灰皿の中の初恋 作:インフレした小山羊
夏休みが終わる少し前、僕はもう一度だけ姉さんのマンションへ行った。連絡はしていない。
できなかった。
トーク画面を開いて、何度も文字を打った。
『この前はすみませんでした』
消す。
『もう一度だけ話せませんか』
消す。
『会いたいです』
消す。
『会いたいです』
もう一度、打つ。
消す。
打つ。
消す。
打つ。
消す。消す。消す。消す。消す。消す。消す。消す。消す。消す。消す。消す。消す。
送れば終わる。もう終わってるけど。でももう終わってるなら、それなら、それならせめて、確かめたかった。姉さんの部屋がまだそこにあることを、あの暗い部屋が、まだ完全には消えていないことを、缶ピースの匂いが、どこかに残っていることを。
それだけでよかった。
それだけでよかったはずなのに、僕は駅からマンションまでの道を歩きながら、何度も都合のいい想像をした。
姉さんがドアを開ける。
驚いた顔をして、それから少し困ったように笑う。
「来ちゃったんだ」
そう言ってくれる。
僕は謝る。
姉さんも謝る。
そして、何かが少しだけ元に戻る。
そんなこと、あるはずがない。
わかっている。わかっているのに、考えてしまう。
人は、終わったものに対しても、都合のいい続きを勝手に作る。その続きを信じられなくなったとき、ようやく終わりを理解するのかもしれない。
マンションが見えた。
白とグレーの、清潔な建物。
雨の日も、晴れの日も、そこだけはいつも変わらなかった。
疲れた姉さんの横顔とも、煙草の匂いとも、散らかった部屋とも釣り合わない、綺麗すぎる箱。
その前に立った瞬間、違和感があった。
エントランスのガラス扉に、紙が貼ってある。
エレベーター点検のお知らせ。
宅配ボックスの案内。
そして、作業予定表。
日付は昨日。
三階。
退去立会い。
胸の奥が、嫌な形に縮む。
退去。
その文字の意味が、すぐには頭に入らなかった。
僕はエントランスに入る。
オートロックの前で立ち止まる。
部屋番号を押す。
呼び出し音。
一回。
二回。
三回。
誰も出ない。当然だ。
それでも、もう一度押した。
呼び出し音だけが、冷たく流れる。
姉さんの声はしない。
『はい』
いつもの少し気だるい声も。
『開けるね』
あの短い返事も。
何も。
僕はしばらくそこに立っていた。
通りかかった住人が、不審そうに僕を見る。何か言われる前に、僕は少し頭を下げて外へ出た。
マンションの横に、小さな管理室がある。窓口に、年配の管理人が座っていた。
僕は迷った。
迷って、結局、聞いた。
「あの、三階の……」
部屋番号を言う。
「帆月さんって、いらっしゃいますか」
管理人は少し考えるようにして、それから「ああ」と頷いた。
「その方なら、昨日退去されましたよ」
昨日。
声が出なかった。
「ご親戚?」
「……はい」
「急ぎだったみたいでね。荷物は前から少しずつ運んでたみたいだけど、昨日で完全に」
完全に。
その言葉が、胸の中に落ちる。
「転居先は、さすがにこちらからは教えられないから」
「いえ」
僕は首を振る。
「大丈夫です」
大丈夫。
こんなときにも、その言葉が出る。
姉さんの口癖みたいで、少し笑いそうになった。けど、笑えなかった。
管理人に頭を下げて、僕はマンションの前に戻る。
見上げる。
三階。
どの窓が姉さんの部屋なのか、もう知っている。
でも、その窓の向こうには、もう誰もいない。
姉さんは、いない。
低いテーブルも。
灰皿も。
ライターも。
深い紺色の缶ピースも。
飴の包み紙も。
飲みかけの麦茶も。
僕が座っていた場所も。
全部片づけられたのだ。僕に何も言わずに。
*
それから、季節は進んだ。
九月が来て、学校が始まった。
教室はいつも通りだった。
夏休みの話。
祭りの写真。
塾の愚痴。
久しぶり、と言い合う声。
少し日焼けした顔。
みんな、ちゃんと夏を過ごしていた。
僕だけが、夏の終わった部屋に置き去りにされている。
席に座って、ノートを開く。
先生が黒板に何かを書く。
チョークの音がする。
誰かが小さくあくびをする。
全部、遠い。
姉さんに連絡を送っても、返事は来ず、既読もつかない。たぶん、ブロックされたのだと思う。
家に住まわせてもらっている親戚に、姉さんの事をそれとなく聞いてはみたが、詳しいことは知らない様子だった。
叔父さんたち──姉さんの両親に聞いてみようかとも思った。けれど、連絡先など知らないし⋯⋯第一、何をどう聞けばいいのだろうか。
姉さんはどこにいますか。
最近、会っていますか。
ここ数ヶ月間、姉さんが僕を部屋に呼んでいたことを知っていますか。
そんなこと、聞けるわけがない。
それに、あの日々のことを他人に話すのは、どうしても気が引けた。
僕に打てる手は、もう無い。
十月になった。
空が高くなる。
十一月になった。
制服の上に上着を着るようになる。
十二月になった。
街にイルミネーションが増える。明るすぎる光の下を、僕はいつも一人で歩いた。
姉さんの匂いは、もう服には残っていない。
袖口を嗅いでも、柔軟剤の匂いしかしない。
それなのに、ふとした瞬間に、喉の奥で煙草の匂いが蘇る。甘くて、重くて、少しだけ苦い、あの部屋の匂い。
姉さんの部屋の匂い。消えたはずなのに、身体の内側にだけ残っている。
吐き出せない。
飲み込めない。
僕はそれを抱えたまま、もう冬。
*
元旦。
親戚の集まりは、昼過ぎから始まった。
田舎の祖父母の家。
畳の匂い。
暖房の乾いた空気。
台所から漂う煮物の匂い。
こたつの上には、みかんと菓子鉢。
大人たちは新年の挨拶をして、酒を飲んで、去年と同じような話をする。
誰がどこの大学に受かったとか。
誰の仕事が忙しいとか。
誰の子供がもう何歳だとか。
僕は端の方に座って、麦茶を飲んでいた。正月なのに、晴れているのに、部屋の中はどこか息苦しい。
親戚の集まりは、昔は嫌いではなかった。
今は⋯⋯どうだろうか。
昔は楽しかった。
大人たちの足元を歩き回って、従兄弟たちと遊んで、姉さんに麦茶を注いでもらって。
白いワンピース。
蝉の抜け殻。
縁側の光。
あの頃の姉さんは、僕の中でずっと汚れていない。けれど今、その記憶を思い出すだけで胸の奥が痛む。
「優くん、背ぇ伸びたねぇ」
祖母に言われる。
「そうかな?」
「東京の学校さどうだぁ?」
「⋯⋯普通。かな」
「友達はできたかやぁ?」
「まあ」
嘘をつくのがうまくなった。
普通。
まあ。
大丈夫。
どれも中身がない。中身がないから、便利だ。そして大人たちは、その空っぽの返事に、空っぽの安心をする。
玄関の方で、声がした。
「あ、来た来た」
「李波ちゃん?」
その名前で、身体が固まる。
麦茶のグラスを持つ手に力が入る。
氷が小さく鳴った。
見たくない。そう思った。でも、顔は勝手に玄関の方へ向く。
そして襖の向こうから、姉さんが入ってきた。
帆月李波。
五歳年上の従姉妹。
僕が幼い頃から、姉さんと呼んでいた人。
夏の暗い部屋で、煙草の匂いを纏っていた人。
僕の逃げ場であり、僕を逃げ場にした人。
その人が、そこにいた。けれど、一瞬、誰だかわからなかった。
髪は綺麗にまとめられている。
淡い色のワンピースに、厚手のカーディガン。
化粧は薄い。
目の下の隈も、あの頃より目立たない。
そして、煙草の匂いがしない。
当たり前だ。
距離があるからではない。
わかる。
もう、姉さんの周りにあの匂いはない。
甘く重い煙草の匂いは、完全に消えていた。
代わりにあるのは、柔らかい洗剤の匂いと、正月の家の匂い。
それから。
姉さんは、お腹に手を添えていた。何気なく、でも、確かに。そして、その手の下で布の下で、そこだけが丸く膨らんでいる。
呼吸が止まる。
一瞬、何を見ているのかわからなかった。
意味が追いつかない。でも、周囲の大人たちは普通に受け止めていた。
「寒かったでしょ、ささ、座って座って」
「無理さぁすんなぁ」
「予定日はいつ頃だっけ?」
「式は落ち着いてから?」
「春くらいには、って話だったべ」
「大学はどうするの?」
言葉が、部屋のあちこちから飛んでくる。
予定日。
式。
落ち着いてから。
春。
その全部が、僕の知らない言葉だった。僕だけが、知らなかった現実。
姉さんは少し困ったように笑って、みんなに頭を下げる。
「ありがとうございます。大丈夫です」
大丈夫。その言葉が、昔より少しだけ落ち着いて聞こえた。
隣には男の人がいた。
背の高い人。
落ち着いた色のコートを脱ぎながら、親戚たちに挨拶をしている。
僕はその人を知らない。でも、すぐにわかった。
この人だ。
姉さんが戻った現実。
姉さんが選んだ未来。
姉さんが式を挙げる予定の相手。
彼は丁寧に頭を下げる。
「ご挨拶が遅くなりまして」
大人たちが笑う。
「いやいや、こちらこそ」
「李波ちゃんをよろしゅうねぇ」
「式はまだでん、もう家族んごたるもんやけん」
家族。
その言葉が、喉に刺さる。僕は何も言えない。
ただ、そこに座っているだけ。
親戚の子供。
高校生。
従弟。
正しい場所に、正しい名前で置かれている。
姉さんの視線が、僕を見つけた。
目が合う。ほんの一瞬、姉さんの顔がわずかに強張る。夏の部屋の姉さんが、一瞬だけ戻ってきた。でも、すぐに消えた。
彼女はお腹に手を添えたまま、周囲に促されて座る。その仕草で、僕は理解する。
姉さんはもう、僕の知っている暗い部屋にはいない。そこへ戻るつもりもない。戻れないのではなく、戻らない。
姉さんは、向こう側にいる。
家族。
結婚。
出産。
祝福。
未来。
僕が入れない、明るくて正しい場所に。
*
しばらく、時間の流れが曖昧だった。
誰かが笑う。誰かが料理を取り分ける。テレビでは駅伝が流れている。子供が走り回って、大人に注意される。
姉さんの相手の人は、親戚たちに何かを聞かれて、穏やかに答えていた。
仕事のこと。
住む場所のこと。
式のこと。
赤ちゃんのこと。
赤ちゃん。
その言葉が出るたびに、僕は少しずつ削られていく。
姉さんは時々、笑う。
昔のように明るくはない。
夏のように壊れかけてもいない。
落ち着いた笑い方。
大人の笑い方。
それが一番、知らない姉さんだった。
食事が一段落した頃、僕は縁側に出た。
外は寒く、空気が乾いている。
庭の隅に、枯れた草があった。
冬の陽射しは弱い。それでも、昼の光は眩しかった。
僕は縁側に座る。
手が冷える。
吐く息が白い。
正月の家の中から、笑い声が聞こえる。きっとその笑い声の中に、姉さんの声も混じっている。
それが、嫌だった。
姉さんが幸せになることが嫌なのではない。ただ、その幸せが僕の知らない場所で、僕の知らない人と、僕の知らない未来として進んでいくことが嫌だった。
そして何より──それを祝えない、自分が嫌だった。
大事な子。
いい子。
優しい子。
そんなふうに呼ばれていた僕は、結局、全然いい子ではなかった。
「優人くん」
背後から声がした。
身体が固まる。
振り返ると、姉さんが立っていた。カーディガンを羽織り直して、少し寒そうに。
「寒くないんですか」
口から出たのは、そんな言葉だった。
「少しだけなら」
「中にいた方がいいんじゃないですか」
「うん。すぐ戻る」
姉さんはそう言って、僕の少し横に座った。
距離がある。
夏の部屋では、こんな距離ではなかった。
膝に頭を預けた距離。
同じグラスからお茶を飲んだ距離。
煙草の匂いが移る距離。
今は違う。
畳一枚分より近く、座布団一枚分より少し遠い。
正しい距離。
姉さんはお腹に手を添えている。
無意識なのだろう。でも、その手が目に入るたびに、胸の奥が冷える。
「久しぶり」
姉さんが言う。
「そうですね」
「元気だった?」
「普通です」
「そっか」
会話が死んでいる。でも、これでいい。
むしろ、これくらいでいい。
姉さんはしばらく庭を見ていた。
冬の庭。
枯れた草。
乾いた土。
低い空。
そこには、夏の気配はもうない。
「引っ越したんですね」
僕は言った。
「行ったの?」
「はい」
「……そっか」
「退去したって、管理人さんに聞きました」
「ごめん」
また、その言葉。
でも、今度はもう怒る気力もない。
「言ってくれればよかったのに」
自分でも、情けない声だと思った。
姉さんは小さく頷く。
「言えなかった」
「言えなかったんですか。言わなかったんじゃなくて」
「……どっちも」
正直な答え。
あまりにも、姉さんらしい。
逃げる。
でも、嘘はつききれない。
そういう人。
「聞いてもいいですか」
僕は言った。
姉さんは庭を見たまま、少しだけ息を止める。
「何を」
「全部」
姉さんは僕を見る。その目には、怯えがあった。
でも逃げようとは、しなかった。
「⋯⋯いつから、妊娠してたんですか」
言葉にした瞬間、胸の奥で何かが軋む。
姉さんは目を伏せた。
長い沈黙。
家の中では、誰かが笑っている。
テレビの音が聞こえる。
その明るさが、ひどく遠い。
「最初に再会したときは」
姉さんが口を開く。
「まだ、知らなかった」
僕は黙って聞く。
「本当に。駅前のコンビニで会ったときは、まだ」
「気づいてなかった」
「うん」
少しだけ、息ができた。
でも、それはすぐに潰れる。
「いつ気づいたんですか」
「六月頃かな」
短い答え。
十分すぎる。
「六月の、いつ」
「頭くらいに、もしかしてって思って」
姉さんは自分の手元を見る。
「検査して、病院に行って。ちゃんとわかったのは、その少し後」
六月。僕は頭の中で時間を戻す。
姉さんから連絡が来るようになった頃。
部屋に呼ばれるようになった頃。
グラスが一つしかなかった日。
膝に頭を預けられた日。
缶ピースの匂いが濃かった日。
そして、煙草の匂いが薄くなり始めた日。
あの頃には、もう。
「そうですか」
声が掠れる。
「じゃあ⋯⋯僕を部屋に呼んでたときには、もう知ってたんですね」
姉さんは目を閉じた。
それから、頷いた。
「途中からは」
途中からは。
その言い方が、少しだけ優しく聞こえて、余計に苦しかった。
最初から全部ではない。でも、途中からは知っていた。
知っていて、呼んだ。
知っていて、僕の前で煙草を我慢した。
知っていて、病院のことを隠した。
知っていて、僕に「健康のため」と言った。
「煙草」
僕は言う。
「やめたのは、そのためですか」
「うん⋯⋯止めれば、少しは自覚も持てるかなって」
姉さんは逃げなかった。
「僕がいると吸わないで済むかもって言ったのは」
姉さんの顔が少し歪む。
「ごめん」
「答えてください」
声が冷たくなる。自分でもわかる。
でも、止めない。
「本気で、そう思ったの」
姉さんは言った。
「優人くんがいると、吸わないでいられた。それは本当」
「でも、僕のためじゃなかった」
姉さんは何も言わない。それが答えだった。
煙草をやめた理由。
体調が悪かった理由。
プリンやゼリー飲料。
スポーツドリンク。
梅の飴。
薬局の袋。
病院。
やめなきゃいけないのかも。
全部、僕のためではなかった。僕が姉さんを正しい方へ引き戻したわけではない。
姉さんは、ただ別の現実へ戻ろうとしていただけ。
僕の知らない現実へ。
「相手は」
僕は聞く。
姉さんは顔を上げる。
「今日、一緒に来てた人ですか」
「そうだよ」
「いつから付き合ってたんですか」
「……大学に入ってから」
喉の奥が冷える。
「結婚の話も、前から?」
「それは、私の妊娠がわかってからかな」
「社会人として、責任を取るって」
「じゃあ」
言葉がうまく出ない。
でも、聞かなければいけない気がした。
「僕と会ってたとき、もうその人がいたんですね」
「そう、だね」
即答ではなかった。でも、はっきりしていた。
その一語で、夏の部屋の意味が全部変わる。
僕は恋敵ですらなかった。
姉さんの恋愛の空白に入り込んだわけではない。姉さんが現実から逃げていた隙間に、たまたま入ってしまっただけ。
いや。たまたまではない。
姉さんが呼んだ。
僕を。
寂しくて、怖くて、一人でいたくなくて。
「どうして」
声が震える。
「どうして、僕を呼んだんですか」
前にも聞いた。でも、今は意味が違う。
婚約者がいた。
妊娠していた。
結婚する予定だった。
それなら、なぜ僕だったのか。なぜ、十五歳の従弟だったのか。
姉さんは庭を見る。
冬の光が、横顔に当たっている。
夏の部屋では見えなかった明るさ。
「怖かった」
姉さんは言った。
「結婚することも、母親になることも」
母親。
その言葉に、姉さんの手がお腹に触れる。
「急に全部、現実になった」
声は静かだった。
「自分で選んだことなのに。嬉しいはずなのに。周りも喜んでくれてるのに。なのに、怖くて」
姉さんは少し笑う。
弱い笑い方。夏の部屋で何度も見た顔。
「逃げたくなった」
逃げたくなった。
逃げ場。
僕。
繋がる。繋がってしまう。
「彼には」
僕は言う。
「言えなかったんですか」
「言えなかった」
「どうして」
「ちゃんと喜ばなきゃいけないと思ったから」
姉さんは膝の上で手を握る。
「嬉しいよ。嬉しくないわけじゃない。でも、それだけじゃなかった。怖いとか、不安とか、嫌だとか、まだ何も決めたくないとか、そういうことを言ったら⋯⋯ダメな気がした」
「だから、僕ですか」
姉さんは黙る。
「僕なら、正しいことを言わないから」
「……うん」
「責めないから」
「うん」
「子供だから」
姉さんは少し顔を歪める。
「それは」
「違いますか」
姉さんは答えない。
答えられない。それだけで十分だった。
僕は笑いそうになる。けど、笑えない。
「僕は、姉さんの何だったんですか」
この質問ばかりしている。
でも、何度聞いても、まだ納得できない。
姉さんは静かに言う。
「逃げ場だった」
同じ答え。
でも、今は前よりずっと意味がはっきりしている。姉さんは、結婚と妊娠という現実から逃げるために、僕のところへ来た。
僕は、母になる前の姉さんが、一瞬だけ何者でもなくなるための場所だった。
婚約者の隣に戻る前の休憩所。
大人の正しい未来へ戻る前の暗い部屋。
そこにいた、都合のいい十五歳。
それが僕。
「ひどいですね」
姉さんは頷く。
「そうだね」
「最低です」
「そうだね」
「認めないでください」
「ごめんね」
「謝らないでください」
また同じことを言っている。
何度も。
夏からずっと、僕たちは同じところを回っている。でも、もう戻れない。
あの部屋はない。
缶ピースの匂いもない。
姉さんの身体には、僕の知らない未来がある。
「優人くん」
姉さんが僕を見る。
「私は、君のことを傷つけた」
「はい」
「自分でも、わかってる」
「はい」
「でも」
姉さんは言葉を探す。
「君を、そういうふうには見られなかった」
胸の奥が静かに痛む。
「従弟だから?」
「うん」
「子供だから?」
「うん」
「その人がいたから?」
姉さんは少しだけ目を閉じる。
「うん」
「妊娠してたから?」
「うん」
「全部ですね」
「うん」
全部。
全部だった。
従弟だから。
子供だから。
婚約者がいたから。
妊娠していたから。
姉さんにとって、僕は最初からそういう対象ではなかったから。どれか一つなら、まだ何かを恨めたかもしれない。
年齢だけなら、時間を恨めた。
親戚という関係だけなら、血の距離を恨めた。
相手の男だけなら、その人を恨めた。
妊娠だけなら、現実を恨めた。
でも、全部だった。全部が、僕を最初から外側に置いていた。
「僕が大人だったら」
言ってから、自分で馬鹿だと思う。
でも、止まらない。
「僕が五年早く生まれてたら」
「優人くん」
「親戚じゃなかったら」
姉さんはハッキリと、僕の目をみて告げた。
「私たちの関係に、『もし』は無いんだよ」
「そう、ですか⋯⋯」
声が震える
「そう、なんですか」
納得したわけではない。受け入れたわけでもない。ただ、もうそれ以上、何も言葉が出なかった。
姉さんは口を閉じる。
僕も黙る。
冬の庭に、乾いた風が吹く。
家の中から笑い声が聞こえる。
誰かが姉さんを呼ぶ声。
「李波ちゃん、冷えるよ」
姉さんは振り返る。
戻らなければいけない。そこへ。
暖かい部屋。
親戚たち。
婚約者。
お腹の中の子供。
正月の光。
姉さんの現実。
僕はその外側にいる。
「戻ってください」
姉さんは僕を見る。
「優人くん」
「お腹、冷えたらいけないですし」
言ってから、少しだけ息を吐く。
「⋯⋯それに、しばらく独りで居たいので」
その言い方が、自分でも嫌だった。
優しさの形をしている。
でも、中身は違う。
これ以上、ここにいてほしくないだけ。これ以上、姉さんが僕の知らない未来を抱えて座っているところを見ていたくないだけ。
「わかった」
姉さんは頷く。
そして立ち上がる。
僕は反射的に手を伸ばしかけて、止めた。
触れてはいけない。
もう、そんな権利はない。
いや。
最初から、そんなものはなかったのだから。
姉さんはその手に気づいたのかもしれない。でも、何も言わなかった。
「優人くん」
姉さんが僕の名前を呼ぶ。
僕は顔を上げない。
「こんなこと、私には言う権利ないけど」
姉さんの声は、ひどく静かだった。
「でも、一応、従姉で、年上で、大人だからさ⋯⋯君は私のことなんて、忘れた方がいいよ」
少し間が空く。
「きっとね」
きっと。最後まで、断言しない。
逃げ道を残すみたいに。優しさみたいな形で。 僕の傷を、僕のものとして返してくる。
「⋯⋯どの口で」
声が漏れる。
本当に、本当にこの人は、いったいどの口でそんなことを言うのだろう。
いや、もういいか。
少し疲れた。
深く、深く息を吐く。
「もういいです」
許したわけではない。許せるわけがない。
でも、もうこれ以上、何かを求めることができなかった。
姉さんはしばらく僕を見ていたが、やがて家の中へ戻っていく。
襖が開く。
暖かい空気と笑い声が漏れる。
姉さんの相手の人が、すぐに姉さんを気遣う声をかける。
「寒くなかった?」
「大丈夫」
姉さんが答える。
大丈夫。
その声は、夏よりも少しだけ本当に聞こえた。
襖が閉まる。
僕は縁側に一人残る。
*
しばらくして、僕も中へ戻った。
誰も僕の顔色には気づかない。あるいは気づいても、正月の場で触れることではないと思ったのかもしれない。
姉さんは座布団に座っている。
婚約者の隣。
お腹に膝掛けをかけてもらって、少し照れたように笑っている。
その顔を見て、僕はやっと理解した。
夏の姉さんは、姉さんの全部ではなかった。僕が見ていたのは、帆月李波という人間の一部。
逃げたい時の顔。
弱っている時の声。
煙草の匂いを纏った暗い部屋の姿。
それを僕は全部だと思った。
自分だけが本当の姉さんを知っていると思った。
でも違った。
僕が知らなかっただけ。僕が無知だっただけ。姉さんには僕の知らない顔が、いくらでもあった。
婚約者の前の顔。
親戚たちの前の顔。
母親になる顔。
煙草をやめた顔。
暗い部屋を出た顔。
僕が好きになった姉さんは、その中の一つにすぎない。それも、姉さんが現実から逃げている時だけ見せた、弱くてずるい顔。
その顔に、僕は恋をした。
恋をして、壊れた。
食事が終わり、親戚たちが帰り支度を始める。
姉さんも立ち上がる。
婚約者がコートを持つ。
大人たちが口々に声をかける。
「身体に気をつけてね」
「式楽しみにしとるけん」
「赤ちゃん産まれたら写真送って」
姉さんは笑って頷く。
その笑顔に、煙草の匂いはない。
完全に。
どこにも。
僕は玄関の隅から、その背中を見ていた。
姉さんが靴を履く。彼が手を貸す。姉さんは少し笑って、その手を取る。
自然な仕草。
当たり前の距離。
そしてその距離の中に、僕の入る隙間はない。
外の冷たい光の中へ、二人が出ていく。
玄関のドアが閉まる。
音は小さかった。でも、僕にははっきり聞こえた。
*
夜、布団に入っても眠れなかった。
正月の家は静かだ。
遠くで大人たちの話し声が少しだけ聞こえる。
台所で食器を片づける音。
暖房の低い唸り。
僕は暗い天井を見ている。
思考が、止め処なく溢れる。
姉さんは妊娠していた。
六月には知っていた。
相手は、今日一緒に来ていた人。
大学に入ってから付き合っていた人。
僕と会っていたときには、もうその人がいた。
僕が姉さんの部屋に通っていた夏。
僕が自分だけ特別だと思っていた時間。
煙草の匂いを勲章みたいに感じていた日々。
その全部の向こう側に、僕の知らない現実があった。
僕は恋敵ですらなかった。最初から、土俵の外にいた。それが何よりも、惨めだった。
姉さんのことを恨みたい。弱くて、ずるくて、寂しさに負けて十五歳の従弟を逃げ場にした女。
そう思えばいい。
そう思えば、少しは楽になる。
でも、楽にならない。
姉さんは僕を騙すために笑ったわけではない。僕を壊すために呼んだわけでもない。たぶん、ただ怖かっただけだ。
結婚することが。
母親になることが。
選んだはずの未来が、急に重くなったことが。
そして僕は、その怖さに選ばれた。
恋ではなく。
逃げ場として。
その事実が、優しい言葉よりずっと残酷だった。
初恋。
ようやく、その名前が静かに胸へ落ちてくる。
僕の中で育ったもの。
雨の日のコンビニでいや、きっと、もっと前から──そう、5年前のあの夏の日から始まって、そして、今日。ようやく死んだもの。
初恋は死んだ。
姉さんはもう煙草の匂いがしなかった。
あの部屋もない。
缶ピースもない。
灰皿もない。
夏も終わった。
それなのに、目を閉じるとまだ匂う。甘くて、重くて、少し苦い、あの香り。
火はとっくに消えている。それでも、灰の奥に熱だけが残っている。
僕の初恋は、灰皿の中にあった。
この話はこれで終わりです。
この後、各話の細々とした文章の修正等は行うと思いますが、話の流れは変わりませんし、終わりも変わりません。
精々、地の文が変わったり削れたり増えたり、セリフが一部変わったりする程度でしょう。
では、ありがとうございました。
ホオヅキ:花言葉は、「偽り」「ごまかし」「心の平安」そして、「浮気」