翌日、私の自宅。
昼過ぎに、玄関の呼び出し鈴が鳴った。
モニターに映っていたのは宅配便の配達員だった。小さな段ボール箱を一つ抱えて立っている。
『雲居千草さんにお届け物が』
「あ、今開けます」
モニター越しに短く返事をして、解錠ボタンへ指を伸ばす。
このマンションはセキュリティがしっかりしていて、外部から来た人はエントランスで一度止まる。中へ入るには、住人か管理人の許可が必要だ。
エントランスのロックを解除すると、しばらくしてもう一度呼び出し音が鳴った。
扉を開けると、先ほどの配達員が用紙を差しだしてくる。
「ここにサインお願いします」
念のため宛名を確認したうえで名前を書いた。
「できました」
「はい、確かに……ありがとうございました」
そして扉が閉まる。
腕に収まった箱は、拍子抜けするほど軽い。
「……連絡しとくか」
スマホの連絡先を開き、彩葉さんの名前を選んで通話を掛ける。
数回の呼び出し音が鳴った後、聞き慣れた声が返ってきた。
『……はい、もしもし』
「彩葉さん。今、大丈夫ですか」
『千草?どうしたの?』
「スマコン、届きましたよ」
『あ、もう届いたんだ』
少しだけ意外そうな声。
『昨日の今日なのに、早いね』
「物流業界に感謝ですね」
『だね……それで、スマコン手に入れた感想は?』
「……こんな軽くて十二万円かぁ、という感じです」
『うちのバカがごめんなさい』
「いや、好きに使えと言ったのは私ですよ」
『でも、人の財布で十二万……家賃三か月分……ほんっと申し訳ない……』
彩葉さんが呻き始めてしまった。
これ以上気にするなと言っても余計に気まずくなりそうだ。
「……それはそうと、私が配信に参加するの、よく許可しましたね?かぐやちゃんから誘ってきたとはいえ部外者じゃないですか」
『まぁ千草なら変なことしないだろうし……かぐやに上目遣いで頼まれたら、つい』
「いやー……人間、可愛い子の頼みは断れませんね」
『……なら私の頼みも聞いてくれたりする?』
「もちろん」
『…………』
電話の向こうで、少しだけ沈黙が落ちる。
『……返しが慣れてて腹立つ』
「ただの年の功ですよ」
『同い年でしょ……』
彩葉さんが小さく笑う気配がした。
『まぁいいや。今日ツクヨミ来る?配信あるけど』
「行きますが……先に入っててください。初期設定とかで時間取るでしょうし」
『わかった、かぐやにも言っとく』
「はい、それじゃあツクヨミで」
『ん、ツクヨミでね』
通話が切れて部屋に静寂が戻った。スマホを伏せて段ボールに視線を落とす。
「開けるか」
カッターで封を切り、蓋を開けると中から出てきたのは、スマホより少し大きい程度のケースと、厚めの説明書だけ。
空になった箱を畳み、あとで資源ごみに出せるよう、中の緩衝材ごと壁際へ立てかけておいた。
ケースを開けると、中で光を受けたレンズが僅かに輝いた。
外見はそれこそコンタクトそのものだが、一度触れば違うと分かるぐらいには妙な硬さがあって、何か精密な機械を触っているのだと実感する。
レンズを両目に装着し、イヤホンを耳へはめる。
すると小さな音とともにレンズが淡く光って、視界の端に小さなインジケーターが浮んだ。どうやら無事に起動したらしい。
ケースを机の端に寄せつつ一度だけ深呼吸して、肩の力を抜いた。
そうして目を瞑る。
次の瞬間——意識が、ふっと現実から切り離された。
◇ ◇ ◇
「わっ」
私の視界を満たしたのは宇宙だった。
のっぺりとした闇に色とりどりの星々が輝いている。私の身体は何かに引かれるように星雲の間を駆け抜けた。
やがて、視界の先に彗星が光った瞬間、ぱしゃん、と足元で水飛沫が弾けた。
そこはどこまでも澄み切った湖の上だった。足元に広がる水面は鏡のようで、歩くたびに小さな波紋だけが広がる。湖の中心には朱塗りの鳥居と何十もの灯篭。その他に人工物は何もない。
夕焼けが空を茜色に染めていたが、それも束の間だった。まるで世界の時間を早送りされたように、夕日は地平線へと沈んで、深い紺色へと移り変わった。やがて残照さえ消えて、夜空に満月が昇る。
常世に迷い込んだか、はたまた春夢かと思ってしまう程美しい世界。
これが、仮想空間『ツクヨミ』へログインした者を最初に迎える景色だ。
この空間を何千、何万もの人々が同時に共有しているのだから、その技術の凄さは想像すらできない。
そして行く方法は、ただスマコンをつけるだけ。
「……ユーザー数が爆伸びする訳だ」
数少ない惜しむべき点は触覚と味覚、嗅覚が備わっていないことだが、それ以外は何の瑕疵もない。前世で同等の技術が現れるのは何年後になるのだろうか。
そんなことを考えながら、湖の中央に立つ朱塗りの鳥居へ向かって歩き出す。波紋とともに湖面には星明かりを砕いたような光がはらはら散った。
ふと、頭上から音が落ちてくる。
——太陽が沈んで、夜がやってきます
何かのアナウンスだろうかと思わず顔を上げると、視界の端を影がよぎった。
大きな鳥居のさらに上。満月を背にして小さな影がひらりと舞っている。白い長髪と着物を風で揺らし、こちらへ向かって軽やかに降りてくる。
そして、私の目の前まで降りてきた少女は、着地と同時に迷いなく手を伸ばしてきた。その手を取り、互いに挨拶する。
「ヤオヨロ〜!月見ヤチヨで〜す!」
「初めまして」
月見ヤチヨ。見た目は可愛らしい和装ギャルだが、れっきとしたツクヨミの管理人。そしてツクヨミのトップライバーでもある、八千歳のAIだそうな。設定もりもりである。
それとご祝儀袋みたいな髪型をしている。縁起がよさそう。
「ヤチヨさんの動画いくつか拝見しました。会えて嬉しいです」
「それは感謝感激雨アラモード!ヤッチョも頑張った甲斐があります♪……だ、け、ど、フランクに呼んでくれると、も〜っと嬉しいかな?」
「……なら、ヤチヨちゃんでいいですか?」
「うんうん、それでおっけ~!よしよししてしんぜよ〜う☆」
ヤチヨさん……ヤチヨちゃんは私の耳にかかった髪をかき上げて、頬を撫でてくる。何かを確認するように指先が一瞬だけ止まった。
「そっかー……まだ、私のものじゃないんだよね」
ツクヨミに触覚はないのに、触られた所が妙にくすぐったい。タッチ錯覚とか言ったっけ。
それにしても最近触られることが多い気がする。
距離感とか考え直すべきかと思うが、嫌な触れ方をしてくる相手は近づかせていないし大丈夫だろう。
かぐやちゃんが触れてくるのは単純な好奇心だから避ける理由はないし、目の前のヤチヨちゃんは……何かを確認しているような感じだ。身体データでも取ってるのかな?
十秒ほど触れたところで手が離され、彼女はにっこり笑った。
「改めて……仮想空間ツクヨミへようこそ!管理人の月見ヤチヨで〜す!こっちのモフモフはFUSHIだよ!私が作りました!」
「……こんにちは」
「フンッ」
ヤチヨちゃんの肩に乗る……
「こらFUSHI……さて!出かける前に、その格好じゃあつまらない!」
ブン、と音を立てて目の前に大きなウィンドウが浮き上がる。
「
ウィンドウの中には、アバターを編集するための項目がずらりと並んでいた。要はキャラメイクか。
土台こそリアルの姿だが、体格、アクセサリー、角、タトゥーなどなど自由自在……よほど特殊でもなければ理想の姿とやらになれるだろう。
「……なりたい姿、ないな」
転生してから自分の容姿とかどうでもよくなったし、ゲームも初期アバターでいいやとなるタイプなので。
とはいえ、せっかく自由に弄れるのに何もしないというのも少しもったいない。
適当にポチポチして髪を伸ばしてみたり、顔立ちを変えてみたり、現実ではまず着ることのないような派手な衣装も試してみるが……どれもしっくりこない。
「ヤチヨちゃん、アドバイスくださいな」
「ふむ、そうだね……もっと簡単に、どんな服を着たいかな?ぐらいに考えていいんだよ~」
「ほう……?」
着たい服、着たい服か。
そう考えてみれば、思ったより早く答えが出た。
「……ちゃんとした、綺麗な和装を着てみたいですね」
「おっ、いいじゃん!その意気その意気!」
和装を着るのなんて七五三、成人式、友人の結婚式ぐらい。今まで着る機会がロクになかったし、そもそも一式揃えようとすると結構高い。
だがせっかく仮想世界へ来たのだ。現実ではそうそうできないことを試してみるのも悪くないだろう。
そうと決まればあとは早い。
目の前のウィンドウを操作して、服の一覧を開くが……とにかく多い。全力でスクロールしても数秒かかる。
まぁそこまで迷う必要はない。ゴテゴテした装飾は性に合わないから、基礎はシンプルな和装で。
こだわるなら素材と色合い。紫の長着に、黒地へ黄色の花模様をあしらった襦袢。その上から薄鼠色の羽織を重ねて、腰周りの締め付けは緩く。足元は歩きやすさ優先で革のショートブーツ。
全体を同系色でまとめたシンプルな装いだが、現実で同じものを仕立てようとすると、それなりの金額になるだろう。ましてやオーダーメイドなら諭吉さんが何十枚飛んでいくか……あれ、今は渋沢栄一だったっけ?
あとは身バレ防止に、顔立ちを少しだけ女性寄りに整える。
……現実でメイクした時と大体一緒になったな。まぁ普段のメイクも半分身バレ防止用みたいなものだしいいか。
確定ボタンを押しウィンドウが閉じるのと同時に、水面に映る私の姿が着物姿へと切り替わる。
うん、悪くない。服以外はほとんど変えていないおかげか、しっくりくる。
「さて、準備は良い?」
ヤチヨちゃんの言葉に頷けば、彼女はぱん、と柏手を打った。
呼応するように朱塗りの鳥居が淡い燐光を放ち始め、鳥居の向こう側にある空間が陽炎のように揺ぐ。
「鳥居をくぐればあなたも一人の
「行ってきます」
そして、一歩踏み出した。