料理はそこそこ好きだ。
外食するより安く、自分の好みに調整しやすい。どんな失敗をしても自分一人の責任だし、一日に三回は改良する機会がある。
その裏返しで他人に料理をふるまうのは少し苦手だった。というか他人に食べさせるときは妥協ができなくなってしまう。一年近く彩葉さんへ作っていたおかげで克服したけれど。
台所へ立ち、炊飯器を開ける。昨夜予約しておいた白米が、湯気を立てながら炊き上がっていた。
「……よし」
冷蔵庫を開き、中身を確認する。
野菜、肉、魚。それと冷凍食品の中から使えそうな食材を選ぶ。それも消費期限がなるべく遠い物を。自分一人で食べる時は消費期限はそこまで気にしないが、他人に振る舞うのなら意識しておくべきだろう。
作るのは私と彩葉さん、そしてかぐやちゃんの三人分。一人分増えても、手間はそれほど変わらない。
自分で食べる分と二人に食べさせる分に食材を分けて調理を始める。
取り出した包丁でまな板を叩く音が静かな家へ響いた。卵焼きを焼き、照り焼きチキンを作り、ブロッコリーを茹でながら、味見代わりのつまみ食いで簡単に朝食も済ませる。
普段からやっていることなので、手は自然と動く。
彩葉さんは大体どんな味でも美味しいと言ってくれるが、問題はかぐやちゃんだ。流石に会ってもいない彼女の好みまでは分からない。まぁ子ども向けに少し甘めへ寄せておけば、大きく外すことはないだろう。
「もう少し甘くていいか……」
照り焼きのタレの味見をして、みりんを少し追加する。
弁当箱へ詰め終える頃には、時計の針は九時を少し回っていた。
保冷剤を入れた保冷バッグへ弁当をしまい、水筒も用意する。
外を見れば眩しいほどの日差しが網膜を刺激し、窓の外からは元気な蝉の鳴き声が聞こえてきた。
「すっかり夏だ」
小さく呟きながら洗面所へ向かう。
顔を洗い、歯を磨く。一つ一つ丁寧に、十年来の付き合いである身体のメンテナンスをするように確認していく。
そこから先は、毎朝の身支度だ。
化粧水と乳液で肌を整え、日焼け止めを薄く伸ばす。下地を塗ってからファンデーションをごく薄く重ね、隈や赤みだけをコンシーラーで隠す。仕上げにフェイスパウダーを軽く乗せれば、肌の色むらはほとんど目立たなくなった。目指すべきは清潔感のある肌だ。
眉は山を作らず、平行気味に整える。目元にはブラウンのアイシャドウでわずかに陰影を足し、睫毛も軽く持ち上げて透明のマスカラで流れを整える。
フェイスラインと鼻の脇へ控えめにシェーディングを入れ、鼻筋へ少しだけハイライトを乗せる。最後に色付きリップで血色を足せば、顔は完成。
続いて髪を整える。
ドライヤーで癖を直し、少量のワックスを馴染ませる。前髪は真ん中から自然に左右へ流す。両側の髪は頬へ沿うように残し、後ろの上半分だけを軽く束ねてハーフアップにまとめる。
顔周りの髪が輪郭を自然に隠し、結んだ後ろ髪が肩口で揺れる。
男らしさも女らしさも薄い、性別への印象を曖昧にするための身支度だ。
「ん、よし」
慣れた手順なので十分も掛からない。終わらせた後の鏡の中には、
持ち物を確認してから玄関へ向かう。
「行ってきます」
誰もいない家へ一応声を掛け、外へ出る。
まだ朝と呼べる時間帯だが、すでに空気が熱い。日差しも強く、アスファルトからむっとした熱気が立ち上っている。
駅まで十分ほど歩くだけで、じんわりと汗ばんできた。
電車を降りた後は、住宅街へ入る。
休日なので人通りは少ない。犬を散歩させる人。庭木へ水を撒く人。自転車で買い物へ向かう人。
そんな穏やかな景色の中を歩いていく。
スマホの地図を確認しながら路地へ入ると、目的地はすぐに見つかった。
「ここか」
二階建ての古いアパート。
外壁は少し色褪せていて、決して新しい建物ではないが、共用部は掃除が行き届き、大小の植木鉢もきちんと並べられていた。
教えられていた部屋番号を確認し、階段を上る。
保冷バッグを持ち直してからインターホンを押した。
「はーい」
そんな返事が中からあった数秒後、ドアがバカンッと音を立てて開く。
長く金色の髪を持った少女が現れた。
多分、彼女が『かぐやちゃん』だろう。
かぐやちゃんは私の目の前まで来ると、興味津々といった様子で顔を覗き込んできた。警戒する様子はまるでなく、好奇心だけで動いているらしい。
軽く頭を下げて挨拶をする。
「初めまして、かぐやちゃん。雲居千草です」
かぐやちゃんは、私の顔をじっと見つめた。そして、何かを思い出したように目を見開く。
「——彩葉のスマホの壁紙の人!!」
「ごふっ」
「なんでよりにもよって第一声がそれなの!!」
むせた。
「げほっ、ごほっ……!」
一度咳き込むとなかなか止まらない。
変なところへ空気が入ったらしい。目尻に涙が滲み、呼吸を整えようとしても、また咳が込み上げてくる。
かぐやちゃんを追うように彩葉さんがドアから出てきた。
「かぐやあんた……千草大丈夫!?」
「げほっ……だ、大丈夫、です……」
「全然大丈夫じゃないじゃん!」
彩葉さんは慌てて私の腕を引いた。
「と、とりあえず中入って! 玄関先じゃ近所にも迷惑だから!」
そのまま半ば押し込まれるように部屋へ入り、後ろでドアが閉まる。
「……お邪魔します」
「いらっしゃい」
外の熱気とは別世界のような冷気が肌を撫でる。
ようやく咳も落ち着き、深く息を吐いた。
「それでね〜、彩葉ってばこの前スマホ見て笑――」
「蒸し返すなぁ!!」
なぜか得意げなかぐやちゃんの口が勢いよく塞がれる。
どうやら、私の写真がスマホの壁紙になっているらしい。
扱いとしては……推しのアイドルとか配信者的な、その辺りの感覚でいいのだろうか。だとしても正解の反応は全くわからないが。
喉を押さえつつ、視線を上げる。
目の前の彩葉さんは今にも穴へ飛び込みそうなくらい真っ赤になっていて、かぐやちゃんは自分の口を塞ぐ彩葉さんへ「なんで?」と言いたげに首を傾げている。
この空気の中で変に茶化しても駄目だろうし、かといって否定すれば彩葉さんが色々大変だろう。
酸欠で頭痛のする頭で精一杯考えるが…………何も思いつかない。
「……いや、確かにちょっと予想外でしたけど」
結局一番角が立たなそうな言葉を選ぶしかなかった。
「むしろ光栄ですよ……はい」
「すっごい気を遣われてる……!」
ダメだった。
彩葉さんはかぐやの口から手を放し、両手で頭を抱えてしまう。
「本人にバレた時点で恥ずかしいのになんでこうなるの……もう穴掘って死にたい」
「えっヤダ!彩葉が死んだら配信できないじゃん!」
「じゃあ死なない」
「……配信?」
聞き慣れない単語に思わず聞き返す。
配信。それはかぐやちゃんがやっているのか、それとも彩葉さんも一緒なのか。
そんな私の疑問に答えたのはかぐやちゃんだった。
「ツクヨミのヤチヨカップって大会に優勝したらヤチヨとコラボできるから、そのために二人で配信やってる!!今8000位!!」
「……なるほど」
非常にざっくりとした説明だが、優勝を目指して二人で配信を続けていることは理解した。
「彩葉さん……壁紙の件は後でいいので、一つだけ言わせてください」
「な、なに?」
「あなたアホですか!?」
「なんで!?」
「無茶したまま新しいこと始めたら全部だめになりますよ!!どうせバイトも減らしてないんでしょう!!」
「……減らしてないけど、そんなに無茶してないって」
「昼休みになるたび机へ突っ伏して寝てる人が何を言いますか!?」
「うっ」
言葉に詰まる。図星らしい。
……まぁ
どうせかぐやちゃんに頼まれたのだろう。彩葉さんは自主的に発信するタイプではないし、逆にかぐやちゃんはそういう事を積極的にする気質に見える。
なにより彩葉さんは
あまりにもチョロい。本人は否定するだろうが、充分チョロい。
だがきっかけはかぐやちゃんでも、最終的に結論を出したのは彩葉さん。たとえ彼女が途中でパンクして倒れようが、私に止める権利はない。
——ならば私はこうするべきだろう。
覚悟を決めるて、かぐやちゃんを見つめる。
「……かぐやちゃん」
「ん?」
「私がスポンサーになります」
止められないなら、せめて負担だけでも減らす。それが今の私の妥協案。
「あなたの配信をぜひ手伝わせてください」
「——マジ!?やったー!」
かぐやちゃんが飛び跳ねて、その勢いのまま私の手を取った。
白くきめ細やかで温かいお姫様のような手。お転婆お姫様のような見た目そのままに、全身で感情を表現する子らしい。
……なるほど、彩葉さんが彼女のお願いを断れない理由が少しだけわかった気がする。
そして、その隣から返ってくる言葉も、大体予想はついている。
「駄目。かぐやのパートナーとして断らせてもらう」
「え〜なんで?彩葉の友達なんでしょ?」
「そういう話じゃない……というか友達だからこその話」
彩葉さんは首を振る。
「コラボとかで少し手伝ってもらうならまだしも、スポンサーってなるとお金も責任も関わってくる。友達とそういう関係を持ちたくない」
そこまで言ってから、真っ直ぐ私を見る。
「それに、そこまで助けてもらったって私たちには返せる物なんてない。結局、一方的に支えてもらうだけになる。だから駄目」
うん、知っていた。彼女がそう答えることぐらい。
酒寄彩葉という女性は、誰かに頼るということが酷く苦手な人だ。それが生来のものか後天的なものかまでは分からないが。
「彩葉さん、私があなたのお弁当を作ってる理由を覚えていますか」
「……私に、元気でいてほしいから」
「そうです、いつも頑張りすぎる彩葉さんに、それでも元気でいてほしくて作っていました」
——お金と責任?そんなもの私たちの関係に最初から備わっている。
「なのに彩葉さんが体を壊したら、やったこと全部無駄になるじゃないですか」
——だからこれは彩葉さんのためじゃない。
「全部私のためです……私のために二人を手伝わせてくれませんか」
「……」
彩葉さんは何も返さない。
ただ、困ったように唇を結んだまま俯いていた。
「それでも納得しないなら、私にも考えがありますよ」
なるべく使いたくはなかったが……切り札を切らせてもらおう。
「……何?」
「壁紙」
「ぎゃっ」
「彩葉が死んだぁ!?」
よし、勝った。