黒原イトの青春   作:ナポリタン

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見ないで

 

「あなたは、随分と苦しそうですね」

 

「だ、誰、ですか」

 

「ただの観察者です」

 

「あなたに一つ、提案があります」

 

「提案……?」

 

「これは、あなたの世界を壊す鍵になる」

 

「今の世界が耐え難いなら、壊してしまえばいい。あなたを踏みつけるものも、あなたを笑うものも、あなた自身を縛っているものも」

 

「わ、私、そんな」

 

「もちろん、使うかどうかはあなた次第です」

 

「私なんかが……そんなもの」

 

「あなたが決めることです」

 

「その苦痛を抱えたまま、今のあなたであり続けるか。それとも、今のあなたを壊してしまうか」

 

「私は……」

 

「私は、もう……」

 

 

 

 

 

 その日の午後、私はアコちゃん――天雨アコ。風紀委員会の一年生で、ヒナちゃんのことになると目の色が変わる人――と一緒にゲヘナ西側を歩いていた。

 

 パトロールである。巡回と言った方が格好はつくけれど、やっていることは地道だ。壊れた街灯の確認、境界付近から流れてきた怪しい物資の記録、路地に残った落書きの撮影、ついでに通行人への声掛け。地味で、とても地味だった。

 

 でも、地味な仕事ほど大事なのだと、カヨコちゃんが言っていた気がする。言っていなかったかもしれない。でも、言いそうではある。

 

「黒原さん」

 

 アコちゃんが横から声を掛けてきた。

 

「はい」

「先ほどから、少し落ち着きがありません」

「そう見える?」

「見えます」

 

 即答だった。私は口元を押さえる。最近、顔に出ると言われすぎている。そろそろ顔を鍛えるべきかもしれない。顔を鍛えるとはどういうことなのか、私には分からない。

 

「昨日の件ですか」

「昨日の件というか、ハルカちゃんのこと」

 

 名前を口にすると、胸の奥が少し重くなった。伊草ハルカ。昨日、カヨコちゃんと一緒に見かけた中等部の子。何度も謝って、何度も自分を小さくしていた子。境界近くの路地から出てきた、あの背中が頭に残っている。

 

「気になるのは分かります」

 

 アコちゃんは前を向いたまま応じた。

 

「ですが、今は巡回中です。個人的な感情で動かないでください」

「はい」

 

 私は小さく息を吐いた。

 

 今日、ヒナちゃんはいない。キミカ先輩とイツキ先輩はシェマタ関連の対応に入っていて、ヒナちゃんも本部側の別件に回っている。

 

 なので、この巡回は私とアコちゃんの二人だ。少し前の私なら、戦闘担当がいないと不安になっていたと思う。今も不安だ。

 

 ただ、その不安の種類が少し変わった。私は変身できる。戦える。死んでも、戻ることがある。その事実が、安心ではなく、別の怖さを連れてくる。

 

「黒原さん」

「はい」

「何かあれば、まず報告。次に指示を待つ。単独で突撃しない。レイズ前提の行動をしない」

「はい」

「本当に分かっていますか」

「分かってます」

「目を逸らさずに言ってください」

「分かってます」

 

 私はアコちゃんの目を見て言い直した。アコちゃんは少しだけ疑わしそうに私を見たが、それ以上は追及しなかった。その時だった。耳の奥が、ざらついた。足が止まる。

 

「黒原さん?」

「……聞こえる」

「何がですか」

 

 声ではない。音でもない。けれど、確かにある。冷たくて、硬くて、重い。鉄を擦り合わせるような、嫌なざらつき。マヤの時とは違う。蛇ではない。もっと硬い。

 

「コール。たぶん、近い」

 

 アコちゃんの表情が変わった。

 

「方向は」

 

 私はゆっくり顔を上げる。中等部の倉庫棟。昨日、ハルカちゃんを見かけた場所からもそう遠くない。

 

「あっち」

「行きましょう」

 

 アコちゃんは即座に端末を操作した。

 

「巡回班へ連絡。中等部倉庫棟付近に超人反応の可能性。負傷者が出ている場合は退避誘導を優先。私たちは先行します」

 

 早い。迷いがない。私はその横顔を見て、少しだけ息を呑んだ。風紀委員会の人だ。当たり前だけど、そう思った。

 

「黒原さん」

「はい」

「行きます」

「うん」

 

 私は頷いた。背中の奥が、熱くなっていた。倉庫棟に近づくにつれて、金属音が大きくなった。

 

 ぎしぎし。

 

 ばきん。

 

 何かが曲がる音。何かが引き千切られる音。

 

 角を曲がった瞬間、視界に飛び込んできたのは、潰れたフェンスだった。手すりが飴みたいに曲がり、ロッカーの扉が捻じ切られ、窓枠が壁から剥がされている。金属だけが、誰かの感情に引きずられたみたいに形を失っていた。

 

 その中心に、ハルカちゃんがいた。伊草ハルカ。昨日見た時より、ずっと小さく見えた。

 

 けれど、纏っているものは大きかった。黒い鉄。手すりだったもの、ロッカーだったもの、フェンスだったもの。それらが鎖や板のように形を変え、彼女の腕や足、胴体に絡みついている。特に頭部。顔の周りを、鉄の鎖が覆っていた。

 

 まるで、自分の顔を隠すみたいに。

 

「すみません」

 

 ハルカちゃんは呟いていた。

 

「すみません、すみません、すみません」

 

 その前に、二人の生徒がいた。一人は銃を構えたまま退けずにいる。足は震えているのに、目だけはハルカちゃんから逸らしていない。もう一人はその少し後ろにいて、いつでも前の子を引き戻せる位置に立っていた。

 

「ハルカ! 聞きなさい!」

 

 銃を構えた生徒が叫ぶ。

 

「あなたは悪くないわ! だから、そんな」

 

 鉄の鎖が伸びた。速い。彼女は反射的に撃った。弾丸が、ハルカちゃんの肩を掠める。血が散った。

 

「あ」

 

 声が止まる。キヴォトスの生徒は、普通ならそう簡単に血を流さない。撃たれても、吹き飛ばされても、痛いで済むことが多い。でも、超人は違う。ヘイローを失っている。銃撃で血が出る。その現実を、彼女たちは今、目の前で見てしまった。

 

「アルちゃん!」

 

 もう一人の生徒が、彼女の腕を引いた。鉄の鎖が、さっきまで彼女の頭があった場所を通り過ぎる。

 

 アルちゃん。名前を聞いたことがある。陸八魔アル。つまり、隣にいるのは浅黄ムツキ。

 

「私……撃って」

 

 アルちゃんは、ハルカちゃんの肩から流れた血を見て固まっていた。

 

「陸八魔アルさん、浅黄ムツキさんですね!」

 

 アコちゃんが鋭く声を上げる。二人がこちらを見る。

 

「風紀委員会……?」

 

 アルちゃんの目が揺れた。

 

「下がってください。ここからは私たちが対応します」

「で、でも、ハルカが」

「助けるために下がってください」

 

 アコちゃんの声は厳しかった。アルちゃんは何か言い返そうとして、言葉を失った。ハルカちゃんの肩から流れる血を見て、唇を噛む。

 

「……お願い」

 

 小さな声だった。

 

「あの子を、助けて」

「そのために来ました」

 

 アコちゃんは短く応じた。その言葉は、かなり強かった。

 

「黒原さん」

「はい」

「戦闘準備。ハルカさんは暴走状態ですが、敵として討つのではありません。鎮圧します」

「分かった」

「最優先は負傷者の退避。アルさん、ムツキさん、あなたたちは下がってください。可能なら周囲の生徒を連れて離脱を」

「……分かったわ」

 

 アルちゃんは悔しそうに頷いた。ムツキちゃんも、いつもの軽さを少しだけ戻したように見えた。

 

「アルちゃん、行こう」

「でも」

「邪魔になったら、ハルカちゃん助けられないよ」

 

 アルちゃんは歯を食いしばる。それから、負傷していた生徒の方へ駆け出した。私は変身した。背中が熱くなる。黒い羽根が腕を覆い、爪が伸びる。視界が高くなる。足元が軽くなる。怖い。それでも、動ける。

 

「ハルカちゃん!」

 

 私は声を張った。

 

「昨日会った、イトだよ! 分かる?」

「見ないでください」

 

 返ってきたのは、震えた声だった。

 

「私なんか、見ないでください。私の顔なんか、見ないでください」

 

 鉄の鎖が、さらに顔の前で重なる。顔を隠すため。自分を守るため。でも、その鉄が周りを傷つけている。

 

「見ないよ!」

 

 私は叫んだ。

 

「今は見ない。だから、こっちの声だけ聞いて」

 

 鉄片が飛んできた。私は横へ跳ぶ。低く飛ぶ。壁を蹴る。金属片が後ろを通り過ぎる。避けた先で、別の鎖が足元を掠めた。速い。重い。マヤの蛇みたいに読みにくくはない。けれど、当たれば終わるという圧がある。

 

「黒原さん、右から来ます!」

 

 アコちゃんの声。私は翼を畳んだ。曲がった手すりが真横を通る。避けきれず、肩を掠めた。痛い。羽根が散る。でも、死ぬほどではない。

 

「接近しすぎないでください!」

「分かってる!」

 

 分かっている。でも、このまま距離を取っていても止まらない。ハルカちゃんは謝り続けている。自分の顔を隠して、誰も見ないでと叫んでいる。なら、まずはあの鉄をどうにかしないといけない。私は地面を蹴った。

 

「黒原さん!」

 

 アコちゃんの制止が飛ぶ。聞こえた。でも、止まらなかった。ハルカちゃんの懐へ飛び込む。爪は使わない。殴る。蹴る。鉄の鎖を弾き、飛んでくる板を肩で受け流す。重く、腕が痺れる。

 

 それでも、動ける。ハルカちゃんの攻撃は強い。けれど、動きそのものはめちゃくちゃだった。自分でも何をしているのか分かっていない。近づくものを遠ざける。見られたくないものを隠す。そのために、鉄が暴れている。

 

「ハルカちゃん!」

「来ないで!」

 

 鉄の鎖が槍のように伸びる。私は翼を広げ、真上に跳んだ。そのまま背後へ回る。高く飛ぶのは怖い。でも、今は怖がっている場合ではない。

 

 背後。

 

 取れた。

 

 私はハルカちゃんの胴体を後ろから抱え込む。鉄が腕に食い込む。痛い。でも、離さない。

 

「アコちゃん!」

「まさか」

「上に上げる!」

「危険です!」

「ごめん!」

 

 謝っている場合ではない。でも謝った。

 

 私は翼を大きく広げた。地面を蹴る。ハルカちゃんごと、空へ飛び上がる。重い。鉄の塊を抱えているようなものだ。翼が軋む。腕が千切れそうになる。それでも上がる。倉庫棟の屋根を越える。風が顔に当たる。

 

 このまま上で反転して、地面に叩きつける。スープレックス。キミカ先輩が訓練中に一度見せてくれた技だ。見ただけでできるか。普通は無理。でも、今の私は普通じゃない。私は体を反らした。その瞬間、ハルカちゃんの体が震えた。

 

「いや」

 

 小さな声。

 

「見ないで」

 

 鉄が膨れ上がる。まずい。そう思った時には、遅かった。ハルカちゃんの体から、大量の鉄の棘が飛び出した。

 

 胸。腹。肩。腕。足。背中。全部に刺さった。痛い、と思う暇もなかった。

 

 視界が赤くなる。

 

 空が遠ざかる。

 

 ヒナちゃん。カヨコちゃん。アコちゃん。ごめん。今度こそ、怒られる。

 

 そこまで考えて。私は死んだ。

 

 目が覚めた時、最初に見えたのは空ではなかった。天井でもない。アコちゃんの顔だった。

 

「黒原さん!」

 

 声が近い。かなり近い。私は瞬きをする。喉が痛い。肺が痛い。体が、ばらばらになったものを無理やり縫い直したみたいに軋んでいる。

 

 レイズ。

 戻ったのだと理解した瞬間、戻ってしまったという事実の方が重くのしかかった。

 

「……アコちゃん」

「喋らないでください」

「怒ってる?」

「怒っています」

「ですよね」

 

 私はゆっくり視線を動かした。倉庫棟から少し離れた場所だった。

 

 壁の影、負傷者の退避場所のようなところ。私の近くには、アコちゃんだけではなく、アルちゃんとムツキちゃんもいた。

 

「……あれ」

 

 私は目を細める。

 

「二人とも、逃げてって」

「逃げたわよ」

 

 アルちゃんが言葉を返す。顔色が悪い。それでも、目だけは逸らさなかった。

 

「ここまでね」

「逃げ切れてない」

「分かってるわよ!」

 

 怒られた。違う。怒らせてしまった。ムツキちゃんはいつもの軽い笑みを浮かべようとしていた。でも、うまくいっていない。私の血を見たのだと思う。たぶん、私が串刺しになったところも。

 

「イトさん、ほんとに死んだんだね」

「たぶん」

「たぶんで済むんだ」

「済んでないです」

 

 アコちゃんが割って入る。声が怖い。

 

「あなたは、先ほど私の制止を無視して突撃し、単独で危険行動を取りました」

「はい」

「その結果、一度死亡しました」

「はい」

「後で正式に説教します」

「今じゃないんだ」

「今はハルカさんを止める方が先です」

 

 言い返せなかった。私は上体を起こそうとして、全身の痛みに顔をしかめた。生きている。でも、かなり痛い。

 

 死んで戻るのは、便利ではない。絶対に便利ではない。なのに、私はまたそれを使ってしまった。考えない。今は考えない。

 

 ハルカちゃんの方を見る。倉庫棟では、まだ鉄が暴れている。さっきより動きが荒い。私を刺したせいか、ハルカちゃん自身も混乱しているように見えた。

 

「……作戦、立てよう」

 

 私は口を開いた。アコちゃんがこちらを見る。

 

「あなたが言いますか」

「言います。さっきのは、私が悪かった。だから次は、みんなでやる」

 

 みんな。口にしてから、少しだけ変な感じがした。でも、そうだった。私とアコちゃんだけでは、たぶん足りない。アルちゃんとムツキちゃんは逃げなかった。それなら、ここにいる意味がある。

 

「ハルカちゃんの顔を覆ってる鎖。あれを緩めたい」

「なぜですか」

「顔を隠すために、あそこに力が集まってる気がする。あれが緩めば、意識も揺らせると思う」

 

 根拠は薄い。でも、そう感じた。コールのざらつきが、あの頭部の鉄から強く聞こえる。

 

「どうやって緩めるの」

 

 ムツキちゃんが問いかける。

 

「さっきハルカちゃんが出した鉄片、地面に散らばってるよね」

「あるわね」

 

 アルちゃんが頷く。

 

「それを集める。服か何かで袋にして、上からぶつける」

「鉄片入りの袋を?」

「うん。とにかくパワーが必要」

「かなり乱暴ですね」

 

 アコちゃんが淡々と指摘する。

 

「でも、正面から殴るよりはマシだと思う」

「あなたが言うと説得力がありません」

「はい」

 

 反論できない。アルちゃんが拳を握る。

 

「なら、私たちは何をすればいいの」

「足止め」

 

 私はアルちゃんを見る。

 

「アコちゃん、アルちゃん、ムツキちゃんでハルカちゃんの注意を引いてほしい。私は鉄片を集めて、上から行く」

「危険です」

 

 アコちゃんが即座に口にする。

 

「危険じゃない案が思いつかない」

「それはそうですが」

「死なないようにやる」

「そこは断言してください」

「断言する。今度は死なない」

 

 私はアコちゃんの目を見て言った。嘘ではない。願望でもない。決めた。アルちゃんはしばらく私を見ていた。それから、小さく息を吸う。

 

「分かったわ」

「アルちゃん」

 

 ムツキちゃんが横から声を掛ける。

 

「いいの?」

「いいも何も、ハルカを助けるにはやるしかないでしょう」

 

 アルちゃんの声は震えていた。でも、逃げてはいなかった。

 

「私、さっき撃ったの」

 

 ぽつりと、アルちゃんが言葉を零す。

 

「ハルカから血が出て、怖くなった。私が傷つけたんだって思った」

 

 誰も茶化さなかった。

 

「でも、あのまま放っておく方が、もっと駄目なんでしょう」

「うん」

 

 私は頷く。

 

「助けるために、止める」

 

 アルちゃんはその言葉を噛みしめるように黙った。そして、銃を握り直す。

 

「なら、やるわ」

 

 その目は、さっきより少しだけ強かった。

 

 

 

 

 

 

 再戦は、静かには始まらなかった。ムツキちゃんがまず、倉庫の反対側で小さな爆発を起こした。小さい。たぶん小さい。でも爆発は爆発である。鉄の鎖がそちらへ向いた。

 

「ハルカちゃん、こっちだよー」

 

 ムツキちゃんが軽い声を出す。ただ、その足はちゃんと逃げ道を選んでいた。笑っているようで、見ている。たぶん、こういう時のムツキちゃんはかなり頼れる。アコちゃんが射撃で鉄片を弾く。アルちゃんはハルカちゃんの前に立った。

 

「ハルカ!」

 

 声が響く。

 

「あなたを助ける! だから、今は止めるわ!」

「アルさん……?」

 

 ハルカちゃんが反応する。鉄の鎖が少し揺れた。私はその隙に、地面に散らばった鉄片へ走った。変身状態のまま、羽根のついた腕で鉄片をかき集める。

 

 服。袋。どうする。

 

 私は上着を脱ぎ、袖を結んだ。布地が裂けそうになる。鉄片を押し込む。重い。かなり重い。でも、持てる。今の私なら。鉄片を詰め込んだ上着を抱え、私は翼を広げた。

 

 飛ぶ。上へ。倉庫棟の屋根を越える。前回より高い。怖い。でも、今は下を見る。ハルカちゃんがいる。アコちゃんがいる。アルちゃんがいる。ムツキちゃんがいる。

 

 私だけではない。

 

「黒原さん、今です!」

 

 アコちゃんの声が聞こえた。私は翼を畳む。落ちる。ハルカちゃんへ向かって、真っ直ぐ。鉄の鎖がこちらを向く。迎撃が来る。私は体を捻る。肩を掠める。痛い。無視する。今度は死なない、と自分に言い聞かせた。

 

「ハルカちゃん!」

 

 叫ぶ。ハルカちゃんが顔を上げる。鉄の鎖の隙間から、片目が見えた。私は鉄片入りの上着を、全力で叩きつけた。鈍い音がした。衝撃が腕に返ってくる。ハルカちゃんの頭部を覆っていた鎖が、大きく揺れた。緩む。隙間ができる。

 

「アルちゃん!」

 

 ムツキちゃんが叫んだ。

 

「分かってるわ!」

 

 アルちゃんが銃を構える。今度は、手が震えていなかった。

 

「ごめんなさい、ハルカ」

 

 小さく呟いてから、引き金を引く。銃弾が、鎖の隙間を抜けた。ハルカちゃんの頭部に当たる。

 

 血は出なかった。けれど、衝撃で鎖がさらに緩む。ハルカちゃんの体がよろめいた。

 

 そこへ、私は飛び込む。地面を蹴る。低く、速く。爪は握り込む。切らない。殺さない。拳を下から振り上げる。

 

 顎。

 

 当たった。

 

 ハルカちゃんの頭が跳ね上がる。目の焦点が揺れる。鉄の鎖が力を失う。がしゃん、と音を立てて、床へ落ちた。ハルカちゃんの体が傾く。私は慌てて受け止めた。重い。

 

 でも、さっきまでの鉄の重さではない。人の重さだった。

 

「……止まった」

 

 誰かが呟いた。たぶん、私だった。ハルカちゃんは気を失っていた。顔は涙で濡れていた。でも、もう鉄で隠れてはいなかった。

 

「ハルカ」

 

 アルちゃんが駆け寄ろうとして、途中で止まる。触っていいのか分からないようだった。アコちゃんが近づき、ハルカちゃんの状態を確認する。

 

「意識なし。呼吸あり。脈拍確認。命に別状はなさそうです」

 

 その言葉で、場の空気が少しだけ緩んだ。私はその場に座り込んだ。足が震える。腕も震える。でも、生きている。死ななかった。今度は。

 

「黒原さん」

 

 アコちゃんが私を見る。

 

「はい」

「後で説教です」

「はい」

「ですが」

 

 アコちゃんは少しだけ言葉を切った。

 

「今回は、よく止めました」

 

 胸の奥が詰まった。

 

「……はい」

 

 私は小さく頷いた。

 

 

 

 

 

 

 ハルカちゃんは、救急医学部へ運ばれることになった。正確には、救護班の担架を借りて、アコちゃんが状態を見ながら、私は横で支えて歩いた。

 

 ハルカちゃんはまだ眠っている。顔には涙の跡が残っていた。ヘイローはなかった。それを見るたび、胸が重くなる。超人になった。戻れないところまで来てしまった。でも、生きている。今は、それを先に考えることにした。

 

 救急医学部へ向かう途中、アルちゃんとムツキちゃんもついてきた。

 

「あなたたちは事情聴取があります」

 

 アコちゃんが告げる。

 

「分かっているわ」

 

 アルちゃんは妙に神妙だった。さっきまでの芝居がかった調子が少し薄い。

 

「逃げません。私も、現場にいた当事者だもの」

「アルちゃん、真面目」

「私はいつだって真面目よ!」

「うんうん」

 

 ムツキちゃんは笑っている。けれど、その笑い方も少しだけ柔らかかった。救急医学部に到着すると、ハルカちゃんはすぐに処置室へ運ばれた。扉が閉まる。中で誰かの指示が飛び、機材の音がする。

 

私は廊下の壁にもたれた。急に疲れが来た。アルちゃんは閉まった扉を見ていた。じっと。

 

「風紀委員会って」

 

 ぽつりと、彼女が口にした。

 

「ただ取り締まるだけじゃないのね」

 

 私は顔を上げる。

 

「どういうこと?」

「暴れている相手を倒すだけなら、もっと簡単だったはずよ」

 

 アルちゃんは、自分の手元の銃を見る。

 

「でも、あなたたちは助けようとしていた。傷つけないように、殺さないように、止めようとしていた」

「私は一回死んだけど」

「そこは反省しなさい」

「はい」

 

 普通に怒られた。なぜ。アルちゃんはそれでも、目を逸らさなかった。

 

「強いって、そういうことなのね」

 

 小さな声だった。

 

「誰かを倒せることじゃなくて、誰かを助けられること」

 

 その言葉は、たぶん彼女自身に向けたものだった。私は何も言わなかった。アコちゃんも黙っていた。ムツキちゃんだけが、少しだけ楽しそうにアルちゃんを見ている。

 

「アルちゃん、風紀委員会に憧れてる?」

「ち、違うわ! これは研究よ、研究!」

「はいはい」

「私はアウトローとして、敵を知る必要があるの!」

「そのわりに、目がきらきらしてるよ」

「してない!」

 

 いつもの調子に戻りかけたアルちゃんを見て、少しだけ安心した。でも、さっきの言葉は消えない。誰かを助けられる強さ。アルちゃんの中に、今日それが残ったのだと思う。それがいつ、どんな形になるのかは分からない。でも、大事な種だった。

 

 

 

 

 

 

 その日の夜、私は寮に戻った。背中が痛い。腕も痛い。心も少し痛い。でも、生きている。それはかなり大事なことらしい。部屋に入ると、カヨコちゃんがベッドに座っていた。

 

「おかえり」

「ただいま」

「死んだって?」

「一回死んだ」

 

 カヨコちゃんの目が細くなった。怖い。

 

「でも、二回目は死ななかった」

「褒めればいいのか怒ればいいのか迷う報告やめて」

「すみません」

「あとで詳しく聞く」

「はい」

 

 これは怒られる。かなり怒られる。でも、今はそれも少しだけありがたかった。私は椅子に座る。今日はメロンパンを買っていない。買っておけばよかった。こういう日は、甘いものが必要だ。

 

「昨日話してたハルカちゃん、助かったよ」

「そっか」

「超人には、なっちゃったけど」

「うん」

「でも、助かった」

「なら、よかったんじゃない」

 

 カヨコちゃんはそれだけ口にした。簡単には言えないことを、簡単に言ってくれる。たまに、それに救われる。

 

「アルちゃんがね」

「うん」

「風紀委員会に憧れてた」

「なんで?」

「私も分からない」

「分からないんだ」

「誰かを助けられる強さ、みたいなことを言ってた」

「へぇ」

 

 カヨコちゃんは少しだけ意外そうだった。

 

「いいんじゃない」

「いいのかな」

「憧れる先が多少おかしくても、誰かを助けたいなら悪くないでしょ」

「風紀委員会がおかしいみたいに聞こえる」

「おかしくないと思う?」

「……ちょっとおかしいかも」

「でしょ」

 

 反論できない。私は窓の外を見る。ゲヘナの夜は、相変わらず騒がしい。遠くで爆発音がして、誰かが笑って、サイレンが鳴っている。

 

 いつもの夜。でも、今日は少しだけ違った。ハルカちゃんは生きている。アルちゃんの中には、何か小さな種が残った。ムツキちゃんはそれを面白がっている。アコちゃんはたぶん、報告書を書きながら頭を抱えている。ヒナちゃんには、あとで怒られるかもしれない。カヨコちゃんにも、今から怒られる。それでも。二回目は、死なずに誰かを助けられた。

 

 それを少しだけ、誇ってもいい気がした。ほんの少しだけ。背中の奥が、微かに熱くなる。私は反射的に肩を押さえた。羽根は出ていない。爪も伸びていない。

 

 でも、あのざらつきだけが、まだ耳の奥に残っていた。黒服。アンプル。ロカ。救えたものの影に、救えなかったものと、これから壊されるかもしれないものが見える。だから、安心はできない。でも、それでも。

 

 この力で誰かを助けられて良かった。

 

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