不老なのをいいことに、移りゆく世代を眺めながら辺境で気ままに過ごしていたら、知らないうちにレベルが限界を振り切っていた 作:無性主人公広めたい
その足音は、止まらなかった。
下草を分ける、重い足音。それが、ゆっくりと、けれど確かに、林の奥から、こちらへ――人里の、ある方へと、近づいてくる。
人里へ出るには、この細道を通るしかない。だから、オレは、先回りして、大きな木の根方に身を伏せ、息を殺していた。
手には、鍬を、一本。畑仕事で使う、使い古しの一挺だ。振り回すつもりなんて、ない。
ただ、丸腰で魔物の縄張りに近づくのは、いくらなんでも気が引けて、納屋を出るとき、念のため、掴んできた。
……見るだけだ。倒すとか、追い払うとか、そんな大それたことは、考えていない。全ステータス、初期値のオレに、できるわけがない。
ただ、あれが、どこを通って村へ向かうのか。それさえ分かれば、明日、村の連中に、伝えられる。柵のどこを固めればいいか、どこを見張ればいいか。
知って、避ける。それだけが、オレにできる、精一杯だ。
やがて、闇が、動いた。
のそり、と、下生えを分けて出てきたのは、犬くらいの大きさの、黒い獣だった。城を追われたあの夜、遠くから見た、あの影。今度は、隠れる余裕もない距離で、はっきりと見える。
ぬめるような、黒い毛。長すぎる、四肢。落ちくぼんだ眼窩の奥で、濁った光が、ぬらりと、動く。ただの獣じゃない。あれが、魔物か。
背中を、汗が、伝った。動くな。息を、するな。頼むから、こっちには、気づくな。
黒い影は、オレの伏せた茂みには目もくれず、鼻先を、村のほうへ向けたまま、のっそりと歩を進める。寝静まった、家々の、ある方へ。
……行くな。胃の底が、すっと、冷たくなる。あそこには、まだ、みんながいる。あの子が、いる。
声を、上げようか。あれを、こっちに引きつければ、村までは、届かない。――そこまで、考えた、時だった。
風向きが、変わった。
迷う暇なんて、なかった。
黒い頭が、ぐるりと、こちらを向く。濁った眼が、まっすぐ、オレを、捉えた。喉の奥で、ぐるる、と、低い音が、鳴る。
……嗅ぎ、当てられた。
逃げる、なんて、頭に浮かんだところで、無駄だった。あの四肢だ。オレの足なんかより、ずっと速い。立ち上がった瞬間に、背中に食らいつかれて、終わりだ。
オレは、動けなかった。腰が、抜けたみたいに、力が、入らない。
老いはしないが、殺されはする。この身体は、そういう作りだ。牙を立てられれば、あっけなく、死ぬ。――こんな、ところで。
魔物が、身を、低くした。
跳ぶ。
そう思った、その刹那だった。
袖口から、マロが、飛び出した。
そして――鳴いた。
「きゅ」
いや。鳴いた、なんて、そんな、可愛いものじゃ、なかった。
それは、音として、オレの耳には、届かなかった。ただ、空気が、ぐん、と、重くなった。腹の底を、見えない手で、鷲づかみにされたみたいな、圧。離れているオレでさえ、そうだ。
魔物が、止まった。
跳びかかる、その姿勢の、まま。まるで、時間が、そこだけ、凍りついたみたいに。濁った眼が、限界まで、見開かれている。長い四肢が、小刻みに、震えている。――動けて、いない。
なぜ、とか。どうして、とか。そんなことを、考える暇は、なかった。
……動けない。マロが、止めてる。
それだけが、頭を、貫いた。
気づいたら、オレの手は、鍬の柄を、握りなおしていた。念のため、と思って、持ってきただけの、それ。まさか、こんなふうに使うなんて、考えても、いなかった、それ。
戦うつもりなんて、なかった。倒すなんて、考えても、いなかった。
でも――今しか、ない。
オレは、鍬を、両手で、握りしめて、立ち上がった。膝が、笑っている。それでも、動けない魔物へ、一歩、踏みこんだ。
濁った眼が、オレを、追う。動けないくせに、その眼だけが、ぎょろりと、こっちを、睨んでいた。
振り下ろした。
鈍く、重い手ごたえが、柄を伝って、腕に、返ってくる。刃が、黒い体に、めり込んだ。魔物が、びくりと、痙攣する。それでも、止まっている。
オレは、歯を食いしばって、鍬を、引き抜き、もう一度、振り上げた。何度、そうしただろう。数えて、なんか、いない。ただ、無我夢中で、目を、つぶって、腕を、振り下ろし続けた。
やがて、手ごたえが、なくなった。
――終わって、いた。
鍬が、手から、滑り落ちて、地面に、転がる。
黒い塊は、もう、動かない。濁っていた眼から、あの、ぬらりとした光が、消えている。あたりに、鉄くさい匂いが、満ちていた。オレの手にも、腕にも、生あたたかいものが、はねている。
……オレが、殺した。
遅れて、それが、こみ上げてきた。喉の奥が、ひくりと鳴って、胃の中のものが、逆流しかける。慌てて、口を、押さえた。
前の世界で、オレは、虫だって、まともに殺せない口だった。それが、今。この手で。
膝から、崩れる。震えが、止まらない。怖かった。死ぬかと、思った。生きて、いる。……生きて、いるのに、ちっとも、嬉しくなんて、なかった。ただ、ただ、気持ちが、悪い。
肩に、ふわりと、軽いものが、乗った。
マロだ。いつもの、まんまるの、あたたかい毛玉。さっきの、あの、腹の底を掴むような圧なんて、微塵も感じさせない、とぼけた黒い目で、オレの頬を、つん、と、つついてくる。
「きゅう」
オレは、震える声で、その毛玉に、訊いた。
「……お前、何なんだよ、ほんとに」
返事は、もちろん、ない。マロは、ただ、オレの首すじに、もぞもぞと、顔を、うずめてくる。あたたかい。その、あたたかさだけが、やけに、生々しくて。
オレは、しばらく、動けなかった。