不老なのをいいことに、移りゆく世代を眺めながら辺境で気ままに過ごす 作:無性主人公広めたい
ガレンは、次の日から寝床を離れなくなった。
オレは村の仕事を早めに切り上げ、昼をすぎると納屋へ通った。刻みも練りも、言われたとおり一人でやる。手を動かしながら、ときどき奥の暗がりへ目をやった。藁を積んだ寝床で、爺さんは背を丸めて横になっている。息をするたび、薄い肩がわずかに上下していた。
火は絶やさないようにした。冷えると咳がひどくなる。この納屋で覚えたことのひとつだ。湯を沸かし、咳に効く草を煎じて口もとへ運ぶ。粗く挽いた麦を水に入れ、とろみがつくまで煮て、匙で少しずつ口へ入れてやる。
根を刻み、乳鉢で練り、甕の様子を見て、また刻む。ひとりでやると、一日はいくらでも足りなかった。爺さんは寝床からときどき薄目を開けて、オレの手元を見る。刻みが粗いと、寝たまま「……細けえ」とだけ言う。それでも、もう起き上がって直そうとはしない。
咳のひどい晩は、納屋に泊まった。胸の詰まりを散らす手当ても、痛む節を温める薬も、爺さんに教わったことはひととおり試した。そのあいだだけは、咳もいくらか鎮まる。けれど夜が明けるころには、また同じだった。
「爺さん。すこしでいいから、食べてください」
爺さんは目だけをこちらへ向け、鼻を鳴らした。
「……水っぽい。もうすこし、煮ろ」
小言が返るうちは、まだ大丈夫だ。オレは自分にそう言い聞かせた。
けれど日に日に、返ってくる声は細くなった。匙をつける量も減っていく。オレの煎じる草では、老いは止められなかった。
オレは歳を取らない。それでも、この手で爺さんの歳を止めてやることはできなかった。
*
幾日か過ぎた、ある夕方だった。
ガレンが暗がりから、かすれた声でオレを呼んだ。
「おい」
枕もとへ寄ると、くぼんだ目が、じっとこちらを見上げた。
「お前……変わらねえなあ」
え、と手が止まる。
「通いはじめの、はなたれ小僧のころと、おんなじ顔だ。……そういう、長生きの家系か」
半分は、独りごとのようだった。くぼんだ目は、老いた自分と変わらないオレを、ただぼんやりと見上げている。
適当に、はぐらかすこともできた。長生きの家系、で済ませておけばいい。でも、なぜだか、この人にだけは嘘をつきたくなかった。
オレは、ゆっくり口を開いた。
「……たぶん、家系とかじゃ、ないんです」
ガレンは、黙って続きを待っている。
「オレ、歳を取らないんです」
ガレンのくぼんだ目が、めずらしく大きく開いた。しばらく、オレの顔をまじまじと見ている。
「……どういうことだ」
「『不老』っていう力があるんです。歳を取らない、って。だからたぶん、この先もずっと、こんな見た目のままです」
ガレンはしばらく目を見開いていた。やがて、ようやく腑に落ちたように、ふ、と息を漏らす。それが笑いだと、遅れて気づいた。
「……たまげた。ほんとに、化けもんだな、お前は」
悪態のはずなのに、声にとげはなかった。それきり天井へ目を戻して、ガレンはしばらく黙りこむ。何かを考えているようだった。
やがて骨ばった指が、納屋のいちばん奥を示した。ずっと縄で封をされ、「触るな。寝かせてる」としか言われてこなかった、大きな甕の並びだ。
爺さんに示されたひとつへ近づき、縄をほどいて重い蓋を開ける。干した草とも土ともつかない、深くこもった匂いが立った。ふだんこの納屋で嗅ぐ、どの薬とも違う。奥のほうに、かすかな甘さがある。嗅いでいると、知らず息を詰めていた。中には乾いた薬材が、幾層にも分けて詰められていた。色の濃いもの、浅いもの、粉になりかけたもの。いちばん底の層だけが、光の差し込む加減か、うっすらと青みがかって見えた。甕の腹には、細い刻み目が縦に並んでいる。
「本来は、むやみに開けるもんじゃねえ。だが、いっぺん中を見せておかにゃ、話も入るめえ。……奥の甕は、全部お前にやる。師から弟子へ、代々受け継いできた、うちの秘伝だ。おれも、師匠から預かった。始めたのが誰かも、もう分からねえ」
声は細いのに、言葉は途切れなかった。
「日々の傷薬や毒消しは、ただの薬だ。薬草を刻んで、練るだけ。魔力なんぞ、いらねえ。お前にもできる」
くぼんだ目が、奥の甕へ向いた。
「だが、霊薬は別もんだ。薬草の力を、魔力で錬り固めて、ただの薬じゃ届かねえところまで効かせる。作るにゃ、魔力が要る。……もっとも、並の霊薬なら、ちっと魔力を注いで、少し寝かせりゃいい」
骨ばった指が、縄をかけた甕の群れを示した。
「だが、そいつは違う。……飛び切りの、最上のやつだ。本来なら、常人には注ぎ込めねえほどの、途方もない魔力が要る。おれたち辺境の薬師に、そんな魔力はねえ。だから、魔力の代わりに、時間を注ぐ。……三百年だ。魔力が一息にやることを、それだけの歳月をかけて、じわじわとやらせる」
三百年。オレは、思わず縄のかかった甕を見つめた。
「こんなものは、そうそう仕込めるもんじゃねえ。甕の腹の刻みが、寝かせた年数だ。……あと百五十年で、三百年になる」
あと百五十年。爺さんは、明日の天気でも言うように、それを口にした。
「手を抜けば、すぐ駄目になる。月が満ちるたびに、封の縄を締めなおせ。甕は、夏は日の差さねえ奥へ、冬は火のぬくもりが届くきわへ、季節ごとに動かすんだ」
節くれだった指先が、甕の腹を、ひとつ、ふたつと数えるように叩く。
「雪が解けるころに、一度だけ蓋を開けて、中を返す。上と下を、そっくり入れ替えるんだ。……手つきひとつで、百年が無駄になる。息を止めて、ゆっくりやれ。そうやって幾年も待って、色の違う層が全部崩れて、薬草ごとの色の違いも、草の匂いも消える。甕の底に、黒い粉だけが残る。……それが、仕上がりの合図だ。それまでは、混ぜるな。使うな。仕上がる前は、霊薬じゃねえ」
爺さんは、ふ、と乾いた息を吐いた。
「おれも、師匠も、そのまた師匠も、預かっちゃ、次へ渡すだけだ。三百年だぞ。……人ひとりの一生にゃ、とても足りねえ」
しわがれた声が、そこだけ、少し遠くなった。
「……仕上がったら、どんなものになるのか。それは、おれにも分からねえ。誰も見ちゃいねえんだからな。ただ、これだけのものを三百年も寝かせるんだ。……その値打ちだけは、口で言っても、信じられめえよ」
骨ばった手が、奥の甕の列を、ぐるりと示す。
爺さんはそこで息を継ぎ、目を閉じた。
「おれじゃ、見届けられん」
それきり少し黙って、爺さんは、こちらを見ずにぼそりと続けた。
「……お前なら、仕上がる日を見られるだろう」
それから震える指で、棚の布をめくった。ずっと「まだ、お前にゃ、早い」と言われてきた、あの青い一束だ。乾いてもなお、うっすらと青白い。名も、使いどきも、ぼそぼそと教えてくれた。オレは一言も聞き逃すまいと、耳を近づけた。
書きとめる紙も、字も、オレは持たない。頭と手に刻みつけるしかなかった。
あの声にこもったものだけが、それが尋常な薬ではないと告げていた。その途中の仕込みと、青い草の扱いを、この人はオレに託した。オレが歳を取らないと知って、そのうえで。
まだ練りひとつ、爺さんが仕上げにかけるあの三度の練りさえ真似られないくせに。それでも――時間なら、オレにはある。
*
その夜から、ガレンはほとんど口をきかなくなった。
明け方近く、ガレンの呼吸が一度、喉の奥で大きくつかえた。
オレは火の前から立ち上がり、すぐに枕もとへ膝をついた。
「爺さん」
薄いまぶたが、わずかに開いた。焦点の定まらない目がしばらく宙をさまよい、それからオレの顔を見つけた。
掛けた布から出ていた手を握る。乾いた指が、ほんの少しだけ握り返してきた。
「ここにいます」
ガレンの胸が、ゆっくりと一度だけ持ち上がった。細い息が、長く、喉から抜けていく。
オレは次の息を待った。
けれど、胸はもう動かなかった。
「……爺さん?」
呼んでも返事はない。手はまだあたたかいのに、握り返してくる力だけが消えていた。
死んだ。
目の前で、ガレンの爺さんが死んだ。
何日も前から、こうなると分かっていたはずだった。それでも最初に頭へ浮かんだのは、まだ、だった。
まだ三度の手直しの差を教わっていない。青い草の扱いだって、一度聞いただけだ。明日もここへ来て、また「粗い」と叱られるつもりでいた。
「爺さん。まだ、教わってないことがあるんです」
もう一度握っても、返事はなかった。
オレなら百五十年を待てると、たったさっき言われた。その爺さんには、次の息ひとつぶんの時間も、もう残っていなかった。
喉の奥が詰まって、息がうまく吸えなくなった。
棚の上でマロが身を起こした。乾燥籠の脇から下りてきて、オレの膝でまるくなる。それから一度だけ、低くはない、いつもの声で鳴いた。
「きゅう」
オレは爺さんの手を握ったまま、しばらく動けなかった。助けたかった。煎じた草も、やわらかく煮た麦も、間に合わなかった。
片方の手でマロの背を撫でる。爺さんの手に残るぬくもりと、マロのあたたかさを、どちらも離せなかった。
*
知らせは、朝のうちに村じゅうへ伝わった。
日が高くなるまえから、人が納屋へやってきた。マレナと年かさの女たちがガレンの身体を清め、持ち寄った麻布で包んだ。ギレスとハーロは鍬を持って林の際へ向かった。ハーロが土を掘る手は止まらなかった。あの手も、昔、爺さんから教わった傷薬に救われている。
ガレンを埋めたのは、村のとば口の礼拝所ではなく、この人が一生を過ごした薬くさい納屋のすぐ横だ。林のふちには、爺さんが世話をしていた薬草の床がある。銀苔の生えた湿った岩も、その先だ。ここなら、この人も、いやとは言うまい。
春の土はやわらかかった。それでも穴を掘り終えるころには、納屋の前が人でいっぱいになっていた。
村のほとんどの家から、ひとりは来ていた。鎌で切った傷に薬を塗ってもらった者。子供の熱に煎じ薬をもらった親。冬の咳を何度も診てもらった老人。親しかったわけではない。顔を合わせれば小言を食らい、煙たがっていた者のほうが多い。それでも、世話にならなかった家は、ほとんどなかった。
「……口は悪かったが、薬は効いた」
ハーロが掘り終えた鍬を土へ突き立て、ぼそりと言った。それだけだった。
礼拝所の鐘も、古い祈りの言葉もなかった。皆が順にひと握りずつ土を落としていく。テオは林で摘んだ花を置いた。マレナは何も言わず、麻布の端へついた土を最後に一度だけ払った。
土の落ちる音は、なかなか途切れなかった。
身寄りのない爺さんだった。血を分けた身内は、ついにひとりも来なかった。ひとりで納屋にこもって生きた人だ。
オレは最後に土をひと握り落とし、爺さんを村の土へ返した。
次の日から、オレはまた納屋へ通った。
刻んで、練って、甕を寝かせる。爺さんのいない納屋は、がらんとして広い。それでも、やることは変わらなかった。刻みひとつ、練りひとつ、手が迷うたびに、爺さんなら、きっと「甘え」と言うだろうと思った。それを確かめる声は、もうない。
効きの半分だと言われた刻みを、いつかあの粟粒みたいに揃えられるように。時間なら、ある。急ぐ旅でもないんだ。
その帰り道だった。
村の外れの、街道のほうがいつになく騒がしかった。土埃が高く上がっている。荷車の列と、その脇をぞろぞろ歩く人影。どれも、この村では見ない顔だった。それがいくつもいくつも、街道の向こうから村へと続いていた。
水路の水を汲んでいた村長のギレスが、手を止めて街道のほうをじっと見ていた。
「……なんだ、ありゃ。ずいぶんな、人の数だ」