黒原イトの青春 作:ナポリタン
三校共同戦線。言葉にすると妙に格好いい。
アビドス、ゲヘナ、トリニティ。本来なら、そう簡単に同じ方向を向ける相手ではない。少なくとも、ホシノちゃんの警戒心と、ハスミさんの礼儀正しい冷たさを見る限り、仲良し遠足ではないことだけはよく分かる。
つまり全体的に気まずいが、今はそれどころではない。砂漠の向こうには煙があり、その奥にはシェマタがある。五摂ロカに繋がる、大きすぎる砲身だ。
「確認しておく」
イツキ先輩が、古い観測塔の陰で地図を広げた。錆びた鉄骨が、風に軋む。太陽はまだ高い。砂は熱を持っていて、足元からじわじわと体力を削ってくる。砂漠は、想像以上に厳しい。
「ここから先は、通信がさらに不安定になる可能性が高い。煙の中に入れば、ユメ君との連絡も途切れるだろう」
「すでにノイズが増えています」
アコちゃんが端末を確認しながら言う。
「通常の通信妨害とは少し違いますね。波形が乱れているというより、信号そのものが飲まれている感じです」
「煙の影響ですか」
ホシノちゃんが低く言った。
「おそらくは」
イツキ先輩は頷く。
「煙羅トモリ。煙の超人。彼がこの区域を隠しているなら、視界だけでなく通信にも干渉している可能性がある」
「煙で通信まで?」
「単なる煙ではないということだよ」
ハスミさんが少しだけ目を細める。
「先ほどもその説明でしたね。ゲヘナ側の事情を全て明かせないのは理解しますが、こちらも不明瞭なまま奥へ進むわけにはいきません」
ハスミさんは、礼儀を崩さない。でも、ゲヘナ側の説明をそのまま信用するつもりもない。言葉の奥に、きれいに磨かれた針が入っている。アコちゃんの眉が少しだけ動いた。
「こちらも、共有可能な情報は共有しています」
「共有可能、ですか」
「はい。現時点では」
空気が冷える。トリニティの怖さは、ゲヘナの怖さと違う。ゲヘナは分かりやすく爆発する。トリニティは礼儀正しく冷える。どちらがマシか。どちらも嫌である。
「ハスミ」
ナナナさんが軽く声を掛けた。
「今は突っつくな。どうせ全部は吐かねぇ」
「承知しています」
「承知してる顔じゃねぇな」
「承知しています」
二回言った。大事なのだろう。ナナナさんは肩を竦めた。
「ま、今はあの煙だ。ゲヘナが何を隠してようが、アビドスの砂漠に変なもんがあるのは確かなんだろ」
「そこは同意します」
ハスミさんは静かに答えた。ホシノちゃんは地図を見下ろしたまま口を開く。
「確認します。ここはアビドスです。奥へ進むにしても、最終判断はアビドス側がします」
「当然だ」
イツキ先輩がすぐに頷いた。
「君たちの土地だ。私たちは情報と戦力を提供する」
「トリニティも、それで構いません」
ハスミさんが続ける。
「対象がトリニティ圏へ被害を及ぼす可能性がある以上、調査と対処には参加します。ただし、アビドス側の権限を軽視する意図はありません」
「だそうだ」
ナナナさんが言う。
「細けぇ話はそれでいいだろ。行くなら行く。戻るなら戻る。どっちだ」
「進みます」
ホシノちゃんは即答した。その声に迷いはなかった。
「ユメ先輩には、私から通信を入れます」
ホシノちゃんは通信機を手に取り、少し離れた位置でユメさんへ連絡を入れた。ノイズ混じりの音が、こちらまで聞こえる。
「ユメ先輩。これから煙の濃い区域に入ります。通信が切れるかもしれません」
『ホシノちゃん、大丈夫?』
「大丈夫です」
出た。信用できない言葉。大丈夫。ヒナちゃんが私を見る時の目になりそうだったので、私は黙った。
『本当に?』
「本当です。だから、ユメ先輩は学校から動かないでください」
『でも、通信が切れたら』
「切れても、こっちから戻ります。だから、絶対に一人で様子を見に来たりしないでください」
『うん……分かった』
「本当に分かってますか」
『分かってるよ』
「前もそう言いました」
『ホシノちゃん』
通信越しのユメさんの声は困ったように柔らかかった。ホシノちゃんは少しだけ黙ってから、声を落とした。
「……必ず戻ります」
『うん。待ってる』
通信が切れる。いや、切ったというより、ノイズに飲まれたように途切れた。ホシノちゃんは通信機をしばらく見つめていた。
「行きましょう」
ホシノちゃんが顔を上げる。その目は、もう迷っていなかった。
煙の境界へ近づくほど、空気は重くなった。
砂漠なのに、湿っているような感じがする。いや、実際に湿っているわけではない。喉は乾くし、唇も乾くし、肌もじりじり焼ける。
けれど、耳の奥だけが水に沈んだみたいに鈍くなる。音が遠い。足音も、風の音も、自分の呼吸も、薄い膜の向こうにある。普通の煙ではない。
これは、煙という形をした何かだ。私は耳を澄ませた。ざらつき。ある。さっきより近い。でも、一つではない。
「……多い」
思わず口から漏れた。ヒナちゃんがすぐにこちらを見る。
「イト?」
「コール。一つじゃない。細かいのが、いくつもある」
「数は」
アコちゃんが尋ねる。
「分からない。でも、とにかく多い」
自分で言って、背中の奥が冷えた。多い。それはつまり、煙の中に超人がたくさんいるということなのか。
いや、違う。全部が超人とは限らない。ハルカちゃんの時のような、強くて大きなコールではない。もっと崩れた、擦れた、切れかけた音が混じっている。声になりそこねた声みたいなものが、煙の中でいくつも震えている。
「群れか」
イツキ先輩が呟いた。
「群れ?」
ホシノちゃんが聞き返す。
「何の群れですか」
イツキ先輩はすぐには答えなかった。その沈黙に、ハスミさんの視線が鋭くなる。
「何度も申し上げますが、情報を小出しにされるのは困ります」
イツキ先輩は表情を変えずに頷いた。
「超人化が失敗した個体、あるいは暴走が進行した個体は、人の形を保てないことがある。こちらでは便宜上、獣と呼んでいる」
「獣」
ホシノちゃんの声が硬くなる。
「元は、生徒なんですか」
その問いに、イツキ先輩は少しだけ間を置いた。
「そう見てもらって構わない」
空気が重くなった。砂漠の熱さとは別の重さ。私はハルカちゃんを思い出した。鉄の鎖で顔を覆っていたハルカちゃん。謝りながら暴れていたハルカちゃん。
もし、あの時止められなかったら。もし、あのまま暴走が進んでいたら。ハルカちゃんも、この煙の中にいる何かみたいになっていたのだろうか。
「イト」
ヒナちゃんの声がした。短い言葉でも、ちゃんと届く。
「大丈……」
と言いかけて、私は止まった。その言葉は、最近あまり信用されていない。
「大丈夫じゃないけど、動ける」
言い直すと、ヒナちゃんは少しだけ目を細めた。それから、頷いた。
「分かった」
分かってくれた。たぶん。少しだけ。
「来るぞ」
ナナナさんが言った。その瞬間、煙の奥で何かが動いた。
影。
人影。
いや、人ではない。
長すぎる腕。曲がりすぎた背中。骨のような突起。顔の半分が、何かの獣のように歪んでいる。でも、残りの半分は人の顔に見えた。ヘイローはない。
それが、こちらへ走ってくる。走ってくるというより、崩れた体を無理やり前へ投げ出している。
「っ」
ホシノちゃんが反射的に銃を構えた。撃つ。弾が獣の肩に当たった。血が出た。赤い血。砂の上に散った。
ホシノちゃんの表情が固まる。その一瞬を、私は見てしまった。撃ったら血が出る。キヴォトスの生徒なら、銃弾を受けても倒れるだけで済むことが多い。痛いし、危険だし、絶対に軽く扱っていいものではない。それでも、ヘイローがある。
でも、超人は違う。獣も、違う。血が出る。簡単に、殺せてしまう。
「前へ出る」
ヒナちゃんが短く言った。その声で、空気が動いた。ヒナちゃんは獣の突進を横へ捌き、銃床で首元を打つ。倒れ込んだ獣の腕を踏み、動きを封じる。
別方向から、もう一体が飛び出した。ツルギさんが動いた。速い。けれど、荒くない。獣の腕を受け止め、体を沈め、重心を崩す。そのまま地面へ押さえ込む。砂が弾けた。獣が暴れる。ツルギさんは黙ってそれを押さえ続ける。
「……強い」
思わず呟いた。ヒナちゃんとは違う。でも、同じくらい怖い。静かな怖さ。
「右から三つ、左から二つ!」
私は反射的に叫んだ。煙の奥から、さらに影が出てくる。アコちゃんが即座に端末を見ながら声を飛ばす。
「空崎さん、右側を! 小鳥遊さんは後方確認! 黒原さんは上に出すぎず、視界確保を!」
「了解」
ヒナちゃんが右へ動く。ホシノちゃんが一瞬遅れて、後方へ向き直る。
「ハスミさん、左側の射線を抑えてください」
アコちゃんが言った。ハスミさんの眉がほんの少し動いた。ゲヘナ側から指示を受けることに、一瞬だけ抵抗があったように見える。でも、すぐに銃を構える。
「了解しました。ただし、射線の確保はこちらで判断します」
「構いません」
互いに信用はしていない。でも、必要なことは分かっている。ハスミさんの射撃は正確だった。獣の脚を撃ち抜き、突進を止める。丁寧で、冷静で、少し怖い。ナナナさんは、もっと雑だった。
「まとめて吹っ飛べ!」
砂煙が上がる。獣の群れが横へ崩れる。ただし、吹き飛ばされた一体がこちらへ転がってくる。
「ナナナさん!」
「そちらへ飛ばさないでください!」
アコちゃんとハスミさんが、ほぼ同時に言った。声が重なった。ナナナさんが面倒そうに顔をしかめる。
「細けぇな」
「細かくありません」
「細かくありません」
また重なった。アコちゃんとハスミさんが、一瞬だけ互いを見る。私はちょっと笑いそうになった。笑う場面ではない。獣が来ているのだから、なおさらだ。でも、少しだけ空気が変だった。
戦闘は、すぐに乱戦になった。煙の中から獣が出てくる。一体倒しても、また別の影が動く。群れ。まさにそうだった。ただし、統率されているわけではない。それぞれが勝手に暴れているように見える。
でも、進んでくる方向は同じ。こちらへ。まるで煙に追い立てられているみたいに。
「これは」
ハスミさんが低く言った。
「獣がこちらを狙っているというより、こちらへ流されているのでは」
「同感だ」
イツキ先輩が答える。
「煙で進路を作っている。獣の群れごと、こちらへ押し出しているらしい」
「つまり、利用されていると」
「その可能性が高い」
獣が利用されている。元は生徒だったかもしれないものが、煙に追われて、私たちにぶつけられている。最悪で、嫌な話だった。胸の奥がざらつく。
「ホシノ君!」
イツキ先輩の声。振り返ると、ホシノちゃんの背後から獣が飛びかかろうとしていた。考えるより先に体が動いた。
でも、今度は真正面から突っ込まない。上へ。低く飛ぶ。砂を蹴って、翼で風を掴む。獣の腕がホシノちゃんへ届く直前、私は横から爪を叩きつけた。
切らない。弾く。腕の軌道を変える。獣が体勢を崩す。ホシノちゃんがすぐに距離を取り、脚を撃つ。獣が砂に倒れる。
「助かりました」
ホシノちゃんが短く言った。
「どういたしまして」
「変な人だけど、役には立つんですね」
「褒め方が下手」
「褒めてます」
「本当に?」
「……まあ」
「言い切ってよぉ」
ホシノちゃんの口元が少しだけ緩んだ。こんな状況なのに。少しだけ嬉しくなる。
いや、嬉しがる場面ではない。獣のうめき声が、また聞こえた。私は振り返る。
一体の獣が、砂の上で体を引きずっていた。動きは遅い。もう戦える状態ではない。でも、口が動いている。声になっていない。喉が潰れているのかもしれない。それでも、何かを言おうとしている。
すみません。
そう聞こえた気がした。ハルカちゃんの声と重なる。謝らなくていいよ。そう言いたくなる。足が止まった。
「今は止まらないで」
ヒナちゃんが私の前に入った。飛びかかってきた別の獣を、ヒナちゃんが受け止める。一瞬遅れていたら、私は引き裂かれていた。
「ごめん」
「謝るのは後」
「はい」
ヒナちゃんはそれ以上言わなかった。でも、短い言葉で十分だった。
「黒原イト君」
イツキ先輩の声が飛ぶ。
「考えるのは後だ。今は全員を生かす」
冷たい言い方だったが、正しい。今、私が立ち止まったら、誰かが傷つく。獣を助けたい。でも、今は全員を生かす。私は息を吸った。
「はい」
翼を広げる。高くは飛ばない。煙が濃いし、上に行きすぎれば、また見られる。
ヒナちゃんとホシノちゃんの間。アコちゃんとハスミさんの射線の隙間。ナナナさんが雑に吹き飛ばした獣の着地点。ツルギさんが押さえ込んだ大型個体の横。
味方の間を繋ぐ。
前に出すぎない。
一人で突っ込まない。
レイズを前提にしない。
何度も怒られた言葉が、今になって頭の中で形になる。少しだけ。本当に少しだけ。私は前よりマシに動けている気がした。
煙が急に濃くなった。視界が白く濁る。いや、白ではない。灰色。黒。赤茶色。
煙と砂と、何か焦げたような色が混じっている。
「通信不能!」
アコちゃんが声を上げた。
「ユメさんとの回線、完全に落ちました!」
「ユメ先輩に連絡は?」
ホシノちゃんがすぐに反応する。
「今は繋がりません」
「なら戻って」
「待って」
私は思わず言った。ホシノちゃんがこちらを睨む。
「何ですか」
「戻るなら全員で。今、一人で戻ったら迷う」
「でも」
「ユメさんは学校にいる。今、ホシノちゃんが煙の中で迷ったら、ユメさんがもっと心配する」
ホシノちゃんは言い返そうとした。でも、煙を見た。何も見えない。数歩先の足元ですら、ぼやけている。ホシノちゃんは唇を噛む。
「……分かりました」
受け入れてくれた。少しだけ、距離が変わった気がした。
「これは誘導だね」
イツキ先輩が言う。
「こちらを奥へ進ませたいらしい」
「なら行けばいいだろ」
ナナナさんが即答した。
「罠と分かって進むのは賢明ではありません」
ハスミさんが返す。
「でも、ここで引けば何も分からない」
イツキ先輩が言う。ヒナちゃんは煙の奥を見ていた。
「進むなら、隊形を崩さないで」
「目的を明確にしてください」
ホシノちゃんが言った。
「これ以上奥へ行くなら、アビドスとして理由を確認します」
イツキ先輩は頷いた。
「シェマタ建造地の実在確認。獣の発生源の確認。煙の超人、煙羅トモリとの接触。この三つだ」
煙羅トモリ。生徒会の隠し玉。煙の超人。その名前を聞いた瞬間、煙の奥が少しだけ揺れた気がした。聞いている。そう感じた。
「……来ます」
ツルギさんが低く言った。その声に、全員が反応した。煙の中から、影が増える。さっきより多い。大きいもの。小さいもの。四足のもの。人の形をまだ残しているもの。完全に崩れたもの。獣の群れ。第二波。それが、煙に押し出されるようにこちらへ流れてくる。
「前線に出る」
ヒナちゃんが言った。
「……私も出る」
ツルギさんが短く続く。二人が前に出る。並ぶと、空気が変わった。ヒナちゃんは静かな銃火。ツルギさんは抜かれる前の刃。同じ前線でも、種類が違う。でも、どちらも強い。
「側面は私が崩す」
ナナナさんが銃を構える。
「今度は飛ばす方向に気をつけてください」
アコちゃんが言った。
「注文が多いな」
「必要な注文です」
「ハスミみたいなこと言いやがる」
「何か問題でも?」
ハスミさんが静かに返す。ナナナさんは笑った。
「ねぇよ。やりゃいいんだろ」
獣が押し寄せる。ヒナちゃんが正面の個体を、ツルギさんが大型の獣を受ける。ナナナさんが側面を崩す。ハスミさんの射撃が、逃げ道を作る。アコちゃんが移動の指示を出す。ホシノちゃんは後方を守る。
砂の硬い場所、足場の悪い場所、崩れやすい地形を即座に見分けて、私たちの逃げ道を確保する。アビドスの土地だ。ホシノちゃんは、この砂漠を知っている。
私は低空を飛んだ。味方の隙間を埋める。獣の動きを知らせる。時々、爪で弾く。切らない。殺さない。止める。それを何度も自分に言い聞かせた。煙の奥で、何かが笑った気がした。
実際に笑い声は聞こえない。でも、そう感じた。
見られている。
試されている。
獣の群れを抜けた先に、私たちはようやく人工物を見た。鉄骨。線路。砂に半分埋もれた資材。見慣れない機材。巨大な足場。そして、その奥。煙の向こうに、巨大な砲身の影。
シェマタ。もう、見間違いではない。本当にある。アビドスの砂漠に、こんなものが。
「本当に」
ホシノちゃんの声が低く震えた。
「こんなものを、アビドスに」
通信機は沈黙し、ユメさんには繋がらない。アコちゃんが何度か再接続を試みるが、返ってくるのはノイズだけだった。
「止める」
ヒナちゃんが言った。短い。でも、迷いはない。ツルギさんも同じ方向を見ていた。
「……ああ」
言葉が少なくても、同じものを見ているのだ。戦うべきものを。止めるべきものを。
その時、煙が形を変えた。ゆっくりと、まるで幕が開くように。人影が現れる。獣ではない。崩れてもいない。
煙そのものが、人の輪郭を作るように揺れ、その中から一人の生徒が歩いてきた。
落ち着いた雰囲気の生徒だった。砂漠にも、戦場にも、獣の群れにも似合わないくらい、静かだった。その人は私たちを見て、軽く頭を下げる。
「ようこそ。ご足労をかけたな」
声は穏やかだった。敵意を剥き出しにしていない。だからこそ、怖い。
「お前が煙のやつか」
ナナナさんが前へ出かける。その人は微笑んだ。
「その呼び方は、少し味気ないな。煙羅トモリだ」
煙羅トモリ。名前を聞いた瞬間、耳の奥のざらつきが強くなった。イツキ先輩が目を細める。
「生徒会所属、煙の超人。間違いないね」
「君が坂間是イツキか。ロカから聞いているよ」
ロカ。その名前で、背中が冷えた。トモリの視線が、ゆっくりこちらへ向く。
「そして、黒い羽根の超人」
私の息が止まりかける。煙の中で、トモリは穏やかに微笑んでいた。
「……君が」
その瞬間、背中に悪寒が走った。
こちらに視線を向けるトモリは、微笑んでいる。それなのに、目に温度がない。どこまでも冷たく、濃厚なもの。これは。これが、殺意。呼吸が浅くなる。無意識のうちに逃げ出しそうになる足を、必死に抑える。
「イト」
ヒナちゃんが私の手を握った。手から伝わる熱が、殺気に固まる私の体を少しずつ解していく。
「この奥で、私は待つ」
トモリは静かに言った。
「見せてくれ。君が、君たちが、あの子の……いかんな。つい口が回る」
背後の煙が動く。さっきまでの獣とは違う。もっと大きな影が、煙の奥で蠢いている。
ヒナちゃんが前に出る。ツルギさんも無言で並ぶ。ナナナさんが肩を回す。ホシノちゃんが銃を構える。アコちゃんとハスミさんが、ほぼ同時に後方支援の位置へ下がる。イツキ先輩がトモリを見て、低く呟いた。
「やはり、ここが入口か」
私は煙の奥を見る。
無数のコールが聞こえる。獣の群れは、ただの前座だった。本当の敵は、この煙の向こうにいる。煙の向こうで、何かが軋んでいた。
巨大な砲身。獣の群れ。煙の超人。そして、足元の砂の下からも、嫌な振動が伝わってくる。ここまで来て、ようやく分かった。私たちは、シェマタを見に来たんじゃない。シェマタに招かれていたのだ。
「覚悟のある者のみが、この先へ進むといい」