灰皿の中の初恋 作:インフレした小山羊
部屋を出たあとも、足元はまだ崩れていた。廊下は明るい。
白い壁。
静かな床。
等間隔に並ぶ部屋の扉。
遠くで低く唸るエアコンの室外機。
全部が清潔で、正しくて、何事もなかったみたいな顔をしている。その中に、僕だけがうまく立てない。
鞄を持つ手に力が入らない。参考書の角が鞄の中で身体に当たる。
図書館へ行くと言って家を出た。
姉さんに呼ばれて来た。
寂しいからと呼ばれて、逃げ場だと言われて、そして帰れと言われた。たったそれだけ。
たったそれだけのことが、どうしてこんなに重いのかわからない。
エレベーターの前に立つ。ボタンを押して光る、下向きの矢印。
待つ。扉が開くまでの数秒が、妙に長い。背後のどこかに、姉さんの部屋がある。あの扉の向こうで、姉さんはどうしているのだろう。
泣いているのか。
座り込んでいるのか。
それとも、もうスマホを見ているのか。
考えたくない。
考えたくないのに、考えてしまう。
僕の知らない誰か。
僕ではない現実。
姉さんが戻ろうとしている場所。
その輪郭が、少しずつ濃くなっていく。
エレベーターの扉が開く。
中の鏡に、自分が映った。
白いシャツ。
黒いパンツ。
子供ではないつもりの服。でも、顔だけがどうしようもなく幼い。その幼さが憎かった。
五年。
五年経てば、僕も二十歳になる。けれど、その五年の間に姉さんはどこへ行くのだろうか。
誰の隣にいるのだろうか。僕がようやく追いついた頃には、姉さんはもう別の場所に立っているのではないか。
そんな気がした。
一階に着く。
エントランスを抜けると、外は夏の夕方だった。
空は赤くなり始めている。
遠くで祭囃子が聞こえる。
どこかの子供が笑っている。
浴衣の人たちが、駅とは反対方向へ歩いていく。
明るい場所。姉さんが、僕に行けと言った場所。
僕はそちらを見ない。見たくない。
歩き出そうとしたとき、スマホが震えた。
一瞬、姉さんかと思ったが、違う。
クラスのグループだった。
『今日の祭り、誰来る?』
『駅前集合でよくね?』
『早見も来る?』
画面の中の明るい文字。僕はそれを見つめる。
行けばいいのかもしれない。そこへ行って、笑って、焼きそばを食べて、花火を見て、誰かと写真を撮る。
十五歳らしく。
高校生らしく。
明るい場所で。
でも、指は動かない。返信欄は空白のまま。僕は画面を消した。そして、ポケットにしまう。
駅へ向かう。袖口を鼻に近づける。
煙草の匂いは、もうほとんどしない。
柔軟剤。
薬局の袋。
梅の飴。
少しだけ化粧品。
知らない匂い。僕の知っていた姉さんが、どんどん薄くなっていって、このまま消えてしまう気がした。
捕まえなければ。
また、その言葉が浮かぶ。今度は消えない。僕にそんな権利はない。それは、わかっている。
でも、権利がないから諦められるなら、最初からこんなところまで来ていない。
*
それから数日間、姉さんから連絡は来なかった。
僕からも送らなかった。送れなかった、のほうが正しいだろう。何度も画面を開いて、姉さんとのトーク画面を見る。
最後のやり取りは、あの日のまま。
『大丈夫です』
そのあとに続く言葉はない。画面の中で、僕だけが取り残されている。
何か送ろうとする。
『この前はすみませんでした』
消す。
『体調、大丈夫ですか』
消す。
『もう行かない方がいいですか』
消す。
『会いたいです』
打った瞬間、心臓が跳ねる。
すぐに消す。
こんな言葉を送ったら、本当に終わる。いや、もう送らなくても終わっている気がする。
どちらにしても、終わりの匂いがする。
学校はまだ夏休み。だから、逃げ場がない。
朝起きる。
親戚の家で朝食を食べる。
参考書を開く。
文字が滲む。
スマホを見る。
通知は来ない。
昼になる。
何か食べる。
味がしない。
スマホを見る。
通知は来ない。
夜になる。
風呂に入る。
布団に入る。
暗い天井を見る。
スマホを見る。
通知は来ない。
姉さんは、僕がいなくても生きている。その当たり前のことが、ひどく苦しい。
僕は姉さんの逃げ場だった。でも、逃げ場にしていたのは、僕も同じだったのかもしれない。姉さんの弱さを、僕は自分の居場所にしていたのかもしれない。
まあ今さらそんな事を思った所で、詮無いことだけど。
*
次の日の夕方、姉さんから連絡が来た。
『少しだけ話せる?』
心臓が跳ね、手の中でスマホが熱くなったような気がした。
話せる。その文字を何度も見る。
呼ばれた。まだ、呼ばれた。そう思った瞬間、胸の奥に甘さが広がる。
馬鹿だ。本当に、大馬鹿者だ。あの日、逃げ場だったと言われた。帰ってと言われた。距離を置かれた。それでも、姉さんから連絡が来ただけで、僕はまた息ができるようになる。こんなの、呼ばれれば尻尾を振る犬と同じじゃないか。
『行きます』
返信する。
すぐに既読がついた。
『無理しなくていいよ』
またそれ。
無理しなくていい。来なくていい、と似ている。でも違う。違うと思いたかった。
『無理じゃないです』
送る。
少し間が空いた。
『じゃあ、駅前のファミレスで』
僕はその文字を見つめる。
家じゃない。姉さんの部屋じゃない。
あの低いテーブルも、灰皿も、缶ピースも、遮光カーテンもない場所。
誰かの話し声がして、子供がジュースをこぼして、店員が皿を下げに来るような、明るくて、どこにでもある場所。姉さんは、もう僕を部屋に入れないつもりなのだろう。そのことが、返事の前にわかってしまった。
『わかりました』
僕はそう打つ。
送信する。既読がつく。
姉さんからの返事は、もうなかった。
*
八月。終わりが近づいていた。
夕方の空は高い。蝉の声はまだ聞こえる。けれど、その声は少し掠れている。
夏が、終わろうとしている。そんなこと、考えたくもなかった。
駅へ向かう道を歩く。
手のひらが汗ばんでいる。
服の襟元が落ち着かない。
何度も呼吸を整える。
今日は何を話すのだろうか。謝るのか、謝られるのか。もう会わないほうがいいと言われるのか。それとも、何かが元に戻るのか。
そう考えた自分を、すぐに嫌になる。戻る場所なんて、最初からなかったのかもしれないのに。
駅前のファミレスは、ロータリーの向こう側にあった。
大きな看板。
明るすぎる窓。
自動ドアの向こうから漏れる、油と甘いソースの匂い。
姉さんの部屋とは、何もかも違う。
低いテーブルもない。
灰皿もない。
缶ピースもない。
遮光カーテンもない。
誰かの話し声がある。
子供の笑い声がある。
食器の触れ合う音がある。
店員の「いらっしゃいませ」がある。
明るくて、どこにでもある場所。誰も逃げ込めない場所。そこを指定された時点で、答えは既に出ているも同然だ。姉さんは、もう僕を部屋に入れるつもりはないのだろう。
自動ドアが開く。
冷房の風が肌に当たり、一瞬だけ汗が引く。
「いらっしゃいませ。お一人様ですか」
「待ち合わせです」
そう答えながら、店内を見回す。
奥の窓際。姉さんがいた。四人掛けの席に、一人で座っている。
薄いカーディガン。
淡い色のブラウス。
まとめきれなかった髪が、頬の横に少し落ちている。
テーブルの上には、水の入ったグラスが二つ。
その時点で、少し胸が痛んだ。ちゃんと二つある、別々のグラス。
正しい距離。
正しい線。
姉さんは僕に気づくと、小さく手を上げた。
「来てくれて、ありがと」
席に着く前に、姉さんはそう言った。
その言葉に、胸が少しだけ痛む。
来てくれて。まるで、僕が来ない選択もできたみたいな言い方。
「いえ」
僕は向かいの席に座る。
いつもの隣ではない、向かい合う距離。
間にはテーブルがある。
メニュー立て。
紙ナプキン。
呼び出しボタン。
透明な水のグラス。
たったそれだけのものが、僕と姉さんの間に壁みたいに置かれていた。
店内は明るい。
隣の席では、小学生くらいの子供がポテトをつまんでいる。
後ろの席では、大学生らしい男女が笑っている。
遠くで、店員が皿を下げる音がする。
煙草の匂いは、まったくしない。姉さんの周りにも、ない。
柔軟剤。
少しだけ化粧品。
あとは、ファミレスの油とコーヒーの匂い。
知らない姉さんに近づいている。
「何か頼む?」
姉さんがメニューに手を伸ばす。
「大丈夫です」
「また大丈夫」
姉さんは小さく笑う。その笑い方も、部屋で見たものとは少し違っていた。
周囲に人がいるからだろうか。声の出し方も、表情の作り方も、少しだけ外向きになっている。僕の前だけの姉さんではない、誰に見られても困らない姉さん。そのことが、妙に苦しい。
「ドリンクバーくらい、頼もっか」
「いらないです」
「そう」
姉さんはメニューを閉じる。
それ以上、勧めなかった。
沈黙。
隣の席の子供が、ストローでジュースをかき混ぜている。
氷の音がする。
店員の声が重なる。
どこかでスマホの通知音が鳴る。
この場所では、沈黙すら僕たちだけのものにならない。
「この前は、ごめんね」
姉さんが言う。
僕はグラスを見たまま答える。
「何がですか」
「色々」
「色々、ですか」
「うん」
姉さんは指先で机に落ちた水滴をなぞる。
「逃げ場だった、って言ったこと」
胸の奥が反応する。でも、顔には出さないようにした。
「本当のことでしょう」
「まぁ⋯⋯そう、なんだけどさ」
「なら、謝らなくていいです」
「よくないよ」
姉さんは静かに言う。
ファミレスのざわめきの中でも、その声だけはやけにはっきり聞こえた。
「よくないから、謝ってる」
「謝ったら、何か変わるんですか」
自分でも嫌な言い方だと思う。
でも、止まらない。
「変わらないかな」
姉さんは答えた。まっすぐに。
「変わらないけど、言わないのも違うと思った」
「そうですか」
「うん」
沈黙。
エアコンの音。
食器の音。
子供の笑い声。
窓の外を走る車の音。
夏の音が、少しずつ遠くなっている。
「優人くん」
姉さんが僕を呼ぶ。
僕は顔を上げる。
「しばらく……いや、もう会わないほうがいいと思う。二人では」
二人では。その付け足しが、一番痛かった。
親戚としてなら、会うかもしれない。
正月や、法事や、誰かの結婚式で。
でも、あの部屋には戻れない。
姉さんと僕だけの暗がりには、もう。
言われることは、わかっていた。部屋ではなく、ファミレスに呼ばれた時点で。
向かい合う席。
明るすぎる照明。
隣のテーブルの笑い声。
水の入ったグラスが二つ。
全部が、もう間違えるなと言っている気がする。それでも、実際に言葉になると息が止まる。
「もう、ですか」
自分でも情けない声だった。
「はい、わかりました」と言えればよかった。
そうするのが、正しいのだと思う。でも、正しさだけで帰れるなら、最初からこの席には座っていない。
「もうって、いつまでですか」
姉さんの顔が少し歪む。
「そういう意味じゃないよ」
「じゃあ、どういう意味ですか」
「……優人くん」
「二人では、ってことは」
僕はテーブルの上のグラスを見る。
水面が揺れている。自分の手が震えているのだと、少し遅れて気づいた。
「親戚としてなら、会うんですか」
「それは、たぶん」
「正月とか、法事とか」
「……うん」
「誰かの結婚式とか」
言った瞬間、姉さんの指が止まった。
ほんの一瞬。でも、見えた。
「そういう場所では、会えるんですね」
「優人くん」
「でも、二人では駄目なんですね」
「うん」
短い返事。
それだけで十分だった。優しい言い方をしているだけで、意味ははっきりしている。
もう、あの部屋には戻れない。
もう、姉さんの弱さに触れることはできない。
もう、僕だけが知っている姉さんはいない。
「大人の別れ方って、便利ですね」
姉さんが息を呑む。
「別れなくてもいい。親戚だから、また会うことはある。でも二人では会わない。そう言えば、全部きれいに片づく」
「きれいじゃないよ」
「でも、正しいでしょう」
姉さんは黙った。
答えられない。
いつもそうだ。
僕の感情に気づいている。
傷つけたこともわかっている。
悪いとは思っている。
でも、それ以上は何もできない。
謝る。
困った顔をする。
優しい声で名前を呼ぶ。
そして、最後には正しい場所へ僕を戻そうとする。
それが、余計に苦しい。
「僕は」
喉が詰まる。
言ってはいけない。ここで言ったら、本当の、本当に終わる。⋯⋯⋯⋯いや、もう終わってるというのに、一体何が終わると言うのだろうか。
なら⋯⋯同じか。
「僕は、姉さんにとって何なんですか」
「この前、言ったでしょ」
「逃げ場ですよね」
姉さんは目を伏せる。
「それだけですか」
「……それだけじゃない」
「じゃあ、何ですか」
姉さんはすぐには答えない。
僕は待つ。
もう、曖昧な言葉では足りなかった。
大事な子。
いい子。
優しい子。
そんな言葉はいらない。
それらは全部、僕を子供の場所に留めるための優しい鎖だ。
「大事な子だよ」
姉さんは言った。
やっぱり、その言葉。
胸の奥で何かが冷えていく。
「それ、嫌いです」
言ってしまった。
姉さんが顔を上げる。
「大事な子って言われるの、嫌いです」
「……ごめん」
「いい子も嫌いです。優しい子も、悪くないよも、全部嫌いです」
声が震える。でも、止まらない。
隣の席の子供がこちらを見て、母親らしい人が小さく「見ちゃだめ」と言う。
僕は少し声を落とす。それでも、言葉は止まらない。
「その言葉を言われるたびに、僕は子供の場所に戻される」
姉さんは何も言わない。
黙って聞いている。それがまた、優しい。
優しくて、苦しい。
「僕は、姉さんの逃げ場だったんですよね」
「……うん」
「僕が姉さんを見る目が、心地よかったんですよね」
「うん」
「僕が必要としてるのが、嬉しかったんですよね」
「うん」
「なら」
声が掠れる。
「なら、どうして駄目なんですか」
姉さんの表情が変わった。
ほんの少し。でも、はっきりと。
「優人くん」
「どうして、僕じゃ駄目なんですか」
言ってしまった。言葉はもう、戻らない。
ファミレスのざわめきが、一瞬だけ遠くなる。
水の入ったグラス。
メニュー立て。
呼び出しボタン。
窓に映る駅前の灯り。
誰かが置いていった紙ナプキン。
全部が、静かに僕を見ている気がした。
姉さんは唇を開く。
でも、言葉は出ない。
「姉さんが言ったんですよ」
僕は続ける。
「もし私たちが親戚じゃなかったら、って」
姉さんの顔が強張る。
「あれは」
「あれは何ですか」
「変なこと言ったって、言ったでしょ」
「忘れてって言えば、忘れられると思ったんですか」
「……ごめん」
「謝らないでください」
声が震える。
「忘れられるわけないじゃないですか」
姉さんは何も言えない。
「親戚じゃなかったら、って。あんなこと言われたら、考えるに決まってるじゃないですか」
喉の奥が熱い。
「僕だって、ずっと考えました」
親戚じゃなかったら。
従弟じゃなかったら。
十五歳じゃなかったら。
もっと早く生まれていたら。
もっと大人だったら。
もっと、姉さんの隣に立てる何かだったら。
考えてはいけないことばかり、考えた。
「僕は」
息を吸う。
名前をつけたら、きっと終わる。そう思っていた。でも、もう名前をつけずにはいられない。
「僕は、姉さんのことが好きです」
言った。
言ってしまった。
言葉はテーブルの上に落ちる。思っていたより、静かな音だった。
姉さんは動かない。僕も動けない。
心臓だけが、ひどくうるさい。
「従弟としてじゃなくて」
続ける。
もう、止まれない。
「子供としてでもなくて」
姉さんの目が揺れる。僕はそれを見る。
逃げないでほしかった。
今だけは。
「一人の男として、好きです」
姉さんは僕を見ている。
泣きそうな顔。でも、泣かない。
その顔が、ひどく残酷だった。
遠くで、店員が「お待たせしました」と言う。
皿を置く音がする。
それでも、僕たちの席だけがひどく静かだった。
「……駄目だよ」
小さな声だった。
でも、その一言で、全部がわかった気がした。
「どうして」
自分でも驚くほど、声が幼い。
「どうしてですか」
「どうしてって⋯⋯」
「従弟だからですか」
「うん」
「五歳違うからですか」
「うん」
「僕が十五歳だからですか」
「うん」
姉さんは、ひとつずつ頷く。
逃げない。
ごまかさない。
それが、余計に痛い。
「それだけですか」
「それだけで、十分だよ」
静かな声。
僕は笑った。
笑えていたかはわからない。
「十分、ですか」
「十分だよ」
「僕は、そんなの」
「優人くん」
「そんなの、関係ないです」
「あるよ」
「姉さんが関係あることにしてるだけです」
「ある」
姉さんの声が、少し強くなる。
「あるんだよ」
その声に、僕は黙る。
姉さんは膝の上で手を握っている。
指先が白い。
「だって、私たちは従姉弟なんだから」
従姉弟。
その言葉が、胸に刺さる。
「私にとって、優人くんは親戚で、年下で、高校生で」
「やめてください」
「だからそういうふうには、見られない」
息が止まる。
聞きたくなかった。でも、聞きたかった。聞いてしまえば諦められるかもしれないと思っていた。
でも違う。
諦めるどころか、胸の奥が裂けていく。
「一度も、ですか」
聞くべきではない。
わかっている。
でも聞いてしまう。
「一度も、僕のことを、そういうふうに見たことはないんですか」
姉さんは目を伏せた。
沈黙。
ファミレスのざわめきだけが、僕たちの間を埋める。
それが答えであってほしくなかった。
けれど、それが答えだった。
視界が少し滲む。
泣いているのかと思った。
でも、涙は出ていない。
ただ、世界の輪郭がぼやけている。
「じゃあ」
声が震える。
「何だったんですか」
姉さんは何も言わない。
「膝に頭を乗せたのは何だったんですか」
言葉が止まらない。
「優人くんがいてくれないと駄目になるかもって言ったのは、何だったんですか」
姉さんの顔が歪む。
「親戚じゃなかったらって言ったのは、何だったんですか」
姉さんは何も言わない。ただ黙るだけ。
「なにか言ってください!」
声が跳ねた。
近くの席の会話が、一瞬止まる。
僕自身も、その声に驚く。ここは姉さんの部屋ではない。
声を荒げれば、他人が見る。僕たちの痛みは、周囲にとってただの迷惑になる。
その事実が、ひどく惨めだった。
姉さんは何も言わない。
ただ、傷ついた顔をしている。
その顔が、また僕を責める。
僕が傷つけたみたいに。
いや。
実際、傷つけているのだろう。でも、姉さんだって⋯⋯姉さんだって、僕を傷つけた。
「ずるいです」
声が掠れる。
「姉さんは、ずるい」
「そうだね」
「認めないでください」
「ごめん」
「謝らないでください」
もう、何を言っているのかわからない。
怒っている。
泣きたい。
縋りたい。
責めたい。
抱きしめてほしい。
今すぐ帰りたい。
全部が同時に胸の中で暴れている。
姉さんは俯いたまま、ゆっくりと言った。
「私たちの関係に」
声が小さい。
でも、はっきり聞こえる。
「もし、なんて無いんだよ」
世界が止まる。
「親戚じゃなかったら、とか。年が近かったら、とか。優人くんが大人だったら、とか」
姉さんは顔を上げる。
「そういう“もし”は、無いの」
息ができない。
「私たちは、親戚なの。優人くんは私の従弟なの。十五歳なの。私は二十歳で」
そこで姉さんは一瞬だけ言葉を切った。
何かを飲み込むように。
僕には、その先が見えない。
見えないまま、胸だけがざわつく。
「だから、駄目」
「だからって」
「駄目なの」
「姉さんが決めるんですか」
「うん」
即答だった。
「私が決める」
その声に、僕は何も言えなくなる。
「私が最初に間違えたから。私が優人くんを呼んだから。私が甘えたから」
姉さんの声が少し震える。
「だから、私が止める」
止める。
その言葉が、最後の鍵みたいに響いた。
やめなきゃいけない。
ちゃんとしなきゃいけない。
違うことにしなきゃいけない。
そして、止める。
姉さんは自分で線を引く。誰かに言われたからではなく、僕を嫌いになったからでもなく、僕を、そういうふうには見ていないから。
そして、これ以上僕が本気になるのは不味いと思ったから。その当たり前のことが、あまりにも残酷だった。
「僕は」
声が出ない。
もう一度、息を吸う。
「僕は、本気です」
「うん」
「本気なんです」
「うん」
「それでも、駄目ですか」
姉さんは目を閉じる。
長い沈黙。
そのあと、ゆっくり頷いた。
「駄目」
短い言葉。
これ以上ないくらい、はっきりした拒絶。
胸の奥で、何かが完全に割れた。
音はしなかった。
ただ、静かに。静かに、壊れた。
*
そのあと、何を話したのかよく覚えていない。
姉さんが何か言った気がする。
ごめん、とか。
傷つけたくなかった、とか。
そういう、正しい言葉。
優しい言葉。
もう、何も聞こえなかった。
僕はただ頷いた。頷いていたのだと思う。
グラスの中の水は、ほとんど減っていない。氷だけが少し溶けている。テーブルの上には、水滴が小さな輪を作っていた。
ここには、最初から煙草の匂いがなかった。探す場所さえない。
僕が好きになった姉さんの匂いは、ここにはない。
いや。
消えていたのは匂いだけではない。
僕だけが知っていると思っていた姉さんも。
僕の前だけで弱いと思っていた姉さんも。
僕を必要としていると思っていた姉さんも。
最初から、僕のものではなかった。
「帰ります」
僕は言った。
自分の声が遠い。
姉さんは一瞬、何かを言いかけた。
でも、言わなかった。
僕は席を立つ。
椅子の脚が床を擦る。
その音が、思ったより大きく響いた。
「優人くん」
姉さんが僕を呼ぶ。僕は振り返らない。
振り返ったら、また何かを期待してしまう気がした。
姉さんは立ち上がる気配はない。追いかけてこない。明るすぎる照明の下で、姉さんだけが席に残る。
僕はそのまま歩き出す。
店員が「ありがとうございました」と言う。
その声が、雨の日のコンビニを思い出させる。あの日も、僕は何も買わずに店を出た。
ただ雨から逃げ込んで、居場所のないまま明るい店内に立って、結局、何も選べずに外へ出た。
ありがとうございました。
あのときも、その言葉は妙に空々しかった。
居てもいい理由を、最後まで用意できなかったみたいだった。
今も同じだ。
僕はこの店で、何も飲まなかった。何も食べなかった。何も受け取らなかった。ただ、姉さんの言葉だけを受け取った。
そういうふうには見られない。
二人では、もう会わない方がいい。
それだけを抱えて、店を出る。
自動ドアの前で、少しだけ立ち止まる。何を待っているのか、自分でもわからない。
姉さんが追いかけてくること。
もう一度名前を呼ばれること。
さようならじゃなくていいよ、と言われること。
何も起きない。起きるわけがない。
店内の明るさは、僕の背中に残ったまま。
僕は外へ出る。
自動ドアが閉まり、夜の空気が、肌にまとわりつく。
外はもう暗かった。
遠くで花火の音がする。
一発。
遅れて、かすかな歓声。
明るい場所で、誰かが夏を終わらせている。
僕はそちらを見ない。
駅へ向かう。
袖口を鼻に近づける。
何も匂わない。
煙草も。
柔軟剤も。
梅の飴も。
姉さんの部屋の湿った空気も。
何も。
それなのに、喉の奥にはまだ、甘く重い煙草の匂いが残っている気がした。消えたはずのものが、身体の内側にだけ残っている。
吐き出せない。
飲み込めない。
僕は夜の道を歩く。
夏の終わりの空気は、まだ湿っている。胸の奥で、何かが静かに死んでいく。けれどその死骸は、まだ温かい。まだ、煙草の匂いがしていた。