不老なのをいいことに、移りゆく世代を眺めながら辺境で気ままに過ごす 作:無性主人公広めたい
朝の水路は、雪解けの水でいつもより速く流れていた。冬のあいだに沈んだ泥と石をさらうため、オレたちは裾を膝までまくり、冷たい流れのなかへ入っている。
マレナが鍬で底を崩し、オレが浮いた石を籠へ入れる。その籠をテオが岸まで運ぶ。前なら小石を二つ三つ拾っただけで飽きて、マロを追いかけていた子が、いまでは黙って何往復もしていた。
岸ではほかの村人たちが、運ばれた籠を受け取っている。
水路脇には、泥と石の詰まった籠がひとつ残っていた。オレは腰を落とし、両側の取っ手に指をかける。持ち上げると、底から濁った水が滴り、足もとの泥が沈んだ。腕にはずっしりと重さがかかったが、震えはしない。流れに足を取られず、そのまま岸まで運んだ。
受け取ろうとした男が片手をかける。重みで籠が傾き、男はすぐに両手で抱え直した。それから、感心したようにオレを見る。
「おお、こいつをひとりで運んだのか。村へ来たころは、水桶ひとつでよろけてたのにな」
そばで籠の石を脇へ積んでいた別の男も、手を止めて笑う。
「子どもにまで危なっかしいって笑われてたのが、いまじゃこの通りか。頼もしくなったもんだ」
昨夜、窓に並んだ数字は六になった。ひとつ増えただけで、急に別人になったわけではない。それでも、何年も積もった力は、村人の目にも分かるところまで来ていた。
空になった籠を抱えたテオが、岸から流れのなかへ戻ってくる。通りすぎるまえに肩のマロへちらりと目をやり、オレの隣へ並んだ。マロは見られているとも知らず、襟もとで春の日に目を細めている。
「なあ、ユウ」
「なに」
「おれ、もうお前と同じくらいだよな」
並んで立つと、たしかに目の高さはほとんど変わらない。はじめて会ったころは、オレの腰へしがみつくような小ささだったのに。
「そうだな。ずいぶん伸びた」
テオはすこし得意そうに顎を上げた。それからオレの顔をじっと見て、不思議そうに首をかしげる。
「でも、ユウはなんで変わってないんだ?」
足もとを流れる水の冷たさが、急にはっきりした。
言われる日は来ると思っていた。昨夜、自分でも同じことを考えたばかりだ。理由も分かっている。『不老』。あの札に書かれていたとおり、オレは歳を取らない。
だからといって、それをテオへ話すつもりはなかった。どう説明したところで、オレがこの世界の人間でないところから始めなくてはならない。
「おれはこんなに大きくなったのに、ユウは最初に会ったときのまんまだよな」
テオは記憶をたしかめるように言った。
鍬を動かしていたマレナも手を止め、こちらを見る。テオとオレを順に見比べたあと、オレの頬から目元までをじろじろ眺めた。
「まだ五年も経ってないだろう? 歳を取ったのなんのっていうには早いよ。けど、あんたは毎日畑に出てるくせに、肌はつやつやのままだし、その童顔もずっと同じだね」
マレナは自分の目尻を指で押さえ、すこしばかり恨めしそうに息を吐いた。
「……いいねえ。こっちは皺が増えるばかりだってのに」
気味が悪いと言われるものだと身構えていた。まさか、羨ましがられるとは思わなかった。
返事を探しているうちに、マレナは鍬の先で水路脇の石籠を示す。
「ほら、ぼんやりしてないで、それを向こうへ運びな。若い顔をしてても、手は空いてるだろ」
「……はい」
言われたとおり、もうひとつの石籠を持って岸へ向かう。
テオもそれ以上は訊かなかった。すぐに次の石へ手を伸ばしている。マレナの鍬がまた水底へ入った。
流れは一度濁り、掻き出した泥を下流へ運んでいく。
力がついたと知られても、顔が変わらないと知られても、オレの持ち場は変わらなかった。褒められて、羨ましがられて、運ぶ籠がひとつ増えただけだ。
それが、妙にありがたかった。
*
昼をすぎると、オレはいつものようにガレンの納屋へ向かった。
戸を開けるまえから、干した根の苦い匂いがする。マロは肩から棚へ飛び移ると、乾燥籠の脇で丸くなった。
爺さんは作業板の前に座り、小刀で根を刻んでいた。頬は前よりこけ、座っているだけなのに肩が小さく上下している。いつもならオレが来るまえに終えている量の根が、まだ板の半分以上も残っていた。
刃が板へ落ちる音は遅い。それでも刻みの細かさは揃っている。オレが何年かけても、まだ届かない手だ。
「手を洗え」
「はい」
水桶で指の泥を落とし、布で拭う。戻ると、爺さんは顎で向かいの板を示した。そこには乾いた銀苔と乳鉢が用意されている。
オレは銀苔を指でほぐし、乳鉢へ落とした。まず軽く砕き、粒が揃ってから力を加える。昔は早く細かくしようとして、乳棒をやたら押しつけていた。いまは急がない。急いでも効きはよくならないと、この納屋で何度も教わった。
向かいで、小刀が板を外した。
刃は根の脇を滑り、そのまま爺さんの指から落ちた。床へぶつかる乾いた音に、マロが棚の上で顔を上げる。
爺さんはしばらく、開いた自分の手を見ていた。指を握ろうとしても、半分までしか曲がらない。床の小刀を拾おうと腰を浮かせた瞬間、膝が崩れた。
オレは板を回りこみ、倒れかけた肩を抱える。驚くほど軽かった。前ならすぐに振り払われたはずなのに、爺さんの手はオレの腕へ乗ったまま動かない。
「……離せ」
声にも、いつもの力がなかった。
体を板の横へ座らせると、爺さんは背を丸めて咳きこんだ。乾いた咳が何度も続き、そのたびに薄い背中が大きく揺れる。咳が止まっても息は整わず、唇の隙間から細い呼吸が漏れていた。
オレが水へ手を伸ばすと、爺さんは目だけをこちらへ向けた。
「続けろ」
どちらの仕事を指したのか、一瞬迷った。
爺さんは顎で、床へ落ちた小刀を示した。
大丈夫ですか、と訊きたかった。けれど、そんなことを言えば、まだ動く、と意地でも立ちあがろうとする人だ。オレは何も訊けないまま、小刀へ手を伸ばした。
オレは乳棒を置き、向かいへ回る。小刀を握ると、柄にはまだ爺さんの手の熱が残っていた。
途中の根を細く割り、端から刻む。厚さがばらつけば、乾きも薬への混ざり方も変わる。刃を立てすぎず、寝かせすぎず。同じ幅を守る。
背後で、爺さんの呼吸が浅く続いていた。振り返りたいのをこらえて、手元だけを見る。刃がすこしでもずれれば、いつもの「粗い」が飛んでくる。そう思って待ったが、声はしなかった。
根を刻み終えると、銀苔と一緒に乳鉢へ移した。乳棒を回し、粉を馴染ませる。水をほんの少しずつ加えて、底から返す。色が均一になったところで、指を止めた。
「……できました」
爺さんが身を乗り出した。乳鉢の縁を指で拭い、練った薬をすこし取る。指先で潰し、鼻先へ寄せた。
「甘え」
やっぱり駄目か。
爺さんは両手で乳棒を包むと、底へ押しつけるようにゆっくり三度だけ回した。オレが滑らかになったと思った薬が、さらにひとつにまとまる。三度目を終えると、肘が板へ落ちた。
「ここまで練れ」
「はい」
たった三度で違いが出る。オレにはまだできない。教わらなければならないことが、まだ残っている。
爺さんは乳棒を置き、作業板の横へ体を預けた。オレは出来た薬を小壺へ移し、使った道具を布で拭う。それから小刀と乳鉢を、いつものように爺さんの前へ戻そうとした。
「置いとけ」
手が止まる。
「明日から、刻みも練りも、お前がやれ」
「……両方、ですか」
爺さんは鼻を鳴らした。
「聞き返すな」
それきり板へ背を預け、目を閉じる。呼吸はまだ浅く、胸がせわしなく上下していた。
数年前なら、両方を任されたと聞けばうれしかったはずだ。やっとすこし、爺さんの手に近づけたと思えたかもしれない。
けれど、いまは床へ落ちた小刀の音ばかりが耳に残っている。
この納屋には、まだ教わっていないことがいくつもある。薬の練り方ひとつでさえ、たった三度の差を埋められていない。
全部を教わる前に、爺さんがいなくなるかもしれない。
そう思うと、小刀の柄を握ったまま、しばらく動けなかった。
棚の上でマロが一度だけ、きゅう、と鳴いた。
小刀と乳鉢は、爺さんの膝ではなく、オレの前に残った。
その向こうで、爺さんの胸が浅く、せわしなく上下していた。