不老なのをいいことに、移りゆく世代を眺めながら辺境で気ままに過ごす 作:無性主人公広めたい
考えるより先に体が動いていた。藁を蹴散らして小屋を飛び出す。冷えた夜気がいっぺんに肺へ流れ込んで、頭の芯がきんと痛んだ。足音はまだ遠い。だが確かに近づいてくる。ひたひたと、ぬかるんだ道を幾つもの足が踏んでくる音。
オレは街道に背を向けて、村のほうへ走った。こういうときの逃げ足だけは、たぶん自信がある。全ステータスが1のオレに唯一残された取り柄みたいなものだ。畦のふちを、水路に落ちないぎりぎりで駆け抜ける。暗いのはこっちの味方だった。連中はこの道の勝手を知らない。オレは泥さらいで腰まで浸かって覚えた。
「来た……っ、来たぞ……!」
最初の家の戸を、拳でめちゃくちゃに叩いた。声がうまく出ない。喉が引きつっている。それでも有りったけを絞り出した。
「街道から……! あいつらが……来た……!」
戸の内で人の動く気配。それから村の真ん中のほうで、鐘が鳴りはじめた。
からん、からん、と。
寝ぼけた間の抜けた音じゃなかった。何日もこの夜のために、鳴らす手はずを決めておいた鐘だ。その音が暗い村を、端から端まで揺り起こしていく。あちこちの戸が開いて、人が飛び出してくる。手に手に、棒だの鍬だの焼いて尖らせた棒きれだのを握って。
オレは走りながら袖の中を確かめた。マロはそこにいた。低く、押し殺したように鳴いている。あの林の夜と同じ鳴きだ。
……お前は鼻と耳だけでいい。それだけでじゅうぶんだ。頼れるのはお前のその鼻と耳と――この幾晩かで村じゅうが土を掘り、杭を打って拵えた、あの細道だけ。それで十分だ。
息を切らして、村の入り口のいちばん近い持ち場まで駆け戻る。
ギレスがそこにいた。
「気づいたか」
「はい……街道を、まっすぐ……もう、そこまで……」
ギレスは短く頷いた。
「上出来だ」
ギレスはそれだけ言って、松明を低く掲げた。声を張らない。息を殺している。
細道の両脇、ぬかるんだ畦のかげに、村の男たちがうずくまって待っていた。テオの父のハーロもいる。焼いた棒きれの先を両手で握りしめて。誰も口をきかない。ただ闇の向こうの、近づいてくる足音だけを聴いていた。
オレはそのいちばん端に身を伏せた。
*
やがて暗がりの向こうに、影がいくつも湧いた。街道から折れて村へ入る、細い一本道。その入り口にぬっと人の形が現れる。四つ、五つ――そこで止まらなかった。六つ、七つ、八つ、九つ……十を数えたあたりで、追うのをやめた。影はまだ後から後から湧いて出てくる。
……やっぱりあの五人じゃ済まなかった。下見にいた見知った顔ぶれに、あの日はいなかった荒んだ顔が、ずらりと加わっている。ざっと、あの日の三倍からの数だ。
抜き身の刃を提げて、寝込みを襲いに来た連中だ。蓄えを根こそぎ奪い、逆らう者は斬る。あの日ののらくらした値踏みとは、もう別の顔だった。……数を頼みに戻ってくる。そこまでは読みどおりだ。ただ、これほどとは思っていなかった。それでも――だったら、こっちの読みも最後まで当たってくれ。
「なんだ、明かりがついてやがる」
先頭の体格のいい男が笑うように言った。
「起きて待っててくれたのかよ。気の利いた村だ。おら、蓄えを全部――」
「――そこまでにしときな」
闇の底から、低いがよく通る声が飛んだ。ギレスだ。細道の脇で松明が一つ、ぼっと大きく燃え上がる。
「ここから先はおれたちの村だ。くれてやる蓄えなんて、ひと粒もねえ。……悪いことは言わねえ。来た道を引き返しな」
だが先頭の男はたじろぎもしなかった。それどころか、にやりと口の端を吊り上げて、後ろにひしめく仲間の数を、顎でしゃくってみせる。
「引き返せ、だとよ」
抜き身の刃が松明の火を受けて、ぬらりと光った。それに応じるように、あちこちで鞘を払う音が重なっていく。
「聞いたか、お前ら。この人数を前にして、まだそんな減らず口が叩けるとはなあ。……やっちまえ。逆らう奴から先に斬れ」
男たちが喚き声をあげて、いっせいに村へ走り出した。数を頼みにまっすぐなだれ込もうと――だが真っ先に踏み込んだその足が、ぬかるみにずぶりと沈んだ。慌てて抜こうとしたその鼻先に、斜めに突き出た杭の切っ先があった。避けて横へ逃げる。逃げた先は水を引いた畦の、ぬかるみだ。足が膝まで埋まる。
「うわ……っ、なんだ、これは……!」
走れない。連中は走って村になだれ込む算段だった。人数で押しつぶす気だった。それができない。斜めの杭に行く手をふさがれ、ぬかるみに足を取られて、あれだけの数が横に広がれない。まっすぐ来れば腹に杭が来る。横へ逃げれば泥に沈む。残るのは二人並ぶのがやっとの、細い細い道だけ。
オレがあの晩、燃えさしで土の床に引いた線。
それがいま、目の前で本物の罠になっていた。
「今だ!」
ギレスの声が闇を裂いた。
両脇の畦から、村の男たちがいっせいに立ち上がる。焼いて尖らせた棒きれの黒い先端が、松明の火にぬらりと光った。ぬかるみでもがく賊へ、上から突きかかる。剣の使い方なら連中のほうがずっと上だろう。だが足を取られて、二人並ぶのがやっとの道で、まともに剣なんて振れやしない。
鉄と木のぶつかる、鈍い音。泥を跳ねる音。怒鳴り声。人のうめき。――討伐の夜のあの一対一の静かな緊張とは、まるで違う、荒れた生々しい音の渦だった。
賊のひとりが泥に足を取られながらも、剣を横ざまに薙いだ。狙いは村の男の首だった。とっさに身をのけぞらせた男の腕を、切っ先が裂く。血が飛んだ。よろけたその男へ、賊がとどめとばかりに剣を振りかぶる。――そのがら空きの脇腹へ、ハーロが焼いた棒きれを下から渾身で突き上げた。棒の先が剣を持った男の脇腹へ、深々とめり込む。男は獣みたいな声でのけぞって、そのままぬかるみに崩れ落ちた。泥にうつ伏せて動かない。……動かなくなった。
それを見た隣の一人が足を止めた。膝まで泥に埋まったまま、剣を握り直す手が迷っている。逃げ場を探している。細道は後ろも詰まっていた。仲間が倒れて道を塞いでいる。前へは杭。横はぬかるみ。後ろは味方の骸。
押し合いへし合い村になだれ込むはずだった連中が、いまや一列に、細道の泥へ串刺しにされていた。動けば杭。もがけば泥。仲間の骸につまずいて、また一人膝をついた。そこへ村の男たちの棒が、雨みたいに降ってくる。
「ちくしょう……っ、話がちがう……!」
誰かが叫んだ。
その一声で崩れた。腕を抱えた一人が身を翻して、街道のほうへ逃げ出す。それをきっかけに、堰を切ったように二人、三人と、我先に闇へ散っていく。あれだけの数を頼みにしていたはずが、旗色が悪いと見るや、たがいを突き飛ばすようにして逃げ散っていく。
――なめきって走って押しつぶすはずだった連中が、走れないと分かったその途端に、算段の全部が音を立てて崩れていく。
オレはそれを、伏せたまま見ていた。
詰めていた息が震えて漏れた。
あの晩、林でオレが鍬を振り下ろした、あの化け物とは違う。あれは牙を剥いた、人ならぬものだった。……でもいま、目の前で動かなくなったのは人だ。さっきまで笑って、蓄えを寄越せとわめいていた男がぬかるみにうつ伏せて、二度と起きない。返り血の匂いがここまで届いてくる気がした。
……見ていることしかできない。飛び込んでいって加勢する腕なんて、オレにはない。体力も力も速さも魔力も――まぶたの裏のあの光る窓に並んだきり、ちっとも動かない数字。全部が1の、丸腰の身だ。だがそれでも、目をそらすのは違う気がして――オレは歯を食いしばって見ていた。
これが村を守るってことだ。
*
残ったのは、頭目の体格のいい男だけだった。
四方から棒きれを突きつけられて、泥のなかに膝をついている。
「……ま、待て。待ってくれ。悪かった。もう来ねえ。二度と来ねえから……っ」
さっきまでの笑うような余裕は、跡形もない。手を泥につき、頭を垂れて、命乞いをしていた。
ギレスがその前に進み出た。棒きれを握る手が、白くなるほど力が入っている。振り下ろせば、それで終わりだった。誰も止めやしない。この男が村に何をしようとしたか、みんな知っている。
オレは思わず身を起こしかけた。
だがギレスは大きく息を吐いて、棒を下ろした。
「……縄だ。誰か、縄を持ってこい。こいつは街道の自警に突き出す」
村の男のひとりが、殺っちまえ、と低く吐き捨てた。ギレスは首を横に振った。
「戦って死んだんなら、それまでだ。……だがこうして手をついて、命乞いする男をいたぶり殺すのは、盗人のやることだ。うちの村をそこまで下げたかねえ」
男たちが頭目を後ろ手に縛りあげる。ぐったりと、抵抗もしなかった。
……ああ、そうか、とオレは思った。ギレスはこの男を殺せた。殺しても誰も責めなかった。それでも殺さなかった。それは弱さじゃなくて――たぶん強さのほうだ。オレにはうまく言葉にできないけれど。
東の空がうっすらと白みはじめていた。
村の入り口の細道は、ひどい有様だった。ぬかるみに倒れた、動かない二つの塊。踏み荒らされた泥。折れた棒きれ。
……人が死んだ。オレが手を下したわけじゃない。誰かが下した。だがこの、村を守るという一つの大きな流れの、いちばん端に報せに走ったオレも確かにいた。手のひらにあの晩の鍬の重みがよみがえる気がして、オレはそっとこぶしを握った。
「おい、薬屋の……ユウ」
声をかけられて、顔を上げた。年寄りのひとりが腕を押さえて立っていた。さっき剣に薙がれた、あの男だ。指のあいだから血がにじんでいる。
「血が止まらねえ。お前さん、あの、薬……」
「あ……はい、はい、あります」
オレは腰の袋から油紙の包みを取り出した。ゆうべ爺さんの納屋で遅くまで刻んで練った、陽草の傷薬だ。震える指で傷口をあらためる。深くはない。血止めが間に合う。
「じっとしてて、ください。……しみると、思うんで」
傷に薬を押しあてて、布できつく巻く。粟粒みたいに揃った刻み、とはいかなかった。爺さんが見たら、また粗い、と言うだろう。それでもこの、こつこつ練った一包みが、いま人の血を止めている。
気づけば軽い怪我をした男たちが、何人かオレのまわりに集まっていた。
「こっちも頼めるか」
別の男が泥だらけの腕を突き出す。
「オレの脛も、擦りむいちまってな」
順に手当てをしていく。誰ももう、オレを遠巻きに見てはいなかった。丸腰でシャドウハウンドを討った、得体の知れない余所者、という、あの探るような目でもなかった。ただ傷の手当てをしてくれる、村の薬師の手伝い。――そういう目でオレを見ていた。
「たいしたもんだ」
ふいにそう言われて振り向くと、村長のオルドが立っていた。腰の曲がった体を杖にあずけて、白みはじめた空の下、細道の惨状をじっと見渡している。
「お前さんの、あの細い道の話。……ほんとうにあいつらは、走って来られなかった」
その皺だらけの声には、討伐の夜と同じ、隠しきれない安堵がにじんでいた。
「オレは……」
旗を振ったのはオレじゃない。組み上げたのは村のみんなだ。腕を張ったのも、体を傷つけたのも、この人たちだ。そう言おうとして、やめた。ここでそんな謙遜を並べるのは、かえってこの夜を水臭くする気がした。
「……みんなが動いてくれたから、です」
オルドはふん、と鼻を鳴らして、それきり何も言わなかった。ただ通りすがりに、オレの肩をいちど軽く叩いていった。ゆうべまでこの村になかった扱いだ。
袖の中でマロが身じろぎして、顔を出した。
あの林の夜の押し殺した鳴きは、もうしていない。とぼけた黒い目で、細道の泥だらけの朝を、きょとんと眺めている。……この夜、お前はいちばん最初に危険を教えてくれた。それだけでじゅうぶんだった。
誰かが井戸で水を汲みはじめた。女たちが鍋を火にかける。子供らはまだ頑丈な家に集められたまま、出てこない。じきに朝が来て、いつもの村の一日がはじまる。今日はその一日を、みんなで守り抜いた朝だった。
……オレは袖の中のマロを、そっと撫でた。夜明けはもう、すぐそこまで来ていた。