「彩葉さん彩葉さん。倒れてるところ悪いですけど、パソコン使わせてくださいな」
目を開けると、千草がこちらを見下ろしていた。
さっきまで机に突っ伏していたはずなのに、いつの間にか床へ転がされている……いや、自分から転がった気もする。
「……そこにあるけど」
まだ体を起こす気になれず、寝転がったまま机を指差す。
「いや、パスワード」
「……あー、そうじゃん」
のそのそと起き上がり、机へ身を寄せる。
少しぼさぼさになった前髪をかき上げながらパスワードを打ち込むと、ログイン画面が切り替わる。そのまま渡そうとするが、千草の視線はかぐやに向いていた。
「かぐやちゃん」
「ん?」
ソファで足をぶらぶらさせていたかぐやが顔を上げる。
「持ってきたお弁当、電子レンジで温めててもらえますか?」
「りょ~」
その返事はやたら呑気だ。
かぐやはテーブルの上の弁当をひょいと抱えると、そのまま電子レンジへ放り込み、慣れた手つきで時間を合わせる。軽い操作音が響き、ほどなくして電子レンジが低く唸り始めた。
私はその様子をぼんやり眺めてから、改めて千草へ視線を向ける。
「……私のパソコンで何するの?」
「お仕事です」
千草はそう言いながら椅子へ腰掛け、開いたパソコンへ慣れた手つきでマウスを走らせる。
いくつか画面を切り替えてから、こちらを振り返った。
「私の個人口座と紐づけたアカウントを作ります。ヤチヨカップが終わるまで、買い物はそっちでしてください」
その言葉に、思わず口元が引きつる。
「お金の話かぁ……気が重い」
「他人の金で買い物できてラッキー、ぐらいに考えていいんですよ?」
「できるかそんな事……!!」
千草と千草の両親が身を削って得たお金だ。私が使うのは色々遠慮したくなる。
もうスポンサーになること自体は受け入れたし、やっぱりなしと言うつもりもないけども。
「もちろん、お金があれば絶対勝てるなんて思ってません」
千草は画面から目を離して、穏やかな口調で言った。
「でもお金で解決できる問題は、先に全部潰しておきましょう。努力や才能は買えませんが、補うための道具、環境、時間は買えますから」
「……わかってる。ヤチヨカップの優勝を目指す以上、手段は選んでられないし」
「ん、よし」
そう返すと、千草は満足そうに小さく頷く。
「それで、口座を使うにあたって条件があります。ざっくり二つ」
そして人差し指と中指を立てた。
「一つ目。配信か生活に必要な物以外には使わないこと」
スポンサーのお金を私的な遊びや贅沢へ回さない。まぁ当たり前の話だ。
「二つ目。そのルールさえ守れば私に相談無しで買っていいです」
「いいの?」
思わず聞き返す。
「ヤチヨカップが終わるまで三週間。いちいち私が許可する時間がもったいないですから」
そんな事をさらりと言われてしまう。
道理はある。千草だって常にスマホを見られるわけじゃない。必要な物を買うたび連絡して返事を待つ、その時間すら今の私たちには惜しいのはわかる。
「ちなみにその口座いくらぐらい入ってるの?」
千草は少しだけ考えるように首を傾げた。
「……中古車一台?」
「うわっ」
……あとでかぐやには、お金の使い方をもう一度話しておこう。多分欲しいと必要の区別がついてないから、本気で使い切りかねない。
そこで、ふと気付いた。ここまでお金の話をしているのに、大事な話をまだ聞いていない。
「……契約書、とか作る?」
「作りません。というか作れません」
即答だった。
「未成年が契約書を作るなら、保護者の確認が必須なんですが……できます?」
「……無理。絶対無理」
こんな契約、
「これはただの口約束です」
秘密を共有する合図のように、人差し指をそっと唇へ添えて片目を閉じる。
「さっさと人気を出して、全部返してくれたら大丈夫です」
そう簡単そうに言うのだから、思わず頬が緩んだ。
誤魔化すように、自分の頬を片手でむにと押す。
——重いなぁ
私への心配と期待の両方を、丸ごと預けられてしまった。
渡されたお金も重いし、口約束に込められた信頼が何より重い。契約書もないし保証人もいない。私の行動一つでどうにでもできる。
そんな何の担保もないまま私へ預けられた信用の重さに、ほんの少し息が詰まる。
だけど、そんなものよりも、信じてもらえたという事実の方がずっと嬉しい。こんな無防備に真っ直ぐな信頼を向けられたことなんていつ以来か。
だから裏切りたくない。彼の心配も、期待も絶対に。
じんわり暖かくなる胸を押さえて笑う。
「見てて。全部まとめて結果で返してあげるから」
千草は小さく目を細めて、微笑みを深くした。それにつられるように笑みが零れる。それだけで十分だ。
ちょうどその時、電子レンジが軽快な終了音を鳴らす。
「温まったよ〜」
かぐやが熱くなった弁当を机へ運んでくる。私たちの話の内容なんて、どこ吹く風という顔だ。その能天気さが少しだけ可笑しくて、肩の力が抜ける。
机の上へ弁当が並び、部屋には温かい匂いが広がっていく。
「……お昼にしましょうか」
「うん」
◇ ◇ ◇
「うっま!なにこれうっんま!!」
照り焼きチキンを頬張ったかぐやちゃんがキラキラと目を輝かせる。
そのまま夢中になってご飯をかき込む忙しない姿は喜びを言葉以上に伝えてきて、見ているこっちまでお腹が空きそうだ。
作った者としてこれ以上嬉しいこともそうないだろう。
「千草って料理上手いんだね」
かぐやちゃんが満足げな顔でつぶやく。
「そこそこですよ?慣れてるだけです」
料理なんて慣れと経験がほとんどだろう。長く一人暮らしをしていれば、自然と覚える。
「かぐやちゃんは?」
そう聞くと彼女はえっへん、と胸を張る。
「料理は得意だよ!彩葉だって褒めてくれたし!」
「……洗い物は誰がしたっけ?」
「料理担当と片付け担当で役割分担してるだけだから!」
むっと頬を膨らませるかぐやちゃんと、それを見て苦笑する彩葉さん。
そんな微笑ましいやり取りを眺めながら、ふと一つ気付く。そういえば、この子の名前を本人の口から聞いていない。
かぐや、と彩葉さんが呼んでいたから、私も合わせてそう呼んでいただけだ。本人も訂正しなかったので、そのままになっていた。
「今更確認なんですけど……かぐやちゃん、で合ってます?」
「そう!かぐやだよ!!」
「わぁ元気」
元気よく名乗ったかと思えば、かぐやちゃんが何か思い出したように声を上げた。
「ねぇ千草!」
そのまま私の目の前まで駆け寄ってくる。
「もう一回、手触っていい?」
「……別に構いませんけど」
右手を差し出すと、かぐやちゃんは私の手を両手で包み込むように握る。
手の甲をぺたぺたした後は指を一本ずつ触っては曲げ、掌をひっくり返してじっと見つめる。そしてまた手の甲を触り、指を握り、手首を持ち上げる。
私の手を両手で包んだまま、かぐやちゃんは小さく呟く。
「……やっぱり」
その一言だけ残して、じっと何かを考え込む。
「?」
首を傾げた次の瞬間だった。
すうっと私の目の前まで更に寄ってきたかぐやちゃんは、私の首へ手を伸ばす。
「え」
ひんやりした指先が喉元へ触れた。
ごく軽く撫でるように指が動き、小さな出っ張りへ触れたところで動きが止まって、かぐやちゃんの目がぱっと見開かれる。
「喉仏だ!」
「あー……」
しまった。
思わず苦笑が漏れる。
骨格も喉仏も、そこまで目立つ方ではない。服装や化粧で誤魔化せる範囲だと思っていたが、直接触られれば流石に隠しようがない。
とはいえ、積極的に隠しているわけでも、絶対に秘密にしたいわけでもない。ただ余計な面倒事を増やしたくない。それだけだ。
「……どうしましょう?」
私一人なら軽く口止めをお願いして終わりにするが、問題は相手がかぐやちゃんだということ。彼女は彩葉さんと暮らしていて、ここは彩葉さんの家だ。
勝手に判断するのも違う気がして、私は隣へ視線を向けた。
彩葉さんは額へ手を当て、小さく肩を落とす。
「……千草は男だよ」
「やっぱり!」
「でも誰にも——」
「初めて見た!」
「……特に配信じゃ絶対に——」
「彩葉と全然違う!」
「……ごめん。あとでちゃんと言い聞かせる」
「お願いします……」
彩葉さんはため息をついた。
今のかぐやちゃんに何を言っても届かないと思ったのだろう。
かぐやちゃんはそのまま遠慮なんて知らないように二の腕をむにむに、肩をぺしぺし、お腹をつんつん。子供に珍獣扱いされている気分だ。
まぁ、楽しんでいる本人に悪気は欠片もなさそうだし、私も嫌ではない。
なので好きにさせていると、隣から静かな声が飛んできた。
「かぐや」
「ん?なぁに彩——」
かぐやちゃんが私越しに彩葉さんを見る。
その瞬間。
「……」
かぐやちゃんの手がぴたりと止まり、そっと私の肩から離れた。
変なものでも見たのかと思ったが、周りを見てもそれらしき何かはない。彩葉さんだって穏やかに笑っているだけだ。
「……千草」
「?」
「もう少し距離感考えた方がいいよ」
「はぁ」
とりあえず頷いておく。
一方のかぐやちゃんは、今度は手を出す代わりに少しだけ身を引いた。
しかし興味はそのままらしく、今度は私の顔をじっと見つめ始め、額から目元、鼻筋、口元へと、視線が移っていく。
「顔だけだと全然わかんない」
「今の時代、性別だって化粧である程度作れますからね」
「へ~……すっぴん見せて?」
「嫌です」
「なんで!?」
「
彩葉さんの家に普段使いしている化粧道具は当然ない。
そうなると彩葉さんのを使うことになるが……他人の化粧品を使うのは色々と気まずい。そのうえ彩葉さんと私はそもそもの肌質が結構違う。そこは決して埋められない男女差の一つだ。
「今度ちゃんと道具を持ってきた時に見せてあげますね」
そういうとかぐやちゃんは、ぱっと花が咲いたような笑顔になる。
「ほんと!?絶対ね!?」
反応があまりにも素直で、思わずその頭を撫でてしまう。半分無意識の軽率な行動だったが、かぐやちゃんは嫌がるどころか嬉しそうに目を細めた。
……可愛い。すごい可愛い。前世で枯れたと思っていた母性がじわじわ湧き上がってくる。
「二人とも」
静かな声が割って入る。
「ご飯、冷めるよ」
「あ」
そういえば、まだ食事の途中だった。
慌てて箸を取り直すが……気のせいだろうか。さっきの彩葉さんの笑顔が、普段のそれとは少しだけ空気が違うような……撫でる前に許可を取るべきだったのか?
それからは他愛もない話をしながら、三人で箸を動かした。
途中、かぐやちゃんが彩葉さんの照り焼きを奪おうとして軽く叩かれたり、私の弁当の卵焼きをねだってきたりもしたけれど。
そんな騒ぎも含めて、昼食は最後まで賑やかで。気付けば弁当箱はどれも綺麗に空になっていた。
「……ごちそうさまでした」