黒原イトの青春 作:ナポリタン
「あなたは、随分と苦しそうですね」
「だ、誰、ですか」
「ただの観察者です」
「あなたに一つ、提案があります」
「提案……?」
「これは、あなたの世界を壊す鍵になる」
「今の世界が耐え難いなら、壊してしまえばいい。あなたを踏みつけるものも、あなたを笑うものも、あなた自身を縛っているものも」
「わ、私、そんな」
「もちろん、使うかどうかはあなた次第です」
「私なんかが……そんなもの」
「あなたが決めることです」
「その苦痛を抱えたまま、今のあなたであり続けるか。それとも、今のあなたを壊してしまうか」
「私は……」
「私は、もう……」
その日の午後、私はアコちゃん――天雨アコ。風紀委員会の一年生で、ヒナちゃんのことになると目の色が変わる人――と一緒にゲヘナ西側を歩いていた。
パトロールである。巡回と言った方が格好はつくけれど、やっていることは地道だ。壊れた街灯の確認、境界付近から流れてきた怪しい物資の記録、路地に残った落書きの撮影、ついでに通行人への声掛け。地味で、とても地味だった。
でも、地味な仕事ほど大事なのだと、カヨコちゃんが言っていた気がする。言っていなかったかもしれない。でも、言いそうではある。
「黒原さん」
アコちゃんが横から声を掛けてきた。
「はい」
「先ほどから、少し落ち着きがありません」
「そう見える?」
「見えます」
即答だった。私は口元を押さえる。最近、顔に出ると言われすぎている。そろそろ顔を鍛えるべきかもしれない。顔を鍛えるとはどういうことなのか、私には分からない。
「昨日の件ですか」
「昨日の件というか、ハルカちゃんのこと」
名前を口にすると、胸の奥が少し重くなった。伊草ハルカ。昨日、カヨコちゃんと一緒に見かけた中等部の子。何度も謝って、何度も自分を小さくしていた子。境界近くの路地から出てきた、あの背中が頭に残っている。
「気になるのは分かります」
アコちゃんは前を向いたまま応じた。
「ですが、今は巡回中です。個人的な感情で動かないでください」
「はい」
私は小さく息を吐いた。
今日、ヒナちゃんはいない。キミカ先輩とイツキ先輩はシェマタ関連の対応に入っていて、ヒナちゃんも本部側の別件に回っている。
なので、この巡回は私とアコちゃんの二人だ。少し前の私なら、戦闘担当がいないと不安になっていたと思う。今も不安だ。
ただ、その不安の種類が少し変わった。私は変身できる。戦える。死んでも、戻ることがある。その事実が、安心ではなく、別の怖さを連れてくる。
「黒原さん」
「はい」
「何かあれば、まず報告。次に指示を待つ。単独で突撃しない。レイズ前提の行動をしない」
「はい」
「本当に分かっていますか」
「分かってます」
「目を逸らさずに言ってください」
「分かってます」
私はアコちゃんの目を見て言い直した。アコちゃんは少しだけ疑わしそうに私を見たが、それ以上は追及しなかった。その時だった。耳の奥が、ざらついた。足が止まる。
「黒原さん?」
「……聞こえる」
「何がですか」
声ではない。音でもない。けれど、確かにある。冷たくて、硬くて、重い。鉄を擦り合わせるような、嫌なざらつき。マヤの時とは違う。蛇ではない。もっと硬い。
「コール。たぶん、近い」
アコちゃんの表情が変わった。
「方向は」
私はゆっくり顔を上げる。中等部の倉庫棟。昨日、ハルカちゃんを見かけた場所からもそう遠くない。
「あっち」
「行きましょう」
アコちゃんは即座に端末を操作した。
「巡回班へ連絡。中等部倉庫棟付近に超人反応の可能性。負傷者が出ている場合は退避誘導を優先。私たちは先行します」
早い。迷いがない。私はその横顔を見て、少しだけ息を呑んだ。風紀委員会の人だ。当たり前だけど、そう思った。
「黒原さん」
「はい」
「行きます」
「うん」
私は頷いた。背中の奥が、熱くなっていた。倉庫棟に近づくにつれて、金属音が大きくなった。
ぎしぎし。
ばきん。
何かが曲がる音。何かが引き千切られる音。
角を曲がった瞬間、視界に飛び込んできたのは、潰れたフェンスだった。手すりが飴みたいに曲がり、ロッカーの扉が捻じ切られ、窓枠が壁から剥がされている。金属だけが、誰かの感情に引きずられたみたいに形を失っていた。
その中心に、ハルカちゃんがいた。伊草ハルカ。昨日見た時より、ずっと小さく見えた。
けれど、纏っているものは大きかった。黒い鉄。手すりだったもの、ロッカーだったもの、フェンスだったもの。それらが鎖や板のように形を変え、彼女の腕や足、胴体に絡みついている。特に頭部。顔の周りを、鉄の鎖が覆っていた。
まるで、自分の顔を隠すみたいに。
「すみません」
ハルカちゃんは呟いていた。
「すみません、すみません、すみません」
その前に、二人の生徒がいた。一人は銃を構えたまま退けずにいる。足は震えているのに、目だけはハルカちゃんから逸らしていない。もう一人はその少し後ろにいて、いつでも前の子を引き戻せる位置に立っていた。
「ハルカ! 聞きなさい!」
銃を構えた生徒が叫ぶ。
「あなたは悪くないわ! だから、そんな」
鉄の鎖が伸びた。速い。彼女は反射的に撃った。弾丸が、ハルカちゃんの肩を掠める。血が散った。
「あ」
声が止まる。キヴォトスの生徒は、普通ならそう簡単に血を流さない。撃たれても、吹き飛ばされても、痛いで済むことが多い。でも、超人は違う。ヘイローを失っている。銃撃で血が出る。その現実を、彼女たちは今、目の前で見てしまった。
「アルちゃん!」
もう一人の生徒が、彼女の腕を引いた。鉄の鎖が、さっきまで彼女の頭があった場所を通り過ぎる。
アルちゃん。名前を聞いたことがある。陸八魔アル。つまり、隣にいるのは浅黄ムツキ。
「私……撃って」
アルちゃんは、ハルカちゃんの肩から流れた血を見て固まっていた。
「陸八魔アルさん、浅黄ムツキさんですね!」
アコちゃんが鋭く声を上げる。二人がこちらを見る。
「風紀委員会……?」
アルちゃんの目が揺れた。
「下がってください。ここからは私たちが対応します」
「で、でも、ハルカが」
「助けるために下がってください」
アコちゃんの声は厳しかった。アルちゃんは何か言い返そうとして、言葉を失った。ハルカちゃんの肩から流れる血を見て、唇を噛む。
「……お願い」
小さな声だった。
「あの子を、助けて」
「そのために来ました」
アコちゃんは短く応じた。その言葉は、かなり強かった。
「黒原さん」
「はい」
「戦闘準備。ハルカさんは暴走状態ですが、敵として討つのではありません。鎮圧します」
「分かった」
「最優先は負傷者の退避。アルさん、ムツキさん、あなたたちは下がってください。可能なら周囲の生徒を連れて離脱を」
「……分かったわ」
アルちゃんは悔しそうに頷いた。ムツキちゃんも、いつもの軽さを少しだけ戻したように見えた。
「アルちゃん、行こう」
「でも」
「邪魔になったら、ハルカちゃん助けられないよ」
アルちゃんは歯を食いしばる。それから、負傷していた生徒の方へ駆け出した。私は変身した。背中が熱くなる。黒い羽根が腕を覆い、爪が伸びる。視界が高くなる。足元が軽くなる。怖い。それでも、動ける。
「ハルカちゃん!」
私は声を張った。
「昨日会った、イトだよ! 分かる?」
「見ないでください」
返ってきたのは、震えた声だった。
「私なんか、見ないでください。私の顔なんか、見ないでください」
鉄の鎖が、さらに顔の前で重なる。顔を隠すため。自分を守るため。でも、その鉄が周りを傷つけている。
「見ないよ!」
私は叫んだ。
「今は見ない。だから、こっちの声だけ聞いて」
鉄片が飛んできた。私は横へ跳ぶ。低く飛ぶ。壁を蹴る。金属片が後ろを通り過ぎる。避けた先で、別の鎖が足元を掠めた。速い。重い。マヤの蛇みたいに読みにくくはない。けれど、当たれば終わるという圧がある。
「黒原さん、右から来ます!」
アコちゃんの声。私は翼を畳んだ。曲がった手すりが真横を通る。避けきれず、肩を掠めた。痛い。羽根が散る。でも、死ぬほどではない。
「接近しすぎないでください!」
「分かってる!」
分かっている。でも、このまま距離を取っていても止まらない。ハルカちゃんは謝り続けている。自分の顔を隠して、誰も見ないでと叫んでいる。なら、まずはあの鉄をどうにかしないといけない。私は地面を蹴った。
「黒原さん!」
アコちゃんの制止が飛ぶ。聞こえた。でも、止まらなかった。ハルカちゃんの懐へ飛び込む。爪は使わない。殴る。蹴る。鉄の鎖を弾き、飛んでくる板を肩で受け流す。重く、腕が痺れる。
それでも、動ける。ハルカちゃんの攻撃は強い。けれど、動きそのものはめちゃくちゃだった。自分でも何をしているのか分かっていない。近づくものを遠ざける。見られたくないものを隠す。そのために、鉄が暴れている。
「ハルカちゃん!」
「来ないで!」
鉄の鎖が槍のように伸びる。私は翼を広げ、真上に跳んだ。そのまま背後へ回る。高く飛ぶのは怖い。でも、今は怖がっている場合ではない。
背後。
取れた。
私はハルカちゃんの胴体を後ろから抱え込む。鉄が腕に食い込む。痛い。でも、離さない。
「アコちゃん!」
「まさか」
「上に上げる!」
「危険です!」
「ごめん!」
謝っている場合ではない。でも謝った。
私は翼を大きく広げた。地面を蹴る。ハルカちゃんごと、空へ飛び上がる。重い。鉄の塊を抱えているようなものだ。翼が軋む。腕が千切れそうになる。それでも上がる。倉庫棟の屋根を越える。風が顔に当たる。
このまま上で反転して、地面に叩きつける。スープレックス。キミカ先輩が訓練中に一度見せてくれた技だ。見ただけでできるか。普通は無理。でも、今の私は普通じゃない。私は体を反らした。その瞬間、ハルカちゃんの体が震えた。
「いや」
小さな声。
「見ないで」
鉄が膨れ上がる。まずい。そう思った時には、遅かった。ハルカちゃんの体から、大量の鉄の棘が飛び出した。
胸。腹。肩。腕。足。背中。全部に刺さった。痛い、と思う暇もなかった。
視界が赤くなる。
空が遠ざかる。
ヒナちゃん。カヨコちゃん。アコちゃん。ごめん。今度こそ、怒られる。
そこまで考えて。私は死んだ。
目が覚めた時、最初に見えたのは空ではなかった。天井でもない。アコちゃんの顔だった。
「黒原さん!」
声が近い。かなり近い。私は瞬きをする。喉が痛い。肺が痛い。体が、ばらばらになったものを無理やり縫い直したみたいに軋んでいる。
レイズ。
戻ったのだと理解した瞬間、戻ってしまったという事実の方が重くのしかかった。
「……アコちゃん」
「喋らないでください」
「怒ってる?」
「怒っています」
「ですよね」
私はゆっくり視線を動かした。倉庫棟から少し離れた場所だった。
壁の影、負傷者の退避場所のようなところ。私の近くには、アコちゃんだけではなく、アルちゃんとムツキちゃんもいた。
「……あれ」
私は目を細める。
「二人とも、逃げてって」
「逃げたわよ」
アルちゃんが言葉を返す。顔色が悪い。それでも、目だけは逸らさなかった。
「ここまでね」
「逃げ切れてない」
「分かってるわよ!」
怒られた。違う。怒らせてしまった。ムツキちゃんはいつもの軽い笑みを浮かべようとしていた。でも、うまくいっていない。私の血を見たのだと思う。たぶん、私が串刺しになったところも。
「イトさん、ほんとに死んだんだね」
「たぶん」
「たぶんで済むんだ」
「済んでないです」
アコちゃんが割って入る。声が怖い。
「あなたは、先ほど私の制止を無視して突撃し、単独で危険行動を取りました」
「はい」
「その結果、一度死亡しました」
「はい」
「後で正式に説教します」
「今じゃないんだ」
「今はハルカさんを止める方が先です」
言い返せなかった。私は上体を起こそうとして、全身の痛みに顔をしかめた。生きている。でも、かなり痛い。
死んで戻るのは、便利ではない。絶対に便利ではない。なのに、私はまたそれを使ってしまった。考えない。今は考えない。
ハルカちゃんの方を見る。倉庫棟では、まだ鉄が暴れている。さっきより動きが荒い。私を刺したせいか、ハルカちゃん自身も混乱しているように見えた。
「……作戦、立てよう」
私は口を開いた。アコちゃんがこちらを見る。
「あなたが言いますか」
「言います。さっきのは、私が悪かった。だから次は、みんなでやる」
みんな。口にしてから、少しだけ変な感じがした。でも、そうだった。私とアコちゃんだけでは、たぶん足りない。アルちゃんとムツキちゃんは逃げなかった。それなら、ここにいる意味がある。
「ハルカちゃんの顔を覆ってる鎖。あれを緩めたい」
「なぜですか」
「顔を隠すために、あそこに力が集まってる気がする。あれが緩めば、意識も揺らせると思う」
根拠は薄い。でも、そう感じた。コールのざらつきが、あの頭部の鉄から強く聞こえる。
「どうやって緩めるの」
ムツキちゃんが問いかける。
「さっきハルカちゃんが出した鉄片、地面に散らばってるよね」
「あるわね」
アルちゃんが頷く。
「それを集める。服か何かで袋にして、上からぶつける」
「鉄片入りの袋を?」
「うん。とにかくパワーが必要」
「かなり乱暴ですね」
アコちゃんが淡々と指摘する。
「でも、正面から殴るよりはマシだと思う」
「あなたが言うと説得力がありません」
「はい」
反論できない。アルちゃんが拳を握る。
「なら、私たちは何をすればいいの」
「足止め」
私はアルちゃんを見る。
「アコちゃん、アルちゃん、ムツキちゃんでハルカちゃんの注意を引いてほしい。私は鉄片を集めて、上から行く」
「危険です」
アコちゃんが即座に口にする。
「危険じゃない案が思いつかない」
「それはそうですが」
「死なないようにやる」
「そこは断言してください」
「断言する。今度は死なない」
私はアコちゃんの目を見て言った。嘘ではない。願望でもない。決めた。アルちゃんはしばらく私を見ていた。それから、小さく息を吸う。
「分かったわ」
「アルちゃん」
ムツキちゃんが横から声を掛ける。
「いいの?」
「いいも何も、ハルカを助けるにはやるしかないでしょう」
アルちゃんの声は震えていた。でも、逃げてはいなかった。
「私、さっき撃ったの」
ぽつりと、アルちゃんが言葉を零す。
「ハルカから血が出て、怖くなった。私が傷つけたんだって思った」
誰も茶化さなかった。
「でも、あのまま放っておく方が、もっと駄目なんでしょう」
「うん」
私は頷く。
「助けるために、止める」
アルちゃんはその言葉を噛みしめるように黙った。そして、銃を握り直す。
「なら、やるわ」
その目は、さっきより少しだけ強かった。
再戦は、静かには始まらなかった。ムツキちゃんがまず、倉庫の反対側で小さな爆発を起こした。小さい。たぶん小さい。でも爆発は爆発である。鉄の鎖がそちらへ向いた。
「ハルカちゃん、こっちだよー」
ムツキちゃんが軽い声を出す。ただ、その足はちゃんと逃げ道を選んでいた。笑っているようで、見ている。たぶん、こういう時のムツキちゃんはかなり頼れる。アコちゃんが射撃で鉄片を弾く。アルちゃんはハルカちゃんの前に立った。
「ハルカ!」
声が響く。
「あなたを助ける! だから、今は止めるわ!」
「アルさん……?」
ハルカちゃんが反応する。鉄の鎖が少し揺れた。私はその隙に、地面に散らばった鉄片へ走った。変身状態のまま、羽根のついた腕で鉄片をかき集める。
服。袋。どうする。
私は上着を脱ぎ、袖を結んだ。布地が裂けそうになる。鉄片を押し込む。重い。かなり重い。でも、持てる。今の私なら。鉄片を詰め込んだ上着を抱え、私は翼を広げた。
飛ぶ。上へ。倉庫棟の屋根を越える。前回より高い。怖い。でも、今は下を見る。ハルカちゃんがいる。アコちゃんがいる。アルちゃんがいる。ムツキちゃんがいる。
私だけではない。
「黒原さん、今です!」
アコちゃんの声が聞こえた。私は翼を畳む。落ちる。ハルカちゃんへ向かって、真っ直ぐ。鉄の鎖がこちらを向く。迎撃が来る。私は体を捻る。肩を掠める。痛い。無視する。今度は死なない、と自分に言い聞かせた。
「ハルカちゃん!」
叫ぶ。ハルカちゃんが顔を上げる。鉄の鎖の隙間から、片目が見えた。私は鉄片入りの上着を、全力で叩きつけた。鈍い音がした。衝撃が腕に返ってくる。ハルカちゃんの頭部を覆っていた鎖が、大きく揺れた。緩む。隙間ができる。
「アルちゃん!」
ムツキちゃんが叫んだ。
「分かってるわ!」
アルちゃんが銃を構える。今度は、手が震えていなかった。
「ごめんなさい、ハルカ」
小さく呟いてから、引き金を引く。銃弾が、鎖の隙間を抜けた。ハルカちゃんの頭部に当たる。
血は出なかった。けれど、衝撃で鎖がさらに緩む。ハルカちゃんの体がよろめいた。
そこへ、私は飛び込む。地面を蹴る。低く、速く。爪は握り込む。切らない。殺さない。拳を下から振り上げる。
顎。
当たった。
ハルカちゃんの頭が跳ね上がる。目の焦点が揺れる。鉄の鎖が力を失う。がしゃん、と音を立てて、床へ落ちた。ハルカちゃんの体が傾く。私は慌てて受け止めた。重い。
でも、さっきまでの鉄の重さではない。人の重さだった。
「……止まった」
誰かが呟いた。たぶん、私だった。ハルカちゃんは気を失っていた。顔は涙で濡れていた。でも、もう鉄で隠れてはいなかった。
「ハルカ」
アルちゃんが駆け寄ろうとして、途中で止まる。触っていいのか分からないようだった。アコちゃんが近づき、ハルカちゃんの状態を確認する。
「意識なし。呼吸あり。脈拍確認。命に別状はなさそうです」
その言葉で、場の空気が少しだけ緩んだ。私はその場に座り込んだ。足が震える。腕も震える。でも、生きている。死ななかった。今度は。
「黒原さん」
アコちゃんが私を見る。
「はい」
「後で説教です」
「はい」
「ですが」
アコちゃんは少しだけ言葉を切った。
「今回は、よく止めました」
胸の奥が詰まった。
「……はい」
私は小さく頷いた。
ハルカちゃんは、救急医学部へ運ばれることになった。正確には、救護班の担架を借りて、アコちゃんが状態を見ながら、私は横で支えて歩いた。
ハルカちゃんはまだ眠っている。顔には涙の跡が残っていた。ヘイローはなかった。それを見るたび、胸が重くなる。超人になった。戻れないところまで来てしまった。でも、生きている。今は、それを先に考えることにした。
救急医学部へ向かう途中、アルちゃんとムツキちゃんもついてきた。
「あなたたちは事情聴取があります」
アコちゃんが告げる。
「分かっているわ」
アルちゃんは妙に神妙だった。さっきまでの芝居がかった調子が少し薄い。
「逃げません。私も、現場にいた当事者だもの」
「アルちゃん、真面目」
「私はいつだって真面目よ!」
「うんうん」
ムツキちゃんは笑っている。けれど、その笑い方も少しだけ柔らかかった。救急医学部に到着すると、ハルカちゃんはすぐに処置室へ運ばれた。扉が閉まる。中で誰かの指示が飛び、機材の音がする。
私は廊下の壁にもたれた。急に疲れが来た。アルちゃんは閉まった扉を見ていた。じっと。
「風紀委員会って」
ぽつりと、彼女が口にした。
「ただ取り締まるだけじゃないのね」
私は顔を上げる。
「どういうこと?」
「暴れている相手を倒すだけなら、もっと簡単だったはずよ」
アルちゃんは、自分の手元の銃を見る。
「でも、あなたたちは助けようとしていた。傷つけないように、殺さないように、止めようとしていた」
「私は一回死んだけど」
「そこは反省しなさい」
「はい」
普通に怒られた。なぜ。アルちゃんはそれでも、目を逸らさなかった。
「強いって、そういうことなのね」
小さな声だった。
「誰かを倒せることじゃなくて、誰かを助けられること」
その言葉は、たぶん彼女自身に向けたものだった。私は何も言わなかった。アコちゃんも黙っていた。ムツキちゃんだけが、少しだけ楽しそうにアルちゃんを見ている。
「アルちゃん、風紀委員会に憧れてる?」
「ち、違うわ! これは研究よ、研究!」
「はいはい」
「私はアウトローとして、敵を知る必要があるの!」
「そのわりに、目がきらきらしてるよ」
「してない!」
いつもの調子に戻りかけたアルちゃんを見て、少しだけ安心した。でも、さっきの言葉は消えない。誰かを助けられる強さ。アルちゃんの中に、今日それが残ったのだと思う。それがいつ、どんな形になるのかは分からない。でも、大事な種だった。
その日の夜、私は寮に戻った。背中が痛い。腕も痛い。心も少し痛い。でも、生きている。それはかなり大事なことらしい。部屋に入ると、カヨコちゃんがベッドに座っていた。
「おかえり」
「ただいま」
「死んだって?」
「一回死んだ」
カヨコちゃんの目が細くなった。怖い。
「でも、二回目は死ななかった」
「褒めればいいのか怒ればいいのか迷う報告やめて」
「すみません」
「あとで詳しく聞く」
「はい」
これは怒られる。かなり怒られる。でも、今はそれも少しだけありがたかった。私は椅子に座る。今日はメロンパンを買っていない。買っておけばよかった。こういう日は、甘いものが必要だ。
「昨日話してたハルカちゃん、助かったよ」
「そっか」
「超人には、なっちゃったけど」
「うん」
「でも、助かった」
「なら、よかったんじゃない」
カヨコちゃんはそれだけ口にした。簡単には言えないことを、簡単に言ってくれる。たまに、それに救われる。
「アルちゃんがね」
「うん」
「風紀委員会に憧れてた」
「なんで?」
「私も分からない」
「分からないんだ」
「誰かを助けられる強さ、みたいなことを言ってた」
「へぇ」
カヨコちゃんは少しだけ意外そうだった。
「いいんじゃない」
「いいのかな」
「憧れる先が多少おかしくても、誰かを助けたいなら悪くないでしょ」
「風紀委員会がおかしいみたいに聞こえる」
「おかしくないと思う?」
「……ちょっとおかしいかも」
「でしょ」
反論できない。私は窓の外を見る。ゲヘナの夜は、相変わらず騒がしい。遠くで爆発音がして、誰かが笑って、サイレンが鳴っている。
いつもの夜。でも、今日は少しだけ違った。ハルカちゃんは生きている。アルちゃんの中には、何か小さな種が残った。ムツキちゃんはそれを面白がっている。アコちゃんはたぶん、報告書を書きながら頭を抱えている。ヒナちゃんには、あとで怒られるかもしれない。カヨコちゃんにも、今から怒られる。それでも。二回目は、死なずに誰かを助けられた。
それを少しだけ、誇ってもいい気がした。ほんの少しだけ。背中の奥が、微かに熱くなる。私は反射的に肩を押さえた。羽根は出ていない。爪も伸びていない。
でも、あのざらつきだけが、まだ耳の奥に残っていた。黒服。アンプル。ロカ。救えたものの影に、救えなかったものと、これから壊されるかもしれないものが見える。だから、安心はできない。でも、それでも。
この力で誰かを助けられて良かった。