不老なのをいいことに、移りゆく世代を眺めながら辺境で気ままに過ごす 作:無性主人公広めたい
秋の雨が夜のうちにひとしきり降った。朝になると、村を囲む林は濡れた土と落ち葉の匂いでいっぱいだった。赤や黄に変わった葉が細い道へ何枚も貼りついている。
「林の岩場を、見てこい」
ガレンの爺さんは乳鉢から顔も上げずに言った。
「銀苔が切れてる」
「分かりました」
オレは籠を背負い、腰の袋をたしかめた。中には乾かした陽草の粉と傷薬。それから清い布がすこし。村の外へ出るときは持っていけと、爺さんに言われている。肩ではマロが濡れた空気を嗅いで、鼻をひくひくさせていた。
林の湿った岩には青白い銀苔がところどころ貼りついていた。前の世界の苔と違って、曇った朝でもかすかに光って見える。オレが苔を傷めないよう端から剥がしていると、マロがふいに顔を上げた。
「きゅ」
短い声だった。丸い耳が林の外――村へ入る細道が街道から折れるほうへ向いている。オレは籠をその場に下ろす。野盗が来た夜から、マロがこうして耳を立てるのを軽くは見ないことにしている。腰の袋を押さえ、木のあいだから街道をうかがった。
はじめは倒れた木かと思った。街道わきの雨水が溜まった窪みに人がうずくまっている。あの夜、野盗を待った見張り小屋からすこし北へ行った場所だ。泥にまみれた外套。片方だけの革靴。腰には折れた鞘がぶら下がっていた。
男がこちらへ顔を向けた。伸び放題の髭の奥で目だけがぎらついている。手が腰へ動いたので、オレはとっさに一歩下がった。マロも襟もとへするりと潜りこむ。だが、男の手はなにも掴まなかった。そのまま泥の上へ落ちる。
「……水」
掠れた声だった。逃げたほうがいい。そう思った。剣を持っていた人間だ。野盗の仲間でないとも言いきれない。
けれど、男の脚には外套の裾まで黒い染みが広がっていた。雨で薄まった血が泥へ細く流れている。オレはすぐには近づかず、水筒を男の手が届くところへ置いた。
「それ以上、動かないでください。……傷を、見ます」
男は水を飲みながら、怪訝そうにオレを見た。
「村の者か」
問いかけられて、ほんのすこし返事に迷った。
「……はい。たぶん」
口にしてから変な答えだと思った。男もそう思ったらしく、乾いた息をひとつ漏らす。
傷は脛の横を長く裂いていた。深さまではオレには分からない。ただ、血はまだ止まっていない。布に水を含ませ、泥をそっと拭う。男の脚がびくりと強張った。
「痛みますよね」
「見りゃ、分かる」
「……ですよね。すみません」
陽草の粉を傷へ押し当てる。ガレンの爺さんの刻みは細かい。指で広げても、粒がほとんど引っかからない。上から布を巻いてきつく結ぶと、染み出していた赤がゆっくり止まった。男が巻かれた脚をまじまじと見下ろした。
「聖癒もなしに、止まるのか」
「傷薬です。爺さんに教わって、オレが作りました」
男はしばらく黙っていた。それから、ぽつりとこぼす。
「……村に、まだ薬師がいるのか」
その言い方が妙に引っかかった。薬師がいることのほうがめずらしいとでもいうみたいだ。
「前線には、いないんですか。傷を、診る人」
「いるさ」
男は鼻の奥で笑うような息を漏らした。
「勇者様の、まわりにはな」
オレは返す言葉に迷って、籠の底の昼の黒パンを取り出した。固い塊を半分よりさらに小さく割って差し出す。
「これも。……ほんの、すこしですけど」
男はひったくるように受け取った。噛まずに呑みこみそうな勢いだったので、あわてて水をもうひと口飲ませる。急に食べると腹が驚くと、爺さんが言っていた。男は口の中のパンを水で流しこんでから、また口を開いた。訊いてもいないのに、堰が切れたみたいに言葉がこぼれ出す。
「神の癒し手は、みんな上へ取られた。俺たちみたいなのにゃ、薬も布も回っちゃこねえ」
その、俺たちみたいなの、がどういう人たちなのか。訊いていいものか迷って、オレは次の布を黙ってたたみ直した。男は街道の北へ目をやる。
「……あの戦はな。王様が、始めたんだ」
オレの手が止まった。
「魔物は、ずっと山の向こうにいた。こっちにゃ来ちゃいなかった。それを、勇者様が降りてきたから、今のうちに叩いちまえって、な」
王さま、と聞いて、あの天井の高い明るい広間を思い出す。オレをいらないと決めた場所だ。あそこで決まったことが、こんな林の外れの泥の中まで流れてきている。
「最初は、すぐ終わると思ったんだ」
男の声にすこしだけ熱がもどった。
「タカミヤ様の炎で、山がひとつまるごと焼けた。あれを見たときは、魔物なんざじきに片づくって……」
鷹宮。
あの広間でいちばん先に『炎帝』の札を取った、あいつの顔が浮かんだ。手のひらの炎を見て、子供みたいに声を弾ませていた。……あの、あかるい炎が山をひとつ焼いたのか。
「その火を、近くで見たんですか」
男はしばらく答えなかった。それから、低い声で言った。
「見たさ。……そのすぐあとだ。焼けた山の向こうから、また来やがった。タカミヤ様の隊も押し戻されてな」
男は自分の脚へ目を落とした。
「退く道にゃ、立てねえ負傷兵がいくらでも転がってた。勇者様がいくら強くたって、その後ろにいる兵まで強くなるわけじゃねえ」
オレはなにも言えなかった。噂で聞いたまばゆい勇者の話と、いま目の前で脚から血を流している男とが、どうしてもひとつにならない。
「王都まで戻れば、なんとかなるって、皆そう思ってた」
「王都は、無事だったんですか」
訊いてから、うかつだったかと思った。男は乾いた声で笑う。
「無事なもんか。着いてみりゃ、門の内も外も人で埋まってた」
男は指を折るみたいにして、ひとつずつ並べた。
「北から逃げてきた、家族。運びこまれる、負傷兵。動けねえ、荷車。宿も、納屋も、礼拝所も、寝る場所なんざどこにも残っちゃいねえ。粉も、パンも、値が上がって、それでも夕方にゃ売り切れる」
オレの手の中の半分の黒パンを男はちらりと見た。これが王都ではどれだけの値になるのか。考えてすこしこわくなる。
「聖癒は、城と勇者様がたのところから出てこねえ。俺みたいなのは、門のそばで待ってろって、それだけだ」
「待っていれば、順番が来るんですか」
「来るもんか」
男はまた鼻で笑った。
「待ってりゃ、腹が減る。隊ももう、ばらばらだ。南の町なら、まだ食い物があるって話を信じて……俺も、太い街道を歩いたのさ」
男は巻いたばかりの脚へ目を落とす。
「けど、この脚じゃ皆についていけなかった。今朝にゃ、また、ひとりだ」
「でも、この道には流れてくる人、ほとんどいませんよ」
王都と大きな町を結ぶ街道はもっと東だ。この村はそこから外れた古い脇道の先にある。宿も市場もない。行商人でもなければ、わざわざ曲がってくる理由はなかった。
「太い道は、人で詰まってた」
男は街道のほうへ顎をしゃくった。
「水を探して外れたら、荷車の轍がこっちへ続いててな。林の向こうに煙も見えた。……村があるなら、水くらいはあるだろうと思ったのさ」
轍と、煙。それだけを頼りに、ここまで。もし、この男を村へ連れて帰ったら。傷を治して、飯を食わせて、南へ送り出したら。そのさきでふと、あの脇道の先に村がある、水も薬もあると、誰かに漏らしたら。街道にあふれている人が同じ轍を辿ってくる。ひとりじゃ済まない。
この村の蓄えは冬を越すだけでぎりぎりなのだ。オレひとりを食わせてくれているのだって、余裕があるからじゃない。
塩と鉄の値上がりも、減った行商人も、村まで来た野盗も。別々に見えていた災難がこの男の歩いてきた道の上でひとつにつながっていく。あの戦はもう、王都で寝場所をなくした人や街道を歩く人から、順に押し潰している。……そのいちばん端に、この村も、オレも、いる。
オレは腰の袋から陽草の包みをもうひとつ出した。
「これ、持っていってください。布を替えるときに、傷へ」
男はそれを受け取って、じっと見た。村へ連れて帰るべき、なんだろうか。オレ自身、置いてほしいと自分から頼んだ口だ。同じ流れ者を追い返す資格なんて、ない。そう考えたところで、男のほうが先に口を開いた。
「村には、行かねえよ」
「でも、その傷で」
「俺は、南へ行く。水がありそうだから、この道に入っただけだ。日が高くなるまで、ここで休ませてもらえりゃ、それでいい」
オレは村に置いてほしいと頼んだ。この男は頼まない。同じ流れ者でも、ほしがっているものがちがった。
「傷が塞がるまで、休んだほうが」
「そこまで世話になる気は、ねえ。歩けるうちに、歩く」
そう言い切られて、どこかでほっとしている自分もいた。剣を下げた見知らぬ男を村へ連れて帰るかどうか、オレが悩まずに済んだからだ。……われながら、勝手なものだと思う。
「……分かりました。でも、もうすこしだけ休んでいってください。水も、あとすこしなら。パンも、残りを」
「変な、村のやつだな」
「よく、言われます」
男は陽が濡れた街道を乾かしはじめるまで、木に背を預けていた。残しておいた黒パンをもう一片割って渡す。顔にほんのすこし色が戻ったところで、道ばたの折れた枝を拾って、杖がわりに握らせた。男が立ち上がろうとしたので、肩を貸す。体重を預けられた途端、膝がぐらりと沈んだ。
「……すみません。オレ、力はあんまりないんです」
「見りゃ、分かる」
さっきオレが言ったのと同じ言葉をそっくり返されて、今度は男がほんのすこし笑った。つられて、オレも笑ってしまう。
しばらく休むと、男は枝を突きながら南へ歩きはじめた。村の場所は訊かなかった。名前も名乗らなかった。
「北へは、行くなよ、村のやつ」
振り返らずに、それだけ言った。肩の上へ戻ったマロが遠ざかる背中をじっと見ていた。威嚇するでもなく、鳴くでもなく。ただ、丸い耳だけを男の足音へ向けている。
納屋へ戻ると、ガレンの爺さんは空になった腰の袋を見て、眉を寄せた。
「銀苔は」
「採ってきました」
「傷薬は」
「……使いました」
爺さんはそれ以上なにも訊かなかった。新しい陽草の包みを作業台の端へ置き、顎で水桶を示す。
「手を洗え。薬に泥を入れるな」
「はい」
水桶へ向かいながら、自分の手を見る。土を拭ったはずなのに、爪の奥には街道の泥がこびりついていた。
遠かった戦の泥が、オレの爪のあいだに黒く残っていた。