灰皿の中の初恋 作:インフレした小山羊
もし私たちが親戚じゃなかったら。
その言葉は、しばらく僕の中に残り続けた。
授業中も。
電車の中でも。
親戚の家で夕飯を食べているときも。
風呂場で髪を洗っているときも。
ふとした瞬間に、姉さんの声で蘇る。
もし私たちが親戚じゃなかったら。
姉さんは、何でもないことみたいに言った。
飴を口の中で転がしながら、天井を見たまま。
軽くて、曖昧で、すぐに「忘れて」と取り消せる程度の言葉。
でも僕には、そうではなかった。
忘れられるわけがない。
あの言葉は、僕の胸の奥に引っかかったまま、少しずつ形を変えていく。
親戚じゃなかったら。
従弟じゃなかったら。
姉さんが僕を「いい子」と呼ばなかったら。
僕が十五歳ではなかったら。
そうしたら、僕は何になれたのだろうか。
弟ではなく。
子供ではなく。
ただの話し相手でもなく。
もっと別の何かに。
そこまで考えて、いつも息が浅くなる。
考えてはいけないことだとわかっている。
でも、わかっているからこそ、甘い。
閉じてはいけない箱ほど、指をかけたくなる。聞いてはいけない言葉ほど、何度も反芻してしまう。
姉さんはきっと覚えていない。
忘れて、と言ったのだから。
自分でも変なことを言ったと思って、何でもない冗談の一つに戻したのだから。
でも僕は、忘れない。
忘れられない。
忘れられる訳がない。
その違いが、僕と姉さんの間にある距離そのもののように思えた。
*
夏休みに入って数日後、僕は一度だけ地元に帰った。
親に顔を見せろと言われたから。
親戚の家の人にも、少し帰ってきたらどうだと言われたから。
断る理由がなかったから。
新幹線の窓の外で、東京の建物が少しずつ低くなる。
やがて、田んぼが見えた。
低い山が見えた。
空が広くなった。
地元の駅に降りると、空気が違う。
湿っているのに、東京ほど重くない。
アスファルトの熱の下から、土と草の匂いがする。
遠くで、蝉が鳴いている。
駅前のロータリーには、迎えの車を待つ人が何人か立っているだけ。
静かだ。
前なら、この静けさに安心したはずだ。
けれど今の僕には、少し物足りない。
何かが薄い。
音も。
光も。
匂いも。
東京が好きになったわけではない。人混みに慣れたわけでもない。ただ、姉さんの部屋の匂いを知ってしまったあとでは、ここにあるものがどれも遠く感じる。
母は僕を見るなり、少し痩せたんじゃない、と言った。
「ちゃんと食べてる?」
「食べてるよ」
「本当に?」
「うん」
嘘ではない。
食べてはいる。
ただ、味があまりしない日が増えただけ。
父は、学校はどうだ、と聞いた。
「まあ、普通」
「友達はできたか」
「少しは」
嘘。でも、そう答えるのが一番簡単だった。
両親はそれ以上深く聞いてこない。
僕が「普通」と言えば、普通なのだと思ってくれる。それが優しさなのか、無関心なのかは僕にはわからない。
夜、実家の自室に入る。
中学の頃まで使っていた机。
本棚。
少し色褪せたカーテン。
壁に残った小さな傷。
畳まれたままの夏布団。
全部、見覚えがある。
なのに、自分の部屋という感じがしなかった。
僕はベッドに腰を下ろし、スマホを見る。
姉さんからの連絡はない。
画面を消す。
また点ける。
ない。
わかっている。
姉さんにも予定がある。大学のことも、体調のことも、僕の知らない生活もある。でも、連絡が来ないだけで、胸の奥が乾いていく。
たった数時間前まで東京にいた。姉さんのマンションまで、電車で行ける距離にいた。
でも、今は違う。
距離がある。
たったそれだけで、こんなに不安になる。
僕はベッドに仰向けになって、天井の木目を見上げながら、袖口を鼻に近づける。
もう匂いは残っていない。
柔軟剤。
実家の洗剤。
干した布団の匂い。
清潔で、正しくて、どこにも濁りがない。
だから苦しい。
目を閉じて、姉さんの部屋を思い出す。
遮光カーテン。
低いテーブル。
缶ピース。
飴の包み紙。
伏せられたスマホ。
薄くなっていく煙草の匂い。
それから、姉さんの声。
もし私たちが親戚じゃなかったら。
その言葉だけが、実家の静けさの中で妙にはっきり響いた。
*
地元に帰って二日目の昼、親戚の集まりがあった。盆には少し早いけれど、みんなの都合が合うのがその日しかなかったらしい。
大人たちは居間で話している。
僕より小さい子たちは、廊下や庭を走り回っている。
冷えた麦茶。
スイカ。
仏壇の線香の匂い。
畳。
開けっぱなしの障子から入る蝉の声。
五年前の夏に似ている。けれど、姉さんの姿はそこには無い。
誰かが、そういえば李波ちゃんは、と言った。
僕は思わず顔を上げる。
「あの子は東京でしょ」
「大学忙しいの?」
「どうなんだろうね。最近あんまり顔見ないけど」
「でも、そろそろ落ち着くんじゃない?」
落ち着く。その言葉が、妙に引っかかる。
一体何が落ち着くのだろうか。
大学のこと。
生活のこと。
体調のこと。
それとも、別の何か。
聞きたい。
でも、聞けない。
大人たちの会話の中で、僕が急に姉さんのことを尋ねるのは不自然すぎる。
僕は麦茶のグラスを握る。
表面についた水滴が、指の間を伝って落ちる。
麦茶。
十歳の夏。
白いワンピースの姉さん。
庭の隅。
蝉の抜け殻。
今の姉さんは、あの頃の姉さんではない。それは、わかっている。それでも、あの頃の記憶があるから、僕は今の姉さんから離れられない。
綺麗だった姉さん。
煙草の匂いのする姉さん。
疲れた姉さん。
僕の膝で目を閉じる姉さん。
全部が別人みたいで、全部が同じ人。その矛盾が、僕をずっと縛っている。
夕方、集まりが終わる頃、スマホが震えた。
姉さんだった。
『地元?』
それだけ。僕はすぐに返す。
『はい。明日には戻ります』
既読がつく。
返事は、少し遅れた。
『そっか』
それだけ。
僕は画面を見つめる。
そっか。
たった三文字。でも、その三文字の奥に何かを探してしまう。
寂しいのか。
何でもないのか。
戻ってきてほしいのか。
どうでもいいのか。
何もわからない。わからないから、苦しい。
僕は続けて送る。
『戻ったら行ってもいいですか』
送ってから、心臓が嫌な音を立てる。
重いだろうか?面倒だろうか?待っていたみたいだろうか?
いや、待っていたのだから、間違ってはいないのだが。
しばらくして、返事が来た。
『うん』
それから、もう一つ。
『待ってる』
待ってる。
その三文字だけで、地元の夕暮れが全部色を失った。
僕の帰る場所は、ここではない。そんなふうに思ってしまう。それは、最低な事だと思う。でも、止められなかった。
*
東京へ戻った翌日、僕は姉さんの部屋へ行った。親戚の家にはいつも通り、図書館に行くと言う。
鞄には参考書。でも、開くつもりはない。
駅から姉さんのマンションまで歩く道は、いつもより短く感じた。
暑い。
汗が額を伝う。制服ではなく私服だから、少しだけ落ち着かない。
白いシャツに、細身の黒いパンツ。
親戚の家を出る前、鏡の前で何度も確認した服。
子供っぽくはないだろうか。
変ではないだろうか。
姉さんにどう見えるのだろうか。
そんなことを考えている自分が嫌になる。でも、考えずにいられない。
エントランスで部屋番号を押す。
『はい』
「あ、僕です」
『開けるね』
オートロックが外れる。
エレベーターの扉には、私服の僕が映る。
制服よりはましに見える。でも、大人には見えない。どれだけ背伸びをしても、十五歳の輪郭は消えはしない。
三階で降りて姉さんの部屋の前に立つと、ドアが少しだけ開いていた。
「入っていいよ」
中から声がする。
部屋に入ると、匂いがまた薄くなっていた。
煙草の匂いはまだある。けれど、前よりずっと奥に引っ込んでいる。
テーブルの上に、缶ピースはない。僕は無意識に探してしまっていた。
いつもの場所。
低いテーブルの隅。
ライターのあったあたり。
灰皿の横。
ない。その代わりに、飴の袋と、薬局の白い袋が置かれていた。
姉さんはクッションに座っていた。
髪を後ろでゆるく結んでいて、薄いカーディガン。顔色は、依然悪いまま。でも、前より少しだけ化粧をしているように見えた。
「おかえり」
姉さんはそう言った。
おかえり。その言葉だけで、胸が痛くなる。
「ただいま、です」
僕がそう返すと、姉さんは笑う。
「変なの」
「姉さんが言ったんじゃないですか」
「そうだけど」
姉さんは、少しだけ楽しそうに目を細める。
「私服、珍しいね」
「夏休みなので」
「似合ってる」
それだけ。
ただそれだけのことなのに、心臓が跳ねる。
「ありがとうございます」
「真面目」
「どう返せばいいかわからなくて」
「そういうとこ」
姉さんは笑う。その笑い方を見ると、帰ってきてよかったと思ってしまう。
何を置いても。
誰を騙しても。
ここへ来てよかったと。
「缶ピース、ないですね」
気づけば、そんなことを言っていた。
姉さんは一瞬だけ黙る。
「ああ」
それから、視線を少しだけ横へ逃がす。
「しまった」
「やめるんですか」
「ん〜まだわかんない、かなぁ」
「吸いたくならないんですか」
「なるよ」
姉さんは即答する。
「めちゃくちゃなる」
「じゃあ」
「まぁでも、駄目かなぁって」
駄目。
その言葉の響きが、少し重い。
「健康のため、ですか」
「うん。健康のため」
また、それだ。でも、僕はもう突っ込めない。姉さんの顔が、そうさせない。
聞かないで。そう書いてあるように見える。
僕は黙って頷く。
姉さんは小さく息を吐いた。
「優人くんは、いい子だね」
またその言葉。
いい子。
子供扱い。
でも、拒めない。むしろ、その言葉で撫でられることを、僕はもう待っている。
姉さんは薬局の袋を手元に引き寄せて、中身を少し奥へ押し込んだ。
白い箱が、ちらっと見えたが、何の薬かはわからない。見えたのはほんの一瞬だね。
僕はそれを、見なかったことにする。見なかったことにするのが、最近うまくなってきた気がすると、何処か他人の事のように思った。
*
その日は、姉さんの体調があまりよくなかった。
座っていても、すぐに横になる。
麦茶を飲んでも、少し顔をしかめる。
プリンも、今日は半分で手が止まる。
「本当に病院行かなくていいんですか」
「行ったよ」
姉さんは言ってから、すぐに口を噤んだ。
僕も固まる。行った。病院に。あの出不精の姉さんが。素直に驚いた。
「病院、行ったんですか」
「う〜ん。まぁ、ねぇ」
「何て言われたんですか」
聞いてしまう。聞く権利なんてないのに。
姉さんは、僕を見る。
少し困った顔。少し怯えた顔。少し、怒ったような顔。そのどれでもあるようで、どれでもない。
「まぁ⋯⋯大したことは、ないよ」
「でも」
「大丈夫」
姉さんが言う。僕の口癖を、姉さんが使う。
大丈夫。
その言葉ほど信用できないものはないと、僕はもう知っている。でも姉さんに言われると、それ以上は聞けない。
「……なら、いいです」
「怒った?」
「怒ってません」
「ほんと?」
「はい」
姉さんはじっと僕を見て、それから少しだけ笑った。
「優人くん、最近ちょっと大人っぽくなったね」
胸の奥が熱くなる。
大人。その言葉が欲しかった。
ずっと、姉さんにそう見られたかった。
「そうですか」
「うん。前より、なんか……目が暗い」
「褒めてますか、それ」
「褒めてる」
「絶対嘘です」
「嘘じゃないよ」
姉さんは薄く笑う。
「綺麗な子供って感じ」
子供。
大人っぽいと言った直後に、子供。
上げられて、落とされる。それでも、綺麗と言われたことだけを拾ってしまう。都合よく。いつものように。
「子供じゃないです」
「子供だよ」
「十五歳なので」
「いや〜十五は子供でしょ」
「姉さんだって、二十歳じゃないですか」
「二十は大人だよ。成人してるし」
「五歳しか違わないです」
「その五歳が大きいんだよ」
姉さんの声は軽い。でも、その線ははっきりしている。
大人と子供。
姉さんと僕。
向こう側と、こちら側。
その線を引くのは、いつも姉さんだ。そして線のすぐ近くまで僕を呼ぶのも、いつも姉さんだった。
「五年後なら」
気づけば、口から出ていた。
姉さんが僕を見る。
「え?」
「五年後なら、僕も二十歳です」
言った瞬間、部屋の空気が止まる。僕は自分の声に驚いていた。でも、取り消せない。取り消したくもない。
姉さんは一瞬だけ目を見開いて、それから笑った。困ったように。ごまかすように。少しだけ、痛そうに。
「五年後かあ」
姉さんは天井を見る。
「遠いねぇ」
「遠いですか」
「遠いよ」
「僕には、すぐです」
「それは若いからだよ」
「姉さんも若いです」
「⋯⋯そうだね」
姉さんは頷く。
「でも、たぶん私の五年は、優人くんの五年とは違う」
「どう違うんですか」
「いろいろ」
「いろいろって」
「いろいろだよ」
姉さんはそこで話を切る。
まただ。また、僕の知らないところに行く。
いろいろ。
その曖昧な言葉の奥に、僕の入れない世界がある。
大学。
親。
大人の責任。
伏せられたスマホ。
病院。
やめなきゃいけない煙草。
そして、たぶん。
誰か。
僕はその「誰か」の輪郭を、まだちゃんと見ようとしない。
見たら終わる気がする。
*
夕方、姉さんは珍しく外に出たいと言った。
「コンビニ行く」
「僕、買ってきますよ」
「いい。歩きたい」
歩きたい。姉さんがそう言うのは珍しい。
僕たちはマンションを出る。
外はまだ暑い。
夕方なのに、アスファルトから熱が上がってくる。空は薄い橙色で、街全体が汗をかいているみたいだった。
姉さんはゆっくり歩く。
歩幅が小さく、いつもより疲れやすそうに見える。
「大丈夫ですか」
「大丈夫」
「それ、僕の真似ですか」
「うつっちゃったかなぁ」
そう言って姉さんは笑う。僕は少しだけ嬉しくなる。自分の口癖が、姉さんにうつった。
そんなくだらないことで、姉さんの中に自分の痕跡が残ったように感じてしまう。
コンビニに着くと、姉さんは雑誌コーナーの前で少し立ち止まる。
それから、飲み物の棚へ向かう。
スポーツドリンク。
ゼリー飲料。
ヨーグルト。
プリン。
飴。
レジ奥の煙草は、見ようともしない。
以前なら、姉さんは自然にレジの奥を見ていた。缶ピースを買うときの、少し慣れた声を僕は一度だけ聞いたことがある。
でも今日は見ない。見ないようにしている。
その横顔が、なぜか苦しそうに見えた。
「買わないんですか」
僕は小さく聞く。
「何を?」
「煙草」
「買わない」
短い返事。それだけで、会話が終わる。
レジで会計をする姉さんの横に、僕はただ、立っているだけだった。
コンビニを出ると、姉さんは袋の中から飴を一つ出した。
「いる?」
「何味ですか」
「梅」
「じゃあ、いらないです」
「好き嫌いはよくないよ」
「姉さんが食べてください」
「はいはい」
姉さんは包みを開けて、飴を口に入れる。酸っぱい匂いが、少しだけした。
僕はその横顔を見る。
煙草を吸わない姉さん。
缶ピースを買わない姉さん。
梅の飴を舐める姉さん。
少しずつ、僕の知っている姉さんが変わっていく。その変化は嬉しい。けど、同じくらい、怖い。
「優人くん」
「はい」
「夏祭り、行った?」
「行ってません」
「友達と行けばいいのに」
「行く友達、いないので」
「そういうこと、さらっと言わない」
「事実です」
「事実でも、言われると困るなぁ」
姉さんは困ったように笑う。
「行きたいなら、私と行く?」
心臓が跳ねた。
「え」
「冗談だよ」
姉さんはすぐに言う。すぐに。あまりにも早く。
「絶対、人多いし⋯⋯こんな暑い中、あまり外出たくないし⋯⋯面倒臭いし⋯⋯」
「⋯⋯そうですか」
「うん。だから冗談」
冗談。
今のなし。
忘れて。
姉さんはいつもそうやって、言葉を投げて、すぐに引っ込める。でも僕は、投げられた瞬間の熱だけを覚えてしまう。
私と行く?
その言葉だけが、体の中に残る。
姉さんと夏祭り。
人混み。
屋台の明かり。
浴衣ではない姉さん。
それでも、隣を歩く姉さん。
想像しただけで、息が詰まる。
姉さんは飴を舐めながら、何事もなかったように歩いている。僕は少し遅れて、その隣を歩く。 肩が触れそうで、触れない距離。その距離が、夏の夕方の熱よりも苦しい。
*
部屋に戻ると、姉さんは疲れたようにベッドに沈んだ。
「歩いただけで疲れた」
「やっぱり、体調悪いんじゃないですか」
「運動不足だよ」
「本当に?」
「本当本当」
姉さんは目を閉じる。
買ってきた袋は、テーブルの上。
スポーツドリンク。
ゼリー飲料。
プリン。
梅の飴。
そこに煙草はない。
缶ピースもない。ライターもない。
匂いだけが、かすかに残っている。過去のものみたいに。そして、僕はそれが嫌だった。
姉さんが変わっていくのが嫌なのか。
煙草の匂いが消えるのが嫌なのか。
自分だけが知っている姉さんの証拠が薄れていくのが嫌なのか。
わからない。
わからないまま、僕はテーブルの上を片づける。
「優人くん」
「はい」
「こっち来て」
姉さんが隣を叩く。
僕は言われるまま、隣に座る。
距離が近い。姉さんは何も言わず、僕の肩に頭を預ける。
いつもの重さ。でも、今日は少し違う。煙草の匂いが薄いぶん、姉さんの髪の匂いが近い。
柔軟剤。
汗。
かすかな香水。
梅の飴の酸っぱい匂い。
僕は息を止める。
「地元、どうだった?」
姉さんが聞く。
「普通でした」
「普通かぁ」
「はい」
「帰れてよかった?」
僕は少し考える。
まあよかったのだとは思う。両親は心配してくれていたし、地元の空気は懐かしかったし、自分の部屋も、昔のまま残っていた。
でも。
「早く戻りたかったです」
言ってしまう。姉さんが少しだけ動く。
「東京に?」
「ここに」
沈黙。
今度は長い。
僕は自分の心臓の音を聞いている。
言い過ぎた。そう思う。でも、もう遅い。
姉さんはゆっくり顔を上げて、僕を見る。
その目は、いつもの眠そうな目ではない。からかう目でもない。何かを測るような目。
それが怖くて、でも目を逸らせない。
「優人くん」
「はい」
「そういうこと、あんまり言わないほうがいいよ」
静かな声。
怒ってはいない。
でも、線を引く声。
胸が冷える。
「すみません」
「謝ることじゃないけど」
「でも」
「うん」
姉さんは視線を外す。
「⋯⋯⋯⋯まぁ私が悪いんだけどね」
「え?」
「なんでもないよ」
また。なんでもない。それで終わる。
僕は何も言えない。
姉さんはソファの背にもたれ、天井を見る。
「優人くんはさ」
「はい」
「ちゃんと、高校生やったほうがいいよ」
その言葉が、思ったより深く刺さる。
「やってます」
「そう?」
「学校行ってますし、勉強も」
「そういう意味じゃなくて」
「じゃあ、どういう意味ですか」
少しだけ、声が強くなる。
自分でも驚く。姉さんも少し驚いた顔をする。
でも、すぐに困ったように笑った。
「友達と遊んだり、好きな子作ったり、夏祭り行ったり⋯⋯要は青春とか、そういうやつ」
「興味ないです」
「今はね」
「今も、これからも」
「わかんないよ?」
「わかります」
「わからないって」
姉さんの声が少し硬くなる。
「優人くんは、まだ十五なんだから」
十五歳。
その言葉で、また線を引かれる。僕はその線が嫌いだ。姉さんが必要なときだけ近づけて、都合が悪くなると引く線。
子供。
従弟。
高校生。
十五歳。
その全部が、僕を姉さんの外側へ追い出す。
「十五歳だと、何もわからないんですか」
「そうは言ってないよ」
「でも、そういう意味でしょう」
「違うよ」
「何が違うんですか」
言葉が止まらない。
姉さんが黙る。その沈黙で、僕はようやく自分が踏み込みすぎたことに気づく。
「……すみません」
小さく言う。
姉さんは首を振る。
「私こそ、ごめんね」
「姉さんは」
「うん」
「僕に来てほしくないんですか」
聞いてしまった。一番聞きたくなかったこと。 姉さんは、すぐには答えない。部屋の中が、少しずつ冷えていく。
エアコンの音。
外の車の音。
遠くの蝉の声。
それから、姉さんの声。
「来てほしくないわけじゃないよ」
ほっとする。
でも、続きが怖い。
「でも」
やっぱり。
「優人くんが、ここだけになっちゃうのは、よくない。そう思う」
ここだけ。
姉さんの部屋だけ。
姉さんだけ。それの何が、悪いと言うのだろうか。
そう思ってしまう。思ってしまった自分に、少しだけ吐き気がする。
「僕は、それでも」
「駄目」
姉さんは初めて、はっきり言った。
駄目。その一言で、僕は黙る。
姉さんは膝の上で手を握る。
細い指。
少し荒れた爪。
左手の薬指に、何もない。
なぜそこを見たのか、自分でもわからない。でも、見てしまった。
何もない指。それが妙に安心をくれる。
姉さんは気づかない。
「優人くんは、もっと明るいところにいたほうがいいよ」
「明るいところは、苦手です」
「知ってる」
「なら」
「でも⋯⋯ここは、暗すぎる」
姉さんの声は小さい。
「私の部屋は、暗すぎるよ」
その言葉は、姉さん自身にも向けられているようだった。僕は何も言えない。
暗すぎる。
でも僕は、その暗さに救われている。
明るい教室より。
夏祭りより。
地元の広い空より。
この暗い部屋のほうが、息ができるのだ。けれど、それをどう伝えればいいのかわからない。
伝えたら、たぶん困らせる。
困らせるとわかっているのに、伝えたい。二律背反。胸の奥で、何かが少しずつ膨らんでいく。
もう、ただの従弟ではいられない。
ただの話し相手でも。
ただのいい子でも。
ただの子供でも。
そう思い始めている。
はっきりと。
怖いくらいに。
*
帰り際、姉さんは玄関でいつもより少し長く黙っていた。
僕も靴を履き終えたまま、立っている。
白いタイル。
端に寄せられたサンダル。
コンビニの袋。
綺麗な靴箱。
その下に落ちた飴の包み紙。
部屋は前より煙草の匂いが薄い。
でも、別の重さがある。
「今日はごめんね」
姉さんが言う。
「何がですか」
「なんか、変な話したでしょ?」
「僕も、すみません」
「ううん」
姉さんは首を振る。
「優人くんは悪くないよ」
その言葉は優しい。でも、優しいだけではもう足りない。
悪くない。いい子。優しい。その全部が、僕を子供の場所に留めようとする。
僕は姉さんを見る。
姉さんも僕を見る。
数秒。
長いようで、短い。
姉さんが先に目を逸らす。
「気をつけて帰ってね」
「はい」
ドアが閉まる。鍵の音。
僕は廊下に、立ち尽くす。
胸の奥が熱く、同時に冷たい。
姉さんは僕に来てほしいと言う。でも、ここだけになるなと言う。
甘えていいかと聞く。でも、十五歳だからと線を引く。
もし親戚じゃなかったら、と言う。でも、忘れてと言う。
僕はその全部を拾ってしまう。
拾って、捨てられない。
エレベーターに乗る。
扉に映る自分の顔は、もうあまり子供らしく見えなかった。
でも、大人にも見えない。中途半端な顔。姉さんの言う通り、十五歳の顔。僕は、その顔を睨む。
五年後なら。
そう思う。
五年後なら、姉さんは僕を子供だと言わないのだろうか。でも、五年後の姉さんは二十五歳。その頃、姉さんの隣には誰がいるのだろうか。
考えたくない。
考えたくないのに、頭の中に影が差す。
伏せられたスマホ。
病院。
禁煙。
健康のため。
やめなきゃいけないのかも。
そして、大人の誰か。
僕は首を振る。違う。まだ何も決まっていない。まだ何も知らない。知らないなら、ないのと同じだ。そう思い込む。
エントランスを抜けると、外はもう夜だった。
夏の夜。
湿った風。
遠くの祭囃子。
どこかで上がる小さな花火の音。
僕はその音のするほうを見ない。明るい場所には行かない。行けない。行きたくない。
僕の足は、駅へと向かう。
袖口を鼻に近づける。煙草の匂いは、ほとんどしない。その代わり、柔軟剤と、梅の飴と、姉さんの部屋の湿った空気が少しだけ残っている。
知らない匂いになっていく。
姉さんが、僕の知らない人になっていく。そう感じた瞬間、胸の奥に焦りが生まれる。
捕まえなければ。そんな言葉が浮かんで、すぐに消す。
捕まえるって、何を。
誰を。
どうやって。
僕には何の権利もない。
わかっている。でも、わかっていることと、諦められることは違う。
もし私たちが親戚じゃなかったら。
また、その声。
僕は駅へ向かって歩く。
夜風は湿っていて、息苦しい。
夏は、まだ終わらない。でも、何かが終わりに向かっている。
それだけは、確かな事だった。