不老なのをいいことに、移りゆく世代を眺めながら辺境で気ままに過ごす 作:無性主人公広めたい
その年の初めての雪が夜のあいだに村を薄く白くした。
朝、井戸で水を汲む。
このごろは腹の大きくなったマレナに代わって、重い桶を運ぶのがオレの役だ。冷えた縄が指に食いこむのをこらえて、桶を提げなおしたときだった。
「ユウ、ユウっ」
畑のほうからテオが息を切らして駆けてきた。その顔を見て、続きを聞く前になんとなく察しがついてしまった。
同じころから村長のオルドは床に就きがちだった。冬支度の追い込みにも顔を出さず、代わりに息子のギレスが村を回していた。年だ、と誰もが言った。あれだけ抜け目のなかった人でも、寄る年波には勝てない。
「村長さんが……夜明けまえに」
オレは桶をそっと井戸のふちに置いた。
しばらく、白くなった畑をただ見ていた。
思い出すのは、この村に流れついた最初の日のことだ。丸腰で、素性も知れない余所者のオレをあの人は日に灼けた皺だらけの顔で値踏みして、こう言った。置いてやる、ただし飯は働いた分だけだ、使いものにならなければその日で出ていってもらう、と。
ちっとも優しくなかった。それでも、あの一言がなかったら、オレはこの冬をどこかの野っ原で凍えて越していたかもしれない。この村にオレの居場所をくれた最初の人だった。
*
弔いは村のとば口に建つ古い礼拝所で行われた。
礼拝所といっても、苔むした石を積んだ小屋みたいなものだ。この辺境には噂に聞く聖なる癒しの担い手はついぞ訪ねてはこない。だから村の弔いは昔からずっと、村の者だけで済ませてきた。
朝から村の男たちが交代で礼拝所のわきの土を掘っていた。初冬の地面は鍬の先を撥ね返すほどに凍てついて、墓穴ひとつ掘るのに半日がかりだ。洗い清められたオルドの亡骸は粗い麻の布にくるまれて、掘りあげた穴の底へそっと横たえられた。花の季節はとうに過ぎている。かわりに誰かが冬でも青いままの枝をひと束、その胸の上に置いた。
礼拝所のひびの入った古い鐘がゆっくりと三度、鳴った。村じゅうの家から人が出てきている。ハーロも、マレナも、その列にいる。林の納屋からは、薬師のガレンの爺さんまで杖をついて出てきた。いちばん年かさの婆さんが覚えているかぎりの古い祈りの言葉をぼそぼそと唱える。
オレも、みんなの後ろに並んだ。
村に流れついたばかりのころは村の寄り合いにも入れずに、壁ぎわで突っ立っているだけだった。それが今は当たり前みたいに、みんなと同じ方を向いて、同じ人を送っている。悲しいはずなのに、その事実が胸のどこかを静かにあたためた。
ひと握りの土をめいめいが順に、穴の底へ落としていく。オレの番がきて、凍えた指で冷たい土をつかんだ。ぱらぱらと麻布の上に落ちる乾いた音。それで村長のオルドは村の土へ還っていった。
土をかけ終えたあと、ギレスが皆の前に立った。
ふだんは畑の行き帰りに「よう、ユウ」と気さくに笑うあの男が今日は、別の顔をしていた。
「……おやじの代わりが、おれに務まるかどうかは、正直、分からねえ」
ギレスは太い声をいちど、切った。
「けど、村は回していかなきゃならねえ。冬は、これからが本番だ。困ったことがあったら、なんでも、おれんとこへ来てくれ。おやじがそうしてきたみたいに」
それだけ言って、深く頭を下げた。誰かが洟をすすった。
ギレスの足もとでは、娘のミラが父親の上着の裾をぎゅっと握りしめていた。父親を見上げるでもなく、ただ、握っていた。
ふん、と鼻を鳴らすあの無愛想な声をもう聞けない。そう思うと、妙な感じがした。あんなに素っ気なくされていたのに、いざいなくなってみると、村のかたちがひとつぶん欠けたように思えた。
*
オルドを送って、幾日かが過ぎたある晩のことだ。
ハーロの家の煙突から細い煙が夜まで途切れず上がっていた。女たちが湯を運び、乾いた布を抱えて出入りしている。テオは家の前で行ったり来たりしていたが、そのたびに年かさの婆さんに「邪魔だよ」と追い払われていた。
オレにできることは井戸から湯に使う水を運ぶくらいだった。桶を置くたび、家の中から低い声が聞こえる。マレナの声だ。いつもの素っ気ない声ではなく、歯を食いしばっているみたいな短く切れる声だった。
ハーロは戸口の脇に立って、割らなくてもいい薪を何本も割っていた。斧を振るたび、薪が大きく裂ける。けれどその顔は賊を迎え撃った夜よりよほど強張っているように見えた。
夜が深まったころ、家の中でひときわ大きな声が上がった。
それから、ほんの少しの沈黙。
次に聞こえてきたのは、細くて、頼りなくて、それでも村じゅうの耳に届きそうな泣き声だった。
「ユウ! ユウっ」
テオがまた、息を切らして走ってきた。ただし今度は、顔じゅうで笑っていた。
「妹だ! おれに、妹ができたんだ!」
その初冬、マレナが女の子を産んだ。
テオに手を引かれてハーロの家をのぞくと、藁を厚く敷いた寝床にマレナが横になっていた。髪は額に貼りつき、顔色もまだ白い。それでも、その腕の中だけは湯気が立つみたいにあたたかく見えた。
赤い顔をしたしわくちゃの小さな生きものが布にくるまれている。泣き疲れたのか、口だけをもごもご動かして、時々鼻で小さく鳴った。片手が布の隙間から出ていて、指は豆粒みたいに小さい。
テオがその指を得意げにのぞきこんだ。
「見ろよ。おれの指、握ったんだぜ。まだ、ちょっとだけだけど」
赤ん坊の手は握ったというより、触れたものに反射で丸まっただけに見えた。それでもテオは村でいちばん大きな役目をもらったみたいな顔をしている。
「ちっちゃいだろ。おれの手より、ずっと、ちっちゃいんだぜ」
いつもは素っ気ないマレナがその子を見おろす目だけは、信じられないくらい柔らかかった。
「……なんだい、その顔は。赤ん坊なんて、見たことないのかい」
マレナはいつもの調子でそう言ったが、オレを追い返そうとはしなかった。むしろ、ほんの少しだけ腕の角度を変えて、こちらから顔が見えるようにしてくれた。
礼を言うと、マレナは目をそらした。
「……騒がしいのが、もう一人増えただけだよ」
そう言いながら、赤ん坊の布の端を指先でそっと直す。
ハーロはその脇で、でかい図体を小さくして、生まれたばかりの娘をまぶしそうに見ている。荒れた手はマレナの寝床の端を乱さないよう、膝の上に置かれていた。テオが生まれたときも、きっとこんなふうに黙って見ていたんだろう。
一人の年寄りを送った同じ冬に、一人の子が生まれる。
村はそうやって回っていくものらしい。人が老いて、送られ、また新しい命が生まれて育ち、やがて村を回す側になる。オレはいつのまにか、その輪の内側で送る側に立っていた。
それがなんだか、じんとした。
外へ出ると、雪はやんでいた。
ギレスが村を継ぎ、爺さんは相変わらず納屋にこもっている。テオには妹ができた。
オレは、白い息をひとつ吐いて、家への道を急いだ。