「ギャ──────っ!」
四月一〇日、月曜日。
義弟の部屋から凄まじい悲鳴が上がり、次いでドタドタと階段を駆け下りる音がリビングに響いた。そこにいた彼──五河祈里がコップの牛乳を飲み干すのと、悲鳴と足音の主がリビングに飛び込んで来るのはほぼ同時だったと思われる。
「おにぃ!助けて────っ!おにーちゃんがあっ!」
「おっと!?」
喧騒の主である少女──五河琴里はそう叫ぶなり明るい祈里の背中へと隠れて子猫のように縮こまる。しかし、長い髪を白いリボンでツインテールにまとめた髪型のお陰で、正面から見てもそこに琴里が隠れていることはバレバレだった。
祈里は穏やかな様子で話しかける。
「おはよう、琴里。おにーちゃんがどうかしたのか?」
「う、うう~……そ、それがT-ウイルスに感染しちゃって意識を無くして!」
「うん。それで?」
と、聞くのもつかの間。件のおにーちゃんがリビングへとやってきた。さっき起きたばかりなのだろう、髪には寝ぐせを、目には気だるげな表情をそれぞれつけている。そしてなんだか気まずそうに頬をぽりぽりかいていた。
彼は五河士道。この五河家の次男である。だが、士道の容姿は祈里とも琴里とも似ていない。
彼はだいぶ昔にこの五河家へやってきた養子なのだ。
「おはよう……兄貴」
「おはよう、士道」
「えーっと、ゴホンっ!琴里を見なかったか?さっき俺の神聖で清廉な二度寝の儀式を汚し、腹部にのしかかるという蛮行を働いた不届きものの我らが妹様を!俺は今すぐに奴めをくすぐり地獄の刑に処さなければならないのだ!そう、T-ウイルスのせいで!」
士道が高らかにそう言い放つと同時に背に隠れた不届きもの(らしい)がビクッと全身を震わせる。
もうとっくにバレバレなのにそれでも身を隠そうとする姿にはなんとも涙ぐましいものがある。
「うーん、知らないな。さっき降りてくるのは見たんだけどなー。そういえばさっきから背中が重たいなー……せいっ!」
「ギャ──っ!」
「そこにいたか琴里ぃ!がーっ!」
「ギャァァァっ!」
すっとぼけたフリをしながら、勢いよくその場で回れ右をし、琴里を売り渡す。琴里は実兄に裏切られたショックで絶叫、義兄のくすぐり地獄の刑に怯えてさらに絶叫した。
結局、そのあと士道が途中で正気に?戻って琴里をなだめたことでこの騒ぎは終わったが、涙目の琴里にぼそっと「おにぃの靴紐全部ほどいてやるんだから……」と地味に困る嫌がらせを宣告されて冷や汗をかくのだった。
「兄貴、朝飯作るけどなにか追加で欲しいもんあるか?今日も朝トレしてきたんだろ?」
「ああ。確か卵余ってたよな。目玉焼きを三枚追加で頼む!」
へいへい、と士道は応えてさっそく台所へ向かう。琴里は朝食ができるまでの間、テレビをつけて暇をつぶし始め、祈里はテーブルを軽く拭いてから三人分の食器を用意し始める。
この家庭、五河家は三人兄弟妹の家である。長男の祈里、次男の士道、そして長女の琴里。大手エレクトロニクス企業に勤めている関係で家を空けることが多い両親に代わって、家事は祈里と士道が担っていた。
特に士道の料理は絶品であり、琴里との間で士道の料理の中で一番おいしいメニューはなにかという話題で盛り上がれるくらいだった。
琴里のつけたテレビからニュース放送が聞こえてくる。本日未明、天宮市の──。
「天宮市?なにかあったのか?」
台所の士道がカウンターテーブルから顔を出してそう尋ねる。
天宮市はこの五河家が暮らしている街の名だった。祈里が答える。
「空間震だとさ」
「ああ…最近、ってほどでもないか、去年くらいからここら一帯妙に多いよな。なんでだ?」
どうしてだろねー、とは琴里。対する祈里は腕を組み、
「うーん……さあなぁ……そもそも空間震の原因自体よく分かってないからな……」
と、カウンターテーブルに寄り掛かり、士道と顔を見合わせるのだった。
「……ちょっと予定より早いかなー」
「早い?何がだ?……って、琴里。ちょっとこっち向け」
くぐもった声で妙なことを口走った琴里に士道が怪訝そうに近づく。といっても、喋った内容について問いただすためじゃなく、そのくぐもった声について問いただすためだ。
それを察した琴里はソファの手すりに上体を預けた姿勢のまま、士道の接近に合わせて顔を背けていく──が、すぐに士道に頭を掴まれ、士道の方を向かされてしまった。
口には彼女の好物であるチュッパチャプスが加えられていた。
「飯の前にお菓子を食うなって言ってるだろ。没収だ、ぼっしゅ……すごい力だ!」
「んーっ!」
「兄貴!手伝ってくれ!」
「んーっ!?」
おにぃを呼ぶなんて卑怯だぞ!と言わんばかりに琴里から抗議の声があがる。祈里は琴里の唇から飛び出した飴の棒を指でつまんでそのまま引っ張り始める。
「あらま!唇で飴を放すまいと力を入れたせいでこんなにブチャイクなお顔になって!こんなのウチの妹じゃないわ!士道サン!ここはアタシに任せて頂戴!」
なんだか気色悪い語調を祈里が繰り出す。
それがよほどおかしかったのか、ブチャイクという言葉に反応したのか、はたまた祈里の膂力の前に抵抗は無意味と判断したのか、琴里はブッと噴き出すようにチュッパチャプスを解放した。
そして再び涙目。
「ぐすん……」
「ごめんって、色々悪乗りがすぎたよ」
「……おにぃとおにーちゃんのズボンのポケットぜんぶ裏返しにしやるんだもん」
「やめてよ!その地味に困る嫌がらせシリーズ!はあ、わかった。飴は返すよ。でもちゃんと朝飯は食うんだぞ……良いか、士道?」
根負けした義兄に、やれやれと肩を竦めて士道は朝食の準備へと戻っていった。
朝食を三人で食べた後は、三人で家を出る。途中まで他愛のない談笑をしながら祈里と士道は高校の、琴里は中学校の始業式へ。別れる前に「お昼はファミレスだぞ!おにぃもおにーちゃんも何があっても絶対来るんだぞー!」と琴里に指切りをされる。
春の門出にふさわしい陽光が、三人に降り注いでいた。