灰皿の中の初恋   作:インフレした小山羊

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でも、私たちの関係に「もし」なんて、無いんだよ。

 七月に入ると、東京は急に息苦しくなった。

 

 たしかに、雨の日は減った。しかしその代わりに、空気そのものが水を含んでいるみたいに重い。

 朝、駅まで歩くだけでシャツが背中に貼りつく。電車の中は冷房が効きすぎていて、濡れた制服だけが先に冷える。そして教室に着く頃には、身体の外側だけが冷たく、内側にはまだ湿った熱が残っているのだ。

 

 夏が来る。

 

 そう思うたび、胸の奥が少し沈む。

 春に東京へ来たばかりの僕は、何も持っていなかった。学校にも、教室にも、街にも、自分の置き場所がない。

 

 けれど今は違う。

 

 姉さんの部屋がある。

 そう思うだけで、胸の奥に甘いものが広がる。その甘さの底が、少しだけぬかるんでいることにも、薄々気づいている。僕の日常は、もう姉さんの部屋なしでは形を保てない。

 

 授業の終わりを待つ。

 放課後を待つ。

 スマホの通知を待つ。

 待つことばかりが、生活の中心になっていく。

 

 クラスでは、夏休みの予定の話が増えていた。

 

 海へ行く。

 夏期講習がある。

 中学の友達と会う。

 花火大会に行くかもしれない。

 

 誰かが僕にも聞いてくる。

 

「早見は夏休み、どっか行くん?」

 僕は曖昧に笑う。

 

「たぶん、特には」

「え〜もったいない」

 

 もったいない。

 そう言われても、よくわからない。

 海も、花火も、夏祭りも、明るすぎる。

 人が多くて、音が大きくて、匂いが薄い。

 そんな場所より、僕は姉さんの部屋を思い出す。

 

 厚い遮光カーテン。

 低いテーブル。

 缶ピース。

 ライターの蓋が開いて閉じる音。

 柔軟剤と、甘い香水と、煙草の匂い。

 

 あの暗い部屋のほうが、ずっと夏から遠い。

 だから、息ができる。

 

 

     *

 

 

 その日、姉さんの部屋に入った瞬間、少しだけ違和感があった。

 

 匂いが薄い。

 煙草の匂いが、いつもより弱い。

 

 消えているわけではない。壁にも、カーテンにも、クッションにも、もう染みついている。

 けれど、いつもの甘く重い匂いが少し遠い。その代わりに、柔軟剤の匂いが前に出ていた。

 閉め切った部屋の湿った空気。

 姉さん自身の体温みたいなもの。

 それが、いつもより近い。

 

「どうしたの?」

 姉さんが振り返る。

 僕が玄関で立ち止まったせいだ。

 

「あ、いえ」

「変な顔してる」

「してません」

「してるよ。優人くん、顔に出るから」

 姉さんは笑って、クッションに戻る。

 テーブルの上には、缶ピース。

 蓋は閉まっている。灰皿もある。けれど、吸い殻は一本も入っていない。

 

「今日、吸ってないんですか」

 思わず聞いてしまう。

 

 姉さんは一瞬、僕を見る。

 それから、少しだけ視線を外した。

 

「んー。ちょっとね」

「ちょっと?」

「控えてる」

「体調、悪いんですか」

「別に。健康のため?」

 冗談みたいな声。

 でも、その笑い方はあまり楽しそうじゃない。

 僕はそれ以上、聞けない。

 聞く権利がない。

 その言葉は、最近ずっと僕の中にある。

 姉さんのスマホが震えたとき。急に姉さんが黙ったとき。僕の知らない予定の話を濁したとき。いつも、そこに行き着く。

 聞く権利がない。

 でも、知りたい。そして、知りたいと思ってしまうことが、もう苦しい。

 

「偉いですね」

 なぜそんな言葉が出たのか、自分でもわからない。姉さんは少し驚いて、それからふっと吹き出す。

 

「何それ。子供に褒められちゃった」

「子供じゃないです」

「いや~高校生は子供でしょ〜」

「じゃあ、子供に褒められてください」

「えらいえらいって?」

「はい」

 姉さんは笑う。

 その笑い方は、久しぶりに少しだけ軽い。

 

「じゃあ、えらいって言って」

「えらいです」

「雑だなぁ」

「禁煙、えらいですね」

 禁煙。

 口にした瞬間、その言葉だけが部屋の中で少し大きく響いた。

 姉さんの笑みが、一瞬だけ止まる。

 

「禁煙ってほどじゃないよ」

「控えてるんですよね」

「うん。まぁ⋯⋯ね」

 姉さんは缶ピースを見る。

 深い紺色の缶。

 閉じられた蓋。

 その上に、細い指がそっと乗る。

 開けるのかと思った。けれど姉さんは、蓋を撫でただけで手を離す。

 

「優人くんがいると、吸わないで済むかもね」

 軽い調子。たぶん、冗談。それでも僕の中では、その言葉が勝手に重くなる。

 

 僕がいると、吸わないで済む。

 僕がいると、姉さんは少しだけ正しくいられる。

 僕がいると、姉さんは少しだけ自分を壊さずに済む。

 まただ。また、僕は都合よく受け取っている。

 そう思うのに、止められない。

 

「じゃあ、来ます」

「え?」

「姉さんが吸わないで済むなら、来ますよ」

 姉さんは目を丸くする。

 それから、困ったように笑った。

 

「優人くん、ほんとそういうとこあるよね」

「そういうとこって」

「真面目すぎるとこ」

「悪いですか」

「悪くないよ」

 姉さんの声が、少し低くなる。

 

「悪くないから、困る」

 その意味を考えようとした瞬間、姉さんは立ち上がった。

 

「お茶でいい?」

「あ、はい」

「グラス、今日は二つあるよ」

 棚からグラスが二つ出てくる。

 二つ。

 それだけのことが、なぜか寂しい。

 前は一つしかなかった。

 姉さんが口をつけたグラスを、僕に渡してくれた。

 あれはたぶん、本当にただグラスが一つしか洗われていなかっただけ。

 意味なんてない。

 でも、僕は意味を作ってしまっていた。

 だから二つあることが、少し寂しい。

 馬鹿みたいだ。

 姉さんはそんなことに気づかないまま、僕の前にグラスを置く。

 

「はい」

「ありがとうございます」

 冷たいお茶。

 透明なグラス。

 姉さんのものと、僕のもの。ちゃんと分かれている。その距離が、妙に正しい。

 

 

     *

 

 

 夏休みが近づくにつれて、姉さんは少しずつ外へ出なくなった。大学は試験期間らしい。でも、姉さんが勉強しているところを、僕はほとんど見ない。

 ノートパソコンは開かれている。

 教科書もテーブルの上にある。

 けれど画面は暗いまま。

 教科書の上には、空のペットボトルや薬局の袋。

 

「試験、大丈夫なんですか」

 僕が聞くと、姉さんはクッションに顔を埋めたまま答える。

 

「大丈夫じゃない」

「勉強しなくていいんですか」

「したほうがいい」

「じゃあ」

「でも、今は無理」

 寝返りを打つ姉さん。

 顔色が悪い日が増えた。

 食欲もないらしい。

 冷蔵庫の中には、ゼリー飲料やスポーツドリンク。コンビニの袋からは、ミントタブレットや小さな飴の袋が何度も出てくる。

 

「夏バテですか」

「たぶんねぇ」

「病院、行ったほうが」

「大げさだよ」

「でも」

「優人くん、お母さんみたい」

「お嫁さんの次はお母さんですか」

「出世したじゃん」

 姉さんは笑う。でも、その笑い方にも力がない。

 僕は何も言えず、テーブルの上を片づける。

 灰皿には、やっぱり吸い殻が少ない。前ならすぐに溜まっていたはずなのに、最近はほとんど増えない。

 それが嬉しかった。

 嬉しいと思ってしまった。

 姉さんの部屋から、煙草の匂いが薄くなる。

 僕の知らない大人の匂いが、少しずつ剥がれていく。そのぶん、姉さん自身の匂いが近くなる。

 そんな気がする。

 姉さんが、僕のいる場所に近づいてきているみたいだった。

 もちろん、そんなはずはない。

 そんなはずはないのに、その思い込みはあまりにも甘い。だから僕はそれを、捨てられない。

 

「優人くん」

 姉さんがクッションから顔を上げる。

 

「はい」

「なんか食べた?」

「まだです」

「ちゃんと食べなよ。育ち盛りなんだから」

「姉さんも食べてください」

「私はいいの」

「よくないです」

「生意気」

 姉さんはそう言いながら、少し笑う。

 僕は近くのコンビニでおにぎりとプリンを買ってくる。でも姉さんはおにぎりには手をつけず、プリンだけを少し食べる。

 

「甘いものは食べられるんですね」

「うん。なんか、こういうのなら」

「本当に夏バテですか」

「たぶんね」

 たぶん。

 姉さんは最近、その言葉ばかり使う。

 

 たぶん。

 まあ。

 ちょっと。

 別に。

 

 何かを隠しているようにも見える。

 何も考えたくないだけにも見える。

 僕はその曖昧さの前で、いつも立ち止まる。

 

 踏み込めない。

 踏み込んだら、自分がこの部屋にいられなくなる気がする。

 だから、踏み込まない。

 

 代わりに、プリンの蓋を剥がす。

 スプーンを渡す。

 空き容器を捨てる。

 そういう小さなことだけで、僕は姉さんの隣にいる理由を作っていく。

 

 

     *

 

 

 ある夕方、姉さんは窓を少しだけ開けた。

 珍しいことだ。

 

 遮光カーテンの隙間から、細い光が部屋に差し込み、外の音も少しだけ入ってきた。

 

 車の音。

 どこかの子供の声。

 遠くで鳴る踏切の音。

 部屋の空気が動く。

 煙草の匂いが、少し外へ逃げていく。

 

「あ」

 姉さんが小さく声を漏らす。

 

「どうしました?」

「いや、なんか……匂いこもってるなって思って」

「いつもです」

「ひどい」

「事実では?」

「優人くんて、たまに刺してくるよねぇ」

 姉さんは笑いながら、カーテンを少しだけ押さえた。

 光が姉さんの横顔に落ちる。僕はその顔を見て、少しだけ息を止めた。部屋の暗さに慣れていたせいか、明るい場所で見る姉さんは、知らない人のようだった。

 

 目の下の隈。

 少し荒れた唇。

 疲れた頬。

 

 それでも、綺麗だと思う。

 いや、違う。壊れそうなのだ。

 たぶん、僕は壊れそうな姉さんを綺麗だと思ってしまっている。

 そのことに気づいて、胸の奥が少し冷える。

 

「優人くん」

「はい」

「夏休み、どうするの?」

「どうするって」

「地元帰るとか」

「ああ……少しだけ帰ると思います。親も、顔出せって言ってるので」

「そっか」

 姉さんは窓の外を見る。

 

「帰れる場所があるの、いいね」

「姉さんもあるじゃないですか」

「んー」

 曖昧な笑み。

 

「家って、あるから帰れるわけじゃないんだよ」

 僕には、その意味がよくわからない。

 

 実家。

 親。

 親戚。

 大学進学のために買い与えられた、綺麗なマンション。

 姉さんには、僕よりずっとたくさんのものがあるように見える。

 でも姉さんは、まるでどこにも帰れない人みたいな顔をする。

 

「じゃあ、ここは?」

 気づけば、僕は聞いていた。

 

「ここは、姉さんの家じゃないんですか」

 姉さんは少しだけ考える。

 それから、ぽつり。

 

「箱、かなぁ」

「箱?」

「うん。綺麗な箱」

 姉さんは部屋を見回す。

 

 散らかったテーブル。

 閉じられた缶ピース。

 床に落ちたカーディガン。

 畳まれていない洗濯物。

 ベッドの上で丸まった毛布。

 

「お父さんはいい部屋くれたんだけどねぇ」

 姉さんは笑う。

 

「中身がこれじゃ、意味ないよね」

「そんなこと」

「あるよ」

 強い声ではない。

 けれど、そこだけは譲らない響き。

 

「場所が綺麗でも、自分が駄目なら汚れるんだよ」

 僕は何も言えない。

 姉さんが自分を駄目だと言うたびに、否定したくなる。でも、何を否定すればいいのかわからない。

 

 姉さんは駄目じゃない。

 そう言うのは簡単だ。

 でも僕は、姉さんの何を知っているというのだろうか。

 

 部屋の匂い。

 疲れた横顔。

 僕の膝で目を閉じた重さ。

 煙草を我慢する指先。

 スマホを伏せる仕草。

 

 知っているつもりで、何も知らない。

 そのことが、少しだけ怖い。

 

「優人くん」

「はい」

「今のは、忘れてね」

「……はい」

「いい子」

 姉さんはそう言って、僕の頭を軽く撫でる。

 忘れて、と言われたけれど⋯⋯忘れられるはずがない。

 

 

     *

 

 

 夏休みに入ってからも、僕は姉さんの部屋へ通った。

 学校がないぶん、時間の感覚が曖昧になる。

 朝起きて、親戚の家で朝食を食べる。

 参考書を開く。

 文字はすぐに滲む。

 スマホを見る。

 

 姉さんから連絡が来ていない日は、ひどく長い。そして反対に、来た日は、あっという間に短くなる。

 

『今日、来る?』

 その一文だけで、夏の一日が全部意味を持つ。

 僕は鞄に参考書を入れて出かける。

 親戚の家の人には、図書館へ行くと言う。

 嘘ではない。

 図書館へ行く日もある。でも大抵は、途中で姉さんのマンションへ向かう。

 

 エントランス。

 エレベーター。

 三階の廊下。

 姉さんの部屋の前。

 

 その順番を辿るたびに、僕の中の何かが静かになる。

 その日、部屋に入ると、姉さんはクッションに座ってスマホを見ていた。

 画面には白っぽいページ。

 僕が靴を脱ぐ音に気づいて、姉さんは慌てたように画面を伏せる。

 

「早かったね」

「駅から走ったので」

「暑いのに」

「大丈夫です」

「またそれ」

 姉さんは笑う。でも、少しだけ不自然。

 僕は見てしまった。

 画面の端の、禁煙、という文字。

 ほんの一瞬。

 それだけ。

 

 広告だったのかもしれない。

 検索結果だったのかもしれない。

 何かの記事だったのかもしれない。

 でも、それは僕にはわからない。

 

「禁煙、するんですか」

 聞いてしまう。

 姉さんは目を伏せた。

 

「んー……まあ、したほうがいいかなって」

「健康のため?」

「そう。健康のため」

 前にも聞いた言葉。

 同じなのに、今回は少しだけ重い。

 

「いいことだと思います」

「優人くんは真面目だね」

「煙草、身体に悪いですし」

「まぁ⋯⋯ね」

 姉さんは頷く。

 それから、小さく笑った。

 

「でも、吸ってる私のほうが好きだったりする?」

 僕は答えに詰まる。

 

 好き。

 その言葉が、急に部屋の中で形を持った。

 姉さんは冗談のつもりなのだろう。

 からかうような顔。

 けれど、僕には簡単に流せない。

 

「……どっちでも」

「どっちでも?」

「姉さんなら、どっちでもいいです」

 言ってから、喉が詰まる。

 今のは、変だったかもしれない。

 姉さんは少し黙る。

 

 沈黙。

 

 エアコンの音だけが、部屋の隅で低く鳴っている。

 姉さんはやがて、困ったように笑った。

 

「そういうのは、ずるいかなぁ」

「え?」

「なんでもない」

 姉さんは立ち上がり、冷蔵庫へ向かう。

 

「麦茶、あるよ」

 麦茶。

 その言葉で、十歳の夏が戻ってくる。

 親戚の家。

 畳の匂い。

 白いワンピース。

 汗をかいたグラス。

 姉さんが持ってきてくれた麦茶。

 あのときの姉さんと、今の姉さんが重なる。

 重なって、やはり少しずれる。

 姉さんは冷蔵庫からボトルを取り出し、グラスに注ぐ。

 

「はい」

「ありがとうございます」

 麦茶の匂いは、煙草よりずっと薄い。

 それなのに、その日はひどく懐かしい。

 

 

     *

 

 

 八月の初め、姉さんの部屋からは煙草の匂いがさらに薄くなった。

 缶ピースは、まだテーブルの上にある。

 けれど蓋は閉じたまま。

 ライターも引き出しの中へしまわれたらしく、前のようにテーブルの上で光ってはいない。

 灰皿には、飴の包み紙。

 

「灰皿の使い方、変わりましたね」

 僕が言うと、姉さんはクッションに顔を埋めたまま笑う。

 

「再利用、かなぁ」

「ちゃんと捨てればいいのに」

「優人くんが捨ててよ」

「自分で捨ててください」

「冷たいなぁ」

「普通です」

「普通って怖いね」

 姉さんはそう言って、飴を一つ口に入れる。

 最近、姉さんはよく飴を舐めている。

 

 ミント。

 レモン。

 梅。

 ときどき、妙に酸っぱい匂いのするもの。

 煙草の代わりなのだろうと思う。だから僕は、その包み紙が増えることも少し嬉しかった。

 

 吸い殻より、ずっといい。

 姉さんの部屋が少しだけ清潔になっていく気がする。そして姉さん自身も、少しだけこちらへ戻ってくる気がする。

 そんなふうに思う。

 都合がいい。

 わかっている。

 それでも、思ってしまう。

 

「優人くん」

「はい」

「もし私がさ」

 姉さんは飴を口の中で転がしながら、天井を見る。

 

「ちゃんとした人になったら、どう思う?」

「ちゃんとした人?」

「うん。朝起きて、ちゃんと大学行って、部屋片づけて、煙草やめて、ちゃんとご飯食べて、ちゃんとした服着て、ちゃんと笑う人」

 軽い声。

 でも、その言葉の一つ一つが妙に痛い。

 

「いいと思います」

「そっか」

「でも」

「でも?」

「無理してちゃんとしなくても、いいと思います」

 姉さんが僕を見る。

 僕は言葉を探す。

 

「今の姉さんが駄目ってわけじゃないので」

 姉さんはしばらく黙っていた。

 それから、笑う。

 

「優人くんってさ」

「はい」

「ほんと、私に都合いいこと言うよねぇ」

 責めているようにも、喜んでいるようにも聞こえる。

 

「すみません」

「謝らないでよ」

「でも」

「いいの」

 姉さんは目を閉じる。

 

「それが聞きたくて、呼んでるんだからさ」

 胸の奥が、静かに熱くなる。そして同時に、どこかが冷える。

 それが聞きたくて、呼んでいる。つまり僕は、姉さんが聞きたい言葉を言うためにここにいる。

 それでもよかった。

 必要とされているなら。

 役割があるなら。

 姉さんの中に、ほんの少しでも自分の場所があるなら。

 

 それでいい。

 

 そう思ってしまう。

 姉さんは薄く目を開けた。

 

「ねえ、優人くん」

「はい」

「もし、私たちが親戚じゃなかったら⋯⋯どうなってたんだろうね」

 音が消えた気がした。

 エアコンの低い音も。

 外の車の音も。

 自分の心臓の音さえ、一瞬遠のく。

 姉さんは、こちらを見ていない。

 天井を見たまま。

 飴を口の中で転がしながら。

 何でもないことみたいに。

 何でもないことみたいに、その言葉を落とす。

 

「……どう、って」

 声が掠れる。

 姉さんは小さく笑った。

 

「なんでもない。今のなし」

「なし、ですか」

「うん。なし」

 そう言って、姉さんは起き上がる。

 

「変なこと言った。忘れて」

 

 忘れて。

 

 姉さんはよくそう言う。

 でも、僕はいつも忘れられない。むしろ、忘れてと言われた言葉ほど、胸の奥に残る。

 

 もし私たちが親戚じゃなかったら。

 その言葉は、煙草の匂いより深く、僕の中に染み込んだ。

 

 親戚じゃなかったら。

 

 その場合、僕は何になれたのだろう。

 

 弟ではなく。

 子供ではなく。

 従弟ではなく。

 

 もっと別の何かに。

 そう考えた瞬間、もう駄目だった。

 姉さんは何も知らない顔で麦茶を飲んでいる

 僕の中で何が起きたのか、たぶん気づいていない。

 気づいていないから、残酷だった。

 

 僕はグラスを握る。

 手のひらに冷たさが移る。

 それでも、胸の奥だけが熱い。

 

 

     *

 

 

 その日の帰り、姉さんは玄関まで見送ってくれた。

 

 前より煙草の匂いが薄い部屋。

 飴の包み紙が入った灰皿。

 閉じられた缶ピース。

 引き出しの中へ消えたライター。

 

 僕は靴を履きながら、ふと振り返る。

 

「姉さん」

「ん?」

「本当に、煙草やめるんですか」

 姉さんは少しだけ黙る。

 玄関の白いタイルに、部屋の薄暗い明かりが落ちている。

 

「やめられたらね」

「やめたいんですか」

「……やめなきゃいけない、かも」

 小さな声。

 僕はその意味を掴めない。

 

「どうして」

 聞いた瞬間、姉さんの表情が変わる。

 ほんの少し。本当に少しだけ。

 それでも、僕にはわかった。

 しまった、という顔。

 姉さんはすぐに笑う。

 

「健康のため」

「またそれですか」

「そう。またそれ」

 姉さんは僕の額を軽く指で弾く。

 

「高校生は、そんなこと気にしなくていいんだよ」

「でも」

「いいの」

 その声には、珍しく終わりの響きがあった。

 これ以上聞かないで。

 そう言われた気がした。

 僕は頷くしかない。

 

「じゃあ、帰ります」

「うん。気をつけて」

「はい」

 ドアが閉まる。

 鍵の音。

 僕は廊下に立ったまま、少しだけ動けない。

 

 やめなきゃいけないかも。

 

 その言葉が、耳の奥に残っている。でも僕は、それを正しく考えられない。考えたくない。

 姉さんが煙草をやめる。姉さんの部屋から、あの甘く重い匂いが消えていく。そのことが、なぜか嬉しくて、寂しい。

 

 エレベーターの扉に、制服姿の自分が映る。

 少し痩せたように見えた。

 目つきが悪くなったようにも見える。

 でも、そんなことはどうでもいい。

 

 僕はスマホを取り出す。

 姉さんからの新しい通知はない。

 それでも画面の中には、姉さんの名前がある。

 

 帆月李波。

 僕の知っている姉さん。僕だけが知っているはずの姉さん。

 そう思った瞬間、また胸の奥が甘くなる。

 その甘さの底に、何か別のものが沈んでいる気がした。けれど僕は、まだそれを見ない。

 

 見ないまま、エレベーターは一階へ降りていく。

 扉が開く。

 

 清潔なエントランス。

 外の熱気。

 夜になりきれない夏の空。

 

 僕は外へ出る。

 部屋の匂いは、前より薄い。それでも、袖口にはまだかすかに残っている。

 煙草とも、柔軟剤とも、姉さんともつかない匂い。僕はそれを確かめるように、少しだけ息を吸う。

 夏の夜の湿った空気に混ざって、その匂いはすぐにわからなくなった。でも、消えたわけではない。

 

 たぶん。

 

 僕の中にはもう、十分すぎるほど染み込んでいるのだから。

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