灰皿の中の初恋   作:インフレした小山羊

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君が、甘えても良いって言ったんだからね?

 それから、姉さんは何度も僕を呼ぶようになった。毎日ではない。けれど、頻繁に。

 

『今日、暇?』

『学校終わったら寄れる?』

『ちょっとだけ話し相手になって』

『別に、無理ならいいけど』

 そのたびに、僕は用事を探した。

 断るための用事ではなく、行くために潰せる用事を。

 

 予習。

 小テストの勉強。

 親戚の家での夕飯。

 クラスメイトからの、形だけの誘い。

 

 そういうものを一つずつ脇へどけて、僕は姉さんの部屋へ向かう。

 最初のうちは、自分でも理由をつけていた。

 

 傘を返すため。

 話を聞くと言ったから。

 姉さんが疲れているから。

 僕が行けば、少しは楽になるかもしれないから。

 けれど、何度目かにはもう、そんな理由は必要なくなっていた。

 姉さんに呼ばれた。

 だから行く。

 それだけで十分だった。

 

 教室で同級生たちが笑っている声を聞きながら、僕は机の下でスマホを握った。

 通知が来ていないか、何度も画面を点ける。

 先生が黒板に書いた数式は、途中からただの白い線に見え、英単語の意味も、古文の助動詞も、授業中に配られたプリントの注意書きも、その全てが遠かった。

 僕の日常の中心は、少しずつ学校からずれていった。

 

 朝起きる。

 制服を着る。

 電車に乗る。

 授業を受ける。

 昼休みに購買のパンを食べる。

 適当に相槌を打つ。

 放課後になる。

 

 そこまでは、ただの準備だった。

 本当の一日は、姉さんから連絡が来た瞬間に始まる。そんなふうに思ってしまう自分が少し嫌だった。けれど、嫌だと思う以上に、その考えはひどく甘く、舌触りのよい誤謬だった。

 自分だけが、姉さんの寂しさを知っている。

 その思い込みは、僕の中でゆっくりと、しかし確実に育っていった。

 

 

     *

 

 

 姉さんの部屋は、行くたびに少しずつ散らかっていた。それと対照的に、外のマンションは相変わらず綺麗なまま。

 エントランスの床はいつも鈍く光っていたし、壁際の観葉植物も同じ場所に置かれていた。エレベーターの扉には、相変わらず制服姿の僕や、少し背伸びした顔の僕が映っている。そして三階の廊下は静かで、明るく、どこかよそよそしいほど清潔だった。

 その奥に、姉さんの部屋があった。

 ドアが開くと、空気が変わる。

 煙草。

 それも、駅前の喫煙所で嗅ぐような乾いた匂いではなく、甘くて重い、花が腐る手前みたいな匂い。

 柔軟剤。

 少し甘い香水。

 飲み残しのアルコールのような匂い。

 閉め切った部屋の湿った空気。

 初めて来たときは息を浅くしていた。けれど、いつの間にか僕は、その匂いを探すようになっていた。

 

 学校の廊下。

 電車の中。

 親戚の家の洗面所。

 どこにいても、ふとした瞬間に袖口を鼻に近づけてしまう。

 そこに姉さんの部屋の匂いが少しでも残っていると、胸の奥が温かくなった。そして、残っていないと、ひどく不安になった。

 

 部屋の低いテーブルの上には、いつも深い紺色の丸い缶が置かれていた。

 

 金色の文字で、PEACEと書かれている。

 

 煙草の銘柄なんてほとんど知らない僕でも、それがなんとなく普通の煙草とは違うものだということだけはわかった。

 コンビニのレジ裏に並んでいる箱よりも、少し古くて、少し大人びていて、少しだけ重たく見えた。

 

 姉さんは僕の前で、あまり煙草を吸わなかった。

 

 いや、本当は吸いたそうだった。

 

 話の途中で、何度も缶に手を伸ばしかける。

 蓋を開ける。

 中の煙草を見て、少しだけ黙る。

 けれど僕を見ると、苦笑して蓋を閉じる。

 

「……さすがに、未成年の前でぱかぱか吸うのは駄目だよね」

 

 そう言って、代わりにライターだけを指先で転がした。

 

 金属の蓋を開けたり、閉じたりする。

 小さな音が、薄暗い部屋に何度も落ちる。

 

 姉さんは我慢していた。そしてそれはたぶん、偉いことだ。

 未成年の従弟の前で煙草を吸わないくらいには、姉さんはちゃんと大人だったのだ。

 僕はそのことに、少しだけ安心してた。

 

 姉さんは全部が崩れているわけじゃない。

 僕の前では、ちゃんと線を引いてくれている。

 そう思うと、胸の奥が甘くなる。

 線を引かれているはずなのに、その線を、自分だけ特別に大切にされている証拠みたいに感じてしまう。

 姉さんが蓋を閉じた缶ピースは、テーブルの隅で静かに光っていた。

 

 

     *

 

 

 姉さんは、よく眠そうにしていた。

 僕が部屋に着くと、ソファにもたれて目を閉じていることがあった。

 ベッドの上で毛布に包まったまま、玄関の鍵だけ開けていることもあった。

 

「ごめん。今日、ちょっと無理かも」

 そう言う日でも、帰れとは言わなかった。

 僕は鞄を置いて、低いテーブルの上を少し片づける。

 空のペットボトルをまとめて、コンビニの袋を縛る

 灰皿に残った吸い殻を見ないようにしながら、隅へ寄せる。

 

 姉さんはそれを見て、毛布の中から小さく笑った。

 

「優人くん、お嫁さんみたい」

「やめてください」

「照れた?」

「照れてません」

「ほんとかな」

 

 そんなやり取りだけで、僕は一日分の息ができた。

 姉さんは僕を子供扱いする。

 からかって、笑って、頭を撫でる。

 僕はそれが悔しかった。でも、同時に嬉しくもあった。

 その矛盾を、自分でもどう処理すればいいのかがわからない。

 

 ある日、姉さんは床に座る僕の膝を軽く叩いた。

 

「ちょっと借りていい?」

「え?」

「膝」

 

 意味を理解する前に、姉さんは僕の膝に頭を乗せていた。

 

 僕は固まった。

 姉さんの髪が制服の上に広がる。

 細い毛先が膝のあたりで揺れる。

 煙草と柔軟剤と、甘い香水の匂いが、いつもより近い。

 

「重い?」

「いえ」

「嘘。絶対重いでしょ」

「大丈夫です」

「また大丈夫」

 

 姉さんは目を閉じたまま笑った。

 

「優人くん、本当にそればっかり」

 僕は何も言えない。

 

 膝の上にある姉さんの頭を、どう扱えばいいのかわからない。

 手を置いていいのか。

 髪に触れていいのか。

 ただ座っていればいいのか。

 何もわからないまま、僕は息を殺す。

 姉さんはしばらく目を閉じていた。

 眠っているのかと思った頃、ぽつりと言った。

 

「優人くんがいてくれると、静かでいいね」

「静か、ですか」

「うん。責めてこないし。急かさないし。正しいこと言わないし」

 姉さんの声は眠そうだった。

 

「大人ってさ、みんな正しいこと言うんだよね」

「正しいこと」

「そう。ちゃんとしなさい、とか。もう大人なんだから、とか。自分で決めたことでしょ、とか。間違ってないんだけど、間違ってないから疲れる」

 僕は何も言わない。

 

「優人くんは、そういうこと言わないから楽」

 姉さんは、少しだけ顔をこちらに向けた。

 

「ねえ」

「はい」

「優人くんは、私のこと、駄目な人だと思う?」

 

 僕はすぐに首を振る。

 

「思いません」

「ほんとに?」

「はい」

「嘘でも嬉しい」

「嘘じゃないです」

 そう言うと、姉さんは目を細めた。

 

「そっか」

 それだけだった。

 でも僕には、それが何かの誓いのように思えた。

 姉さんが自分を駄目だと思っている。

 誰かに責められている。あるいは、責められる前から自分で自分を責めている。

 その姉さんに、僕だけは「駄目じゃない」と言える。

 

 僕だけは、姉さんを否定しない。

 

 そう思うと、胸の奥が熱くなる。

 姉さんは僕の膝の上で、安心したように息を吐いた。

 その吐息が制服越しに触れた気がして、僕はまた動けなくなる。

 

 

     *

 

 

 次の日、学校で女子たちが恋愛の話をしていた。

 

 誰と誰が付き合っているらしい。

 隣のクラスの誰が格好いい。

 先輩のインスタがどうとか。

 今度の土曜に映画へ行くとか。

 

 以前なら、僕はその会話に入れないことを惨めに思っていただろう。

 

 けれどその日は違った。

 

 ひどく、子供っぽく見えたのだ。

 

 いや、実際には僕も同じ十五歳だ。

 同じ教室に座って、同じ制服を着て、同じ授業を受けている。

 僕だけが違う人間になったわけではない。

 

 それなのに、彼らの笑い声は妙に薄く聞こえた。

 

 誰が好き。

 誰と出かける。

 手を繋いだとか、まだ繋いでいないとか。

 

 そんな明るい場所で語られる恋の話が、僕にはもう遠く思える。

 

 僕は昨夜、姉さんの膝の重さを知っている。

 煙草の匂いが染みついた部屋の空気を知っている。

 大人になっても楽にならないと言った声を知っている。

 姉さんが、自分は駄目な人間かと聞いた夜を知っている。

 

 だから僕は、彼らとは違う。

 

 そんなふうに思った。

 思ってしまった。思えてしまえていた。

 なんて、なんて浅ましいのだろうか。

 

 他人の幼さを見下ろすことでしか、自分の孤独を保てない、愚かな自分。そのことに、まったく気づいていなかったわけではない。

 けれど、気づいたところでやめられなかった。やめたくなかった。

 

 姉さんの弱さを知っている。

 姉さんの部屋の匂いを知っている。

 姉さんが僕の膝で目を閉じた重さを知っている。

 

 それだけで、僕は自分が何か特別な場所に立ったような気になれる。僕は大人になったわけではない。ただ、暗い部屋の匂いを制服に染み込ませただけ。

 それでも、その匂いは僕にとって勲章のようなもので、僕だけが、姉さんの本当を知っている証だった。

 だから、僕だけがあの人の隣にいられる。

 

 それはあまりにも、愚かで甘い、幼稚な思い込み。

 しかし、だからこそ。だからこそ、手放せはしなかった。

 

 

     *

 

 

 その週の金曜日、姉さんから連絡が来た。

 

『今日、来れる?』

 短い文だった。

 いつもより絵文字がなかった。

 それだけで、僕は胸の奥がざわついた。

 

『行けます』

 そう返すと、すぐに既読がついた。

 返事はない。

 僕は授業が終わると、誰にも声をかけられないうちに教室を出る。駅までの道を早足で歩き、電車に乗り、姉さんのマンションへ向かっう。

 

 エントランスのインターホンを押しても、返事がなかった。

 もう一度押す。

 数秒遅れて、姉さんの声がした。

 

『……ごめん。開ける』

 オートロックが外れる。

 

 エレベーターに乗る。

 三階で降りる。

 姉さんの部屋の前に立つ。

 チャイムを押す前に、ドアが開いた。

 

 姉さんはそこに立っていた。

 髪はほどけていて、顔色が悪かった。

 薄い部屋着の上にカーディガンを羽織っていたけれど、それでもどこか寒そうに見えた。

 

「ごめんね、急に」

「大丈夫です」

「また大丈夫」

 姉さんは笑おうとして、うまく笑えていなかった。

 部屋に入ると、いつもより煙草の匂いが濃い。

 テーブルの上の灰皿には、吸い殻が何本も重なっていて、。缶ピースの蓋は開いたまま。そして、ライターがその隣に転がっていた。

 

 僕は何も言えない。

 姉さんは僕の視線に気づいて、少し気まずそうに笑う。

 

「来る前に、ね。吸っただけ」

「……はい」

「優人くんの前では吸ってないから、セーフ」

 そう言って、姉さんは冗談みたいに片手を上げる。でも、その声は少し震えていて。

 僕は鞄を置いた。

 

「何か、ありましたか」

 自分でも驚くほど小さい声だった。

 姉さんは何も答えない。

 代わりに、スマホを手に取って、画面を伏せる。

 その仕草を、僕は見てしまった。

 誰かから連絡が来ていたのだろう。

 たぶん、大人の誰か。

 僕の知らない誰か。

 僕が聞く権利のない誰か。

 

 胸の奥が黒くなる。

 けれど、姉さんは僕のほうを見て言った。

 

「優人くん」

「はい」

「今日、ちょっとだけ甘えていい?」

 その言葉で、黒いものはまた溶けて消える。

 姉さんは、本当にずるい。僕が何に傷つき、何を与えられれば全部許してしまうのか、知っているみたいだ。

 

 いや、もしかしたら知らないのかもしれない。

 ただ自分が楽になる言葉を、選んだだけだったのかもしれない。

 でも、それでも、僕には、それで十分だった。

 

「いいです」

 僕は言う。

 姉さんは僕の隣に座る。

 いつもより、距離が近い。

 

「優人くんがいてくれないと、私、駄目になっちゃうかもねぇ」

 姉さんはそう呟く。

 きっと、深い意味なんてないのだろう。疲れた大人が、そばにいる子供に少しだけ寄りかかっただけの言葉。

 それでも僕は、その軽さを無視した。

 無視して、都合のいい重さだけを受け取る。

 

 姉さんが僕を必要としている。

 姉さんが、僕がいないと駄目になると言ったのだ。

 

 大人の男でもなく。

 大学の友達でもなく。

 親でもなく。

 他の親戚でもなく。

 

 この僕を。

 

 僕はその言葉を、胸の奥のいちばん柔らかいところにしまい込む。

 そこが毒で焼けていくことにも気づかないままに。

 

「僕は、います」

 そう言った。

 

「姉さんが呼んでくれるなら、いつでも来ます」

 姉さんは、少し困ったように笑った。

 

「そういうこと言うと、本当に呼んじゃうよ」

「呼んでください」

「優人くん、優しすぎ」

「そんなことないです」

「ううん。優しいよ」

 姉さんはそう言って、僕の肩に額を預ける。

 

 軽い重さ。

 甘く重い煙草の匂い。

 柔らかい髪。

 閉め切った部屋の空気。

 僕はまた、息を止めた。

 姉さんのスマホが、伏せられたまま震える。

 

 一度。

 二度。

 

 姉さんは見ない。

 僕も見ないふりをする。

 その代わり、僕は自分の肩に預けられた重さだけを感じていた。

 今、この瞬間だけは、姉さんは僕の隣にいるのだ。だから、それ以外のことは全部、どうでもいい。

 そう思った瞬間、そんなふうに思えてしまう自分が、少し怖くなる。けれど恐ろしさよりも、甘さが勝つ。

 

 姉さんの弱さは、僕にとって居場所。

 姉さんの不安は、僕にとって役割。

 姉さんの孤独は、僕にとって救い。

 だから、僕が支えなければ。

 

 そう思う。

 

 けれど、それは本当に優しさなのだろうか。

 

 わからない。

 いや、たぶん、わかっている。

 これは優しさの形をした独占欲。

 

 姉さんを救いたい。

 そう思いたかった。

 でも本当は、姉さんを救える自分になりたかっただけなのかもしれない。

 その考えが胸の奥に浮かんだ瞬間、喉のあたりが苦くなる。

 僕はそれ以上、考えるのをやめた。

 

 姉さんの伏せたスマホの向こう側に、誰がいるのか。

 姉さんが何から逃げているのか。

 僕に向けられた言葉が本当に、僕自身へ向けられたものなのか。

 

 何もわからない。

 わからないものを全部、肩に残る姉さんの重さで覆い隠す。

 

 閉め切った暗い部屋の中で。

 

 もう何度も吸い込んでしまった煙草の匂いを、また少し深く吸い込みながら。

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