無職転生 ~性格改変_エンジニアリング視点での魔術構築~ 作:haru-ha
【設定について】
本作は『無職転生 ~異世界行ったら本気だす~』の二次創作小説です。
pixivに掲載していた小説(完結済)のセルフ転載となります。(所々、追記・修正しています)
以下の独自設定(IF設定)を含みます。
・原作と違って、元々存在していたルーデウスの自我は失われず、そこに「ある男」の記憶だけが継承されたという解釈で執筆しています。
・そのため、原作のルーデウスとは性格や口調、判断基準が異なります。
【注意事項】
・原作のストーリー改変(生存IFなど)が含まれる可能性があります。
・キャラの独自解釈、および設定の捏造が含まれます。
・原作全編のネタバレに配慮しておりません。
なんでも許せる方のみ、お進みください。
Side: ルーデウス
アスラ王国の王位継承戦という大きな転換点を越え、私の日常は新しい、けれど心地よいリズムで刻まれていた。
ラノア魔法大学での研究を継続し、合間を縫って龍神オルステッドとの鍛錬を行う。彼の指示による世界各地への任務をこなし、家に戻れば元気な泣き声をあげる赤子たちの世話に奔走する。正直に言って、身体がいくつあっても足りないほどの忙しさだが、不思議と心は満たされていた。
今日は三人の赤子をお風呂に入れる任務を妻たちから授かった。晩御飯の準備で忙しいらしい。
――今は全裸でお風呂場にいる。目の前には同じく全裸のパウロ、三人の赤子を大切そうに抱っこしているが、アルスは激しく泣いて暴れており、ルーシーは釣られて泣きそうになっている。ララはぼんやりしている、大物だ。
……このフォーメーションは初めてだ。パウロが、真剣な表情でこちらを見る。目を見れば何を言いたいか分かる。「どうする?」だ。
残念ながら、私が全裸で赤子を抱っこするのは難しい。腕の鱗は鋭い刃のようになっている。赤子どころか、大人でさえ怪我するほどだ。だが、アルスの暴れようは凄まじく、パウロは必死に逃げ出さないように押さえている。アルスは女の人が好きなようで、男に抱っこされると泣くのだ。一体誰に似たのだろうか……。
「魔術で洗いましょう」
「……良い案だ」
真剣な表情で頷き合う。まずは暴れているアルスだ。柔らかな水球を出して、赤子用のウォーターベッドを作る。暴れていたアルスは、柔らかな感触に安心したのだろう。膜に覆われた水球を揉んでいる。今の内だ。石鹸と水魔術で濃厚な泡を作成し、素早くアルスの身体を洗う。くすぐったいのか、アルスは笑っていた。そして素早く泡を流し、水球に乗せたまま脱衣所へ送る。エリスが身体を拭いて服を着せるためにスタンバイしているのだ。
次はルーシーだ。アルスと同様に洗う。始めは驚きで泣きそうになっていたルーシーだったが、泡で洗うとやはりくすぐったいのか、笑顔になった。泡をしっかりと流して、エリスの所に送った。
最後はララだ。ララは、私が魔術を使っている様子をキラキラとした目で見ていた。普段は大人しい子なのだが、ウォーターベッドにも大喜びで、珍しく手足をばたばたさせて暴れていた。飛ばされる泡を避けながら、すすぎまで完了させる。
これで任務完了だろう。パウロと目を合わせ、達成感を共有する。親子二代にわたって全裸で戦場に立ち、戦い抜いた。その連帯感のようなものがそこにはあった。
……だが、普段滅多に泣かないララが、お風呂から出ようとすると泣くのだ。何事かと思ったが、恐らくもう一回魔術で洗え、ということだろう。結局、あと三回はララの我儘につき合わされ、パウロと私は少しのぼせてしまったのだった。脱衣所で待つエリスたちに、湯気の立った顔でよろよろと赤子を差し出す我々の姿は、さぞ滑稽に見えたことだろう。
事務所の方では、以前リニアのツテで雇った三人のメイドたちが、試用期間を無事に終えようとしていた。
「三人とも、本当によくやってくれているよ。最初は不安もあったけれど、今では各々が十分な能力を持っていることを証明してくれたね」
私がそう告げると、彼女たちは少し照れくさそうに、けれど誇らしげに微笑んだ。
我が家の内情は少しばかりキャパシティを超えつつあった。三人の赤子――アルス、ララ、ルーシーの世話は、想像以上にリソースを消費する。お風呂に入れるだけでも、あれほど大変なのだ。
その上、アイシャも最近は事務所の管理実務に軸足を移しているため、家の中のメンテナンス機能が低下していたのだ。ゼニス、リーリャ、シルフィの三人が少しやつれて見える。家が広くなって管理面積が増えたことも影響しているだろう。
「アイシャ、どうだろう。あの三人のメイド、家の方で正式に働いてもらうことにしたいんだが」
「あ、それ大賛成!実は私も、お兄ちゃんの仕事を手伝いながら家の掃除までやるのは、ちょっと限界かもって思ってたところなの。彼女たちならお母さんの教育も受けてるし、安心だもん」
こうして、三人のメイドはグレイラット邸の専属スタッフとして異動することになった。道場として使っている区画の二階に従業員用の部屋を作っておいて良かった。
空いた事務所の管理については、ロキシーが魔法大学から優秀なインターン生を紹介してくれた。
「追加でこれだけの給金を払うと言ったら、彼、二つ返事で飛びついてきましたよ」
ロキシーが苦笑いしながら教えてくれた通り、その学生は驚くほどの熱意で仕事に取り組んでいる。対価によるモチベーションの向上。実に分かりやすい、合理的な解決策だ。
そんなある日、事務所にいた私のもとにオルステッドから依頼が入った。
「アスラ王国、王都アルスに向かえ。そこで再起不能の大怪我を負った冒険者が運び込まれるはずだ。そいつを治癒しろ。将来的に助けになる男だ」
「承知しました」
王都アルスへの出張。
私はふと、以前アリエル女王から言われていた言葉を思い出した。「王都に来た際はぜひ顔を見せてほしい。できれば、シルフィかノルンを連れてきてくれたら嬉しい」と。
シルフィは今、赤子たちの世話で家を離れられない。となれば、ノルンに声をかけてみるべきだろう。
生徒会室を訪ねると、ノルンは書類仕事の真っ最中だった。アリエルが急遽生徒会を去った後、しばらく会長職は空席だった。だが、最近ノルンがその席に座ったのだ。ノルンは初め遠慮していたが、満場一致の声におされたらしい。ノルンは、「兄さんの異名を使っているようで申し訳ないです」と言っていたが、それは違う。皆、ノルンの日々の頑張りを見ていたから賛同したのだろう。
「ノルン、忙しいところ済まない。少しの間、王都アルスまで一緒についてきてくれないか?アリエル様が君に会いたがっているんだ」
「えっ、王都へ!?……でも、生徒会の仕事が……」
ノルンはそう言って心配そうに生徒会メンバーを見遣る。
生徒会メンバーは自信をもって答えた。
「大丈夫です!大きなイベントの予定も無いですし」
「会長はいつも頑張りすぎです!たまには私たちに任せてください!」
ほらやっぱり、とても慕われている。『愛される才能』というより、『努力する才能』と言えば良いだろうか?兄としても誇らしい限りである。
「そこまで長期化する用事ではない。短期間なら、いいんじゃないか?」
そう言うと、ノルンは少し考え込んだ後、パッと顔を明るくした。
「……分かりました。私、兄さんのお供をします!アリエル様にも、ルイジェルドさんの絵本がどれだけ広まったか、直接報告したかったんです」
仕事の引継ぎをしているノルンを少し眺めながら、あちらで使う手紙を認める。
その後、共に事務所の地下へ向かった。
事務所の地下には多くの魔法陣――自前の魔力で駆動する転移魔法陣が敷かれている。
ノルンは事務所の地下室に入るのが初めてだったらしく、物珍しそうに、けれど少し緊張した面持ちできょろきょろと辺りを見渡していた。
「兄さん、ここから一瞬でアスラまで行けるんですか?」
「ああ。これまで何度も試している。座標の固定は完璧だ。行くよ、ノルン」
陣が起動し、視界が白濁する。
一瞬の後、私たちは王都アルスにある、以前アリエル様から賜った屋敷の隠し部屋へと降り立っていた。
「……本当に、着いちゃった。空気の匂いがもうシャリーアとは違いますね」
「驚いたかい?でも、感傷に浸るのは後にしよう。まずはギルドへ向かおうと思う。依頼の対象がいつ現れるか分からないからね」
私たちは屋敷を出て、王都の賑やかな街並みを歩き出した。目立たないよう、『魔神鎧』のフードを深く被る。途中で手紙を出すことも忘れない。
ノルンにとって、これほど大規模な街のギルドを訪れるのは初めての経験だったのだろう。彼女は周囲の屈強な冒険者たちの威圧感に気圧されたのか、そわそわと落ち着かない様子で私の背中に隠れるようにして付いてくる。
「ノルン、そんなに縮こまらなくても大丈夫だ。誰も君を傷つけたりはしないよ」
「分かってますけど……でも、みんな怖そうな顔をしてるから……」
少し歩きづらさを感じながらも、私はギルドの中を進んでいく。
受付に向かい、状況を確認しようとした――その瞬間だった。
「どけッ!!どいてくれ!!救急だ!!」
怒号と共に、数人の冒険者が担架を担いでなだれ込んできた。
その上に横たわる男の姿を見て、周囲の空気が凍りつく。
「ひっ……!!」
私の後ろで、ノルンが短い悲鳴を上げて顔を真っ白にさせた。無理もない。担架に乗せられた冒険者は、片手と片足を根元から失い、出血多量で死に瀕していた。鮮血がギルドの石床を汚していく。
「誰か!!治癒魔術を使える奴はいないのか!?このままじゃ死んじまう!!」
担いでいた冒険者が絶叫する。
ギルドの職員が慌てて周囲を見渡し、私と目が合った。その瞬間に彼の顔に希望が走る。
「あ、貴方は……『雷鳴』、いや、『雷神』のルーデウス様では!?お願いです、緊急事態です!その方を助けていただけませんか!?」
「……言われるまでもありません。ノルン、少し離れていて」
私は男に歩み寄り、失われた四肢の断面に手をかざした。
周囲が固唾を呑んで見守る中、私は魔力を静かに、かつ高出力で練り上げる。
今の私は帝級までの治癒魔術を習得している。失われた組織をゼロから再構成するのは、私にとってさほど難しいタスクではない。
私の掌から溢れ出した眩い光が、男の傷口を包み込んだ。
肉が盛り上がり、骨が伸び、血管が網目状に再生されていく。
わずか数十秒。
光が収まった時、そこには、失われたはずの左手と右足を完璧に取り戻し、呆然と自分の身体を見つめる冒険者の姿があった。
「な、なんだってんだ……。今、俺の足が、手が……生えたのか……?」
男は震える手で新しい足に触れ、信じられないものを見たという顔で私を見上げた。
ギルド内には、地鳴りを聞くような静寂のあと、爆発的な歓声とどよめきが沸き起こった。
「流石は雷神様だ!」「奇跡だ、本物の奇跡だぞ!!」
「……任務完了ですね。お礼はギルドの報酬から受け取ります。ノルン、行こう」
私は深々と頭を下げる冒険者や、興奮して詰め寄ろうとする職員たちを適当にあしらい、真っ青な顔のまま動けないでいたノルンの手を引いて、ギルドを後にした。
「……兄さん。やっぱり凄すぎますよ。あんな怪我、一瞬で治しちゃうなんて」
屋敷へ戻る道すがら、ノルンがようやく息を吹き返したように呟いた。
「これまでの戦いの副産物だよ。……さて、アリエル様への謁見申請は、ギルドに来る途中で既に出してある。返事が来るまでには少し時間がかかるだろう。今日はこの館で、ゆっくりと休もうか。ノルンも疲れただろう?」
「……はい。兄さんと一緒にいられるなら、私はどこでも大丈夫です」
ようやく少しだけ笑顔を見せたノルンと共に、私たちは賜った館の重厚な門を潜った。
久しぶりにこの館に入ったが、ボレアス家の伝手で管理されているため、ほとんど清掃の必要がなかった。必要なのは食料だけだな。
アリエル女王へと送った謁見申請の返答は、その日の夜に驚くほど速やかに届けられた。
「明日の午前、私室にてお待ちしております」
その簡潔な文面からは、公務の合間を縫ってでも時間を作ろうという彼女の意思が読み取れた。
その日はアリエル女王から賜った館でノルンと共に旅の疲れを癒やし、翌朝。私たちは正装に身を包み、アスラ王国の象徴である王城シルバーパレスへと向かった。
以前の騒乱の時期とは違い、城内の空気はどこか落ち着きを取り戻しているように感じられた。もちろん、すれ違う近衛騎士たちの視線は鋭いままだが、私の姿を認めるなり、畏怖と敬意の混ざった複雑な会釈を返してくる。
案内されたのは、広大な王城の中でも特に警備が厳重な、女王の私室だった。
重厚な扉が開かれると、そこには懐かしい顔ぶれが揃っていた。
執務机に向かっていたアリエル女王。そしてその傍らには、不動の姿勢で控えるルークと、見慣れた二人の侍従たちの姿がある。
アリエル女王と直接お会いするのは、彼女の戴冠式以来のことだろうか。
顔を上げた彼女は、相変わらず非の打ち所がないほど凛としていた。しかし、近づいてよく観察すれば、その瞳の奥には拭いきれない疲労の色が滲んでおり、肩のラインも僅かに重たげに見える。大国の女王という重責を背負い続けてきた代償だろう。執務机の上には、決裁待ちの書類が幾重にも積み上がっているのが見えた。
「ルーデウス様、そしてノルン。よくぞ参られました。今日は公務ではなく、私的なお茶会としてお招きしましたわ。楽にしてくださいな」
アリエルは柔らかな微笑みを浮かべながら、応接用のソファへと私たちを促した。
侍従が手際よく茶を淹れ、芳醇な香りが室内に広がる。だが、和やかな時間が始まるかと思った矢先、アリエルが意外な行動に出た。
「ノルン。……少し、こちらへ来てくださらない?」
「えっ、私ですか?」
困惑しながらも立ち上がったノルンを、アリエルは自分の隣へ座らせるどころか、そのまま彼女を自分の膝の上に乗せて抱きしめたのだ。
「あ、アリエル様!?あの、私はもう昔のように小さくありませんし、その……っ!」
大国の女王の膝に乗せられるという、あまりに非日常的な事態にノルンは顔を真っ赤にして硬直している。助けを求めるような視線が私に向けられた。
「いいのです。……今の私には、ノルンのこの無垢な温かさが必要なのですわ。ああ、とても良い匂いがします……心が洗われるようです……」
アリエルはノルンの首筋に顔を埋め……深く息を吸い込んでいる?匂いを嗅いでいるのか……ノルンの生命力を吸っているようにも見える。こんな変態チックな女王の姿など、他に見せるわけにはいかないだろう。だから、私室に呼んだのか……。
どうやら過密な公務によって彼女の精神は限界に達していたらしく、ノルンを一種の「精神安定剤」として活用しているようだ。
ノルンは「生徒会の時もたまにこうされましたけど、今は……」と小声で呻いている。たまにされていたのか……アリエルへの評価を再定義しつつ、私はその光景からそっと目を逸らし、お茶を一口啜った。女王の休息を邪魔するのは、臣下としても友人としても不合理な判断だからだ。決して、巻き込まれたくないからではない。
アリエルはノルンを抱きしめたまま、ようやく少しだけ表情を緩めて話を切り出した。
「先日……甲龍王ペルギウス様が、唐突にこの城を訪れましたのよ」
私は驚きに眉を上げた。
「ペルギウス様が、自ら地上へ?いったい何の用件だったのですか?」
「ルーデウス様、貴方が私に贈ってくださった、あの彫像のことですわ」
アリエル様の戴冠式の様子を、私が精魂込めて形にした白亜の像。
それは、女王としての神々しいまでの対称性と、その内側に秘められた一人の人間としての決意や不安を、あえて細部のバランスを崩すことで表現した、私の現時点での最高傑作の一つだ。
「あの方は、無言でしばらくその像を眺めておいででした。私はてっきり、何か不備でもあってお叱りを受けるのではないかと戦々恐々としていたのですが……。一通り検分された後、『ふん、なかなか良いではないか』と、それだけ仰って帰られましたわ」
アリエルは、その時の緊張を思い出したのか、くすくすと笑った。
「それは重畳。……王位を争ったあの時は、後ほど大変怒られたと仰ってましたね」
ルークに対する処断が甘すぎるということで、何時間も一対一で詰められていたという話を聞いている。アリエルはその時のことを思い出したのだろう。顔を真っ青にして、震える手でノルンを強く抱きしめている。ノルンの口から「むぎゅ」という可愛らしい声が漏れる。アイシャそっくりだ。
「あのときのことは、今も夢に見ますわ……『甘い処断をする女王』として貴族たちを油断させた後、税金を無駄遣いする貴族を炙り出して追放して、ようやくお許しいただけたので……」
ルークを見遣ると、先ほどまでの凛とした雰囲気はどこへやら、すぐにでも五体投地しそうなほど落ち込んだ顔をしていた。……まぁ当然だろう。処刑されないだけで、奇跡と言っても良い立場だ。周りの侍従たちからも目線も険しい。
「……ペルギウス様は、その彫像を余程お気に召したのでしょうね。何でも、その後は王都にあるボレアス邸にまで足を運ばれ、そこに飾られているギレーヌ様の像も見に行かれたそうですわよ」
「……あちらへも行ったのですか」
「ええ。フィリップもヒルダも、伝説の英雄の突然の来訪に、生きた心地がしなかったと仰っていましたわ」
そんなペルギウスの意外なフットワークの軽さに、私も思わず頬が緩んだ。長い時間を生きてきた龍王が、律儀に彫像巡りをしている姿を想像すると、どうにも微笑ましい。
話題は、現在の私の活動状況へと移る。
「ルーデウス様。貴方が龍神オルステッド様の依頼で、世界各地を奔走していることは聞き及んでいます。……昨日はギルドで、再起不能と言われた冒険者を救ったそうですね?」
「はい、流石の情報収集速度ですね。龍神の指示でした。……彼が将来、何らかの形でオルステッドの助けになるようです。治癒は無事に完了しましたので、私の今回の任務はこれで終わりです。明日、シャリーアに戻るつもりですよ」
「そうですか。……もう戻られてしまうのですね」
アリエルは少し寂しげに呟き、ノルンを抱きしめる腕に力を込めた。ノルンは居心地が悪そうにもじもじしているが、アリエルは絶対にノルンを離さないようだ。
「ルーデウス様。貴方とオルステッド様が動くとき、この世界は静かに、けれど確実に書き換えられていく。私はそのことに、畏怖に近い感情を抱いています」
彼女の眼差しが、女王としての鋭さを取り戻す。ノルンをぬいぐるみのように抱きしめていなければ完璧な女王だろう。
「私が即位した時のような、国を揺るがす大事件はそうそう起きないでしょう。ですが、もし世界に大きな変異の兆しが現れたなら……どうか、私に教えてください。情報の収集と分析こそが、政治の要。貴方の得た知見は、アスラ王国にとっても替えがたい資産なのです」
「……承知いたしました。オルステッドの機密に触れない範囲で、重要な情報は共有させていただきます」
私の約束を聞き、アリエルは満足げに深く頷いた。その後、彼女は再び憑き物が落ちたような顔になり、ノルンとの「充電時間」を満喫し始めた。ノルンはもはや諦めたのか、ぐったりとした様子で女王の腕の中に収まっている。
「そういえば、シルフィとのお子様はどうです?ルーシーちゃんは、もうお喋りをするようになったかしら?」
「ええ。最近では段々意味のある単語をおしゃべりするようになりました。……帰るたびに成長していて、驚かされますよ」
家族の話題になると、アリエルの顔にようやく年相応の柔らかな笑みが戻った。
いつの間にか復活していたルークが「お熱いことで」と肩をすくめ、侍従たちも微笑ましそうに私たちを見守っている。
こうして、私的なお茶会は穏やかな空気のままお開きとなった。
ノルンは解放された後、服の皺を直しながら「もう、兄さんも助けてくれないんだから……」と恨めしげな視線を投げてきたが、私は彼女の頭を優しく撫でて誤魔化した。
王都アルスの目抜き通りを、私はノルンと並んで歩いていた。
石畳を照らす柔らかな陽光と、行き交う馬車の響き。大国の首都らしい活気に満ちた光景だが、私の隣を歩く妹の横顔には、依然として消えない「不満」の影が色濃く差していた。
「……ノルン。まだ、怒っているのかい?」
「…………」
返事はない。ただ、ツンと横を向いて、私の歩幅より僅かに速い足取りで進もうとする。
理由は明確だ。昨日、アリエル女王の私室で行われたあのお茶会。疲労困弊した女王に「精神安定剤」として膝の上に乗せられ、抱きしめられ、散々匂いを嗅がれていた際、私が助け舟を出さずにお茶を啜り続けていたことを、彼女は深く恨んでいるのだ。
(……いや、流石にあれは不可抗力だろう。大国の女王にああまで切実に縋られては、一介の魔術師に過ぎない私には、見守る以外の選択肢はなかったんだが……)
とはいえ、このままではせっかくの王都出張が、兄妹の間の嫌な思い出として記憶に残ってしまう。
私は最善の解決策を講じるべく、昨日ルークと交わした会話を思い出した。
お茶会の後、私はルークを廊下に呼び止めて相談を持ちかけていた。
「ルーク。少し聞きたいんだが……この街で、女性を連れて行くのに相応しいレストランを教えてくれないか?」
私の唐突な問いに、ルークはニヤリと下卑た……いや、彼らしい軟派な笑みを浮かべて私の肩を叩いた。
「なんだルーデウス。アスラへの出張ついでに浮気か?いいねぇ、王都の女はシャリーアとはまた違った味わいがあるぞ。もし良ければ、俺の行きつけの店のいい女を紹介してやってもいいが?」
「……お前は相変わらずだな。馬鹿なことを言わないでくれ。シルフィたちに悪いだろう。不実な真似をするつもりはないよ」
私は即座に、冷徹にその申し出をリジェクトした。
「今回はノルンの機嫌を直すために使うんだ。妹として、大切に扱ってあげたいからね」
「ハッ、お前は相変わらず真面目というか、堅物というか……。グレイラットの血を引いているとは思えないほどだな」
「お前の方は相変わらず、女性の敵のようだがね。……で、場所は?」
ルークは「手厳しいね」と肩をすくめながらも、流石は王都随一の遊び人だ。自身のデート……あるいは「密会」で多用しているであろう、隠れ家的な名店をいくつかピックアップして教えてくれたのだった。
「ノルン。……ルークから、すごく美味しいと評判のレストランを教えてもらったんだ。お詫びと言っては何だけど、そこでお昼にしないかい?」
「……美味しいの?」
「ああ。ルークが保証していたよ。彼が女性を喜ばせるために、文字通り血眼で探し回った店だそうだ」
「……。……行く。お腹、空いたし」
ようやくノルンの足が止まった。
案内されたレストランは、王都の喧騒から少し離れた路地裏にある、重厚な石造りの外観をしていた。
看板は控えめだが、扉の細工や調度品からは、ここが貴族や富商に愛される「本物」の場所であることが一目で理解できた。天井から下がるシャンデリアの魔石灯が、テーブルクロスの白をやわらかく照らしている。
「いらっしゃいませ。……ルーデウス様、お待ちしておりました」
ルークからの連絡があったのだろう。私たちは奥の静かな席へと案内された。
運ばれてきたのは、アスラの伝統的な技法に現代的なアレンジを加えた、洗練されたコース料理だ。
「……美味しい。……すごく」
真っ先に提供された、地元の野菜をふんだんに使った黄金色のスープ。それを一口啜った瞬間、ノルンの強張っていた顔が、まるで魔法が解けたように柔らかく綻んだ。
私も一さじ口に運ぶ。
(……なるほど。素材の旨みを最大限に引き出しながら、バターのコクが絶妙なバランスで配合されている。ルークの舌は、女性関係以外では信頼に値するな)
メインの肉料理が運ばれる頃には、ノルンは昨日の出来事を自分から話し始めるまでになっていた。
「あのアリエル様、本当に疲れてたみたいだったから……。兄さんが助けてくれないのも、なんとなく分かってはいたんですけど。でも、やっぱり恥ずかしかったんです」
「すまなかった。……次は私が身代わりになるよ」
「兄さんが女王様の膝に乗るの?……あははっ、そんなの、気味が悪くて見ていられませんよ!」
そう言ってノルンが笑う。どうやらアリエルの膝の上に座る私を想像して、笑いのツボに入ったようだ。ようやく、彼女の中の「不満」という名のデバフが解消されたのを確認し、私は安堵の息を吐いた。
食事の後は、ノルンの買い物に付き合うことになった。
「あっちの店も見てみたい!」「兄さん、これはどう思いますか?」
完全に主導権を奪われた状態だが、私は大人しく彼女の後に付き従った。
高級な服飾店から、シャリーアでは見かけない珍しい文房具店まで。
散々街中を歩き回り、最後。私は彼女に、旅の記念として一冊の手帳を贈ることにした。
深い藍色の革表紙。そこには、王都の伝統的な銀細工で繊細な蔦模様が施されている。
派手すぎず、けれど確かな気品と実用性を兼ね備えた、ノルンにぴったりの品だ。
「これ、私に……?」
「ああ。生徒会の仕事で忙しくしている君に、相応しいと思ってね。活用してくれたら嬉しいよ」
ノルンはその手帳を、宝物のように両手で抱きしめた。
「……ありがとう、兄さん。大事に……本当に大事にしますね」
彼女の顔に、今日一番の満面の笑みが浮かんだ。
これにて、今回の「ノルン不機嫌問題」は完全に解決されたと見て良いだろう。
「……さて。明日にはシャリーアに戻るけれど。……次はシルフィも連れてきてあげたいね」
「そうですね。シルフィ姉なら、アリエル様に抱きしめられても手慣れたものですし」
「ああ。……アリエル様なら、シルフィが相手でも『充電』できるに違いないからね」
そんな平和な、けれど次なる騒動を予感させるような冗談を交えながら、私たちは夕暮れ時の王都を歩き続けた。
シャリーアの街外れに構えた事務所の応接室。窓から差し込む午後の光を浴びながら、私はのんびりとお茶を啜っていた。だが、目の前では全くのんびりとしていない二人の女性が、熱を帯びた議論を戦わせていた。
私の自慢の妹であるアイシャと、元級友で現在は不本意ながらも我が家の管理下にあるリニアだ。
「いいですか、リニアさん。私たちが運営しているこの事業は、実質的にお兄ちゃんが後ろ盾になって成立しているんです。だったら、名前はお兄ちゃんに因んだものにするのが筋というものです!」
「何を言ってるんだニャ、アイシャ!実際に現場で汗を流して、荒くれ者の獣族たちをまとめてるのはこのあちしだニャ!だったら『リニア傭兵団』にするのが商売の鉄則というものだニャ!」
二人が議論しているのは、最近軌道に乗り始めた事業――いわば「傭兵団」のネーミングについてだった。
リニアが連れてくる人材は、そのほとんどが彼女の舎弟だった獣族たちだ。彼らのほとんどは事務処理や細かい計算が壊滅的に苦手だが、頑強な肉体と高い戦闘能力を持っている。そんな彼らを、警備や護衛といった肉体労働が必要な場所に派遣する事業は、アイシャの卓越した管理能力も相まって、予想以上の利益を上げていた。
その利益の一部はオルステッドにも定期的に納められている。彼もまた、資金の安定供給という実利に加え、これまでのループでは決して存在しなかったこの組織そのものの動きを、興味深げに見ているようだった。
「ルーデウス傭兵団……うーん、響きが重厚で素敵だよね……」
「古いニャ!時代はリニア傭兵団の時代だニャ!」
机を叩いて主張し合う二人。特にアイシャは、以前よりもずっと生き生きとした表情で仕事に取り組んでいる。彼女にとって、この事務所での実務は、家庭内での家事以上に自身の才覚を存分に発揮できる場所なのだろう。兄としては、その輝くような笑顔を見ているだけで、ここを作った甲斐があったというものだ。茶菓子をつまみながらそう考える。
そこへ、一人の獣族の青年が遠慮がちにドアをノックして入室してきた。
「失礼します、旦那。郵便が届いてます」
「ああ、ご苦労様。そこに置いておいてくれ」
手渡されたのは、宛名以外に飾り気のない無骨な封筒だった。ハサミは……近くにないか。まぁいい。私は右手の指先、エメラルドグリーンの鱗に縁取られた鋭い黒爪を立てる。
お風呂の時や妻たちを抱きしめる時には細心の注意を要するこの爪だが、こういう封書の開封といった作業には、どんなナイフよりも重宝する。
スッと一息に封を切る様子を見ていたアイシャが、ポンと手を打った。
「……ねぇ、今のを見て思いついたんだけど。傭兵団の名前、『龍の爪』っていうのはどうかな?」
「龍の爪……?」
「そう!お兄ちゃんの手もそうだし、私たちは龍神オルステッド様の下部組織みたいなものでしょ?龍の爪が獲物を掴むように、確実に依頼を完遂する……。かっこいいと思わない?」
リニアもその名を聞いて、耳をピンと立てた。
「……悪くないニャ。あちしの名前が入ってないのは不満だけど、『リニア傭兵団』よりは箔がつきそうだニャ」
確かに、私の今の特徴を捉えつつ、組織の立ち位置も明確にしている。
「いいんじゃないかな。では、今日からこの組織は『龍の爪』として活動していこう」
私は初めから意見を出さないと決めていた。主として活動する彼女たちが命名するべきだと考えてきたからだ。二人が出した答えなら文句はない。私が承認すると、アイシャは「やったね!」と満足そうに微笑んだ。
さて、肝心の手紙の中身だ。
広げた便箋に躍っていたのは、懐かしくも力強い筆致。大森林のドルディア村にいる戦士長、ギュエスからのものだった。
だが、その内容は「懐かしさ」を吹き飛ばすほどに切迫していた。
『――聖獣様が召喚された件を貴殿からの手紙で理解した。だが、そのことに納得していない同族たちも多い。一度、大森林に聖獣様を連れてきていただけないだろうか?非常に負担が大きい遠出となることは申し訳ないが、何卒お願いしたい』
「…………」
私は思わず、こめかみを押さえて深く俯いた。
(……まぁ、あれだけ大事にされていたあの『犬』が、忽然と消えたのであれば大騒ぎにもなるか……。非はこちらにある。なるべく早めに予定を立てなければ……)
現在、我が家の庭でロキシーや子供たちと無邪気に戯れ、たまに寝小便を垂らしているあの巨大な犬。あれこそが、ドルディア族が何世代にもわたって守り、敬ってきた伝説の存在であることは、ララが生まれたときに確信した。いや、なんとなくは分かっていたが、あまりに『犬』だったから、目を逸らしていたのだ……。
早急に現地へ向かい、説明と釈明を行わなければならない。最悪、外交問題に発展しかねない事案だ。
「アイシャ、リニア。急な用件ができた。これから大森林へ向かう。リニアは付いてこい」
手紙の内容をかいつまんで話すと、リニアが露骨に顔をしかめた。
「ええっ!?せっかくシャリーアで羽を伸ばしてるのに、またあんな湿っぽい森に戻るのかニャ?しかも、プルセナにバレたらバカにされるニャ!あちしは居残り希望だニャ!」
「ダメだ、連行する。獣族の言葉でないと、レオ……聖獣様が何を言いたいのか、細かいニュアンスが分からないからな」
「ひどいニャ……!人使い、いや猫使いが荒すぎるニャ!」
抵抗するリニアを無視して準備を進めていると、アイシャが私の服の袖をぎゅっと掴んだ。
「お兄ちゃん。私も、一緒に行きたい」
「アイシャ?でも、大森林はシャリーアほど便利じゃないし、今はちょうど雨季の真っ最中のはずだ。危険も伴うし、女の子が行くには過酷な環境だよ」
私は彼女を案じて諭そうとした。だが、アイシャの瞳には、いつになく真剣で、どこか寂しげな色が宿っていた。
「……ノルン姉は、王都への出張に『デート』として連れて行ってもらったのに。私だけお留守番なんて、そんなの不公平だよ」
「っ、あれはデートではなく、れっきとした仕事で……」
「同じだよ!お兄ちゃんと一緒にいられる時間が欲しいのは、私だって同じなんだもん。……お兄ちゃん、私のこと、妹としてしか見てくれないから……」
そう言って俯くアイシャに、私は言葉を詰まらせた。
最近のアイシャは、時折こうして「一人の女性」としての顔を見せてくる。家族としての情愛とは異なる、熱を帯びた眼差し。それにどう応えるべきか、私は未だに正解を導き出せずにいた。
「……分かった。アイシャも一緒に来なさい。ただし、私の側を絶対に離れないことだ」
「本当!?やったぁ!ありがとう、お兄ちゃん!」
パッと花が咲いたような笑顔に戻るアイシャ。その切り替えの速さに、私は翻弄されている自分に気づく。
出発の前、リーリャが私たちの元へやってきた。
彼女はアイシャの旅支度を整えながら、いつになく厳しい表情で私を見つめた。
「ルーデウス様。……アイシャのことを、よろしくお願いいたしますね。……くれぐれも、泣かせるようなことはなさらないように」
「……はい。肝に銘じておきます」
リーリャの「よろしく」という言葉の裏に含まれた、深く重すぎる意味。
私はそれを背中に感じながら、犬――もとい、レオ――もとい、獣族の神を連れて、転移魔法陣へと向かった。
事務所の地下に設置した、私自身の魔力で駆動する転移魔法陣。その光に包まれた次の瞬間、視界は一変した。
辺りを包むのは、むせ返るような緑の香りと、天の底が抜けたような激しい雨の音。
「……やはり、予想通りの水位だ。地上を歩くのは不可能だな」
転移先として設定しておいた大森林の一角、その巨大な大木の枝の上で、私は眼下に広がる光景を眺めた。雨季の大森林は、文字通り「水浸しの迷宮」と化しており、地上は濁流が渦巻く大氾濫の状態にある。うねる濁流には、根こそぎ倒された木々や、流されてきた獣の死骸までもが混じり、生の圧力のようなものを感じさせた。この新しい転移魔法陣は地脈の魔力に依存しないので、このように木の上にも設置することが可能なのだ。
アイシャは、以前ナナホシとの面談のためにペルギウスの空中城塞へ赴いた際、転移魔法陣には一度触れているが、流石にこの移動直後の気圧変化には驚いたようだ。
「ここが……大森林。本当に一瞬なんだね、お兄ちゃん」
「ああ。ペルギウス様の魔法陣を借りる手間も省けるし、座標の自由度もこっちの方が高い。……さて、問題はここからの移動手段だ」
聖獣とリニアは、獣族特有の強靭なバネを使い、器用に枝から枝へと飛び移る準備を始めている。だが、身体能力が人族であるアイシャにそれを強いるのは、あまりに酷というものだ。
「アイシャ、少しの間だけ我慢してくれ」
「えっ、あ、はいっ!」
私はアイシャの膝裏と背中に腕を回し、いわゆる『お姫様抱っこ』の形で彼女を抱え上げた。そのまま風魔術で身体の周囲を囲い、力を制御して空へと舞い上がる。
「わ……っ。あ、ありがとう、お兄ちゃん……」
私の腕の中で、アイシャが顔を真っ赤にしながら、けれど幸せそうに目を細めて私に身を預けてくる。その華奢な肩の震えと、伝わってくる確かな熱。最近の彼女が向けてくる「女としての視線」を思い出し、私は僅かに動揺したが、それを悟られないよう冷静に風の舵を取った。
「ちょっと待つニャ!ボス、あちしも抱っこするニャ!差別は良くないニャ!」
隣の枝を並走していたリニアが、不満げに声を張り上げる。
「ダメだ。アイシャは保護が必要だが、君は自力で飛べるだろう。二人抱えて飛ぶには効率が悪すぎる」
「ケチだニャ!あちしの方がプルセナよりずっと軽いんだから、誤差の範囲ニャ!」
「重さの問題じゃないし、プルセナは今関係ないだろう。……ほら、村が見えてきたぞ。私から離れるなよ」
騒がしいリニアを適当にあしらいながら、私たちはドルディア族の集落へと滑り込んだ。
村は高床式の建物が多いおかげで水没こそ免れていたが、行き来のための吊り橋は増水した川面すれすれまで沈み込み、村人たちが慌ただしく荷を運び出している様子が見て取れた。
村の入り口では、緊張の糸が張り詰めていた。
「聖獣様を奪った人族が現れたぞ!構えろッ!!」
血気盛んな若い戦士たちが武器を手に叫ぶ。だが、その殺気はすぐに、後方から現れた年嵩の戦士たちによって抑え込まれた。
「待て!愚か者が、武器を収めろ。あの方は誘拐犯などではない!手紙の内容を知らないのか!?」
進み出てきたのは、数年前、私がこの村でパトロールを共にした熟練の戦士たちだった。
「ルーデウス殿!よくぞ聖獣様を連れ戻してくれた。……いや、まずは貴公の無事を祝おう」
彼らは友好的に私に歩み寄り、再会を喜んでくれた。私は一人ひとりと握手を交わし、その横で「一族の面汚しめ!街で何をしていた!」「村の勤めを果たしに戻ったのかニャ!?」と若手からヤジを飛ばされているリニアを、哀れみの目で見守った。
私たちは戦士たちに先導され、族長の館へと向かった。
そこで待っていたのは、驚くべき人物だった。
「……ギュエス殿。……いや、今は族長、とお呼びすべきですか?」
かつての戦士長ギュエスが、族長の装束を纏ってそこに座っていたのだ。先代のギュスターヴ様は、戦いの最中に負傷し、それを機に引退を決意したのだという。
私は持参したシャリーアの特産品を土産として差し出し、聖獣召喚の経緯を包み隠さず説明した。召喚魔術のセーフティが不十分で、意図せず聖獣様を私の家へ呼び寄せてしまったこと。そして、今までの騒ぎ、連絡が遅くなってしまったことを、深く謝罪した。
ギュエス族長は腕を組み、険しい顔で沈黙していた。
「……聖獣様が、其方の家で寝小便を垂らしていた、だと……?」
「そ、それは……環境の変化によるストレスかと……」
日常生活でリラックスして過ごしていることを説明したつもりだったが、どうやら話しすぎてしまっていたらしい。レオも、恥ずかしいという意識があるのだろうか。ここまで話してしまった私に対し、わふわふと抗議している。ギュエスの横に座っていた、エリスの友人だったミニトーナとテルセナが、不信感を露わに口を挟む。
「信じられないニャ!聖獣様をそんな風に扱うなんて、やっぱり悪い人族だニャ!」
だがその時、背後に控えていた聖獣が「ワンッ!」と一喝した。紛れもない『意思』を持った鳴き声だった。聖獣はギュエスの前まで歩み寄ると、何かを喋っているようだ。
「……聖獣様が、そう仰るならば……良いでしょう。聖獣様のご意思ならば、我らが異を唱えることはない」
ギュエスが低く唸るように言い、ミニトーナたちを一喝して黙らせた。
「ルーデウス殿、貴公は我ら一族にとっての英雄だ。聖獣様が其方の元に留まることを望まれるのであれば、それを『正式な派遣』として認めよう。ただし、一つ条件がある」
「何でしょうか?」
「十五年後。其方の娘――ララ殿が成人した折に、必ず彼女をこの大森林へ連れてくること。そして聖木の儀式を受けさせる。それを約束できるか?」
「……承知いたしました。十五年後、必ず彼女をここへ連れてくると誓いましょう」
こうして、聖獣のグレイラット家滞在は、ドルディア族公認のものとなった。
「ところで、そこの面汚し……リニアはどうした?なぜここにいる?」
ギュエスの視線が、私の後ろで小さくなっていたリニアに向けられた。リニアは「あ、あちしは……えっと、商売で成功して、それで……」と何とか見栄を張ろうとしていたが、私は容赦なく真実を出力した。
「……彼女は商売に失敗し、詐欺に遭って奴隷市場に流されていたところを、私の妻であるエリスが拾い上げたのです。今は私の事務所で、反省を兼ねて文字通りこき使っています」
「なっ、ボス!言わなくていい余計な情報を流すなニャ!!」
慌てるリニアをよそに、ギュエスは深く、深く溜息をついた。
「……そうか。やはりか。ルーデウス殿、その馬鹿娘はそのまま、死なない程度に徹底的にこき使ってやってくれ。それがこの娘のためだ」
「心得ました。……リニア、族長公認だ。帰ったらさらにシフトを増やすからな」
「ひ、ひどいニャ……!家族の愛はどこに行ったんだニャ……!!」
リニアの情けない悲鳴が館に響く中、アイシャがクスクスと楽しそうに笑っていた。
こうして、気まずかった聖獣返還の旅は、意外なほど円満な、そしてリニアにとっては前途多難な形で幕を閉じたのだった。
Side: アイシャ
昨夜のドルディア族の村は、これまでにないほどの熱気に包まれていた。
今は雨季の真っ只中。食料の調達もままならないはずなのに、お兄ちゃんが村を救った「英雄」として、そして「聖獣様が認めた主」として帰ってきたことを祝うために、村の人たちは貯蔵庫をひっくり返して豪華な酒宴を開いてくれた。
(やっぱり、お兄ちゃんはすごいや……)
お兄ちゃんがこの大森林で成し遂げた数々の功績。それが、村の戦士たちの尊敬に満ちた眼差しや、供される最高級の獲物の肉となって形になっているのを目の当たりにして、私は誇らしい気持ちでいっぱいだった。
それに……昨日の移動の時のことを思い出すと、今でも顔が熱くなってしまう。
大氾濫した森を移動するために、お兄ちゃんは私を軽々と抱き上げ――いわゆる『お姫様抱っこ』をして空を飛んでくれた。
お兄ちゃんの逞しい腕の感触、胸板の厚み、そして鼻をくすぐる落ち着く香り。
私の心臓の鼓動があまりに速すぎて、お兄ちゃんに「アイシャ、大丈夫か?」なんて心配されないか、本気でヒヤヒヤしてしまったほどだった。
翌朝。
私は与えられた一室で、屋根を叩く雨音とともに目を覚ました。
同じ部屋の対面の壁際では、お兄ちゃんが既に起きて、熱心に作業をしていた。差し込む朝の薄明かりの中、彫像を見つめる横顔が、いつもより大人びて見えた。
「……おはよう、お兄ちゃん。昨日はあんなに飲んでいたのに、もう起きてるの?」
「おはよう、アイシャ。……ああ。身体の組織が変わってからは、どうやらアルコールを即座に分解・排出する体質になったらしいんだ。二日酔いとは、もう無縁だよ」
お兄ちゃんは苦笑しながら、手元の木塊を削り続けていた。
机の上に置かれたそれは、驚くほど精緻な造形だった。モデルは、新しく族長に就任したギュエスさんだろう。
「それは……ギュエスさん?」
「うん。族長就任の正式な祝いを渡していなかったからね。今日のうちに仕上げて、贈り物にするつもりだ」
集中して指先を動かすお兄ちゃんの横顔。
その凛とした、けれどどこか優しさを湛えた表情を見つめていると、私はつい、時間を忘れて見惚れてしまった。
以前の「お兄ちゃん大好き!」という子供じみた感情が、先日の奥方会議を経て、明確に「一人の男の人」への恋心へと書き換えられているのを実感した。
「さて、今日はどうしようか。……アイシャ、雨の大森林を少し散歩しないかい?」
不意に作業を止めたお兄ちゃんが、私を見て提案してきた。
私は「散歩!?」と驚きつつも、二つ返事で頷いた。
「行きたい!お兄ちゃんと一緒なら、どこへでも!」
移動の準備を整えると、お兄ちゃんは再び、あの夢のような所作で私を抱き上げた。
「失礼。……振り落とされないように、しっかり掴まっていてね」
「……はい、お兄ちゃん」
お兄ちゃんの顔が、すぐ近くにある。
昨日よりもずっと密着している感覚に、私はまたしても心臓がうるさく鳴り響くのを感じながら、その首に腕を回した。
お兄ちゃんが床を蹴り、風の魔術を周囲に展開すると、私たちはふわりと窓から外へ飛び出した。
「わぁ……っ!」
そこには、幻想的な光景が広がっていた。
激しく降り続く雨。けれど、私たちの身体は一滴も濡れることはない。お兄ちゃんが周囲に展開している風の膜が、雨粒を弾き飛ばしている。膜の表面を滑り落ちていく雨粒が、まるで見えない硝子の壁に当たっているみたいで、不思議と綺麗だった。
「快適だろう?気圧の調整もしてあるから、耳への負担も最小限に抑えているよ」
「……うん。まるでお兄ちゃんのお城の中にいるみたい」
お兄ちゃんは、雨に煙る巨大な樹々の間を、まるでダンスでも踊るような軽やかな身のこなしで滑走していく。
空から見下ろす大森林は、恐ろしいほどの迫力があったけど、お兄ちゃんの腕の中に守られているという絶対的な安心感が、恐怖を好奇心へと変えてくれた。
二人きりの、雨の中の空中散歩。他愛のない世間話をしながら、私はこの時間が永遠に続けばいいのに、と強く願ってしまった。
けれど。
不意にお兄ちゃんの雰囲気が、一瞬で鋭いものへと変わった。
視線の先。巨大な倒木の影に、不気味に蠢く影が密集しているのを、お兄ちゃんの『竜の眼』が捉えたようだ。
「……魔獣の巣、だな」
お兄ちゃんの低い声。
「どうするの?お兄ちゃん」
「獣族のみんなには、聖獣様の件で多大な便宜を図ってもらったからね。……恩返しに、少し掃除をしておきたいんだが、いいかな?」
「もちろんだよ! ……あ、それでお兄ちゃん、お願いがあるの」
私は、胸の高鳴りを抑えながら、わがままを言ってみた。
「お兄ちゃんの『雷魔術』、見せてほしいな。エリスさんやロキシーさんが言っていた、あの魔術を……」
お兄ちゃんは少しだけ意外そうな顔をしたが、すぐに「分かった」と短く答えた。
お兄ちゃんが、羽織っていた重厚なローブ――『魔神鎧』の裾をバサリと翻した。
その一動作だけで、辺りの空気がビリビリと震え、静電気が私の肌を刺激する。
「『
呪文でも、詠唱でもない。ただペットの名前を呼ぶかのような短い言葉。
次の瞬間。
お兄ちゃんの魔神鎧から、眩い白銀の光を纏った巨大な『水のシャチ』が現れた。
ドォォォォォォォォォォォンッ!!!
凄まじい衝撃波と、目を焼くほどの閃光。
シャチが魔獣の巣に着弾した瞬間、森の雨音さえも一瞬でかき消されるほどの爆音が響き渡る。
次の瞬間には、そこにあったはずの魔獣の巣は影も形もなく、ただ広大なクレーターと化した地面に、青白い電流がパチパチと走っているだけだった。
「念のため。……行け」
お兄ちゃんが指を鳴らすと、実体化した電気のシャチが、泥濘の中を滑るように泳ぎ回り、逃げた魔獣の反応を次々と消し去っていく。
私のような普通の人間には想像もつかない、あまりに異次元の、そして圧倒的な暴力。
「……すごい」
私は呆然と呟くことしかできなかった。
魔術を使い終えたお兄ちゃんの横顔は、いつものように冷静で、けれどやり遂げたという確かな充実感に満ちていて。
(……かっこいい。やっぱり、世界で一番かっこいいよ、お兄ちゃん)
いつまでも見ていたい。いつまでも守られていたい。
私の瞳には、もう、この「最強の兄」の姿しか映っていなかった。
降りしきる雨の中、私は自分の中に宿った『欲望』という名の熱を、お兄ちゃんの体温に溶かすようにして、さらに強く彼にしがみついたのだった。
待望のお風呂回、及び妹たちとのデート回でした。
プルセナの出番は次節です。