不老なのをいいことに、移りゆく世代を眺めながら辺境で気ままに過ごす 作:無性主人公広めたい
水を回せ、と最初の声が飛んでからも、オレは街道の奥からしばらく目を離せずにいた。
傾いた陽の下、街道のずっと先は土埃と光に潰されて白くかすんでいる。連中の姿なんて見えやしない。見えるのは、よろめきながら村へ流れてくる人影と、その足がひきずる長い土埃の帯だけだ。それでもさっき水を乞うた痩せた男の声を落とした一言が、耳の奥にこびりついて離れなかった。
オレは隣のギレスの袖をそっと引いた。
「……ギレスさん。さっきの男が、言ってました」
村人には聞こえないよう、声を落とす。
「うしろに、奪うことを覚えた連中がついてくる、って。……たぶん、ほんとうだと思います」
ギレスの目がすっと細くなった。桶で水を回している村人たちは、まだ気づいていない。子供に椀を差し出す手はのんびりしたままだ。
「……お前も、そう見るか」
「……はい」
袖の中のマロはさっきから鼻先を群れのずっと後ろへ向けたきり動かない。甘えた声とは違う、低く短いひと声。ふだんこんな唸り方はしない。……もっとも、それは口には出さなかった。犬みたいなのが唸ってる、で済まされるだけだ。オレの目に映るのは白い霞ばかりだが、こいつの鼻はその奥のなにかを嗅ぎ当てている。
だが、いますぐ得物を提げて出ていくわけにもいかない。奪う連中と水を乞う流民とは、同じ一本の街道を流れてくる。ここで村の男たちが刃物を手に飛び出せば、疲れ果てた者のほうが先に怯えて逃げ散る。下手をすれば、逃げる人を村が追い立てる格好になりかねない。
ギレスも同じところで詰まったらしい。組んだ腕の指がいらだたしげに肘を叩いていた。
「……ユウ」
また、呼ばれた。
「あの連中、どう見る」
オレは少し考えてから、口を開いた。
「……はっきりとは、分かりません。ただ」
それでも、頭に浮かんだことを、そのまま口にする。
「逃げてくる人のうしろについて、それを離さずに追ってくるっていうなら……旗や号令で動くちゃんとした兵隊じゃ、ないと思うんです。統べる者がいたら、飢えた流民のうしろを、そんなふうにだらだら追いかけたりはしないはずなんで」
ギレスが低くあとを引き取った。
「食い詰めもんの、寄り合いだと」
「たぶん。……腹を空かせて、いちばん楽な獲物から順に手をつけてる。旗も号令もない、ただの飢えた寄り合いです」
言いながら、自分でも、うすら寒くなった。人が人を、獣みたいに狩る。……そんなことが、いまこの街道で起きようとしている。
「……だから、たぶん、なんですけど」
おそるおそる、続けた。
「あいつらは、この村を素通りはしません。統べる者がいないぶん、途中で止まらない。……小さくて逃げ場のない行き止まりの村なんて、あいつらから見れば、いちばん手をつけやすい獲物に映るはずなんで」
ギレスの喉がぐ、と鳴った。
「……で。どうすりゃいい」
「この人たちを、先に南へ送ってしまったほうがいいと思うんです。道に流民がいるうちは、村もうかつに動けないし、あいつらも、そこに紛れて近づけます。……流れが切れれば、あとに残るのは連中だけになる。そうしたら、村の入り口の、あの細い道で」
村へ入る、たった一本の細道。二人も並べば肩がつかえる。野盗を退けてからこっち、村はあの道の構えを解くどころか、年ごとに手を入れてきた。あのとき慌てて打ち込んだだけの杭も、いまは二重に伏せて、切っ先を外へ揃えてある。街道の見張りも、誰がいつ立つか決めて、暮らしのなかに組み込んである。
「……あそこで待つ、っていうのはどうでしょう。あいつらは、こんな辺鄙な村に、まさか備えがあるなんて思ってもいないはずなんで」
語尾がだんだん小さくなる。偉そうなことを、とうつむいたオレの肩を、ギレスの大きな手が軽く叩いた。
「……悪くねえ」
それだけ言うと、もう村人のほうへ向き直っていた。桶を早く回せ、動ける者から先へ、暗くなるまえに街道を空けるぞ――伝法な声が飛ぶ。オレの引いた線が、村の形へと組み替えられていく。
遠ざかるギレスの背を、オレは見送った。
追い返したところで、来るものは来る。腹を空かせたあいつらには、逃げ場のないこの村がいちばん楽な餌に映るだろう。流民がいようがいまいが、遅かれ早かれ同じことだ。
日はもう半分沈みかけていた。連中が今夜のうちに来るのかどうか、それはオレにもわからない。ただ、やれることをやっておくしかなかった。
剣も握れない。だが、いまのオレのことばは、ちゃんとギレスに拾われた。誰にでも思いつくような知恵だ。それでも、寄り合いの壁ぎわにただ突っ立っているしかなかったころとは、ほんの少しだけ違う気がした。
*
日が傾いてから、オレは薬師の納屋にこもった。
受け切ったところで、無傷では済まない。怪我人が出る。血を止めるやつを、夜のうちに多めに練っておかなきゃならなかった。
棚から乾いた陽草の束を取って、刻む。……この隣には、以前は爺さんがいた。乳鉢を動かす手も止めず、ふんと鼻を鳴らして、足りないだろうと束をもうひとつ寄越した。……あの人が、いた。
いまは、誰もいない。刻む音だけが、薄暗い納屋に落ちていく。それでも手はちゃんと覚えていた。いちばん初めに爺さんが教えてくれた、魔力もいらないただの傷薬だ。刻んで、練る。その順番だけは、いまさら間違えようがない。
袖の中から、マロが抜け出してきた。刻んだ草の匂いをふんとひと嗅ぎして、それから乳鉢のわきに、ちんまりと丸くなる。
薬を布に包んでいると、納屋の戸口にふっと影がさした。
……さっきの痩せた男だった。腕には、まだあの子を抱いている。頬は赤いままだが、さっきよりいくらか楽そうに見えた。
「……薬師さん」
「ただの弟子です」
オレはまた同じことを返した。男は包みかけの傷薬へ目をやって、それから足元に視線を落とした。
「みんな、南へ発つ支度をしてる。……けど、この子が、まだ歩けそうにねえんだ。熱が、下がりきらねえ。無理に負ぶって、街道でぶり返しでもしたら……」
言いよどんで、口をつぐむ。……熱なら、なんとかしてやれる。
男は来た道のほうへ、目をやった。声が低く落ちる。
「……さっきは、人の多いところで、言いそびれたんだが。本街道を折れる前に、いちど、うしろを見たんだ。五つか、六つ。みんな、剣を提げてた。荷を積んだ一家が囲まれて、落ちた荷にたかってた。……おれには、この子しか、なかったからな」
男は口にするのも恐ろしいというふうに、いっそう声を落とした。
「……そのなかに、ひとり、妙なのが混じってた。ぼろを着てても、提げてる剣も、身のこなしも、ほかの食い詰めとは、まるで違う。……前線あがりの、勇者様くずれだって。みんな、そう言い合ってた」
オレには土埃の奥の霞としか見えなかったもの――そのすぐそばを、この痩せた男は、子を抱いて通り抜けてきたのだ。
勇者。……その言葉を、オレは村の誰とも違うふうに知っている。北の魔物を薙ぎ払ったと、行商人が遠い噂みたいに語ってきた連中。あれは、あの日オレと一緒にあの部屋へ呼び出された顔ぶれだ。オレには回ってこなかった力を授かって、まっすぐ前線へ送られていった――同じ教室の、同じ歳の連中。
その一人が、使い潰されて成れの果てになって、いま、剣を提げてこの村へ歩いてくる。朝が来れば、あの細道の前に立つ。
……もっとも、それがあの日の、いったい誰なのかまでは、この人づての話だけじゃ、わからない。
オレは棚から熱を下げる草を手早く見繕って、別の布に包んだ。それを、男の手に握らせる。
「これを、いちど火にかけて煎じて、飲ませてやってください。すぐにとはいきませんが、夜のあいだに、熱はいくらか引くはずです。……抱いて、休み休み行けば、無理はさせずにすみます」
戸口の外は、もう日が落ちていた。
街道の先へ、オレは目を凝らす。土埃はだいぶ薄くなっていた。流民の列は、ようやく途切れかけている。
その、途切れたずっと先。夜に沈んだ街道の、はるか奥のほうで。
小さな火が、ひとつ、ふたつとまたたきはじめた。連中の姿は、もう闇に溶けて見えない。あんなに遠くで足を止めたということだけが、その火の位置で知れた。今夜はあそこで、夜を明かすつもりなのだろう。
けれど、それがいつまでかは、わからない。夜が明ければ、あの火は消え、こちらへ足を向けてくるだろう。それまでに――せめてこの一晩のうちに、村は迎える形を整えておかなければならない。
袖の中で、マロがもう一度低く鳴いた。