灰皿の中の初恋 作:インフレした小山羊
東京の雨は、地元の雨と違う匂いがした。
土の匂いがしない。草の匂いもしない。濡れたアスファルトと、排気ガスと、ビニール傘の擦れる音と、駅前の排水溝から立ち昇る、生温いドブの匂い。
僕──
信号が青になる。
誰もが迷わず歩き出す。
黒い傘。透明な傘。紺色の傘。
濡れた靴音。肩がぶつかりそうな距離。
それでも誰も、誰の顔も見ない。
僕は一拍遅れて足を踏み出した。
高校に入学して、まだ一ヶ月も経っていない。
地元を出て、東京の進学校に通うことになったとき、親戚たちは口々に「すごいね」「頑張ったな」と言った。両親も喜んでいた。担任も、塾の先生も、誰もがそれを正しいことのように祝福した。
だから僕も、自分はきっと正しい場所へ向かっているのだと思っていた。
けれど実際に来てみれば、東京は正しいとか間違っているとか、そういうことを考える暇もないほど速かった。
電車は混んでいる。
道はわかりにくい。
人は多い。
店は明るい。
夜になっても空は暗くなりきらない。
教室も同じだった。
同級生たちは、もう何年も前から友達だったみたいに笑っていた。知らない駅の名前を当たり前のように口にして、流行りの店の話をして、放課後の予定を軽く決めていく。
僕はその輪の端に、いつも少し遅れて立っていた。
笑うタイミングがわからない。
相槌の深さがわからない。
自分の言葉だけが、田舎の湿った土をつけたまま教室に落ちてしまうような気がしていた。
誰かにいじめられているわけではない。無視されているわけでもない。
ただ、馴染めない。
それだけのことが、僕にはひどく重かった。
みんなが自然に人間をやれている中で、僕だけがそれが出来ない。まるで、自分が出来損ないのデク人形のように思えて、ひどく惨めになる。
その日も、放課後の教室で何人かがカラオケに行く話をしていた。
「早見も来る?」
そう聞かれたとき、僕は反射的に笑った。
「あ、ごめん。今日はちょっと」
用事なんてなかった。けれど、行ったところで何を歌えばいいのかわからなかったし、どのくらいはしゃげばいいのかもわからなかった。楽しそうにできない自分を、あの狭い部屋で見せるのが怖かった。
だから逃げた。
背後で、「あいつ、付き合い悪いよな」なんて声が聞こえた気がした。でも、それも聞こえなかったことにして、僕は早足で教室を出る。
駅までの道を、傘も差さずに歩いた。
朝は晴れていたから、傘を持ってきていなかった。制服の肩が雨を吸い、前髪が額に貼りつく。それでも、駅の売店で傘を買う気にはなれなかった。
濡れているほうが、少しだけ気が楽だった。
濡れていれば、俯いていても不自然ではない。
雨のせいにできる。
駅前のコンビニに入ったのは、ただ雨宿りのつもりだった。
自動ドアが開くと、明るすぎる蛍光灯の光と、揚げ物の油の匂いが押し寄せてくる。暫く店内を回ったが、なんだか濡れた制服のまま店内をうろつくのが申し訳なくて、僕は何も買わずに外へ出た。
「ありがとうございました」
背後で店員の声がした。
買っていないのに。何も、差し出していないのに。
ただの決まり文句だとわかっていても、その声はひどく責めているように聞こえて、僕の背中に薄く突き刺さる。
ここにいてもいい理由を、最後まで用意できなかったみたいだった。
軒下に出ると、雨音が少し遠くなる。
そこで、煙草の匂いがした。
コンビニの端。
灰皿の前に、一人の女性が立っていた。
薄いベージュのカーディガン。黒いロングスカート。踵の低い靴。
肩まで伸びた髪は雨で少し湿っていて、毛先がまとまらずに頬に張りついていた。
指先に煙草を挟んでいる。
吸い方は慣れているようで、けれど似合っているかと言われると、少し違った。それは無理に大人の形をなぞっているような、どこか投げやりな仕草だった。
女性は、スマホの画面を見下ろしていた。
画面が光る。
女性は少しだけ眉を寄せる。
けれど、返信はしない。
煙草を口元へ運び、浅く吸って、ゆっくり吐く。
白い煙が、雨に溶けてゆく。
僕はなぜか、目を逸らせなかった。
きれいな人だと思った。
いや正確には、きれいだったはずの人、という印象だった。
目の下に薄い隈がある。唇の端が少し乾いている。髪もよく見れば傷んでいる。疲れているのに、疲れていることを隠す気力すらなくなったような横顔。
それなのに、雨の灰色の中で、その人だけが妙に輪郭を持っていた。
ふいに女性が顔を上げた。
目が合う。
僕は慌てて視線を逸らそうとした。知らない女の人をじっと見ていたことに気づいて、頬が熱くなる。
しかし、女性は僕を見たまま、少しだけ目を細めた。
「……あれ」
声がした。
僕は肩を揺らした。
女性は煙草を灰皿に押しつけると、ゆっくりこちらへ歩いてきた。
近づくにつれて、煙草の匂いの奥に、甘い柔軟剤のような匂いが混ざっていることがわかった。
女性は僕の顔を覗き込むようにして言った。
「優人くん?」
心臓が、一度だけ強く鳴った。
その声を、僕は知っていた。
記憶の奥の、夏の畳の匂い。
親戚の家の仏間。
大人たちの退屈な会話。
知らない従兄弟たちの騒がしい笑い声。
その中で、ひとりだけ優しく話しかけてくれた女の子。
五歳年上の従姉妹。
十歳の僕にとって、彼女はほとんど物語の中の人だった。
白いワンピースを着ていた。
髪が長くて、笑うと目元が柔らかくなった。
他の子たちの輪に入れずにいた僕に、麦茶を持ってきてくれた。
庭の隅で一緒に蝉の抜け殻を探してくれた。
帰り際に「またね」と言って、頭を撫でてくれた。
それだけだった。
ただそれだけのことを、僕は五年間、忘れられなかった。
淡い初恋というには幼すぎる。けれど、ただの親戚への憧れというには、あまりに綺麗に残りすぎていた。
姉さんは、僕の中でずっと汚れなかった。退屈な日も、嫌なことがあった日も、思い出すと胸の奥が少しだけ静かになる。そんな存在だった。
その人が今、コンビニの灰皿の前で煙草を吸っていた。
「……李波、姉さん?」
その声は、自分でも驚くほど小さかった。
姉さんは、ふっと笑った。
「やっぱり。優人くんだ」
笑った顔には、記憶の中の面影が確かにあった。
けれど、同じではなかった。
あの頃よりも頬が細い。
目元が疲れている。
笑っているのに、笑いきれていない。
そして何より、煙草の匂いがする。
僕の中で、聖域の扉が、少しだけ音を立てて開いた気がした。
「大きくなったねぇ」
姉さんは言った。
「もう高校生だっけ?」
「はい。高一です」
「そっか。それもそうか。最後に会ったの、優人くんが小学生の頃だもんね」
姉さんは懐かしそうに言いながら、少し湿った髪を耳にかける。その指先が少し震えているように見えたのは、寒さのせいだったのか、それとも煙草のせいだったのか、僕にはわからなかった。
「東京にいるんだ?」
「あ、はい。高校がこっちで」
「一人暮らし?」
「いえ、親戚の家に置いてもらってます。学校の近くで」
「へえ。偉いね。私、高校生で東京出てくるとか絶対無理だったな」
姉さんは軽く笑う。その笑い方が、僕には少し不思議だった。
昔の姉さんは、もっとまっすぐ笑っていた気がする。少なくとも、僕の記憶の中ではそうだった。今の彼女の笑みには、どこか自分を笑っているような、先に諦めているような響きがあった。
「李波姉さんは、大学ですか?」
「うん。一応ね。二年」
「一応?」
「ちゃんと行ってる日もあるよ」
そう言って、姉さんはいたずらっぽく片目を細めた。
僕はどう返していいかわからず、曖昧に笑った。
その反応を見て、姉さんは少しだけ優しい顔になった。
「あ、ごめんね。困らせた?」
「いえ、そんな」
「優人くん、真面目そうだもんね」
その言葉に、僕は少し息を詰めた。
真面目そう。この一ヶ月で、何度も言われた言葉だ。
決して、悪い意味ではないのだろう。けれど僕には、それがいつも「面白くなさそう」と同じ意味に聞こえる。
でも、姉さんの言い方は違った。
からかうようでいて、責めてはいない。
むしろ、真面目であることを面白がっているようだった。
「東京、慣れた?」
姉さんは尋ねる。
僕はすぐには答えられなかった。
慣れましたと言えば、嘘になる。しかして、慣れませんと言えば、弱音になる。たったそれだけの質問に、僕は酷く迷う。
すると姉さんは、僕の答えを待たずに言った。
「慣れないよね」
僕は顔を上げた。
姉さんは雨の向こうを見ていた。
「人はうんざりするくらい多いし。音もうるさいし。どこ行っても明るいし。みんな平気な顔して歩くの速いし。置いてかれる感じ、するよね」
その言葉が、僕の胸にすとんと落ちた。
誰にも言えなかったことだった。
東京が怖い。人が多いのに寂しい。
周りが当たり前にできていることが、自分にはできない。
そんなことを口にすれば、子供っぽいと思われる気がしていた。
けれど姉さんは、まるで自分のことのように言った。
「……はい」
気づけば、僕は頷いていた。
「まだ、全然慣れないです」
「だよね」
姉さんは少し笑った。
「私も、まだ全然慣れてない」
その一言で、僕は救われたような気がした。
二十歳の姉さん。
大学生の姉さん。
煙草を吸う姉さん。
自分よりずっと大人の姉さん。
その人が、自分と同じように東京に慣れていないと言った。
僕の中で、彼女の姿がまた少し変わる。
記憶の中の聖女ではない。けれど、ただ荒んだ大人でもない。
傷ついた大人だった。そしてそれは僕にとって、ひどく危うく、ひどく魅力的なものに見えた。
「制服、濡れてる」
姉さんが言った。
「傘忘れて」
「風邪ひくよ」
「大丈夫です」
「大丈夫って言う子ほど、大抵、大丈夫じゃないんだよ」
姉さんはそう言って、自分のバッグの中を探った。
折りたたみ傘を取り出しかけて、少し迷ったあと、それを僕に差し出した。
「これ、使って」
「え、いや、でも李波姉さんは⋯⋯」
「私、家近いから」
「でも」
「いいから。年上の言うことは、聞くものだよ」
その言い方が昔と同じで、僕は一瞬、十歳の自分に戻ったような気がした。
庭の隅で、姉さんが蝉の抜け殻を掌に乗せて笑っていた夏。
麦茶のグラスについた水滴。
白いワンピース。
柔らかい声。
その記憶と、目の前の煙草の匂いを纏った姉さんが重なる。
重なって、ずれる。そしてそのずれた隙間から、僕は目を離せなくなる。
「ありがとうございます」
僕が傘を受け取ると、姉さんは満足そうに頷いた。
「いい子」
たった三文字だった。それなのに、僕の胸の奥が妙に熱くなる。
姉さんはそれに気づいたのか、気づかなかったのか、軽い調子で続けた。
「そうだ。優人くん、学校この辺なの?」
「はい。駅二つ先です」
「じゃあ、けっこう近いね」
「李波姉さんの家も、この辺なんですか?」
「うん。歩いて十分くらい」
姉さんはコンビニの向こう、雨に霞んだ路地のほうを指さした。
「一人暮らし。まあ、たいした部屋じゃないけど」
一人暮らし。その言葉だけで、僕は姉さんが自分の知らない世界にいることを思い知らされた。
親のいない部屋。
誰にも干渉されない時間。
夜になっても帰らなくていい場所。
そこに姉さんは一人で住んでいる。
「優人くん」
呼ばれて、僕は顔を上げる。
姉さんはまた、あの少し疲れた笑みを浮かべていた。
「今度、暇だったらおいでよ」
「え?」
「どうせ私も、ひとりだし」
雨音が、一瞬だけ遠くなった。
姉さんは何でもないことのように言ったのだと思う。
偶然再会した親戚に、軽く声をかけただけ。
きっとそれ以上の意味はないだろう。
けれど僕には、その言葉が特別なものに聞こえた。
東京で誰にも見つけてもらえなかった自分を、姉さんだけが見つけてくれたような気がした。どこにも居場所のなかった自分に、彼女だけが扉を開いてくれたような気がした。
「行っても、いいんですか」
僕はそう聞いていた。
自分でも、声が少し震えているのがわかった。
姉さんは一瞬だけ意外そうな顔をした。けれどすぐに、柔らかく笑う。
「うん。いいよ」
その笑みは優しかった。
だから僕は、気づけない。姉さんが僕を招いたのは、僕を救うためなんかじゃない。たぶん、姉さん自身が少しだけ救われたかったからなのだと。
「じゃあ、連絡先交換しよ」
姉さんがスマホを取り出す。
僕も慌ててスマホを出した。
濡れた指が画面の上で滑る。
QRコードを読み取るだけの簡単な動作に、妙に手間取った。
登録された名前を見つめる。
帆月李波。
五年前、記憶の中にしかいなかった人が、今はスマホの画面の中にいる。
呼べば返事が来るかもしれない場所にいる。
それだけで、僕の胸は苦しくなった。
「じゃあ、またね。優人くん」
姉さんはそう言って、雨の中へ歩き出した。
傘は差さない。濡れたまま、細い路地のほうへ消えていく。
僕は借りた傘を握りしめたまま、その背中を見送った。
ベージュのカーディガン。
濡れた髪。
煙草の匂い。
少し疲れた笑い方。
記憶の中の姉さんは、白いワンピースのまま笑っていた。
今の姉さんは、雨に濡れながら煙草の匂いを残して去っていった。
どちらが本当なのか、僕にはわからない。けれど、ひとつだけ確かなことがある。
それは、東京に来てから初めて、明日が少しだけ怖くなくなっている事。
そのことが嬉しくて、少しだけ恐ろしかった。
僕は傘を開く。
内側には、他人の部屋のような匂いがする。それは柔軟剤と、雨と、かすかな煙草の匂い。
僕は、その匂いを吸い込む。
吸い込んだなら、もう戻れない。そんな気がした。