある。それを考えると、背中の奥が少し冷える。
「イト」
カヨコちゃんが声を掛ける。
「また変な顔してる」
「私の顔、情報量多すぎない?」
「分かりやすいだけ」
「それはそれで問題だ」
「一人で抱えない方がいいよ」
私は黙った。カヨコちゃんは、こういう言い方をする。優しい言葉を、優しい顔では言わない。だから、こちらも少しだけ受け取りやすい。
「……カヨコちゃんはさ」
「うん」
「鉄血事件のこと、どのくらい知ってる?」
自分で聞いてから、しまったと思った。でも、もう遅い。カヨコちゃんは表情を変えなかった。ただ、少しだけ視線を遠くへ向けた。
「授業で習う程度と、人から聞いた程度」
「詳しくは?」
「詳しく知りたいの?」
問い返された。私はすぐに頷けなかった。知りたい。でも、知りたくない。ロカが何をしたのか。ゲヘナがどうしてこうなったのか。東側がなぜあんな場所になったのか。
知らないままだと、たぶんまた何かを間違える。けれど、知ったら知ったで、今まで通りにはいられない気がした。
「……少しだけ」
結局、そんな半端な答えになった。カヨコちゃんは文句を言わなかった。
「ロカが生徒会長になった時、当時の上級生がかなり消えた」
「消えた」
「退学、追放、処刑。表向きの記録はいろいろだけど、要するに、ロカにとって邪魔な人たちがいなくなった」
処刑。その単語が重かった。キヴォトスで、処刑。冗談みたいな言葉なのに、ここでは冗談にならない。
「それが鉄血事件」
「うん」
「そんなことがあって、なんで今も生徒会が残ってるの」
「倒せなかったから」
カヨコちゃんは短く答えた。その短さが、かえって重かった。
「風紀委員会だけじゃない。トリニティの正義実現委員会も、SRTも動いたらしい。大きな反攻作戦があったって聞いてる」
「それでも?」
「それでも、ロカを倒せなかった」
遠くで、金属が落ちるような音がした。私たちは同時にそちらを見る。誰もいない。風だけが、アーケードの中を抜けていく。
「ロカの一撃で、部隊の半分が消えたって話もある」
「半分」
「本当かは分からない。でも、そのくらいのことがあったから、今こうなってる」
西側。東側。風紀委員会と生徒会の膠着。境界。私は足元を見る。地面に線はない。でも、たしかに何かが分かれている。
「帰ってきた人たちは?」
「少ないって」
「……そっか」
うまく言葉が出なかった。その作戦に参加した人たちは、たぶん誰かの日常だった。誰かの先輩で、誰かの友人で、誰かの同室だった。
でも、今の私にとっては、数でしか聞こえない。
それが怖かった。死んだ人のことを、知らないままだと、数字で受け取ってしまう自分が怖かった。
「カヨコちゃんは」
「うん」
「怖くないの?」
「怖いよ」
即答だった。意外ではなかった。でも、少し驚いた。
「怖いから、近づきすぎないようにしてる」
「私は近づきすぎ?」
「だいぶ」
「ですよね」
「でも、もう離れられないところまで来てるとも思う」
カヨコちゃんは、アーケードの外を見た。西側の通りが見える。遠くには、風紀委員会の巡回車両が一台止まっていた。普通の景色。普通に見える景色。でも、その向こうに東側がある。ロカがいる。超人がいる。
「だから、せめて一人で突っ込まないで」
「それ、みんなに言われる」
「みんなが言うなら、かなり重要なんじゃない?」
「それはそう」
私は小さく息を吐いた。アーケードの奥に残った黒い跡を、もう一度見る。怖い。それでも今は、その怖さを言葉にできる。それだけで少し違う気がした。
「カヨコちゃん」
「何」
「ありがとう」
「何が」
「いろいろ」
「また便利な言葉」
「便利なので」
「反省してないね」
「少しはしてる」
「少しじゃ足りない」
「はい」
そんな会話をしながら、私たちは巡回路へ戻った。
境界付近の巡回は、夕方まで続いた。何度か怪しい生徒を見かけたけれど、大きな衝突はなかった。逃げられた物資もあるし、見つけた印もある。
成果としては、たぶん普通。普通という言葉が、少しだけありがたかった。
帰り道、空は赤くなっていた。ゲヘナの夕焼けは、やけに派手だ。建物の影が長く伸び、割れた窓に赤い光が反射している。私はカヨコちゃんと並んで歩いていた。少し疲れた。でも、悪い疲れではなかった。
「お腹空いた」
「メロンパン残してたでしょ」
「硬くなってるかな」
「なってると思う」
「悲しい」
「自業自得」
冷たい。でも正しい。
寮へ戻る前に、私たちは小さな通りを抜けた。中等部の校舎に近い道だ。授業終わりの生徒がちらほら歩いている。その中に、一人だけ、妙に目につく子がいた。
小柄な生徒。髪は少し乱れていて、制服の袖を強く握っている。俯きがちで、歩幅が小さい。誰かを避けるように、壁際を歩いていた。その子の後ろを、数人の生徒が笑いながら通り過ぎる。肩がぶつかった。
小柄な子がよろめく。持っていた鞄が落ちた。中身が散らばる。
「あ、ごめーん」
謝っている声ではなかった。笑っている。小柄な子は慌てて膝をつき、散らばったものを拾い始めた。誰も手伝わない。私は足を止めた。
「イト」
カヨコちゃんが小さく声を掛ける。
「分かってる」
分かっている。危ないことに首を突っ込むな。一人で動くな。境界付近の巡回中ではないけれど、それでも警戒は必要だ。
でも、目の前で困っている人を見て、見なかったことにはできなかった。私はその子のところへ歩いた。
「大丈夫?」
声を掛けると、彼女はびくりと肩を震わせた。顔を上げる。目が合った。怯えた目だった。
「あ……」
「落ちたやつ、拾うね」
「す、すみません」
「謝らなくていいよ。ぶつかったの向こうだし」
私は散らばったノートを拾った。端が少し破れている。表紙には、細い字で名前が書かれていた。伊草ハルカ。
「ハルカちゃん?」
名前を呼ぶと、彼女はまた肩を震わせた。
「は、はい。すみません、すみません」
「だから謝らなくていいって」
私はできるだけ柔らかく笑った。笑えているかは分からない。最近、自分の顔に自信がない。ハルカちゃんはノートを受け取ると、ぎゅっと胸に抱えた。
「ありがとうございます……」
「ううん。怪我はない?」
「だ、大丈夫です。私なんか、大丈夫ですから」
私なんか。その言葉が、妙に引っかかった。後ろで、さっきの生徒たちがまだ笑っている。こちらを見ると、少しつまらなそうな顔をして、そのまま歩いていった。嫌な感じだった。ものすごく。
「本当に大丈夫?」
「はい。いつものことなので」
いつものこと。ハルカちゃんは、当たり前みたいに口にした。私は返す言葉を失った。カヨコちゃんが隣に来る。
「寮、近いの?」
「はい。あの、もう、大丈夫です。ご迷惑をおかけしてすみません」
ハルカちゃんは何度も頭を下げる。そして、逃げるように歩き出した。私はその背中を見送った。小さくて、細くて、今にも消えてしまいそうな背中だった。
「……カヨコちゃん」
「何」
「いつものことって、嫌な言葉だね」
「うん」
カヨコちゃんは短く返した。それ以上は何も言わなかった。私も何も言えなかった。
その時、通りの向こうに、黒い影が見えた気がした。背の高い、大人の影。街灯の下に立っている。
けれど、瞬きをした時にはもういなかった。見間違い。そう思いたかった。でも、胸の奥に嫌なざらつきが残った。あの子が歩いていった先。その先に、黒い影が待っているような。そんな、嫌な想像が頭から離れなかった。
寮に戻ると、メロンパンは少し硬くなっていた。悲しい。でも、食べた。甘さは残っていた。
窓の外では、ゲヘナの夜がまた騒がしくなっている。遠くで爆発音がして、誰かが笑って、どこかでサイレンが鳴っていた。
いつもの夜。でも、もう前と同じには見えない。境界は近い。東側も、ロカも、超人も。そして、救いを求める声も。思っていたよりずっと近くにある。
私は硬くなったメロンパンを噛みながら、今日見たハルカちゃんの背中を思い出していた。小さな背中。何度も謝る声。私なんか。その言葉が、いつまでも耳に残っていた。