不老なのをいいことに、移りゆく世代を眺めながら辺境で気ままに過ごす 作:無性主人公広めたい
秋が深まって、朝の霜が畑の畦を白く縁取るようになった。街道ぎわで傷ついた男を手当てした日から、もう十日ほどが過ぎている。爪の奥に残っていた泥はとうに落ちたのに、ふとした拍子に、あの男の脚の傷と、南へ遠ざかっていった背中を思い出す。
別々に見えていた災難がひとつの道の上でつながって、そのいちばん端に村もオレもいる。あの日そう思ったことが、まだ胸の底に小さく沈んだままだった。
でも、村の朝は、そんなオレの都合とは関わりなく回っている。
刈り入れの済んだ畑では、村じゅうの家が入り混じって冬支度の追い込みにかかっていた。麦はとうに刈り終え、いまは脱穀のあとの藁を束ね、根菜を掘り上げ、家畜の囲いを繕う。手の空いた者が総出で、隣の家の分まで一緒くたに片づけていく。オレも籠を背負って、掘り上げた芋を穴蔵へ運ぶ列に混じった。
「ユウ、そっちの籠、そこ置いといてくれ。重いのは、あとでおれが運ぶ」
畑の向こうからハーロが声を張った。テオの父親だ。丸太みたいな腕で藁束を三つまとめて抱え上げている。オレが同じ数を抱えようとして半分で膝が笑ったのを見て、ハーロは鼻で笑った。
「無理すんな。お前は数を運べ。力のいるとこは、こっちだ」
「……はい。すみません」
「謝んな。お前にゃ、お前の持ち場があんだろ」
ハーロはもう背を向けている。力仕事はてんで駄目だ。それでも、こうして当たり前に用を振られるのが少し前までは考えられなかった。汗で顔に貼りつく髪を革ひもの結び目ごと押しあげて、オレはこっそり息をつく。この一年で肩を越すまで伸びた髪も束ねてしまえば村の誰とも変わらない。
今年の冬支度は例年より念入りだと、誰かが言っていた。行商人の足がめっきり細って、塩も鉄も向こうから買うのが難しくなったらしい。だから採れるものは採れるだけ穴蔵へ、というわけだ。街道の向こうで何かが起きていることは村の誰もがうすうす感じている。口にしないだけだ。オレもまた、あの男から聞いた話を思い出しかけて、やめた。考えたところで、いま手の中にあるのは芋の籠だけなんだから。
「マロー!」
畦の向こうから、甲高い声が三つ、いっぺんに飛んできた。
テオを先頭に、ミラとコルが芋の畝を飛び越えてくる。村長の孫のミラと、いつもの遊び仲間のコル。三人はこのごろ、いつも連れ立っている。
「きょうは、いる? ねえユウ、マロ、いる?」
「いるよ。それとな、見せたいものがある」
腰に下げた竹筒の蓋を開けて、曲げた竹の輪を液に浸した。前の世界ではシャボン玉と呼んでいた。夏祭りで子供が追いかけまわす、虹色の丸い泡だ。灰汁で手を洗っていたとき、指のあいだに泡がぷくりと膨らんだのを見て思いついた。あれが、この世界でも作れるんじゃないか、と。灰汁と獣脂を煮詰めただけではすぐ割れたが、蜂蜜を少し垂らしたら、急に膜が保つようになった。
ふっ、と吹く。
竹の輪の先から、シャボン玉がひとつ、ぽうっと浮き上がった。秋の低い陽を受けて、球の表面に畑の景色がゆがんで映っている。金色の麦殻と、青い空と、こっちを見上げている子供らの顔。球はゆっくり、風に乗って宙へのぼっていく。
三人が息を呑んだ。
「――きれい」
テオが、ぽつりとつぶやいた。
「ユウ、これなに? どうやってやるの?」
「シャボン玉っていうんだ。こうやって輪っかを液に浸して、ゆっくり、そうっと息を吹きかける。強く吹くと割れちゃうから、ふう、って、やさしくな」
名前より、やり方のほうが気になるらしい。ミラが最初に動いた。
「あたしが先!」
「ずるいぞ!」
ミラとコルが同時に走り出す。ミラが先に指を伸ばした。そうっと近づけたのに、触れた瞬間、ぱちん。シャボン玉が跡形もなく弾けて消えた。
「……え? 消えた」
ミラが自分の指先を見つめている。ついさっきまで虹色に光っていたものが、指先に何も残さず消えた。コルも足を止めて、ミラの濡れた指先を覗きこんでいる。
「なんで消えるんだよ」
「泡だからな。触ると割れる」
「じゃあ、さわれないの?」
「さわれない」
コルが妙な顔をした。きれいなのにさわれない。それがどうにも腑に落ちないらしい。
「もう一個! ユウ!」
ふたつ、みっつ。秋の光のなかをシャボン玉が畑の上をゆっくり漂っていく。子供らが畝を飛び越えて追いかけた。声を聞きつけて、他の家の子供らも走ってくる。気づけば七つ八つの小さな頭がオレのまわりに集まって、めいめいに泡をねだって大騒ぎだった。
畑のむこうで手を止めたハーロが、のしのしと近づいてきた。
「なんだそりゃ」
「泡です。吹くと飛びます」
「おれにもやらせろ」
ハーロが竹の輪を受け取って、ふうっと吹いた。力いっぱいだ。ぼとっ。液の塊が地面に落ちて、子供らがどっと笑った。
「っ……もう一回だ」
「ゆっくり、そっとです。息をやさしく」
二度目。今度は慎重に、唇をすぼめて細い息。ハーロの唇の先から、不格好だけど大きな球がぶるんと膨らんで、ゆらゆらと宙へのぼった。ハーロが自分の飛ばした球を見上げて、目を丸くしている。
「……どうなってんだ、こりゃ。お前、変なもん作るな」
呆れた声だったが、ハーロの目はまだ宙の球を追っている。あの腕から虹色の球。
「父ちゃんすげえ!」
テオが跳ねた。
「あたしにも吹かせて!」
ミラが竹の輪をひったくると、頬をぱんぱんに膨らませて吹いた。力みすぎて小さいのがぼとりと落ちる。
「もっとやさしく。ふう、って。そうっとだ」
ミラが唇をすぼめて、おっかなびっくり息を吐いた。竹の輪の先に、指先ほどの小さな球がぷるんとできて、ゆらゆら宙へ浮いていく。
「……できた」
ミラが声をひそめて、自分の飛ばした球を目で追っている。さっきは触って割ったのを、今度は自分で飛ばした。
コルが竹の輪に手を伸ばし、テオはその隙にマロを抱え上げた。竹の輪がつぎつぎに手を渡って、虹色の球があちこちに浮かんだ。
テオの腕のなかから、マロがのそりと顔を出して、ふわりと寄ってきたひとつに鼻を寄せた。ぱちん。
「きゅ!?」
目を丸くして後ずさるマロに、子供らがまた笑う。芋を運んでいた大人たちも何人か足を止めて、ゆっくり流れていく球を目で追っていた。
戦の役にも、薬の足しにもならない。腹が膨れるわけでもない。ただの泡だ。
でも、みんな笑ってる。それだけで、少しうれしかった。
子供らがかわるがわる泡を吹いているところへ、テオの父親のハーロが家のほうから大鍋を提げてやってきた。その少し後ろを、テオの母親のマレナが器を重ねた籠を抱えて歩いてくる。共同作業の日は、女たちが交代で汁を炊いて畑まで運ぶ。
前なら大鍋のひとつくらい自分で持ってきそうな人だが、このごろはハーロがそういうものを持たせない。マレナ本人は不服そうにしているけれど、ゆるく前掛けを結んだ腹は、秋のはじめより少し目立っていた。
「あんたたち、遊んでないで、器を並べな」
素っ気なくそれだけ言って、マレナはオレの前にも黙って一杯よそってくれる。泡がひとつ、マレナの肩先をゆっくり通り過ぎた。マレナはちらりとそれを見たが、何も言わない。ほかの誰より、ほんの少しだけ、具が多い気がした。礼を言うと、マレナは目も合わせずに椀を押しつける。
「……テオが楽しそうにしてた。お礼だよ」
そう言って、さっさと背を向けてしまう。ぶっきらぼうな声の裏にそういう不器用な世話焼きがあるのは、この村に置いてもらってから、だんだん分かるようになってきた。
温かい汁が冷えた指の先までしみていく。城を出されたあの日、施しの飯すら惜しまれたことを思えば、これは施しじゃない。働いた分の当たり前の一杯だ。オレはもう、この畑の景色の余所者じゃない。そう思うのは、まだ少しくすぐったかった。
*
日が傾くころ、掘った根菜のいくらかを、いつものように爺さんの納屋へ届けにいった。ガレンの爺さんは薬草を扱うくせに、自分の食い扶持の畑は持たない。だから冬支度の分け前を、こうして誰かが運ぶ。たいていは、オレの役だ。
「芋、置いときます。あと、カブも」
「……そこへ」
爺さんは乳鉢から顔も上げず、顎で棚の下を示した。相変わらず愛想のかけらもない。オレが根菜を並べていると、爺さんの手元で、乾いた根を刻む小刀の音が、ふと乱れた。とん、とん、と揃っていた刻みが、一度だけ斜めに滑る。
オレは気づかないふりをして、カブの数をかぞえなおした。爺さんも何も言わない。
しばらくして、ぼそりと、
「……冬は、指が、きかん」
とだけ言った。それが言い訳なのか、ただの独り言なのか、オレには分からなかった。ただ、この人がそんなふうに自分のことを口にするのは、めずらしかった。
「手が空いてるときは、刻み、手伝います」
「……ふん」
鼻を鳴らしただけで、爺さんはまた根に向き直る。でも、追い出されはしなかった。棚のいちばん奥の、布をかけた青い一束は、今日も名を教えてもらえないまま、暗がりで静かに冴えている。まあ、いい。急ぐ話じゃない。爺さんが教える気になるまで、通えばいいだけだ。
*
その晩は、藁の寝床で、マロと二人きりだった。
昼のあいだ、あれだけ子供らに揉みくちゃにされていたのに、マロはけろりとしている。オレの腹の上にのって、まるい体をひとつ、ぐっと伸ばした。
「お前も、すっかり村の一員だな」
話しかけると、マロは「きゅう」と、いつものように応える。いや、いつものように、じゃない。オレが何か言うと、こいつはときどき鳴くというより言葉に相槌を打つみたいな間で応える。気のせいだと、いつもは流す。でも二人きりの夜は、その妙な間がやけにはっきり分かるんだ。
「なあマロ。お前、あんまり大きくならないな」
孵ったころと、正直たいして変わっていない。子供らはこの一年で背を伸ばしたのに、こいつだけ、まるいまま、まるい。まあ、もふもふはもふもふのほうがいいけど。そんなことを考えて笑いかけたときだった。
マロが、ふいに体を起こした。
黒いつぶらな目が、ひとつの方向へじっと据わっている。窓もない納屋の、壁のほう。北だ。あの敗残兵くずれが去り際に『北へは行くなよ』と言い残した、街道のその先の方角。
昼間、子供らに撫でられていたときの、とぼけた愛玩の顔じゃない。鳴きもしない。威嚇もしない。ただ、壁の向こうの遠い何かへ、耳のひとつをまっすぐ向けている。
「……マロ?」
オレが呼ぶと、マロはようやく耳を戻して、何事もなかったみたいに、また腹の上へ丸くなった。
いまのは、なんだ。あの男の言った『北』を、こいつが分かっているみたいな。いや、まさか。獣が人の言葉を覚えているわけがない。
そう思おうとして、思いきれなかった。オレの腕のなかで、マロはもう寝息を立てている。それでも、さっき北を向いた耳の残像だけが、いつまでも消えなかった。