灰皿の中の初恋   作:インフレした小山羊

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悪いと思ってる。思わない訳がない。

 八月の半ばを過ぎると、姉さんからの連絡は減っていった。

 毎日ではない。それは、前からそうだった。

 それでも、前とは違う。

 

『今日、暇?』

『学校終わったら寄れる?』

『ちょっとだけ話し相手になって』

 そういう軽い文面が、急に遠くなった。

 僕から連絡をしても、返事は来ない。代わりに、既読だけがつく。

稀に返信が来ても、それは遅く、短く、絵文字もない、淡白なものばかりだった。

 

『ごめん、今日は無理』

『ちょっと体調悪い』

『また今度ね』

 

 また今度。

 

 その言葉が嫌いになっていく。 

 大人の言う「また今度」は、子供の思う約束とは違う。

 社交辞令。

 先延ばし。

 やんわりとした拒絶。

 

 わかっている。

 わかっているのに、スマホを見る。

 

 朝起きて、見る。

 昼休みに、見る。

 授業中、机の下で見る。

 夜、布団の中で見る。

 

 通知は来ない。

 画面は黒いまま。たったそれだけのことで、僕の一日が意味を失っていく。

 

 姉さんには姉さんの生活がある。僕の知らない用事があって、僕の知らない誰かがいる。

 そう考えるたびに、胸の奥がざらつく。

 でも、考えないようにする。

 知らないなら、ないのと同じだ。

 そう思う。

 思い込む。思い込まないと、立っていられないから。

 

     *

 

  その日の午後、姉さんから久しぶりに連絡が来た。

 

『今日、少しだけなら』

 少しだけ。それでも、僕はすぐに返す。

 

『行きます』

 打ってから、少し迷う。

 行けます、ではなく、行きます。

 もう、行くかどうかを選ぶ余地なんてない。姉さんが呼ぶなら行く。それだけ。

 既読がつく。

 

『無理しなくていいよ』

 僕は画面を見つめる。

 無理なんてしていない。むしろ、行けないほうが無理だ。

 

『大丈夫です』

 そう送る。すぐに付く既読。返事はない。それでも。それでも、今の僕には十分だった。

 鞄に参考書を入れて、親戚の家を出る。図書館へ行くと言った。もう何度目かわからない嘘。

 

 外はまだ暑い。

 

 八月の午後。空は白く濁っていて、遠くの建物の輪郭が少し揺れている。蝉が、街路樹の中でうるさいくらいに鳴いていた。

 

 駅まで歩く間、僕は何度も服を気にする。

 

 白いシャツ。

 黒いパンツ。

 前と同じような服。

 

 子供っぽくないか。

 変じゃないか。

 姉さんは気づくだろうか。

 

 馬っ鹿みたい。でも、馬鹿みたいなことほど、止められない。

 電車の窓に映る自分は、やっぱり十五歳の顔をしている。

 

 頬の線。

 首の細さ。

 目だけが妙に暗い。

 大人には見えない。

 

 どれだけ姉さんの部屋に通っても。

 どれだけ煙草の匂いを吸い込んでも。

 どれだけ姉さんの弱さを知った気になっても。

 

 僕は、十五歳のまま。

 その事実が、ひどく邪魔だった。

 

     *

 

 姉さんのマンションに着くと、エントランスはいつも通り綺麗だった。

 

 床は鈍く光っている。

 観葉植物は同じ場所。

 ガラス扉には、外の熱気とは切り離された涼しげな光。

 この場所は何も変わらない。変わっているのは、姉さんの部屋の中だけ。いや、それは姉さん自身かもしれない。

 

 部屋番号を押す。

 

『はい』

 少し遅れて、姉さんの声。

 

「僕です」

『開けるね』

 オートロックが外れる。

 エレベーターの鏡に映る僕は、どこか落ち着かない顔をしていた。

 

 三階。

 明るい廊下。

 姉さんの部屋の前。

 チャイムを押す前に、ドアが開いた。

 

「早かったね」

 姉さんが笑う。

 

 薄いカーディガン。

 髪は後ろで結んでいる。

 顔色は悪い。でも、今日は少しだけ口紅を塗っているように見えた。

 それだけで、胸の奥がざわつく。

 誰のためだろうか。そんな考えが浮かんで、すぐに消す。

 

「駅から早歩きしたので」

「暑いのに」

「大丈夫です」

「またそれ」

 姉さんは苦笑する。でも、いつもの柔らかさが少し薄い。

 部屋に入る。

 匂いが、また変わっていた。煙草の匂いは、ほとんどしない。したとしても、それは壁やカーテンの奥に、かすかに残っているだけの微かなもの。甘く重い、花が腐る手前みたいな匂いは、もう遠い。

 

 代わりに、窓を開けたあとの空気がある。

 柔軟剤。

 薬局の袋。

 梅の飴。

 それから、少しだけ化粧品。

 

 低いテーブルの上から、缶ピースは消えていた。灰皿もない。ライターも、ない。

 そこにあったはずのものがなくなるだけで、部屋が知らない場所のように見えた。

 

「片づけたんですね」

 僕は言う。

 姉さんは一瞬だけ黙った。

 

「まぁ、ねぇ」

「煙草も?」

「うん」

「捨てたんですか」

「捨ててはいないよ」

 姉さんはすぐに答える。

 少し早すぎるくらいに。

 

「しまっただけ」

「そうですか」

「うん」

 会話がそこで止まる。

 

 僕は部屋の奥を見る。遮光カーテンが、今日は半分だけ開いていて、外の光が床に落ちている。そのせいで、部屋の散らかりが前よりもはっきりと見えた。

 

 畳まれていない服。

 使いかけの化粧水。

 薬局の袋。

 スポーツドリンク。

 食べかけのゼリー。

 飴の包み紙。

 でも、煙草だけはない。それがいちばん、不自然だった。

 

「ま、座ってよ」

 姉さんが言う。

 

 僕はクッションに座る。そして姉さんは、少し離れて座った。いつもより、少しだけ遠い。その少しが、とても痛い。

 

「体調、どうですか」

 僕が聞くと、姉さんは肩をすくめる。

 

「まあまぁ⋯⋯かなぁ」

「病院、行ったんですよね」

「うん」

「薬とか、出ました?」

「大したことないよ」

「大したことないなら、ちゃんと教えてくれてもいいじゃないですか」

 言ってから、自分でも驚く。声が少し硬い。

 姉さんもそれに気づいたのだろう。顔を上げて、僕を見る。

 

「優人くん」

「はい」

「心配してくれるのは嬉しいよ」

 嬉しい。その言葉に、一瞬だけ胸が緩む。

 でも、次の言葉が来る。

 

「でも、そこまで気にしなくていいよ」

 そこまで⋯⋯どこまで?

 僕は、どこから先に行ってはいけないのだろうか。

 

「気にしますよ」

「うん。でも」

「でも、何ですか」

 姉さんは困ったように笑う。

 その笑顔が嫌だった。子供を宥める顔。いい子にして、と言われる前の顔。

 

「私のことばっかり、考えなくていいよ」

「考えてません」

 嘘。ひどい嘘だ。姉さんはたぶん気づいている。気づいていて、何も言わない。

 

「夏休みなんだからさ、もっと楽しいことしなよ」

「楽しいことって、何ですか」

「友達と遊ぶとか?」

「前も言いましたけど、そういう友達いないです」

「作ればいいじゃん」

「簡単に言わないでください」

 姉さんが黙る。部屋の空気が、少しだけ硬くなった。僕の声も、自分で思ったより棘がある。

 止めたい。でも、止まらない。

 

「姉さんはいつもそうですよね」

「何がかな」

「自分で呼ぶのに」

 言った瞬間、姉さんの表情が固まる。

 僕は続けてしまう。

 

「寂しいときだけ呼んで、甘えて、僕が行くと安心したみたいにして。それなのに、急に明るいところに行けとか、友達を作れとか、高校生らしくしろとか」

 喉が熱い。言葉が勝手に出てくる。

 

「僕をここに呼んだのは、姉さんじゃあないですか」

 沈黙。

 言ってしまった。もう戻せない。

 姉さんは僕を見ている。

 その目は、怒ってはいない。でも、ひどく傷ついたように見えた。そんな、傷ついた顔をされると、僕のほうが悪いみたいじゃないか。

 

 いや。

 悪いのは僕なのかもしれない。でも、姉さんだって⋯⋯姉さんだって、ずるい。

 

「……そう、だねぇ」

 姉さんが呟く。

 

「私が呼んだ」

 声が低い。

 

「ごめん」

 謝らないでほしかった。

 謝られると、全部終わってしまう気がする。

 

「謝ってほしいわけじゃないです」

「うん」

「そうじゃなくて」

「うん」

 姉さんは頷く。

 それだけ。何も言わない。

 僕はその沈黙に耐えられない。

 

「僕は、何なんですか」

 とうとう聞いてしまう。

 ずっと聞きたかったこと。そして、ずっと聞きたくなかったこと。僕は、姉さんにとって何なのか。

 

 従弟。

 子供。

 いい子。

 話し相手。

 逃げ場。

 暇つぶし。

 安全な場所。

 

 どれでもいい。が、どれも嫌だ。

 姉さんはすぐには答えない。薄く開いたカーテンの向こうで、夏の光が揺れている。

 やがて姉さんは、小さく息を吐いた。

 

「大事な子だよ」

 大事な子。

 

 子。

 

 その一文字が、胸に刺さる。

 

「子供扱いしないでください」

「するよ」

 姉さんは静かに言う。今度はごまかさない。

 

「するに決まってるじゃん。だって、優人くんは子供なんだから」

 頭の奥が冷たくなる。

 

「十五歳だからですか」

「そう」

「五歳しか違わない」

「前も言ったでしょ。その差が、大きいんだよ」

「姉さんが、勝手に大きくしてるだけじゃないですか」

「違う」

「何が違うんですか」

「違うよ」

 姉さんの声が少し震える。

 

「違うの。違うことにしなきゃいけないの」

 しなきゃいけない。また、その言い方。煙草のときと同じ。

 やめなきゃいけない。ちゃんとしなきゃいけない。違うことにしなきゃいけない。

 姉さんは何に追い立てられているのだろうか。

 誰が、姉さんにそれを言わせているのだろうか。

 

「誰かに言われたんですか」

 僕は聞く。姉さんの顔が、はっきりと変わった。ほんの一瞬。でも、今度は隠せないくらいに。

 

「何を?」

「僕と会うなとか。煙草をやめろとか。ちゃんとしろとか」

「優人くん」

「その人ですか」

 言葉が落ちる。部屋が静かになる。自分で言っておきながら、心臓が嫌な音を立てた。

 その人。ずっと見ないようにしていた影で、伏せられたスマホの向こう側。

 姉さんが出ない電話。

 遅い返信。

 病院。

 禁煙。

 健康のため。

 その全部が、一つの輪郭を持ち始める。けれど姉さんは、首を振った。

 

「違うよ」

 静かな声だった。

 

「誰かに言われたんじゃない」

「じゃあ、どうして」

「私が、そう思っただけ」

「何をですか」

「このままじゃ駄目だって」

 姉さんは膝の上で手を握る。

 細い指。少し荒れた爪。

 左手の薬指には、何もない。僕はつい、そこを見てしまう。そして何もないことに、勝手に安心してしまう。

 

「煙草も?」

「うん」

「僕と会うことも?」

 姉さんはすぐには答えなかった。その沈黙で、胸の奥が冷えていく。

 

「……うん」

 小さな返事。

 

「どうして」

「優人くんの」

 姉さんはそこで言葉を止める。言いたくないような顔。言えば、何かが終わるとわかっている顔。

 

「僕が、何ですか」

「優人くんの⋯⋯私を見る目が、変わったから」

 息が止まる。見られていた。

 隠しているつもりだったものを。自分でも名前をつけないようにしていたものを。

 姉さんは、もう気づいていた。

 

「変わってません」

 反射的に言う。

 嘘だった。あまりにも、あまりにも下手くそな嘘だった。

 姉さんは悲しそうに笑う。

 

「変わったよ」

「変わってません」

「変わった」

 姉さんの声は優しい。

 でも、その優しさはもう逃げ場にならない。

 

「だから、よくないと思った」

「何がですか」

「私が、優人くんを呼ぶことが」

「どうして」

「わかるでしょう?」

「わかりません」

「わかってるはずだよ」

 姉さんは言った。その一言が、胸を刺す。

 

「君は、わかってる」

 僕は何も言えない。

 わかっている。理解している。

 たぶん、ずっと前から。でも、わかっていることと、認められることは違う。

 

「じゃあ、何で呼んだんですか」

 声が掠れる。

 

「僕がそういう目で見てると気づいてたなら、何で、今日も呼んだんですか。いや、今日だけじゃない。前に来たときも、その前のときも。きっと……きっと、随分前から、気づいてたんでしょう?」

 姉さんは唇を噛む。

 荒れた唇。薄い口紅。噛んだところだけ、少し色が濃くなる。

 

「……最初は、寂しかったから」

 小さな声だった。

 

「一人でいたくなかったから」

 それから姉さんは、少しだけ息を吸う。

 

「でも、それだけじゃない」

 聞きたくなかった。でも、聞かなければいけない気がした。

 

「君から向けられる目が、心地よかった」

 姉さんは、僕を見なかった。

 

「憧れてくれてるのが、わかった。必要としてくれてるのが、わかった。私がここにいてもいいんだって、思えた」

 言葉が、ひとつずつ床に落ちていく。

 

「誰かに必要とされたかった。誰かの中で、自分に価値があるって思いたかった」

 姉さんの声が、少しだけ震える。

 

「それが、君だった」

 その答えは、あまりにもひどく、そしてあまりにも、正直だった。それに僕は何も言えない。

 

 憧れてくれているのが、わかった。

 必要としてくれているのが、わかった。

 それが、君だった。

 

 その言葉のどこを拾えばいいのか、わからない。

 姉さんは、僕に必要とされたかった。姉さんは、僕の目の中で、自分の価値を確かめていた。それは、僕がずっと欲しかった言葉に似ていた。

 姉さんが僕を選んだ。姉さんが僕を必要としていた。姉さんが、僕の視線を心地いいと思っていた。

 でも、違う。僕が欲しかったのは、そんな答えではなかった。

 

 姉さんは僕を見ていたわけじゃない。僕の中に映る、自分自身を見ていただけ。僕が姉さんを特別みたいに見る。そして姉さんは、その目の中でだけ、自分を許せた。

 それだけ。そう、たったそれだけだったのだ。

 

「じゃあ」

 声がうまく出ない。

 喉の奥が焼けている。

 

「僕じゃなくても、よかったんですか」

 姉さんは顔を上げた。

 泣きそうな顔。でも、泣いてはいない。

 

「違う」

「何が違うんですか」

「違うよ」

「じゃあ、言ってくださいよ」

 自分でも、嫌な言い方だと思う。

 追い詰めている。

 泣きそうな人に、もっと傷つく答えを求めている。それでも止まれない。止まれる訳がない。ここまで来て、曖昧なまま帰れるはずない。

 

「僕じゃなくてもよかったなら、そう言ってください」

「違う」

「じゃあ、僕じゃなきゃ駄目だったんですか」

 姉さんの唇が震えた。

 荒れた唇。薄い口紅。噛んだ痕だけが、赤い。

 

「……君だったから、甘えた」

 胸が揺れる。こんなときなのに。こんな答えなのに。それでも、嬉しいと思ってしまう。

 

「君が、私を責めなかったから。正しいことを言わなかったから。私のことを、まだ綺麗なものみたいに見てくれたから」

 姉さんはそこで、ひどく苦しそうに笑った。

 

「最低でしょ?」

「そんなこと」

「あるよ」

 僕の言葉を遮る声。

 強くはない。けれど、逃げ道を塞ぐ声。

 

「あるの」

 姉さんは自分の膝の上で手を握る。

 

「君が子供だって、わかってた。従弟だって、わかってた。そういうふうに見られたら駄目だって、わかってた」

 君。また、君。その呼び方が、少しずつ僕を遠ざけていく。

 

「わかってたのに」

 姉さんの声が震える。

 

「楽だった」

 言葉が落ちる。

 

「君の前にいると、楽だった。ちゃんとしなくてよかった。駄目なままでいられた。逃げてもいい気がした。何も決めなくていい気がした」

 それは、僕が欲しかった告白に似ていた。でも似ているだけで、まったく違うものだった。

 

「でも」

 姉さんは顔を上げる。

 

「恋じゃない」

 息が止まる。

 僕はまだ、何も言っていない。何も言っていないのに、先に塞がれた。胸の奥で、何かが小さく割れる。

 

「⋯⋯⋯⋯それは、姉さんの話ですよね」

「うん」

「なら、僕は関係ないじゃないですか」

「あるよ」

「何が」

「君がそれを、恋だと思いたかったこと」

「わからないでください」

 思わず言っていた。

 姉さんが黙る。

 

「勝手にわかったみたいな顔しないでください」

 声が震える。

 

「僕が何を思ってるかなんて、姉さんにも決める権利は無い」

「……ごめん」

「謝らないでください」

 もう、何度目かわからない。

 謝罪は優しい。でも、優しいだけ。優しい言葉はいつも、僕をこちら側に押し戻す。

 

 大事な子。

 いい子。

 優しい子。

 悪くない子。

 その全部が、僕を子供の場所に留める。

 

「姉さんは、ずるいですよね」

 言ってしまった。姉さんは否定しなかった。

 

「うん。そうだね、私はずるい」

 認められると、余計に苦しくなる。違うと言ってほしかったのかもしれない。責めないでと言ってほしかったのかもしれない。何でもいいから、僕の言葉に抵抗してほしかったのかもしれない。

 でも姉さんは、認める。自分が悪いと知っている顔で。自分がずるいとわかっている顔で。そのくせ、僕のほうへは手を伸ばさない。

 

「悪いとは、思ってる」

 姉さんは言った。

 ほとんど、息のような声だった。

 

「でも、思ってるだけじゃ駄目なんだよね」

 僕は姉さんを見る。

 

「だったら」

 声が掠れる。

 

「だったら、どうするんですか」

 姉さんは答えない。答えないことが、答えだった。

 僕から離れる。

 呼ばないようにする。

 会わないようにする。

 僕がこれ以上、勘違いしないようにする。

 そういう、正しいこと。

 

 姉さんが疲れると言っていた、大人たちの正しいこと。それを今度は、姉さんが僕にする。

 

「僕を、切るんですか」

 姉さんの肩が小さく揺れた。

 

「そんな言い方」

「同じでしょう」

「違う」

「同じですよ」

 僕は笑った。

 笑えていたかはわからない。

 

「姉さんは、自分が苦しいときだけ僕を呼んだ。僕が必要になったら、これは駄目だって言って離れる。近づけて、離して、呼んで、帰れって言う」

 言葉が止まらない。

 

「僕のこと、便利でしたか」

「違う」

「都合よかったですか」

「違う」

「逃げ場にしやすかったですか」

 

「違う!」

 姉さんの声が跳ねる。それに姉さん自身も驚いたように口を閉じた。

 姉さんは、疲れたように手で顔を覆う。

 

「違う、って言いたい」

 手の隙間から、声が漏れる。

 

「でも、違わないところもある。⋯⋯そうだね、君をそういうふうに使った。それは事実」

 姉さんは顔を覆ったまま言う。

 

「寂しくて、怖くて、一人でいたくなくて。君が私を見てくれるのが嬉しくて。わかってたのに、止めなかった」

「止めなきゃいけなかったのに」

 

 やめなきゃいけない。

 ちゃんとしなきゃいけない。

 違うことにしなきゃいけない。

 

 その言葉たちが、また頭の中で繋がる。姉さんは誰かに言われたからではなく、自分でわかっていたのだ。

 

 自分でわかっていて、煙草をしまった。

 自分でわかっていて、連絡を減らした。

 自分でわかっていて、僕を今日も呼んだ。

 

 だから、ずるい。

 だから、弱い。

 だから、責められない。

 だから、余計に許せない。

 

「僕は」

 声が出た。

 自分の声じゃないみたいだった。

 

「僕は、姉さんの何だったんですか」

 さっきも聞いた。でも、もう一度聞く。さっきとは違う意味で。

 従弟でも、子供でも、大事な子でもなく。

 姉さんの寂しさの中で、僕は何だったのか。

 姉さんは顔を上げた。

 

「逃げ場」

 その言葉は、静かだった。

 静かすぎて、胸に深く刺さった。

 

「そう。君は、私の逃げ場だった」

 聞きたかった言葉に似ている。

でも、やっぱり違う。

 

 逃げ場。

 

 居場所ではない。

 恋人ではない。

 選ばれた誰かでもない。

 

 現実から目を逸らすための場所。

 それが、僕。

 

「……そうですか」

 自分の声が冷たく聞こえた。

 姉さんの顔が少し歪む。

 

「ごめん」

「だから、謝らないでください」

 もう、謝罪は聞き飽きていた。

 

 謝るくらいなら、呼ばないでほしかった。

 悪いと思うくらいなら、最初から部屋に入れないでほしかった。

 子供だと思うなら、膝に頭を乗せないでほしかった。

 恋じゃないと言うなら、親戚じゃなかったらなんて言わないでほしかった。

 

 全部、口に出したかった。

 でも、出せなかった。

 

 出したら、本当に終わる。終わるのが怖い。終わらせたいくらい苦しいのに、終わるのが怖い。

 その矛盾が、胸の中で暴れている。

 

 そのとき、テーブルの上でスマホが震えた。

 

 一度。短く。

 

 姉さんの視線が、反射的にそちらへ動く。

 僕も見る。画面は伏せられていて、名前は見えない。けれど、姉さんの表情が変わった。

 ほんの少し。でもわかる。

 

 僕の知らない誰か。

 僕ではない現実。

 姉さんが戻ろうとしている場所。

 そこからの通知。

 

 姉さんはスマホに手を伸ばさない。でも、見ている。見ないふりをして、見ている。

 僕はそれだけで十分だった。十分すぎるほど、傷ついた。

 

「出ればいいじゃないですか」

 声が平坦になる。

 姉さんは僕を見る。

 

「優人くん」

「大事なんでしょう」

「違う」

「何が違うんですか」

「今は」

「今は?」

 

 姉さんは言葉を詰まらせる。

 まただ。

 

 今は。

 そのうち。

 また今度。

 

 大人の言葉は、いつも僕を外側に置く。

 姉さんはゆっくり息を吐いた。

 

「今日は、帰って」

 その言葉で、部屋の温度が変わった。

 

「⋯⋯」

「ごめん。今日はもう、帰って」

「⋯⋯どうして」

「私が無理」

「⋯⋯」

「お願い」

 そう言って、姉さんは立ち上がる。

 少しふらつく。

 僕も反射的に立った。

 

「大丈夫ですか」

「大丈夫」

「大丈夫じゃないでしょう」

「大丈夫だから」

「姉さん」

「いいから」

 

 その声は小さい。けれど、明確な拒絶だった。優しさでも、遠慮でもない。これ以上近づかないで、という線。

 僕はそこで、ようやく足を止める。手を伸ばしかけていたことに気づいて、指先を握り込んだ。

 触れてはいけない。さっきまで、あんなに近くにいたのに。何度もこの部屋で、姉さんの重さを受け止めていたのに。

 ──今はもう、手を伸ばすことさえ許されていない。そんな気がした。

 

 姉さんは玄関のほうを見る。

 

 帰って。

 

 言葉にしなくてもわかる。わかってしまう。僕は鞄を持つ。参考書の重みが、急に馬鹿らしくなる。

 図書館へ行くと言って家を出た。

 姉さんに呼ばれて来た。

 寂しいからと呼ばれて、逃げ場だと言われて、そして帰れと言われる。

 たったそれだけ。たったそれだけなのに、足元が崩れていく。僕はまだ立っているはずなのに。もう、どこにも立っていないような、そんな気がした。

 

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