黒原イトの青春 作:ナポリタン
ハルカちゃんの事件から、数日が経った。救急医学部に運ばれたハルカちゃんは、命に別状はないらしい。それを聞いた時、私はかなり長く息を吐いた。
無事。という言葉を使っていいのかは分からない。ヘイローは消えていた。鉄の超人になった。暴走して、周りを傷つけて、自分も傷ついた。それでも、生きている。今はそこから始めるしかないのだと思う。
アルちゃんとムツキちゃんは事情聴取を受けた後、しばらく妙に大人しかったらしい。らしい、というのは私が直接見たわけではないからだ。アコちゃんから聞いた。
アルちゃんは、風紀委員会の活動について妙に詳しく質問していたらしい。アコちゃんはその話をする時、少し複雑そうな顔をしていた。
「妙な憧れ方をされています」
と言っていた。妙な憧れ方。それは少し分かる。私も風紀委員会にいる身で言うのも何だけど、風紀委員会は憧れる場所としては少し癖が強い。毎日事件が起きるし、報告書は多いし、上司は怖いし、ヒナちゃんは強すぎるし、キミカ先輩は豪快すぎるし、イツキ先輩は何を考えているか分かりづらい。並べると、やはり癖が強い。
ただ、アルちゃんが見たものが悪いものではなかったなら、それでいいのかもしれない。誰かを助けられる強さ。あの子がそう言ったことを、私はまだ覚えている。
そして私はというと、ヒナちゃんとカヨコちゃんとアコちゃんから、それぞれ別々に怒られた。内容はだいたい同じだった。一人で突っ込むな。レイズを前提にするな。死んで戻れるからといって、死んでいいわけではない。
分かっている。分かっているのだけど、分かっているだけでは足りないらしい。
当然である。痛い目を見た。という表現では足りない。一度死んだ。胸も腹も肩も腕も足も背中も鉄の棘で貫かれて、私は一度死んだ。思い出すと、背中の奥が冷える。
それなのに、次に同じような場面が来た時、自分が絶対に同じことをしないと言い切れるか。言い切れない。だから怒られる。
言い切れない自分が、一番面倒くさい。
その日の朝、私は風紀委員会本部に呼び出された。場所は会議室。キミカ先輩、イツキ先輩、ヒナちゃん、アコちゃんが私を待っていた。
……帰ってもいいかな。この並びに私が混ざっているのは、明らかにおかしい。場違い。とても場違い。できれば扉を閉めて、何も見なかったことにしたい。
「黒原イト君」
イツキ先輩がこちらを見た。
「入ってくれ」
「はい」
私は大人しく席につく。隣にはヒナちゃんがいた。目が合う。
「……体は?」
「だいぶ平気」
「本当に?」
「本当に。痛いけど、動ける」
ヒナちゃんは少しだけ眉を寄せた。
「痛いなら平気じゃない」
「それは、そう」
反論できない。でも、動けるのは本当だった。超人の体は変だ。死んでも戻るし、戻った後も痛いし、でも治りは早い。便利と言えば便利なのかもしれない。
ただ、便利と言ってしまうと、何か大事なものを間違える気がする。だから、便利とは思わないことにしている。
「さて」
イツキ先輩が端末を操作すると、会議室の壁面モニターに地図が表示された。ゲヘナではない。砂漠。広い砂の地図。その端に、アビドスという文字があった。
「以前、野蛇マヤの記憶から読み取った情報について、追加の確認が取れた」
イツキ先輩は続けた。
「生徒会はアビドス砂漠で大規模兵器を建造している可能性が高い。名前はシェマタ。列車砲に近い形状だが、通常兵器として考えるには規模が大きすぎる」
モニターに、ぼやけた映像が映る。砂。線路。巨大な影。煙のように揺らぐ輪郭。見ているだけで、胸が重くなる。
「これ、前に言ってたやつですよね」
「そうだ」
イツキ先輩は頷く。
「煙の超人、煙羅トモリが施設を隠蔽している。外部からの観測は非常に困難だ。衛星画像も、遠距離偵察も、ほとんど役に立たない」
「煙で隠してるってことですか」
「単純な煙幕ではない。コールの反応も混ざっている。少なくとも、通常の光学迷彩や妨害工作ではないね」
私はモニターを見る。煙。砂。大きな砲身。遠くにあるはずなのに、こちらを向いているような気がした。
「完成したら、どうなるのでしょうか」
アコちゃんが尋ねる。声は落ち着いている。でも、表情は硬い。
「推定では、ゲヘナ西側だけでなく、周辺学区にも被害が出る」
「推定で済ませる規模じゃないですね」
「だから、現地確認が必要になる」
イツキ先輩の視線が私たちへ向いた。
「派遣するのは、私、黒原イト君、空崎ヒナ、天雨アコ。この四名だ」
私は一瞬、聞き間違いかと思った。
「私もですか」
「当然だ」
「当然なんですか」
「君は超人のコールを感知できる。加えて、飛行能力がある。煙による視界妨害や地形障害を受けにくい。現地確認には必要な人材だ」
必要な人材。その言葉は、少しだけ嬉しい。でも、怖い。必要とされるということは、行く理由ができてしまうということだ。ヒナちゃんが静かに口を開く。
「危険です」
「危険だね」
イツキ先輩はあっさり認めた。
「だが、危険ではない任務など今のゲヘナには存在しない。特に今回は、放置した場合の被害が大きすぎる」
「イトを連れていく必要が、本当にありますか」
ヒナちゃんの声は低かった。怒っているというより、抑えている声。私の方は見ない。イツキ先輩だけを見ている。
「ある」
イツキ先輩は即答した。
「現地には超人が関与している。コールの感知、超人化反応への対応、そして空からの確認。黒原イト君がいれば、選択肢が増える」
「選択肢」
「そうだ」
イツキ先輩は私を見る。
「ただし、作戦資源として死んでいいという意味ではない」
「……はい」
私は小さく返事をした。作戦資源。キツい物言いだが、私が私をそう扱いかけているところもあるため、大人しく受け入れるしかなかった。
「黒原さん」
アコちゃんもこちらを見る。
「現地では必ず指示を聞いてください。単独行動は禁止です」
「はい」
「本当に」
「はい」
今日はちゃんと目を逸らさずに答えた。ヒナちゃんが私の横顔を見ている気配がした。私はそちらを見られなかった。
「キミカ先輩は行かないんですか」
私は話題を変えるように尋ねた。キミカ先輩は腕を組んで、椅子にもたれていた。
「私はゲヘナに残る」
短い返事だった。
「ロカ本人が動く可能性がある以上、こっちを空にはできない。あいつが気まぐれで本部に来るだけでも面倒だからな」
「面倒で済むんですか」
「済ませる」
言い切った。格好いい。でも、少し怖い。キミカ先輩は笑った。いつもの豪快な笑みだったけれど、目は笑っていなかった。
「それに、遠征向きなのはこいつらだ。イツキは頭、アコは調整、ヒナは戦力、イトは鳥」
「鳥」
鳥扱いされた。間違ってはいない。間違ってはいないが、もう少し言い方があるのでは。
「いいじゃないか。鳥は偵察に向いてる」
「……やっぱ不服です」
「ははは」
キミカ先輩は楽しそうに笑う。その軽さに、少しだけ空気が緩んだ。
「現地では、アビドス高等学校の生徒会と接触する」
イツキ先輩が説明を続ける。
「生徒会長は梔子ユメ。彼女には最低限の事情を伝えてある。ただし、超人に関する詳細は伏せている」
「伏せて大丈夫なんですか」
「全て話せば協力が得られるとは限らない。かといって隠しすぎれば信用を失う。だから、現地で判断する」
「難しいですね」
「難しいよ」
イツキ先輩は淡々と答えた。
「だから私が行く」
自信。というより、当然のこととして口にしている感じだった。こういうところは、少しだけ頼もしい。ヒナちゃんがモニターを見る。
「出発は」
「本日午後」
「早いですね」
アコちゃんが目を細める。
「シェマタの稼働試験が近い可能性がある。悠長にはしていられない」
「準備時間は」
「三時間」
「短い」
「必要最低限でいい。長距離戦闘ではなく、調査任務だ」
調査任務。その言葉をそのまま信じるほど、私はもう素直ではない。調査だけで終わる任務は、だいたい終わらない。いや、これは経験ではなく偏見かもしれない。
でも、ここ最近の出来事を思うと、かなり当たっている気がする。
「黒原イト君」
イツキ先輩が私を呼ぶ。
「はい」
「君には特に言っておく。アビドスはゲヘナではない。風紀委員会の権限も、君たちの常識も、そのまま通るとは限らない」
「はい」
「困っている人間を見つけても、すぐに手を出すな。見たもの全てを助けようとすると、逆に何も救えなくなる」
胸が少し痛んだ。ハルカちゃんの顔が浮かぶ。助けた。でも、一度死んだ。助けられたのは、私だけの力ではなかった。
「分かってます」
「ならいい」
イツキ先輩はそこで一度言葉を切った。
「分かっていても、君はやる時はやるだろうがね」
「信頼されてるのか、されてないのか」
「どちらもだ」
返しに困る。ヒナちゃんが小さく息を吐いた。
「私が見ておきます」
「頼む」
イツキ先輩はあっさり頷く。見ておく。私は少しだけ肩を縮めた。監視対象。完全に監視対象である。でも、ヒナちゃんが見てくれるなら、少し安心してしまう自分もいる。よくない。でも安心する。
出発までの三時間は、思ったより短かった。装備の確認。通信機の調整。簡易医療品。水。砂漠用の外套。アコちゃんが必要物資をリスト化し、私とヒナちゃんに配る。イツキ先輩は別室で何かの通信をしていた。多分、アビドス側との調整だと思う。私は自分の鞄に荷物を詰めながら、何度か手を止めた。
砂漠。アビドス。ゲヘナの外。もちろん、ゲヘナの外に出たことがないわけではない。でも、今回の外出はただの移動ではない。シェマタという大きすぎるものを見に行く。ロカに繋がるものを。そう考えると、手が少し冷たくなった。
「イト」
声がした。振り返ると、ヒナちゃんが立っていた。
「準備は」
「たぶん大丈夫」
「たぶん」
「確認するわ」
私は鞄を開けた。ヒナちゃんは中身を見る。水、包帯、通信機、予備の服、メロンパン。メロンパン。
「……それも必要?」
「私の心の安寧のために」
「食べ物でしょ」
「食べられる精神安定剤」
ヒナちゃんは少しだけ困った顔をした。でも、取り上げはしなかった。優しさ。メロンパンは守られた。
「無茶しないで」
ヒナちゃんが静かに口にする。私は鞄を閉じる手を止めた。
「うん」
「本当に」
「うん」
「イトは、すぐ自分を後回しにする」
言い返せなかった。ヒナちゃんの声は責めるようではなかった。だから、余計に痛い。
「前の時も、止められなかった」
「……ごめん」
「謝ってほしいわけじゃない」
ヒナちゃんは少しだけ視線を落とす。
「戻ってきてほしいだけ」
胸の奥が詰まった。そう言われると、私は何も言えなくなる。
「戻るよ」
だから、それだけ答えた。
「ちゃんと戻る。死んで戻るんじゃなくて、生きて戻る」
ヒナちゃんが私を見る。その目は、まだ少し不安そうだった。でも、ゆっくり頷いた。
「約束」
「約束」
私は頷き返した。約束。簡単な言葉。でも、最近の私にはかなり重い。守らなければならない言葉だ。
出発前、カヨコちゃんに会った。寮の前。彼女はいつものように、眠たそうな顔で壁にもたれていた。
「アビドス行くんだって」
「情報早い」
「噂になってる」
「もう?」
「風紀委員会が外に出ると目立つから」
確かに。ヒナちゃんとイツキ先輩とアコちゃんが揃って動くのだから、目立たない方がおかしい。私もその一員に数えられていると思うと、少し胃が重い。
「カヨコちゃん」
「何」
「お土産、何がいい?」
「任務でしょ」
「そうだけど」
「じゃあ、無事に帰ってきて」
軽い声だった。でも、冗談ではなかった。私は一瞬黙る。
「それ、お土産?」
「一番必要」
「確かに」
カヨコちゃんは私を見る。
「死なないでね」
「うん」
「一回死んだとか、二回目は死ななかったとか、そういう報告はいらない」
「はい」
「ほんとに」
「はい」
私はちゃんと頷いた。カヨコちゃんはそれを見て、少しだけ息を吐いた。
「あと、メロンパンばっか食べないこと」
「なぜバレた」
「顔」
「顔でメロンパンの数まで分かるの?」
「分かりやすいから」
怖い。既に心の扉が開かれているというのか。
「行ってくる」
「行ってらっしゃい」
私は手を振って、集合場所へ向かった。
アビドスへ向かう移動車両の中は、思っていたより静かだった。
運転席にはイツキ先輩。その隣にアコちゃん。後部座席に、ヒナちゃん、私。
砂漠へ向かうにつれて、窓の外の景色が変わっていく。ゲヘナの騒がしい街並みが遠ざかり、建物が少なくなり、乾いた地面が増える。やがて、砂が見え始めた。砂漠は広く、空がとても大きかった。
ゲヘナの空も広いはずなのに、アビドスへ近づく空はまるで別物だった。建物に切り取られていない空。砂の向こうまで続く空。風が吹けば、地平線ごと揺れるような空。
「鳥としては、どうだい」
イツキ先輩が急に聞いてきた。
「どう、とは」
「飛びやすそうか」
「乙女として、日光が気になるところですね」
「それはお気の毒に」
「飛ばせる気満々じゃないですか」
「必要ならね」
私は窓の外を見る。砂の上を、風が走っていた。
「アビドスは、砂漠化が進んでいると聞いています」
アコちゃんが資料を見ながら言った。
「生徒数も減少傾向。財政面にも問題があるようです」
「問題だらけだね」
私が呟くと、イツキ先輩が頷いた。
「だからこそ、生徒会側に利用される隙がある」
「隙」
「人が減り、土地が広く、管理が行き届かない。大規模な建造物を隠すには都合がいい」
都合がいい。アビドスには、アビドスの人たちがいる。そこに暮らしている生徒がいる。なのに、ロカたちにとっては、都合のいい場所として見られている。私は少しだけ拳を握った。ヒナちゃんがこちらを見る。
「イト」
「大丈夫」
反射で答えた。ヒナちゃんの目が細くなる。
「……今の大丈夫は、あまり信用できない」
「ごめん」
「怒ってるわけじゃない」
「うん」
私は拳の力を抜いた。怒りで動かない。そう決めた。決めたはずだ。でも、怒りは勝手に湧いてくる。
問題は、それに体を持っていかれないこと。ロカの時も、ハルカちゃんの時も、私はすぐ前に出た。
次は、ちゃんと見る。ちゃんと聞く。それから動く。多分。いや、多分は駄目だった。努力する。これも駄目か。難しい。
「黒原さん」
アコちゃんが私を見る。
「今、また余計なことを考えていませんか」
「考えてます」
「そこは正直なんですね」
「嘘はよくないので」
「行動も伴わせてください」
「はい」
アコちゃんはため息をついた。イツキ先輩が少しだけ笑った気がした。笑ったのか。気のせいかもしれない。
アビドス高等学校は、想像していたより静かだった。校舎は大きい。けれど、人の気配が少ない。
門の前に車両が止まると、砂が小さく舞い上がった。乾いた風が頬に当たる。ゲヘナの熱気とは違う。もっと乾いていて、音を吸い込むような風だった。
「ここがアビドス」
私は小さく呟いた。
「暑いですね」
アコちゃんが眉を寄せる。校門の前には、二人の生徒が立っていた。
一人は柔らかい雰囲気の上級生。こちらに気づくと、ぱっと笑顔を浮かべて手を振った。もう一人は、その少し後ろに立っている。小柄で、目つきが鋭い。こちらを警戒するように見ていた。
「ゲヘナ風紀委員会の方々ですね!」
手を振っていた生徒がこちらへ歩いてくる。
「遠いところをありがとうございます。私はアビドス高等学校生徒会長、梔子ユメです」
梔子ユメ。この人が、アビドスの生徒会長。柔らかそうに見える。でも、目はまっすぐだった。疲れているようにも見えるのに、笑顔は崩さない。そういう人なのだと思った。
「坂間是イツキだ。こちらは空崎ヒナ、天雨アコ、黒原イト」
イツキ先輩が代表して名乗る。
「急な連絡にも関わらず、受け入れに感謝する」
「いえ。こちらこそ、詳しい事情を聞きたいと思っていました」
ユメさんはそう言ってから、後ろの生徒を振り返った。
「ホシノちゃん」
「……分かってます」
小柄な生徒が一歩前に出る。
「小鳥遊ホシノ。アビドス高等学校、一年」
殺気だっている、というより警戒心が強い感じ。よく訓練をしているのだろう。立ち姿に一本芯が通っていて、隙がない。
「ゲヘナが何の用ですか」
ホシノちゃんが口にした。
ど直球だね。
「ホシノちゃん」
ユメさんが困ったように声を掛ける。
「だって、怪しいじゃないですか。急にゲヘナの風紀委員会が来るなんて」
それはそう。完全にそう。私がアビドス側でも怪しむ。イツキ先輩は気にした様子もなく頷いた。
「疑うのは正しい。こちらも全てを話せるわけではないが、少なくともアビドスに危険が及ぶ可能性があるため来た」
「危険?」
ホシノちゃんの目がさらに細くなる。
「何の危険ですか」
「砂漠内で、大規模な建造物が確認されている」
イツキ先輩は言葉を選ぶように告げた。
「それが兵器である可能性が高い」
ユメさんの表情が変わった。笑顔は消えない。でも、目の奥が硬くなる。
「アビドスの砂漠に、ですか」
「そうだ」
「場所は」
「詳細は中で共有する」
「分かりました。案内します」
ユメさんはすぐに頷いた。判断が早い。柔らかい人に見えるのに、こういうところはしっかりしている。ホシノちゃんはまだ納得していない顔だった。視線が私たちを順番に見て、最後にヒナちゃんで止まる。
「あなた、強いんですね」
突然だった。ヒナちゃんは少しだけ目を細める。
「どうして」
「見れば分かります」
ホシノちゃんは短く答えた。ヒナちゃんもそれ以上は聞かなかった。強い人同士の会話。短い。私は置いていかれた。少し寂しい。いや、寂しがる場面ではない。
「……あなたは?」
今度はホシノちゃんの視線が私に向いた。
「え、私?」
「何か……いえ、何でもないです」
意味深な物言い、ヒナちゃんとアコちゃんの視線が痛い。冤罪だ、まだ私はなにもしていない。
「改めて、黒原イトです。一年生同士、よろしくね」
「……」
気まずい空気を何とかするための、私渾身の挨拶が雑に流された。
「ホシノちゃん」
ユメさんが少し強めに呼ぶ。
「信用できないっていうのは、分からなくもないよ。でも、礼儀は礼儀」
「すみません」
ホシノちゃんは謝った。でも、目はあまり謝っていなかった。私は少し笑う。
「大丈夫ですよ。実際、身内……なんて死んでもいいたくないですけど、迷惑かけてますし」
「あはは……それでは、中へ」
ユメさんが校舎へ向かって歩き出す。私たちはその後に続いた。
校舎の中は、外より少し涼しかった。でも、人の気配はやはり少ない。廊下は綺麗にされているのに、使われていない教室がいくつもある。
掲示板のポスターも、少し古い。広い校舎。少ない生徒。乾いた風。アビドスは、静かだった。静かすぎるくらいに。
「黒原さん」
アコちゃんが小さく声を掛ける。
「はい」
「何か感じますか」
私は耳を澄ませる。コール。ざらつき。嫌な気配。今は、はっきりとは分からない。ただ、遠く。本当に遠くに。何か大きいものが、こちらを向いているような感覚があった。
「遠くに」
私は小さく答えた。
「方向は」
「砂漠の方」
アコちゃんの表情が硬くなる。イツキ先輩も聞いていたらしい。
「やはりね」
そう呟いた。私は窓の外を見る。砂漠が見えた。広くて、明るくて、何もないように見える場所。
でも、その向こうに何かがある。巨大な砲身。煙の超人。シェマタ。まだ姿は見えない。それなのに、胸の奥が重くなる。
アビドスへ来た。ここから先は、ゲヘナの内側ではない。知らない土地。知らない空。知らない人たち。そして、ロカの影。
私は鞄の中のメロンパンを思い出した。まだ食べていない。食べるなら、たぶん今ではない。そんなことを考えながら、私はユメさんとホシノちゃんの背中を追った。
砂漠の向こうから、聞こえないはずの金属音が聞こえた気がした。
煙羅トモリ(えんらともり)
ゲヘナ学園生徒会所属。3年生。煙の超人。