灰皿の中の初恋 作:インフレした小山羊
姉さんから連絡が来たのは、三日後の夜だった。
僕はその間、何度も、何度もスマホを見た。
授業中も、休み時間も、帰りの電車の中でも、風呂に入る前も、寝る直前も。通知が鳴るたびに胸が跳ねる。けれど画面に表示されるのは、学校からの連絡メールや、親戚の家の人からの「夕飯いる?」という短いメッセージばかりだった。
自分から連絡を送る勇気はなかった。
あの日、コンビニの軒先で交わした「今度おいでよ」という言葉が、本当に意味のあるものだったのか、はたまた、ただのリップサービスだったのか、僕にはさっぱり判断がつかなかった。
大人にとっての「今度」は、子供にとっての約束とは違うのかもしれない。
親戚だから、社交辞令でそう言っただけかもしれない。
あまり真に受けて連絡したら、困らせるかもしれない。そう思うたびに、僕はスマホを伏せる。けれど、伏せても気になった。
姉さんの名前が画面にある。
連絡先の一覧の中にある。
それだけで、僕の日常には小さな、しかし決して無視の出来ないひびが入っていた。
教室で同級生たちが笑っている。
教師が黒板に数式を書く。
購買でパンを買う列に並ぶ。
電車の中で吊り革に掴まる。
どれも昨日までと同じはずなのに、僕の意識はずっと別の場所にあった。
雨の日のコンビニ。
灰皿。
濡れた髪。
煙草の匂い。
柔らかく疲れた声。
そして、姉さんが言った言葉。
──どうせ私も、ひとりだし。
その言葉を思い出すたび、僕の胸の奥がざわついた。
ひとり。1人独り。
そう。姉さんも、ひとりなのだ。
二十歳で、大学生で、煙草を吸っていて、大人の服を着て、僕よりずっと先の世界を歩いているはずの人が。
それでも、ひとりなのだと言った。
その事実が、僕には奇妙な慰めだった。しかし、 同時に危険な優越感でもあった。
自分だけが、それを聞いた。
自分だけが、姉さんの寂しさを知っている。
そんなふうに思ってしまう自分が少し嫌だった。けれども、嫌だと思う以上に、その考えはひどく甘くて、とても舌触りのよいものだった。
そして三日目の夜。
親戚の家の狭い自室で、僕が英単語帳を開いたままぼんやりしていると、スマホが震える。
画面に名前が表示されていた。
帆月李波。
僕は一瞬、息を止めた。
すぐに開くのは、待っていたみたいで恥ずかしい気がしたが、けれども開かずにいることもできない。
数秒だけ待ってから、僕はメッセージを開く。
『明日、学校終わったら暇?』
それだけだった。
僕はその短い文章を、何度も読み返した。
暇だった。
何の予定もなかった。
けれど、ただ「暇です」と返すのは子供っぽい気がした。
文章を、打っては消す。
『はい、大丈夫です』
硬すぎるか?
『暇です』
待っていたみたいだ。
『学校終わったら行けます』
行く前提になっていて、なんだか気持ちが悪い。
何度も迷った末、僕は結局、最初に打った文を少しだけ変えて送る。
『はい。放課後なら大丈夫です』
既読はすぐについた。
心臓がまた跳ねる。
『じゃあ、家に来る? 傘返してほしいし 』
家。
その二文字だけが、妙に熱を持って見えた。
傘。
そうだ。
姉さんに借りた傘を、僕はまだ返していなかった。
親戚の家の玄関に干したあと、自分の部屋に持ってきて、壁に立てかけたままにしている。返さなければならないものとしてではなく、そこにあってほしいものとして。
僕は傘のほうを見た。
乾いているはずなのに、まだあの日の匂いが残っている気がする。
『行きます』
送ってから、少しだけ後悔した。
あまりにも短いし、素直すぎる。しかし姉さんからはすぐに住所が送られてきた。駅から、歩いて十分ほどのマンションだった。
そのあとにもう一通。
『道、わからなかったら電話してね』
僕は画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
電話。
姉さんと電話をするかもしれない。
その想像だけで、胸の奥が熱くなる。
僕はようやくスマホを伏せ、開きっぱなしの英単語帳に視線を戻す。
けれども、文字はもう意味を持たなかった。覚えるべき単語は脳から滑り落ち、代わりに、姉さんの名前だけが浮かんでいた。
*
翌日の放課後、僕は誰よりも早く教室を出た。
「早見、今日もすぐ帰んの?」
クラスメイトに声をかけられたが、僕は曖昧に笑って鞄を持ち上げた。
「ちょっと用事があって」
「ほーん⋯⋯忙しいんだな」
「うん、まあ」
何の用事か聞かれたら困ると思ったが、相手はそれ以上追及しない。すぐに別の友達と話し始める。
僕は教室を出ながら、なぜか少しだけ彼らを見下ろしている自分に気づいた。
放課後にカラオケへ行く。
駅前で寄り道する。
誰が誰を好きらしいと騒ぐ。
そんなことが、ひどく平べったく見えた。
自分はこれから、大人の女性の部屋へ行く。
誰にも言えない場所へ。
誰も知らない、姉さんのところへ。
その事実が、僕の足取りを速くする。
電車に乗っている間も、僕は腕に掛けた傘の柄を何度も触った。
まるでそれが、姉さんの部屋へ入るための鍵であるかのように。
駅を降りると、空は曇っていた。
雨は降っていない。けれど空気は湿っていて、夕方の街には少しだけ疲れた匂いが漂っていた。
送られてきた住所を見ながら、僕は細い道を歩く。
駅前の明るさから少し外れると、街の表情は急に変わる。
小さな居酒屋。
閉まりかけたクリーニング店。
自転車が乱雑に停められた歩道。
壁の汚れたアパート。
それは、僕の知らない東京だった。
しばらく歩くと、目的のマンションが見えた。
それは思っていたよりも、ずっと綺麗な建物だった。白とグレーを基調にした外壁は雨に濡れて鈍く光り、エントランスには重そうなガラス扉が嵌め込まれている。植え込みはきちんと刈られていて、ポストの並ぶ壁も、廊下の床も、妙に清潔だった。
僕は入口の前で立ち止まる。
なんとなく、姉さんが住んでいる場所は、もっと古くて、狭くて、くたびれた場所なのだと勝手に思っていた。けれど目の前にあるのは、僕なんかが、気軽に入っていいような建物ではなかった。
オートロックの向こう側にある、整った静けさ。
その奥に、姉さんが一人で住んでいる。急に、自分がとんでもない場所に呼ばれているような気がした。親戚とはいえ、二十歳の女性の一人暮らしの部屋に、高校一年生の自分が行く。
それが普通なのかどうか、僕にはわからなかった。けれど、ここまで来て帰ることもできない。
インターホンで、部屋番号を押す。
数秒後、少しだけこもった音声で姉さんの声がした。
『はい』
「あ、優人です」
『オッケーオッケー上がって。三階だよ』
オートロックの外れる音がした。
僕は息を吸って、建物の中へ入る。
エントランスは雨の日なのに、汚れていなかった。床は鈍く光り、壁際には小さな観葉植物が置かれている。空気には、芳香剤と清掃後の洗剤の匂いがうっすら混ざっていた。
エレベーターの扉に、濡れた制服姿の自分が映る。それを見て、場違いだなと他人事のように思う。
エレベーターはほとんど音もなく三階に着いた。廊下は明るく、足音は床材に吸い込まれるように小さい。
清潔で、静かで、整っている。
その奥に、煙草の匂いを纏った姉さんが一人で住んでいる。
姉さんの部屋の前に立つ。
表札は出ていない。ドアの横に小さな傘立てがあり、そこにはビニール傘が二本だけ入っていた。
僕はチャイムを押した。
すぐに、鍵が開く音がする。そしてドアが細く開いて、姉さんが顔を出した。
「いらっしゃい」
その声は、コンビニで会ったときよりも少し低く、少し眠そうだった。
姉さんは薄いグレーの部屋着を着ていて、外で会ったときよりもずっと無防備に見える。髪は後ろで雑にまとめられていて、頬の横にいくつかの毛束が落ちている。目の下の隈は、蛍光灯の下よりも濃く見えた。
僕は一瞬、どこを見ればいいかわからなくなった。
「お邪魔します」
「そんなに固くならなくていいよ」
姉さんは笑って、ドアを大きく開ける。
部屋に入った瞬間、匂いがした。
煙草。
柔軟剤。
少し甘い香水。
飲み残しのアルコールのような匂い。
閉め切った部屋の湿った空気。
僕は思わず息を浅くした。
玄関は、思っていたよりも広い。
白いタイルの床に、備え付けの靴箱。
本当なら綺麗に整えられているはずの場所に、スニーカーやパンプス、踵の低いサンダルが乱雑に置かれている。端にはコンビニの袋がひとつ転がっていて、中から潰れたレシートが覗いていた。
だがしかし、本来は広いはずのそこは、物の多さのせいで心なしか狭く見えた。
「適当に上がって。そこ、鞄置いていいから」
「はい」
僕は靴を揃えて脱ぐ。
姉さんはそれを見て、小さく笑った。
「本当、真面目だね」
「普通じゃないですか?」
「ううん。偉いよ」
また、偉い。
たったそれだけで、僕は胸の奥を撫でられたような気がする。
部屋はワンルームだった。
外観から想像していたよりかは狭く、そして暗い。窓は厚い遮光カーテンで閉められている。夕方なのに、部屋の中は夜みたいだった。明かりは小さな間接照明だけで、家具の輪郭がぼんやりと浮かんでいる。
床にはクッションが二つ。
低いテーブルの上には、灰皿、紺色の缶、ライター、ノートパソコン、化粧品、空のペットボトル、読みかけの文庫本が散らばっていた。
部屋の隅には畳まれていない洗濯物。
ベッドの上には毛布が丸まっている。
生活の形が、隠されずにそこにあった。
僕はそれを見て、恥ずかしいような、見てはいけないものを見たような気持ちになる。そして同時に、嬉しさも込み上げてきた。
姉さんの部屋。
姉さんが眠る場所。
姉さんが一人で息をしている場所。
そこに、自分はいる。
「ごめんね、汚くて」
姉さんはテーブルの上の空き缶を二本まとめて、コンビニ袋に入れた。
「片づけようと思ってたんだけど⋯⋯なんだか、億劫でね」
「大丈夫です」
「優人くん、絶対大丈夫じゃなくても大丈夫って言うでしょ」
姉さんはそう言って笑う。
僕は返事に困って、傘を手渡した。
「あの、これ。ありがとうございました」
「あぁ、傘」
姉さんは受け取ると、軽く振って玄関のほうへ置いた。
「ちゃんと返しに来るの、偉いね」
「借りたものなので」
「そういうところ、優人くんっぽいね」
姉さんは冷蔵庫を開けた。
「何か飲む? お茶か、ジュース……あ、炭酸もあるかな? たぶん」
「じゃあ、お茶で」
「未成年に変なもの出したら怒られるしね」
冗談めかして言いながら、姉さんはペットボトルのお茶を出す。
その言葉に、僕は少し引っかかりを覚える。
未成年。
当たり前のことだ。
自分は十五歳で、姉さんは二十歳。
五歳差。
高校生と大学生。
子供と大人。
けれど、その線を姉さんの口から聞かされると、胸のどこかが冷えて、酷く寒い。
姉さんはキッチンの引き出しを開け、少し迷ったあとにグラスを一つだけ取り出した。
「ん〜ごめんね。洗ってるグラスこれしかなかったや」
「ペットボトルのままでいいですよ?」
「まあまあ、お客さまだし、ね?」
姉さんは一つのグラスにお茶を注ぎ、先に一口飲む。それから、何の気なしに僕へ差し出した。
「はい」
僕は動けなかった。
姉さんが口をつけたグラス。
透明な縁に、微かに残る水滴。
口紅はついていない。けれど、彼女がそこに唇を触れたことだけは確かだった。
「どうしたの?」
「あ、いえ」
僕は受け取った。
グラスは冷たかった。
指先が少し震える。
飲むべきか迷う。
迷っていること自体を悟られたくなくて、僕はすぐに口をつけた。
お茶の味はしなかった。
姉さんはその様子を見て、ふっと笑った。
「優人くんって、ほんと反応がわかりやすいね」
「え?」
「なんでもない」
そう言って、姉さんは床のクッションに座った。
僕も少し離れた場所に腰を下ろした。
すると姉さんは、わざとらしく眉を上げる。
「遠くない?」
「え」
「そんな警戒しなくても、取って食べたりしないよ」
「警戒してるわけじゃ」
「じゃあ、こっち来なよ」
姉さんは隣のクッションを軽く叩く。
僕は迷った。けれど、断る妥当な理由が見つからなかった。いや、見つけたくなかったのかも知れない。
ゆっくり移動して、姉さんの隣に座る。
距離が近くなる。
肩が触れるほどではない。
けれど、姉さんが少し動けば、部屋着の布が僕の制服に触れそうだった。
煙草の匂いが近い。
「学校、どう?」
姉さんが聞いた。
「普通です」
「ん~普通って言うときってさ、大体、普通じゃないよね」
「……まだ慣れない、です」
「お友達、できた?」
僕は答えに詰まる。
できたと言えば嘘になる。しかし、できていないと言えば、惨めになる。
姉さんはそれだけで察したように、目を細めた。
「そっか」
その「そっか」は、慰めでも励ましでもなかった。ただ、僕の孤独をそのまま置くような言い方。だから僕は、少しだけ話せた。
「みんな、もう慣れてるみたいで。東京のことも、学校のことも。僕だけ、ずっと遅れてる感じがします」
「うん」
「話しかけられても、何を返せばいいかわからなくて。別に嫌われてるわけじゃないんですけど⋯⋯なんか、居場所がない⋯⋯そんな感じで」
言ってから、僕は後悔する。
重すぎたかもしれない。
面倒な子供だと思われたかもしれない。
けれど姉さんは笑わなかった。
「わかるよ」
静かに言った。
「私も、ずっとそんな感じ」
「姉さんも?」
「うん。大学って、もっと自由で楽しいものだと思ってたんだけどねぇ。実際は、自由すぎて逆にしんどい。みんな楽しそうにしてるけど⋯⋯自分だけ、何をしているのかわからなくなる」
姉さんはテーブルの上の紺色の缶に手を伸ばしかけて、僕を見た。
「あ、ごめん。煙草、嫌い?」
「いえ」
「無理しなくていいよ」
「大丈夫です」
「また大丈夫って言った」
姉さんは苦笑する。
けれど煙草は取り出さなかった。その代わりに、ライターを指先で転がして弄ぶ。
「優人くんはさ、ちゃんとした場所に行けば、ちゃんと幸せになれると思ってた?」
突然の問いに、僕は戸惑う。
「ちゃんとした場所?」
「いい高校とか、いい大学とか、あとは⋯⋯いい会社とか? そういうところに行けば、自分もちゃんとできるって思ってた?」
僕は答えられない。
思っていた。
東京の高校に行けば、何かが変わると思っていた。
努力して、合格して、新しい制服を着れば、自分も少しはましな人間になれると思っていた。けれど東京に来ても、自分は自分のまま。所詮、幻想は幻想なのだ。
「……少しは」
僕がそう言うと、姉さんは小さく笑った。
「そっかそっか」
その笑いには、優しさと諦めが混ざっていた。
「私も、そうだったなぁ」
姉さんは膝を抱えた。
「大学に入れば、もっと自由になれると思ってた。地元とか、親戚とか、面倒なものから離れて、東京でちゃんと大人になれると思ってた」
「違ったんですか」
「違ったね」
姉さんはあっさりと言った。
「東京に来ても、自分からは逃げられないし……昔は、大人になったらもっと楽に、もっと自由になれると思ってたんだけどねぇ」
姉さんは、ライターを指先で転がしながら、小さく笑った。
「でも、全然違った。むしろ選んだこと全部、自分の責任になるだけ。全然、楽でも自由でもなかった」
その声は淡々としている。しかし僕には、そこに深い疲れが滲んでいるように聞こえた。
姉さんは二十歳だ。そして、それは僕から見れば、十分に大人だった。
その姉さんが、大人になっても楽にならないと言う。
僕は、何か大切な秘密を聞かされているような気がした。学校の先生も、親も、親戚も、そんなことは言わなかった。
努力すれば報われる。
環境が変われば変われる。
未来は明るい。
みんな、そういう顔をしていた。
けれど姉さんは違った。
薄暗い部屋で膝を抱えて、楽にならないと言う。自分からは逃げられないと言う。
その言葉は暗いのに、僕にはなぜか温かかった。だって、嘘ではない。そう思ったから。
「ごめんね」
姉さんが急に言った。
「こんな話、高校生にすることじゃなかったね」
「そんなことないです」
「優人くんは、優しいね」
「別に」
「ううん。優しいよ」
姉さんはそう言って、僕の頭に手を伸ばす。
僕は避けられなかった。
姉さんの指が、僕の髪に触れる。
軽く、撫でる。
子供にするような仕草だ。親戚の年上のお姉ちゃんが、年下の従弟にするような、ごく自然な仕草。
そのはずだ。けれど僕には、身体の内側にまで触れられたように感じた。
十歳の夏。
庭の隅。
頭を撫でてくれた白いワンピースの姉さん。
その記憶と、薄暗い部屋で煙草の匂いを纏った今の姉さんが、また重なる。
重なって、やはり少しずれる。僕は、そのずれの中に落ちてゆく。
「姉さん」
「ん?」
「僕でよければ、聞きますよ。話」
言ってから、僕は自分の声に驚く。
自然に出た言葉。けれどそれは、ただの親切ではなかった。
姉さんに必要とされたい。
姉さんの寂しさの中に、自分の場所を作りたい。
そんな、浅ましい欲望が、言葉の裏に隠れ、潜んでいた。
姉さんは少し目を見開く。
それから、困ったように笑った。
「……優人くん、そういうこと言うと、私は本当に甘えるよ?」
「いいです」
「よくはないんじゃないかなぁ」
「いいです」
僕はもう一度言った。
姉さんは僕の顔をじっと見た。
部屋の中は暗い。
外の音は遠い。
間接照明の鈍い光が、姉さんの横顔を柔らかく照らしている。
姉さんは、ふっと息を吐いた。
「じゃぁ、ちょっとだけ、ね」
そう言って、姉さんは僕の肩に頭を預けた。
重さはほとんどない。けれども僕は、動けなくなった。
髪が頬に触れる。
煙草と甘い匂いが、すぐ近くで揺れる。
姉さんの体温が、制服越しに伝わる。
僕は息を止めた。
「疲れた」
姉さんが呟いた。
「ちょっとだけ、疲れちゃったな」
僕は何も言えなかった。
何か言えば、この瞬間が壊れてしまう気がした。
姉さんは目を閉じていた。
肩に預けられた重さは、無防備で、脆くて、そして残酷だった。
僕は思う。
自分が支えなければと。
この人は、大人なのに壊れそうだ。綺麗だったはずなのに、こんなに疲れている。誰にも言えないことを抱えて、ひとりで暗い部屋にいる。
だから、自分が支えなければ。
それは優しさだった。
同時に、優しさの形をした独占欲だった。
姉さんのスマホが、テーブルの上で震える。
画面が光る。
僕の位置からは、通知の名前までは見えない。ただ、姉さんの身体が小さく強張ったのはわかった。
姉さんはスマホを見ない。
肩に頭を預けたまま、目を閉じている。
僕はその光る画面を見つめる。
誰からだろうか。
大学の友達。
親。
それとも、知らない誰か。
胸の奥に、初めて黒いものが滲んだ。
知りたい。
けれど聞けない。
聞く権利がない。
その「権利がない」という事実が、僕を静かに傷つける。
「優人くん」
姉さんが目を閉じたまま言った。
「はい」
「今日は、ありがとうね。来てくれて」
たったそれだけで、黒いものは一瞬で溶ける。
僕は、ひどく単純だ。
「また来てもいいですか」
気づけば、そう聞いていた。
姉さんは目を開けた。
少し驚いたように僕を見て、それから笑う。
「そんなに、楽しい部屋じゃないよ」
「でも、来たいです」
「……そっか」
姉さんはそう言った。
けれど拒まなかった。
「じゃあ、また呼ぶね」
僕の胸が、静かに満たされていく。
呼ばれる。
姉さんに。
この暗い部屋に。
学校にも、東京にも、親戚の家にも居場所のなかった自分が、ようやくどこかに必要とされる。
その感覚は、危険なほど甘かった。
やがて外は完全に暗くなる。
僕が帰ると言うと、姉さんは玄関まで見送ってくれた。そしてドアの前で靴を履く僕に、姉さんは思い出したように言った。
「制服、煙草の臭いが付いちゃってたらごめんね」
「大丈夫です」
「いや、だいじょばないでしょ。高校生なんだから」
姉さんはそう言って、困ったように笑った。
「ほんと、優人くんっていい子だね」
その言葉に、僕は少しだけ顔を伏せる。
いい子。
子供扱いの言葉。
それなのに、姉さんに言われると嬉しい。
嬉しいことが、少し悔しい。
ドアを開けると、廊下の冷たい空気が流れ込んできた。
「気をつけてね」
「はい。今日はありがとうございました」
「こちらこそ」
姉さんは手を振った。
ドアが閉まる。
鍵のかかる音がした。
僕は廊下に立ったまま、しばらく動けなかった。
肩に、まだ姉さんの重さが残っている気がした。
髪の匂いも、体温も、声も。
階段を下りる。
外へ出る。
夜の街の空気を吸う。
それでも、部屋の匂いは消えなかった。
制服に染みついている。煙草と、柔軟剤と、閉め切った部屋の、甘く濁った匂い。
僕は駅へ向かって歩きながら、自分の袖口をそっと鼻に近づけた。
かすかに、姉さんの部屋の匂いがする。
胸の奥が、熱くなる。
同時に、何か取り返しのつかないものが始まった気がした。
翌朝、僕はその制服のまま学校へ行った。
教室に入ると、いつもと同じように同級生たちが笑っている。
昨日のテレビの話。
小テストの愚痴。
誰かの好きな人の話。
その全部が、遠かった。
僕は席に座り、鞄を机の横にかける。そして、袖口に残る匂いを、誰にも気づかれないように確かめる。
煙草の匂い。
大人の匂い。
姉さんの部屋の匂い。
僕は窓の外を見る。
校庭には、朝の光が眩しく落ちていて、クラスメイトたちはその光の中で、当たり前のように笑っている。
けれど僕だけは、まだ昨夜の暗い部屋にいた。
そしてそのことを、少しも嫌だと思ってはいなかった。
裏設定として、李波はチェーンスモーカーです。
でも、流石に未成年の子供の前でそんな吸い方するのはどうなん?と言う事で我慢しました。
偉いですね。
禁煙しろ。