不老なのをいいことに、移りゆく世代を眺めながら辺境で気ままに過ごす 作:無性主人公広めたい
夜明けが、霧の向こうから薄くにじんできた。
村は、ひと晩じゅう起きていた。細道の両脇に伏せた杭を確かめてまわる手。棒きれの先を火にあぶっては、水にくぐらせる匂い。眠った子や歩けない年寄りを、いちばん頑丈な家へ移す押し殺した足音。暗いうちから、そういうものがずっと続いている。誰も、来るか来ないかは口にしない。ただ、来たときに間に合うようにと、手だけが動いていた。
オレは道のいちばんうしろ、村の内側にいた。足もとには、血を止める傷薬の包みが、いくつも積んである。ゆうべ納屋で夜どおし練ったやつだ。オレに、剣を振るう腕はない。けれど、この細道で受けるという形そのものは、ゆうべオレがギレスさんに差し出した算段から出ていた。倒れた者をいちはやくここへ引き込んで、手当てをして、生きて返す。それが、オレの持ち場だった。
すぐそばには、逃げ遅れた年寄りと、まだ小さい子が数人、身を寄せていた。テオの母のマレナも、その輪のなかにいる。腕には、いちばん小さいフェナを抱えていた。まだ二つか三つ。兄のテオのあとを、どこへでもついてまわる、あの小さいのだ。
ハーロが、焼いた棒きれを手に、細道のほうへ駆けていく。その途中でいちど足を止めて、息子を振り返った。
「テオ。母さんと、フェナを頼むぞ。……お前が、一番の頼りなんだからな」
言い置いて、ハーロは駆けていった。
テオは、唇をきゅっと結んでうなずく。まだオレとそう背丈の変わらない少年が、母と妹を背にかばうように、半歩前へ出た。……こんなときに、頼もしくなったな。
東の空が灰から薄い青へ変わったころ、袖の中でマロが低く鳴いた。く、るる、と喉の奥で鳴らす、あの声だ。ほんものが近づいたときにしか、こいつはこうは鳴かない。
霧の奥から、影がいくつも寄ってくる。ひとつや、ふたつじゃない。数えるのも追いつかないうちに、二十はくだらない人影が、腰に剣を提げて、街道いっぱいに広がっていた。朝の光が、その刃の一本一本で、鈍く跳ねる。……痩せた男の、言ったとおりだ。
細道の前に、ギレスが立った。
「悪いことは言わねえ。得物を引いて、来た道を戻んな」
影は、足を止めなかった。それどころか、どっと喚声があがって、地を蹴る音が地鳴りみたいに重なる。
ギレスの手が、すっと下がる。それが、合図だった。
先頭の男が細道へ躍りこむなり、両脇の杭がその腕をふさぎ、掘り下げてぬかるませた溝が、足をからめとった。
身動きの取れなくなったその脇腹へ、下から、ハーロの棒きれが突き上がる。続く者が前の男につまずいて折り重なり、狭い道は、二十の数を、無理やり一人ずつに削っていった。
「いてえっ……! こ、こんな村、聞いてねえぞ……!」
抵抗もできない、痩せた農民の村。そう高をくくって踏み込んできた連中が、泥と杭のあいだで口々に喚き、もがき、崩れていく。ぬかるみに沈んだ男は、起き上がれないまま後ろから殺到した仲間に踏まれ、動かなくなった。杭にからめとられた男の首すじへ、村の誰かの棒が、渾身で振り下ろされる。鈍い音とともに、噴き出した血の匂いが、朝の冷えた空気に混じった。……魔物を殺すのとは、違う。人が倒れていくこの音には、たぶん一生、慣れない。
それでも、目をそむけてはいられなかった。腕を押さえた村の男が、こちらへ引きずられてくる。オレはすぐに傷薬を裂き、深く切れたその腕に押し当てて、布できつく縛った。血は、止められる。
手当てのあいまに顔を上げ、細道の一点に目を留める。踏み荒らされて、右手の溝の水が、浅くなりかけていた。あそこを乾かれては、まずい。
「ギレスさん! 右の溝、水が引いてる!」
オレが叫ぶと、そばにいたハーロが心得たように桶を蹴り倒し、汲み置きの水をその溝へ流しこんだ。足場がまた、ぐずぐずにぬかるむ。ゆうべ、みんなで決めておいた段取りだ。
狭い道は、数が多いほど、かえって連中自身の邪魔になった。押し合い、つまずき、味方の背中に阻まれて、剣を振るう間もない。何人かが泥に沈んで動かなくなると、それを見た後ろの連中が、ひとり、またひとりと、剣を投げ捨てて逃げ出しはじめる。
分けてやった、たった一杯の水。それが、こんな形で返ってくることもあるらしい。崩れていく人影の向こうで、オレは、ほんの一瞬、そう思った。
その、逃げ惑う塊のなかに、ひとつだけ、微動だにしない影があった。いちばんうしろに立った男は、はじめから走ろうともしない。仲間が倒れていくのを、腕を組んだまま、ただ眺めている。急ぎもせず、慌てもしない。まるで、村の守りの底を測っているようだった。
その男が、ようやくこちらへ歩き出した。腰から抜いた剣を、だらりと提げて。
その、けだるげな立ち姿を見た瞬間、心臓が、大きく跳ねた。
――知っている。ゆうべ、痩せた男が言っていた、勇者くずれ。あれは、あいつだったのか。鷹宮の、すぐ隣でいつも笑っていた男だ。名前は、もう思い出せない。それでも、あの日、オレの窓を覗きこんで『いないのと同じだろ』と鼻で笑った、あの顔だけは、忘れていなかった。
そして、あいつがまっさきに奪っていった札を、オレは覚えている。
――『剣聖』。剣の技を、極める力。
その名が頭のなかで弾けたのと、村の若い衆が棒きれを構えて男の前へ飛び出したのが、ほとんど同時だった。飢えた寄せ集めの、残りかす一人。そう思ったんだろう。
「よせっ! そいつだけは、だめだ!」
叫んだ。けれど、剣聖の間合いに、オレの声なんて、まるで追いつかない。
男の腕が、動く。何が起きたのか、目には追えなかった。朝日を薙いだ一閃が若い衆の棒きれを断ち割り、返す刃が、そのまま胸を裂く。声さえ、あがらなかった。若い衆は、驚いた顔のまま、ぬかるみに崩れ落ちて、動かなくなる。
ざわ、と、村じゅうが凍りついた。
二十を受け切ったはずの細道の構えも、この一人の前では、ただの木の棒だ。村の男たちが、じり、と後ずさる。
――しかも、あいつは、まだ本気ですらない。片手間に、一人斬っただけだ。
男は、それ以上は斬りかからなかった。血の滴る剣を提げたまま、村の者を、ひとりずつ、品定めするように見渡していく。
その拍子に、朝の光が、まともにその顔を照らした。
右の目が、なかった。こめかみから頬にかけて、古い刀傷が這っている。……あの玉座の間で、得意げに札を選んでいたときには、両の目が、ちゃんとあった。英雄になるはずだったあいつが、片目を失って、こんな辺境まで、流れ着いている。
その一つきりの目が、オレの上を通った。けれど、なんの引っかかりもなく、すうっと過ぎていく。
……当然だ。いまのオレは、傷薬を抱えた、線の細い余所者にすぎない。もっとも――たとえ昔のままの姿でも、きっと同じだった。オレは、あのときから、いてもいなくてもいい人間だったのだから。
胸に残ったのは、ざまあみろという痛快さよりも、うすら寒くて、やりきれない、そんな思いばかりだった。
男は、血を払って、剣を鞘に収めた。泥に沈んだ仲間には、もう、目もくれない。
「……ちっ。存外、面倒な備えだ」
誰にともなく、男は低くつぶやいた。そして、逃げ残った数人を、顎で促す。
「引くぞ。おい、生きてるやつは来い」
備えの底を確かめて、引き上げていく――そういう、余裕のある足取りだった。次はきっと、今日みたいな寄せ集めじゃない頭数を連れて、戻ってくる。泥から這い出した数人が、あわててそのあとに続いた。男は一度も振り返らないまま、朝日の差す街道の向こうへ、消えていった。
細道の前で、村の男たちが、肩で息をしていた。誰ひとり、追いかけようとはしない。
「……行っちまうなら、それでいい」
ギレスが、棒を杖のようについて、低く言った。まだ声は少し震えていたが、それでも、まっとうな村長の声だった。
「深追いはするな。怪我人と……あいつを、先に運んでやってくれ」
あいつ、というのは、たったいま斬られて動かなくなった、あの若い衆のことだ。追い散らせたのなら、それでいい。逃げていく者の背を、わざわざ追って刺しに行く必要はない。
村が、ようやく、ほっと息をつきはじめる。怪我人のうめき、駆け寄る足音、変わり果てた仲間から、そっと目をそらす顔。夜明けが、少しずつ、いつもの色を取り戻していく。
けれど、オレだけは、その安堵の輪に入れずにいた。朝日に霞んで消えていった、あの背中のあたりから、どうしても目を離せなかったのだ。戦う術もないオレに、いったい何ができるわけでもない。……いや。ひとつだけ、ある。あいつは、オレを覚えていない。顔も、名前も。この世でただ一人、あいつが警戒すらしない相手――それが、オレだ。
あの一振りと、あの左目のぎらつきが、いつまでもまぶたの裏に焼きついて、離れてくれなかった。
袖の中で、マロが、低く鳴いた。まるで、オレの中で固まりかけている何かを、見透かしたみたいに。