灰皿の中の初恋   作:インフレした小山羊

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だって、私たちは従姉弟なんだから。

 部屋を出たあとも、足元はまだ崩れていた。廊下は明るい。

 

 白い壁。

 静かな床。

 等間隔に並ぶ部屋の扉。

 遠くで低く唸るエアコンの室外機。

 

 全部が清潔で、正しくて、何事もなかったみたいな顔をしている。その中に、僕だけがうまく立てない。

 鞄を持つ手に力が入らない。参考書の角が鞄の中で身体に当たる。

 図書館へ行くと言って家を出た。

 姉さんに呼ばれて来た。

 寂しいからと呼ばれて、逃げ場だと言われて、そして帰れと言われた。たったそれだけ。

 

 たったそれだけのことが、どうしてこんなに重いのかわからない。

 

 エレベーターの前に立つ。ボタンを押して光る、下向きの矢印。

 待つ。扉が開くまでの数秒が、妙に長い。背後のどこかに、姉さんの部屋がある。あの扉の向こうで、姉さんはどうしているのだろう。

 

 泣いているのか。

 座り込んでいるのか。

 それとも、もうスマホを見ているのか。

 

 考えたくない。

 考えたくないのに、考えてしまう。

 僕の知らない誰か。

 僕ではない現実。

 姉さんが戻ろうとしている場所。

 その輪郭が、少しずつ濃くなっていく。

 

 エレベーターの扉が開く。

 中の鏡に、自分が映った。

 白いシャツ。

 黒いパンツ。

 子供ではないつもりの服。でも、顔だけがどうしようもなく幼い。その幼さが憎かった。

 

 五年。

 五年経てば、僕も二十歳になる。けれど、その五年の間に姉さんはどこへ行くのだろうか。

 

 誰の隣にいるのだろうか。僕がようやく追いついた頃には、姉さんはもう別の場所に立っているのではないか。

 そんな気がした。

 

 一階に着く。

 エントランスを抜けると、外は夏の夕方だった。

 

 空は赤くなり始めている。

 遠くで祭囃子が聞こえる。

 どこかの子供が笑っている。

 浴衣の人たちが、駅とは反対方向へ歩いていく。

 

 明るい場所。姉さんが、僕に行けと言った場所。

 僕はそちらを見ない。見たくない。

 歩き出そうとしたとき、スマホが震えた。

 一瞬、姉さんかと思ったが、違う。

 クラスのグループだった。

 

『今日の祭り、誰来る?』

『駅前集合でよくね?』

『早見も来る?』

 

 画面の中の明るい文字。僕はそれを見つめる。

 行けばいいのかもしれない。そこへ行って、笑って、焼きそばを食べて、花火を見て、誰かと写真を撮る。

 

 十五歳らしく。

 高校生らしく。

 明るい場所で。

 でも、指は動かない。返信欄は空白のまま。僕は画面を消した。そして、ポケットにしまう。

 

 駅へ向かう。袖口を鼻に近づける。

 煙草の匂いは、もうほとんどしない。

 

 柔軟剤。

 薬局の袋。

 梅の飴。

 少しだけ化粧品。

 

 知らない匂い。僕の知っていた姉さんが、どんどん薄くなっていって、このまま消えてしまう気がした。

 

 捕まえなければ。

 

 また、その言葉が浮かぶ。今度は消えない。僕にそんな権利はない。それは、わかっている。

 でも、権利がないから諦められるなら、最初からこんなところまで来ていない。

 

     *

 

 それから数日間、姉さんから連絡は来なかった。

 僕からも送らなかった。送れなかった、のほうが正しいだろう。何度も画面を開いて、姉さんとのトーク画面を見る。

 最後のやり取りは、あの日のまま。

 

『大丈夫です』

 そのあとに続く言葉はない。画面の中で、僕だけが取り残されている。

 何か送ろうとする。

 

『この前はすみませんでした』

 消す。

『体調、大丈夫ですか』

 消す。

『もう行かない方がいいですか』

 消す。

 

『会いたいです』

 打った瞬間、心臓が跳ねる。

 すぐに消す。

 こんな言葉を送ったら、本当に終わる。いや、もう送らなくても終わっている気がする。

 どちらにしても、終わりの匂いがする。

 

 学校はまだ夏休み。だから、逃げ場がない。

 朝起きる。

 親戚の家で朝食を食べる。

 参考書を開く。

 文字が滲む。

 スマホを見る。

 

 通知は来ない。

 

 昼になる。

 何か食べる。

 味がしない。

 スマホを見る。

 

 通知は来ない。

 

 夜になる。

 風呂に入る。

 布団に入る。

 暗い天井を見る。

 スマホを見る。

 

 通知は来ない。

 

 姉さんは、僕がいなくても生きている。その当たり前のことが、ひどく苦しい。

 僕は姉さんの逃げ場だった。でも、逃げ場にしていたのは、僕も同じだったのかもしれない。姉さんの弱さを、僕は自分の居場所にしていたのかもしれない。

 まあ今さらそんな事を思った所で、詮無いことだけど。

 

     *

 

 次の日の夕方、姉さんから連絡が来た。

 

『少しだけ話せる?』

 心臓が跳ね、手の中でスマホが熱くなったような気がした。

 話せる。その文字を何度も見る。

 呼ばれた。まだ、呼ばれた。そう思った瞬間、胸の奥に甘さが広がる。

 馬鹿だ。本当に、大馬鹿者だ。あの日、逃げ場だったと言われた。帰ってと言われた。距離を置かれた。それでも、姉さんから連絡が来ただけで、僕はまた息ができるようになる。こんなの、呼ばれれば尻尾を振る犬と同じじゃないか。

 

『行きます』

 返信する。

 すぐに既読がついた。

 

『無理しなくていいよ』

 またそれ。

 無理しなくていい。来なくていい、と似ている。でも違う。違うと思いたかった。

 

『無理じゃないです』

 送る。

 少し間が空いた。

 

『じゃあ、駅前のファミレスで』

 僕はその文字を見つめる。

 家じゃない。姉さんの部屋じゃない。

 あの低いテーブルも、灰皿も、缶ピースも、遮光カーテンもない場所。

 誰かの話し声がして、子供がジュースをこぼして、店員が皿を下げに来るような、明るくて、どこにでもある場所。姉さんは、もう僕を部屋に入れないつもりなのだろう。そのことが、返事の前にわかってしまった。

 

『わかりました』

 僕はそう打つ。

 送信する。既読がつく。

 姉さんからの返事は、もうなかった。

 

     *

 

 八月。終わりが近づいていた。

 

 夕方の空は高い。蝉の声はまだ聞こえる。けれど、その声は少し掠れている。

 夏が、終わろうとしている。そんなこと、考えたくもなかった。

 駅へ向かう道を歩く。

 手のひらが汗ばんでいる。

 服の襟元が落ち着かない。

 何度も呼吸を整える。

 

 今日は何を話すのだろうか。謝るのか、謝られるのか。もう会わないほうがいいと言われるのか。それとも、何かが元に戻るのか。

 そう考えた自分を、すぐに嫌になる。戻る場所なんて、最初からなかったのかもしれないのに。

 

 駅前のファミレスは、ロータリーの向こう側にあった。

 

 大きな看板。

 明るすぎる窓。

 自動ドアの向こうから漏れる、油と甘いソースの匂い。

 

 姉さんの部屋とは、何もかも違う。

 低いテーブルもない。

 灰皿もない。

 缶ピースもない。

 遮光カーテンもない。

 

 誰かの話し声がある。

 子供の笑い声がある。

 食器の触れ合う音がある。

 店員の「いらっしゃいませ」がある。

 

 明るくて、どこにでもある場所。誰も逃げ込めない場所。そこを指定された時点で、答えは既に出ているも同然だ。姉さんは、もう僕を部屋に入れるつもりはないのだろう。

 

 自動ドアが開く。

 

 冷房の風が肌に当たり、一瞬だけ汗が引く。

 

「いらっしゃいませ。お一人様ですか」

「待ち合わせです」

 そう答えながら、店内を見回す。

 奥の窓際。姉さんがいた。四人掛けの席に、一人で座っている。

 

 薄いカーディガン。

 淡い色のブラウス。

 まとめきれなかった髪が、頬の横に少し落ちている。

 テーブルの上には、水の入ったグラスが二つ。

 その時点で、少し胸が痛んだ。ちゃんと二つある、別々のグラス。

 

 正しい距離。

 正しい線。

 

 姉さんは僕に気づくと、小さく手を上げた。

 

「来てくれて、ありがと」

 席に着く前に、姉さんはそう言った。

 その言葉に、胸が少しだけ痛む。

 来てくれて。まるで、僕が来ない選択もできたみたいな言い方。

 

「いえ」

 僕は向かいの席に座る。

 いつもの隣ではない、向かい合う距離。

 間にはテーブルがある。

 

 メニュー立て。

 紙ナプキン。

 呼び出しボタン。

 透明な水のグラス。

 

 たったそれだけのものが、僕と姉さんの間に壁みたいに置かれていた。

 

 店内は明るい。

 

 隣の席では、小学生くらいの子供がポテトをつまんでいる。

 後ろの席では、大学生らしい男女が笑っている。

 遠くで、店員が皿を下げる音がする。

 煙草の匂いは、まったくしない。姉さんの周りにも、ない。

 

 柔軟剤。

 少しだけ化粧品。

 あとは、ファミレスの油とコーヒーの匂い。

 

 知らない姉さんに近づいている。

 

「何か頼む?」

 姉さんがメニューに手を伸ばす。

 

「大丈夫です」

「また大丈夫」

 姉さんは小さく笑う。その笑い方も、部屋で見たものとは少し違っていた。

 周囲に人がいるからだろうか。声の出し方も、表情の作り方も、少しだけ外向きになっている。僕の前だけの姉さんではない、誰に見られても困らない姉さん。そのことが、妙に苦しい。

 

「ドリンクバーくらい、頼もっか」

「いらないです」

「そう」

 姉さんはメニューを閉じる。

 それ以上、勧めなかった。

 

 沈黙。

 

 隣の席の子供が、ストローでジュースをかき混ぜている。

 氷の音がする。

 店員の声が重なる。

 どこかでスマホの通知音が鳴る。

 

 この場所では、沈黙すら僕たちだけのものにならない。

 

「この前は、ごめんね」

 姉さんが言う。

 僕はグラスを見たまま答える。

 

「何がですか」

「色々」

「色々、ですか」

「うん」

 姉さんは指先で机に落ちた水滴をなぞる。

 

「逃げ場だった、って言ったこと」

 胸の奥が反応する。でも、顔には出さないようにした。

 

「本当のことでしょう」

「まぁ⋯⋯そう、なんだけどさ」

「なら、謝らなくていいです」

「よくないよ」

 姉さんは静かに言う。

 ファミレスのざわめきの中でも、その声だけはやけにはっきり聞こえた。

 

「よくないから、謝ってる」

「謝ったら、何か変わるんですか」

 自分でも嫌な言い方だと思う。

 でも、止まらない。

 

「変わらないかな」

 姉さんは答えた。まっすぐに。

 

「変わらないけど、言わないのも違うと思った」

「そうですか」

「うん」

 

 沈黙。

 

 エアコンの音。

 食器の音。

 子供の笑い声。

 窓の外を走る車の音。

 夏の音が、少しずつ遠くなっている。

 

「優人くん」

 姉さんが僕を呼ぶ。

 僕は顔を上げる。

 

「しばらく……いや、もう会わないほうがいいと思う。二人では」

 二人では。その付け足しが、一番痛かった。

 

 親戚としてなら、会うかもしれない。

 正月や、法事や、誰かの結婚式で。

 

 でも、あの部屋には戻れない。

 姉さんと僕だけの暗がりには、もう。

 

 言われることは、わかっていた。部屋ではなく、ファミレスに呼ばれた時点で。

 向かい合う席。

 明るすぎる照明。

 隣のテーブルの笑い声。

 水の入ったグラスが二つ。

 全部が、もう間違えるなと言っている気がする。それでも、実際に言葉になると息が止まる。

 

「もう、ですか」

 自分でも情けない声だった。

 「はい、わかりました」と言えればよかった。

 そうするのが、正しいのだと思う。でも、正しさだけで帰れるなら、最初からこの席には座っていない。

 

「もうって、いつまでですか」

 姉さんの顔が少し歪む。

 

「そういう意味じゃないよ」

「じゃあ、どういう意味ですか」

「……優人くん」

「二人では、ってことは」

 僕はテーブルの上のグラスを見る。

 水面が揺れている。自分の手が震えているのだと、少し遅れて気づいた。

 

「親戚としてなら、会うんですか」

「それは、たぶん」

「正月とか、法事とか」

「……うん」

「誰かの結婚式とか」

 言った瞬間、姉さんの指が止まった。

 ほんの一瞬。でも、見えた。

 

「そういう場所では、会えるんですね」

「優人くん」

「でも、二人では駄目なんですね」

「うん」

 短い返事。

 それだけで十分だった。優しい言い方をしているだけで、意味ははっきりしている。

 

 もう、あの部屋には戻れない。

 もう、姉さんの弱さに触れることはできない。

 もう、僕だけが知っている姉さんはいない。

 

「大人の別れ方って、便利ですね」

 姉さんが息を呑む。

 

「別れなくてもいい。親戚だから、また会うことはある。でも二人では会わない。そう言えば、全部きれいに片づく」

「きれいじゃないよ」

「でも、正しいでしょう」

 姉さんは黙った。

 答えられない。

 

 いつもそうだ。

 

 僕の感情に気づいている。

 傷つけたこともわかっている。

 悪いとは思っている。

 

 でも、それ以上は何もできない。

 

 謝る。

 困った顔をする。

 優しい声で名前を呼ぶ。

 そして、最後には正しい場所へ僕を戻そうとする。

 

 それが、余計に苦しい。

 

「僕は」

 喉が詰まる。

 言ってはいけない。ここで言ったら、本当の、本当に終わる。⋯⋯⋯⋯いや、もう終わってるというのに、一体何が終わると言うのだろうか。

 

 なら⋯⋯同じか。

 

「僕は、姉さんにとって何なんですか」

「この前、言ったでしょ」

「逃げ場ですよね」

 姉さんは目を伏せる。

 

「それだけですか」

「……それだけじゃない」

「じゃあ、何ですか」

 姉さんはすぐには答えない。

 

 僕は待つ。

 もう、曖昧な言葉では足りなかった。

 

 大事な子。

 いい子。

 優しい子。

 

 そんな言葉はいらない。

 それらは全部、僕を子供の場所に留めるための優しい鎖だ。

 

「大事な子だよ」

 姉さんは言った。

 やっぱり、その言葉。

 胸の奥で何かが冷えていく。

 

「それ、嫌いです」

 言ってしまった。

 姉さんが顔を上げる。

 

「大事な子って言われるの、嫌いです」

「……ごめん」

「いい子も嫌いです。優しい子も、悪くないよも、全部嫌いです」

 声が震える。でも、止まらない。

 隣の席の子供がこちらを見て、母親らしい人が小さく「見ちゃだめ」と言う。

 僕は少し声を落とす。それでも、言葉は止まらない。

 

「その言葉を言われるたびに、僕は子供の場所に戻される」

 姉さんは何も言わない。

 黙って聞いている。それがまた、優しい。

 優しくて、苦しい。

 

「僕は、姉さんの逃げ場だったんですよね」

「……うん」

「僕が姉さんを見る目が、心地よかったんですよね」

「うん」

「僕が必要としてるのが、嬉しかったんですよね」

「うん」

「なら」

 声が掠れる。

 

「なら、どうして駄目なんですか」

 姉さんの表情が変わった。

 ほんの少し。でも、はっきりと。

 

「優人くん」

「どうして、僕じゃ駄目なんですか」

 言ってしまった。言葉はもう、戻らない。

 

 ファミレスのざわめきが、一瞬だけ遠くなる。

 

 水の入ったグラス。

 メニュー立て。

 呼び出しボタン。

 窓に映る駅前の灯り。

 誰かが置いていった紙ナプキン。

 

 全部が、静かに僕を見ている気がした。

 

 姉さんは唇を開く。

 でも、言葉は出ない。

 

「姉さんが言ったんですよ」

 僕は続ける。

 

「もし私たちが親戚じゃなかったら、って」

 姉さんの顔が強張る。

 

「あれは」

「あれは何ですか」

「変なこと言ったって、言ったでしょ」

「忘れてって言えば、忘れられると思ったんですか」

「……ごめん」

「謝らないでください」

 声が震える。

 

「忘れられるわけないじゃないですか」

 姉さんは何も言えない。

 

「親戚じゃなかったら、って。あんなこと言われたら、考えるに決まってるじゃないですか」

 喉の奥が熱い。

 

「僕だって、ずっと考えました」

 

 親戚じゃなかったら。

 従弟じゃなかったら。

 十五歳じゃなかったら。

 もっと早く生まれていたら。

 もっと大人だったら。

 もっと、姉さんの隣に立てる何かだったら。

 

 考えてはいけないことばかり、考えた。

 

「僕は」

 息を吸う。

 名前をつけたら、きっと終わる。そう思っていた。でも、もう名前をつけずにはいられない。

 

「僕は、姉さんのことが好きです」

 言った。

 言ってしまった。

 言葉はテーブルの上に落ちる。思っていたより、静かな音だった。

 姉さんは動かない。僕も動けない。

 心臓だけが、ひどくうるさい。

 

「従弟としてじゃなくて」

 続ける。

 もう、止まれない。

 

「子供としてでもなくて」

 姉さんの目が揺れる。僕はそれを見る。

 逃げないでほしかった。

 今だけは。

 

「一人の男として、好きです」

 姉さんは僕を見ている。

 泣きそうな顔。でも、泣かない。

 その顔が、ひどく残酷だった。

 

 遠くで、店員が「お待たせしました」と言う。

 皿を置く音がする。

 

 それでも、僕たちの席だけがひどく静かだった。

 

「……駄目だよ」

 小さな声だった。

 でも、その一言で、全部がわかった気がした。

 

「どうして」

 自分でも驚くほど、声が幼い。

 

「どうしてですか」

「どうしてって⋯⋯」

「従弟だからですか」

「うん」

「五歳違うからですか」

「うん」

「僕が十五歳だからですか」

「うん」

 姉さんは、ひとつずつ頷く。

 

 逃げない。

 ごまかさない。

 それが、余計に痛い。

 

「それだけですか」

「それだけで、十分だよ」

 静かな声。

 僕は笑った。

 笑えていたかはわからない。

 

「十分、ですか」

「十分だよ」

「僕は、そんなの」

「優人くん」

「そんなの、関係ないです」

「あるよ」

「姉さんが関係あることにしてるだけです」

「ある」

 姉さんの声が、少し強くなる。

 

「あるんだよ」

 その声に、僕は黙る。

 姉さんは膝の上で手を握っている。

 指先が白い。

 

「だって、私たちは従姉弟なんだから」

 従姉弟。

 その言葉が、胸に刺さる。

 

「私にとって、優人くんは親戚で、年下で、高校生で」

「やめてください」

「だからそういうふうには、見られない」

 息が止まる。

 聞きたくなかった。でも、聞きたかった。聞いてしまえば諦められるかもしれないと思っていた。

 

 でも違う。

 諦めるどころか、胸の奥が裂けていく。

 

「一度も、ですか」

 聞くべきではない。

 わかっている。

 でも聞いてしまう。

 

「一度も、僕のことを、そういうふうに見たことはないんですか」

 姉さんは目を伏せた。

 

 沈黙。

 

 ファミレスのざわめきだけが、僕たちの間を埋める。

 

 それが答えであってほしくなかった。

 けれど、それが答えだった。

 

 視界が少し滲む。

 泣いているのかと思った。

 でも、涙は出ていない。

 ただ、世界の輪郭がぼやけている。

 

「じゃあ」

 声が震える。

 

「何だったんですか」

 姉さんは何も言わない。

 

「膝に頭を乗せたのは何だったんですか」

 言葉が止まらない。

 

「優人くんがいてくれないと駄目になるかもって言ったのは、何だったんですか」

 姉さんの顔が歪む。

 

「親戚じゃなかったらって言ったのは、何だったんですか」

 

 姉さんは何も言わない。ただ黙るだけ。

 

「なにか言ってください!」

 声が跳ねた。

 近くの席の会話が、一瞬止まる。

 僕自身も、その声に驚く。ここは姉さんの部屋ではない。

 声を荒げれば、他人が見る。僕たちの痛みは、周囲にとってただの迷惑になる。

 

 その事実が、ひどく惨めだった。

 姉さんは何も言わない。

 

 ただ、傷ついた顔をしている。

 その顔が、また僕を責める。

 僕が傷つけたみたいに。

 

 いや。

 実際、傷つけているのだろう。でも、姉さんだって⋯⋯姉さんだって、僕を傷つけた。

 

「ずるいです」

 声が掠れる。

 

「姉さんは、ずるい」

「そうだね」

「認めないでください」

「ごめん」

「謝らないでください」

 もう、何を言っているのかわからない。

 

 怒っている。

 泣きたい。

 縋りたい。

 責めたい。

 抱きしめてほしい。

 今すぐ帰りたい。

 

 全部が同時に胸の中で暴れている。

 姉さんは俯いたまま、ゆっくりと言った。

 

「私たちの関係に」

 声が小さい。

 でも、はっきり聞こえる。

 

「もし、なんて無いんだよ」

 世界が止まる。

 

「親戚じゃなかったら、とか。年が近かったら、とか。優人くんが大人だったら、とか」

 姉さんは顔を上げる。

 

「そういう“もし”は、無いの」

 息ができない。

 

「私たちは、親戚なの。優人くんは私の従弟なの。十五歳なの。私は二十歳で」

 そこで姉さんは一瞬だけ言葉を切った。

 何かを飲み込むように。

 僕には、その先が見えない。

 見えないまま、胸だけがざわつく。

 

「だから、駄目」

「だからって」

「駄目なの」

「姉さんが決めるんですか」

「うん」

 即答だった。

 

「私が決める」

 その声に、僕は何も言えなくなる。

 

「私が最初に間違えたから。私が優人くんを呼んだから。私が甘えたから」

 姉さんの声が少し震える。

 

「だから、私が止める」

 止める。

 その言葉が、最後の鍵みたいに響いた。

 

 やめなきゃいけない。

 ちゃんとしなきゃいけない。

 違うことにしなきゃいけない。

 

 そして、止める。

 

 姉さんは自分で線を引く。誰かに言われたからではなく、僕を嫌いになったからでもなく、僕を、そういうふうには見ていないから。

 そして、これ以上僕が本気になるのは不味いと思ったから。その当たり前のことが、あまりにも残酷だった。

 

「僕は」

 声が出ない。

 もう一度、息を吸う。

 

「僕は、本気です」

「うん」

「本気なんです」

「うん」

「それでも、駄目ですか」

 姉さんは目を閉じる。

 長い沈黙。

 そのあと、ゆっくり頷いた。

 

「駄目」

 短い言葉。

 これ以上ないくらい、はっきりした拒絶。

 胸の奥で、何かが完全に割れた。

 音はしなかった。

 ただ、静かに。静かに、壊れた。

 

     *

 

 そのあと、何を話したのかよく覚えていない。

 姉さんが何か言った気がする。

 

 ごめん、とか。

 傷つけたくなかった、とか。

 

 そういう、正しい言葉。

 優しい言葉。

 もう、何も聞こえなかった。

 僕はただ頷いた。頷いていたのだと思う。

 グラスの中の水は、ほとんど減っていない。氷だけが少し溶けている。テーブルの上には、水滴が小さな輪を作っていた。

 ここには、最初から煙草の匂いがなかった。探す場所さえない。

 僕が好きになった姉さんの匂いは、ここにはない。

 

 いや。

 

 消えていたのは匂いだけではない。

 

 僕だけが知っていると思っていた姉さんも。

 僕の前だけで弱いと思っていた姉さんも。

 僕を必要としていると思っていた姉さんも。

 

 最初から、僕のものではなかった。

 

「帰ります」

 僕は言った。

 自分の声が遠い。

 姉さんは一瞬、何かを言いかけた。

 でも、言わなかった。

 僕は席を立つ。

 椅子の脚が床を擦る。

 その音が、思ったより大きく響いた。

 

「優人くん」

 姉さんが僕を呼ぶ。僕は振り返らない。

 振り返ったら、また何かを期待してしまう気がした。

 姉さんは立ち上がる気配はない。追いかけてこない。明るすぎる照明の下で、姉さんだけが席に残る。

 僕はそのまま歩き出す。

 

 店員が「ありがとうございました」と言う。

 その声が、雨の日のコンビニを思い出させる。あの日も、僕は何も買わずに店を出た。

 ただ雨から逃げ込んで、居場所のないまま明るい店内に立って、結局、何も選べずに外へ出た。

 

 ありがとうございました。

 

 あのときも、その言葉は妙に空々しかった。

 居てもいい理由を、最後まで用意できなかったみたいだった。

 

 今も同じだ。

 

 僕はこの店で、何も飲まなかった。何も食べなかった。何も受け取らなかった。ただ、姉さんの言葉だけを受け取った。

 

 そういうふうには見られない。

 二人では、もう会わない方がいい。

 

 それだけを抱えて、店を出る。

 

 自動ドアの前で、少しだけ立ち止まる。何を待っているのか、自分でもわからない。

 

 姉さんが追いかけてくること。

 もう一度名前を呼ばれること。

 さようならじゃなくていいよ、と言われること。

 

 何も起きない。起きるわけがない。

 店内の明るさは、僕の背中に残ったまま。

 

 僕は外へ出る。

 自動ドアが閉まり、夜の空気が、肌にまとわりつく。

 外はもう暗かった。

 遠くで花火の音がする。

 

 一発。

 

 遅れて、かすかな歓声。

 明るい場所で、誰かが夏を終わらせている。

 

 僕はそちらを見ない。

 駅へ向かう。

 

 袖口を鼻に近づける。

 何も匂わない。

 

 煙草も。

 柔軟剤も。

 梅の飴も。

 姉さんの部屋の湿った空気も。

 

 何も。

 

 それなのに、喉の奥にはまだ、甘く重い煙草の匂いが残っている気がした。消えたはずのものが、身体の内側にだけ残っている。

 

 吐き出せない。

 飲み込めない。

 僕は夜の道を歩く。

 夏の終わりの空気は、まだ湿っている。胸の奥で、何かが静かに死んでいく。けれどその死骸は、まだ温かい。まだ、煙草の匂いがしていた。

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