無職転生 ~性格改変_エンジニアリング視点での魔術構築~ 作:haru-ha
【設定について】
本作は『無職転生 ~異世界行ったら本気だす~』の二次創作小説です。
pixivに掲載していた小説(完結済)のセルフ転載となります。(所々、追記・修正しています)
以下の独自設定(IF設定)を含みます。
・原作と違って、元々存在していたルーデウスの自我は失われず、そこに「ある男」の記憶だけが継承されたという解釈で執筆しています。
・そのため、原作のルーデウスとは性格や口調、判断基準が異なります。
【注意事項】
・原作のストーリー改変(生存IFなど)が含まれる可能性があります。
・キャラの独自解釈、および設定の捏造が含まれます。
・原作全編のネタバレに配慮しておりません。
なんでも許せる方のみ、お進みください。
Side: ルーデウス
教皇ハリー・グリモルとの交渉を終え、私はアイシャと共にクリフの家へと帰路についていた。
ミリシオンの街路を抜ける夜風は少しばかり肌寒かったが、隣に寄り添うアイシャの体温が、私の左腕にある鱗を通じて心地よい熱量として伝わってくる。
「……旦那様、今日はお疲れ様でした」
「ああ、君が傍にいてくれたからこそ、落ち着いてスムーズに話が通せた。助かったよ、アイシャ」
「ふふ、お役に立てて光栄です。......でも、神子様と少し距離が近すぎませんでしたか?」
「あちらが身を乗り出してくるのだから仕方ないだろう?......次は適切な距離が取れるよう気をつけよう」
そんな和やかな会話を交わしながら家の扉を開けた瞬間、室内の空気の雰囲気を察知した。
外の冷気よりもさらに数段冷え切った、重苦しい沈黙。
居間には、項垂れて魂が抜けたようなパウロ、困ったように眉を下げているゼニス、そして鬼のような厳しい表情で直立しているリーリャの姿があった。
一目見て、ラトレイア家への訪問が「失敗」で終了したことが伺える。
「あぁ……ルディ、帰ったのか……」
「……ただいま帰りました、父さん」
パウロが、今にも消え入りそうな力ない声で顔を上げた。剣の達人の威厳はどこにもなく、そこにあるのは義実家との交渉に完敗した哀れな男の残骸だ。
ゼニスが、私の顔を見て気丈に問いかけてきた。
「おかえりなさい、ルディ。……そちらの仕事の方は、どうだったの?」
「少しばかりのトラブル……神子様との遭遇などはありましたが、無事に教皇猊下とお会いできました。傭兵団設立の全面的な援助と、龍神の絵本および人形の販売許可を得てきましたよ。あと、中庭でテレーズさんにも偶然お会いしました」
私が淡々と成果を報告すると、パウロがさらに深く沈み込んだ。
「……流石だなぁ、ルディは。どんな相手でも口達者に説得しちまう。……俺とは、大違いだ……」
「あら、テレーズに?すごい偶然ね!ラトレイア家にも顔を出すのかしら?」
ゼニスは妹の名を聞いて少しだけ表情を明るくさせたが、パウロの背中を擦って慰める作業は止めていない。
「アイシャが常に傍にいてくれたおかげです。彼女がいなければ、もう少し慌てていたかもしれません」
私がアイシャを見遣ると、彼女は「旦那様ったら」というように、はにかみながら私の袖を握りしめた。
リーリャは無表情を貫いているが、その瞳の奥には「よくやりました、我が娘よ」という誇らしげな色が、アイシャに向けられていた。
「……それで。父さん、そちらはあまり上手くいかなかったのですか?」
核心を問う。パウロは深く、長いため息を吐いた。
「……ああ。予想はしていたが、まともな対話にすらならなかった。始終、冷徹な礼節を持って、丁寧に、徹底的に罵倒されただけだったよ。……あの家にとって、俺はまだ『娘を奪った泥棒』のままだ」
「さすがに門前払いではなかったけれど……。お母様は、相変わらず自分の信じる正義以外を認めない方のようね」
ゼニスの言葉から推察するに、クレア・ラトレイアという人物は、合理性よりも宗教的な情動や伝統を優先する、極めて「硬い」性格の持ち主であるようだ。
「……ルディ。……頼みがある」
「……今の父さんの表情を見るに、聞くのが怖いですね」
私の冗談めかした拒絶に、パウロは縋るような目を向けてきた。
「そういうな。……あちらのクレア夫人がな、ルーデウスとアイシャ……二人にも会いたいと言っているんだ」
予想通りの要求だ。アイシャと会いたいという意見は手紙にも書いてあったからな。
隣のアイシャが、露骨に嫌そうな顔を隠そうともしない。私の表情も、恐らく似たようなものだろう。
本来ならリーリャが「主人の命令に何を不服そうな顔を!」とアイシャを咎める場面だが、今回ばかりは彼女も「これは同情に値する」と言わんばかりの苦い顔をしている。
「……お母様は確かに気難しい方だけど、きっと、私を助けてくれた息子たちのことが心配なのだと思うの。ルディ……私からも頼めないかしら?」
ゼニスに、優しい声で、真っ直ぐな瞳で見つめられては、拒絶できない。
「……分かりました。明日から傭兵団設立に向けた拠点探しを開始する予定でしたが、予定を一部変更せざるを得ませんね」
私は溜息を飲み込み、頭の中のスケジュール表を書き換えた。
ミリス教の頂点である教皇は落とした。だが、次はそれ以上に厄介な、身内の「感情」という名の防壁に挑まねばならない。
アイシャの手をぎゅっと握りしめる。
彼女の小さな溜息が、夜の静寂に溶けていった。
翌朝。私は前日と同様に、公式な場に相応しい正装に身を包んでいた。
鏡の前で、アイシャが手際よく私の襟元や服の皺を整えてくれる。彼女の指先は正確で、一切の妥協を許さない。
その傍らで、準備を終えたリーリャが静かに、けれど釘を刺すように告げた。
「ルーデウス様、改めてお伝えしておきます。クレア様は極めて厳格、かつ保守的なミリス教徒です。……貴方に四人の妻がいることも、ましてや異母とはいえ、妹であるアイシャを妻に娶ったことも、あの方の価値観では決して受け入れられないでしょう」
その言葉に、アイシャが僅かに憮然とした表情を浮かべた。彼女にとって、私との婚姻は能力と情熱の正当な対価であり、合理的な結実だ。それを「不浄」や「不適切」と断じられるのは、心外なのだろう。
「……私としては、こんなに有能で可愛い妻を自慢したいところなのですがね」
私が本音を口にすると、アイシャの顔が瞬時に赤らんだ。彼女は照れ隠しをするように、私の胸元の飾りを必要以上に強く引っ張った。
「……もぅ、旦那様ったら。そのお気持ちだけで、十分嬉しいです……!ですが、不毛な衝突は私も避けたいところです。今日は『優秀な侍従』として、貴方の影に徹しますよ」
アイシャが納得し、プロの顔に戻る。
リーリャも、その様子を見て僅かに目元を和らげた。
「……ルーデウス様がアイシャを娶ってくださって、本当に良かったと思っております。この子の居場所を守っていただき、ありがとうございます」
母としての、そして使用人としての重みのある言葉。私は短く頷き、居間へと向かった。
そこには、未だに「死地へ向かう兵士」のような暗い顔をしたパウロ、彼を心配そうに見つめるゼニスが待っていた。
私たちはクリフの家を後にし、ラトレイアの本家へと向かった。
アイシャは私の半歩後ろを歩き、完璧な所作で付き従っている。その立ち居振る舞いは、どこに出しても恥ずかしくない一流の侍従そのものだ。
やがて、視界に巨大な門が姿を現した。
門の両脇には、威圧的な獅子の石像が鎮座し、侵入者を値踏みするように睨みつけている。
門を潜ると、入り口へと続く長い石畳の道が伸びていた。道の途中には計算された美しさを持つ噴水があり、周囲の芝生は歪なほどに――あるいは、独自の美学に基づいて――完璧な形に刈り揃えられている。両脇に整然と並ぶ生垣は、幾何学模様に剪定され、まるでこの一族の「型に嵌める」という価値観そのものを体現しているかのようだった。
その広大な庭園の奥に、白亜の巨大な屋敷が、この土地の権威を象徴するようにどっしりと構えていた。
「……流石は名門、といったところか」
私が声をかける間もなく、こちらの到着を確認した衛兵が、弾かれたように屋敷へと報告に走った。
すると、屋敷の方から数名の男女が急ぎ足で戻ってくるのが見えた。先ほどの衛兵だけではない。メイド服を纏った者や、黒い上着に身を包んだ執事の姿もある。
総勢十二名。彼らは統制された動きで、門の正面、石畳の両脇に二列に並んだ。
そして中心に立つ執事が、定規で測ったような角度で背筋を伸ばし、私たちを待ち構える。
出迎えの陣形。
それはラトレイア家が保持する「格」を、初対面の相手に視覚情報として叩き込むための古い貴族らしい見栄の演出だ。
パウロは依然として表情を死なせたまま、その列の間を通り、屋敷の入り口へと進んでいく。
ゼニスはそんな彼の隣に寄り添い、私はアイシャと共に、その後ろを静かに歩いた。
Side: クレア・ラトレイア
忌々しい男が、また館に入ってきました。
パウロ。……私の愛娘ゼニスを唆し、略奪して消えた不届き者。
昨日、彼らが到着した際、私は自らの感情を高度に律し、まずは過去の不始末に目を瞑って、遠路はるばる娘を連れ戻した労をねぎらうつもりでおりました。それが礼節というものですから。
しかし、いざあの男の顔を目前にすると、煮えくり返るような不快感が制御不能となり、気がつけば口からは罵倒の言葉ばかりが溢れておりました。結局、昨日は何一つ建設的な対話ができぬまま、不毛な時間を浪費したに過ぎません。
今日もまた、パウロは暗く情けない顔をして歩いてきます。
その叩かれた犬のような卑屈な佇まいは、ラトレイア家の血を引く者の伴侶としてあまりに不釣り合いであり、私の怒りに油を注ぐ以外の効果を持ち合わせておりません。
「……お母様、おはようございます」
「……ええ、おはよう、ゼニス。貴女は歓迎しますけれど、その後ろの『置物』は、昨日から随分と影が薄くなったようですわね。立っているだけで私の庭の品位を下げるのはおやめなさい」
挨拶をしたゼニスの背後で、パウロがびくりと肩を震わせます。その様がまた、私の神経を逆撫でしました。
しかし――。
その男に続いて館へ足を踏み入れた人物を視界に収めた瞬間、私の思考は停止し、湧き上がっていた怒りの感情すらも、どこか遠くへ霧散してしまいました。
深くフードを被った、一人の男。
私の目は節穴ではありません。彼が纏っている外套――その、この距離からでも分かる国宝級の品質。布地には緻密かつ美しく、見る者が畏怖を覚えるほどの魔法陣が幾重にも張り巡らされています。そして垣間見える首を一周する傷跡、透き通るような白髪。それらが絶妙に噛み合って、圧倒されるほどの威圧感を放っていました。
私は魔術の専門的な理論など解しませんが、それでも理解できました。この外套に込められた技術、そしてそこから漏れ出す圧力は、常世の理を外れた異常なものであると。
傍らには、一人の少女が控えていました。
その一分の隙もない、洗練された所作。髪の色から察するに、あのパウロが連れている侍従、リーリャという女の娘なのでしょう。召使いにしては贅沢なほどの教育が施されていることがその立ち居振る舞いから見て取れました。
私がその圧倒的な存在感に気圧され、言葉を失っていると、男は静かに動き出しました。
アスラ王国の王宮ですら滅多に拝めぬような、完璧な貴族の礼。
外套の袖口から覗くその腕は、確かに異形のものでした。人族のそれとは全く異なる大きさ、質感を持つ鋭い部位。ですが、その流麗な動作の前では、それすらも一つの完成された芸術品のように、異様な調和を保って見えました。
ラトレイア家の当主代行として、私はこれまで枢機卿や教皇猊下といった、この国の頂点に立つ方々とも接触する機会を重ねて参りました。
ですが、目の前に立つこの男が発する「威圧感」は、それら権威の象徴をはるかに凌駕しています。矜持を捨てて平服したくなるほど……。
本来ならば、家主である私から先に名乗りを上げ、格の違いを示すべき場面。しかし、喉が張り付いたように動かず、言葉が出てきません。
男は私の出方を待っているようでしたが、こちらの狼狽を察したのでしょう。彼は、自ら静かに口を開きました。
「……はじめまして。ルーデウス・ボレアス・グレイラットと申します。ご挨拶が遅れてしまい、申し訳ございません」
ルーデウスがゆっくりと顔を上げます。
外套の深い隙間から覗いたのは、こちらを静かに、けれど逃さぬように射抜く、紫の輝きを湛えた『竜の目』でした。
Side: ルーデウス
数瞬、あるいは数秒の間。クレア・ラトレイアは完全にフリーズしていた。だが、彼女は流石に名門の当主代行だ。速やかに自己修復を終えると、氷のような冷徹さを取り戻して席を勧めた。
「……所作だけは認めましょう。ボレアス・グレイラット家と言えば、アスラ王国でも有数の家格。相応の教育は受けているようですわね。ですが、その無粋な外套を脱がないおつもりかしら?貴族の館でそれは、無礼を通り越して無教養の極みですわ」
厭味たっぷりな言葉の礫。だが確かに、室内での外套着用はマナー違反に該当する。
「……私のこの見目に、驚かれる方が多いのです。特に、信仰の厚いこのミリシオンでは。……お祖母様がお許しいただけるのであれば、脱ぎましょう」
私は余裕を持ってそう告げた。クレアは僅かに逡巡したが、やがて「……許可します」と短く呟いた。
私は立ち上がり、軽く両手を広げる。
その瞬間、背後に控えていたアイシャが、流れるような美しい動作で『魔神鎧』の留め具を外し、重厚な布地を滑り落とさせた。
露わになる、私の身体。
両手足の先から除くエメラルドグリーンの硬質な鱗。鋭く黒い光を放つ爪。そして、フードの下から完全に現れた、縦長の瞳孔を持つ紫の『竜の眼』。何よりも目立つのは、首を一周する大きな傷跡だった。
クレアは無表情を装ってはいたが、その瞳は大きく見開かれ、呼吸が一瞬止まったのを私は捉えた。
「……驚かれたでしょう。もしお見苦しいのであれば、外套を羽織り直しますが?」
「……問題ありません。……ですが、なぜ……なぜ、貴方はそのような姿に……」
彼女の言葉から、先ほどまでの鋭い棘が明らかに失われた。その瞳に浮かんでいるのは、不浄なものへの嫌悪ではなく、深い憐れみだ。ミリス教徒としての価値観が拒絶反応を示しつつも、肉親としての本能が私の「損傷」を案じている。
「……母の身に起きた事情を、どの程度ご存知ですか?」
私が問いかけると、クレアはパウロを鋭く睨みつけ、力なく首を振った。
パウロから聞いていた通り、昨日の対話は完全に破綻しており、最低限の情報共有すら行われていなかったらしい。
私は着席し、努めて淡々と、これまでに起こったことを説明した。
ゼニスが特異な転移によってベガリット大陸へ飛ばされたこと。パウロと私が独自に調査を進め、その間、ノルンとアイシャをシャリーアの拠点に預けたこと。数年後、転移の迷宮の最深部にて、魔力結晶に囚われていたゼニスを発見したこと。
そして――その守護者である
「……その死闘の結果、私は両手両足を失いました。さらに、救出した母の精神を蝕んでいた呪い……神子化の負荷を転写し治療する過程で、私の両目の視力も一度は完全に失われました」
クレアの瞳の奥で、激しい動揺が渦巻いている。
「死の淵にいた私は……自身の欠損した部位に竜の組織を強制的に定着させることで、生き永らえました。今のこの姿は、生き残るための選択結果なのです」
私の説明を聞き終えたクレアの顔には、隠しきれないほどの憐憫が滲んでいた。
「……貴方については、私も独自に調べておりました。ロアの事変を抑えるべく尽力し、その結果魔大陸へ飛ばされながらも、幼い身で過酷な環境から生還したと……。それほどの才を持ちながら、そのような……そのような無惨な傷を負うことになるとは……」
「っ! ルディは!いや……息子は、無策だった私を庇い、私に代わってその傷を負ったのです!」
パウロが、耐えきれず叫ぶように口を挟んだ。
クレアの視線が、再び猛火のような怒りを帯びてパウロを射抜く。
「なんですって……?父親である貴方が無様を晒し、子供にそのような犠牲を強いたというのですか?やはり、貴方は最低の男ですわね。娘を奪い、孫の人生まで台無しにするなど、万死に値しますわ」
パウロが激しく萎縮する。だが、私は静かに茶を啜り、会話の主導権を引き戻した。
「私を庇おうとした父を、逆に庇ったのは私自身の選択です。……確かに、平坦な道程ではなかったかもしれません。しかし、私は微塵も後悔はしておりません。このような身になっても、です。……家族の命を救うために必要な犠牲だったのであれば、それは安い代償だったと言えるでしょう」
クレアを落ち着かせるように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。彼女のパウロへの怒りはまだ燻っているようだが、私の「後悔していない」という断言により、爆発的な昂ぶりは多少収まったようだ。
「……それはもう、治らないのですか?ミリシオンの治癒魔術師は、シャリーアやアスラと比較にならないほど腕前を持つ者が揃っておりますが」
「無駄でしょう。私自身、帝級までの治癒魔術を習得しており、条件さえ整えば神級の術式構築も可能です。……しかし、その私をもってしても、この変異を元に戻すことはできません。不便もありますが、この身体ゆえの利便性もある。私はこれで良いと考えています」
事実だ。この鱗は魔術を無効化し、この眼は魔力の流れを私に開示してくれる。社会的なデメリットを除けば、エンジニアリングの観点からは極めて優れたアップグレードと言える。
クレアは重い溜息を一つ吐くと、椅子の背もたれに深く身を預けた。
彼女の中の「ゼニスを連れ去った男の息子」という認識が、「家族のために身を挺して異形となった孫」へと書き換えられた瞬間だった。
「……分かりました。貴方の覚悟は。……では、次の話に移らせていただきますわ」
彼女の声音から、先ほどまでの刺々しい棘が僅かに削げ落ちていた。
「……それで。ゼニスの呪いについて、詳細な情報を開示してもらえますか?」
クレアが射抜くような鋭い視線を私に向け、問いかけてきた。彼女にとっての最優先事項は、娘の身に何が起きているのかという客観的な情報の把握だ。予測されていた質問に対し、私は速やかに対応を開始した。
私は背後に控えるアイシャへ、視線で合図を送る。
アイシャは私の意図を瞬時に読み取り、荷物の中から一冊の装丁された書を、淀みのない所作で取り出した。彼女はその資料をラトレイア家の執事に渡し、執事の手を経てクレアの元へと届けられた。
「これは……何かしら?」
「母の受けた特異的な魔力変異、およびその呪いについての研究成果をまとめた報告資料です」
隣でパウロが、「そんなものがあるなら最初から渡しておいてくれ!」という猛烈な非難を込めた視線を送ってきたが、無視することにした。単純に、昨日はこの資料を渡すタイミングが存在しなかっただけだ、まぁ忘れていただけだが。
クレアは資料を手に取り、ページをパラパラと捲り始めた。表紙をめくった瞬間、その眉間に僅かな皺が寄る。
私の予測では、合理的なデータ提示により彼女の懸念は解消されるはずだった。だが、読み進めるにつれて、クレアの表情は私の計算に反し、急速に厳しさを増していく。
(……おかしい。それほどネガティブな数値は記録していないはずだが)
「……これは。……私に『解読』しろと仰るのかしら?貴族の嗜みとして教養は身につけておりますが、解読不能な暗号を提示されるのは、いささか無礼ではありませんこと?」
「(おい、ルディ!お前、一体何を書いたんだ!?)」
皆に聞こえるレベルの小声で、パウロが必死に詰め寄ってくる。
ゼニスが、クレアに断りを入れてその資料を覗き込んだ。そして、彼女もまたクレアによく似た、非常に険しい顔つきになった。こうして並ぶと、やはり血の繋がりを感じさせる。
「……ルディ。この資料、一般的な人にとっては難解すぎるわ」
「そんな馬鹿な。専門用語は極力排除し、魔力波形の推移や因果関係も図解で簡略化したはずです。今回は特に慎重を期して、有識者に査読まで受けているのですが……」
私の反論に、パウロが顔を青くして聞き返してきた。
「……なぁ、ルディ。その『有識者』っていうのは、誰のことだ?」
「甲龍王ペルギウス様です。専門用語を省いたせいで冗長な部分はあるが、非常に分かりやすく構造化されている、と貴重なお褒めの言葉まで頂いたのですが……」
私の回答を聞いた瞬間、居間に沈黙が流れた。
ゼニスが、教えを諭すような優しい、けれど憐れみを含んだ瞳で私を見つめる。
「……ルディ。伝説の英雄にして、神級魔術をも自在に操る方にとっての『分かりやすさ』は、一般の方とは基準が違うのよ。……そのような人たちの常識を、私たちの実家に持ち込んでは駄目よ」
ゼニスのその一言で、私の「リサーチ不足」が確定した。
以前、ルイジェルドの風評被害を払拭するための広報資料を作成した際も、アリエル率いる生徒会のメンバーに「難解すぎる理論武装ばかりで、一般市民の理解力を無視している」と酷評されたことを思い出した。その時は専門用語を使い、その解説を索引に記したのだ。だが、一般の人は専門用語が出た時点で読むことを止めてしまうことが分かった。その反省があったから、頑張って専門用語を排した説明を考えたのだが……。査読者の水準を、読者の水準と混同していたことに、今更ながら気付かされる。
「……申し訳ありません。では口頭にて、可能な限り低次元な言語に置き換えて説明させていただきます」
「低次元って、貴方……。本当に厭味で生意気な孫ですわね。……ええ、よろしいわ。一から十まで、私の理解できる言葉で説明なさい」
結局、私は数時間を費やし、母の呪いの正体と現在の安定状況を長々と説明することになった。
一つの資料を受け渡すだけで終わるはずだったタスクが、膨大な口頭説明へと書き換えられる。これほど「非効率」な時間の使い方もないだろう。私自身、少し拗ねて意地悪な言い方になってしまったと思っている。
だが、説明を続けるうちに、クレアの厳しい表情が少しずつ解けていくのを感じた。相槌の頻度が増え、時折「なるほど」と小さく漏らすその様子は、当初の敵意剥き出しの態度からは考えられないほどの軟化だった。
ゼニスの身を蝕んでいた呪い――その実体は、神子としての能力発現に伴う過剰な魔力負荷であったこと、そしてその負荷の一部を私が引き受けたことで、術式が崩壊し、現在はほぼ完全に回復していることを説明した。
クレアはその無表情を崩さなかったが、私の目は彼女の呼気が僅かに緩んだのを捉えた。不安、という名の感情が彼女の内部で処理された証拠だ。ゼニス自身が自分の言葉で現状を語れたことが、何よりの証明となったのだろう。
対話のフェーズは、次なるトピックへと移行した。
「……時に、ルーデウス様。貴方は既に婚姻されている、という認識でよろしいかしら?」
「はい。エリス・ボレアス・グレイラットと正式に婚姻し、現在はボレアス・グレイラット家の籍にあります」
「……ノトス家に戻るわけではなかったのですね。堕落したそこの男はともかく、貴方ほどの才があれば、本家が放っておかないはずですが」
クレアの言葉には、相変わらず棘が混ざっている。パウロに対する評価は依然として底辺に固定されているようだ。
……この様子だとエリス以外の妻の情報は得ていないらしい。好都合だ。
「ノトス家はアリエル女王の即位に際して派閥抗争に敗北しましてね。現在は一部を除いて、中枢から排除されています。今やアリエル女王の最大の支持基盤はボレアス家です」
「……そう。ならば、家柄としては最低限の体裁は整っているようですわね」
彼女にとって、個人の実力以上に「家柄」という社会的ステータスは重要な評価基準なのだろう。安心したのなら、交渉の材料としては有用だ。
「アイシャは……。……妾の子にしては問題なく育っているようで、安心しましたわ」
不意に、クレアが背後に控えるアイシャに視線を向けた。アイシャは「一流の侍従」というプロトコルを遵守しており、発言の許可が下りていない以上、微動だにせず、一切のリアクションを返さない。その程度の挑発で揺らぐほど迂闊でもない。
その完璧な沈黙こそが、彼女が最高品質の教育を受けたことの証左となっていた。
「ノルンは、どうしていますか?」
「私の母校であるラノア魔法大学の生徒会長として、立派にその職責を全うしています。生徒たちからの信頼も厚く、成人の儀の折には、抱えきれないほどの贈り物と祝福を受けていました」
私の回答を聞き、クレアの口角が僅かに上がった。
「そうですか……人の上に立つまでに。……では、卒業後はどうするおつもり?」
「本人の意思を尊重するつもりですが、まだ具体的な進路は確定していません」
「縁談は?」
「……今の段階で具体的に議論するには、いささか時期尚早かと判断しています」
私がそう告げると、クレアはあからさまに不快そうに顔を顰めた。
「では、卒業後にこちらへ連れてきなさい。……ラノア王国などという、文化の届かぬ辺境の片田舎に、彼女に見合うロクな相手などいないでしょう。私がミリスの教団内で最高級の相手を見繕いますわ」
有無を言わせぬ、強権的な命令口調。
その瞬間、私の背後でパウロとゼニスの気配が鋭く変質した。特にパウロは、今にも立ち上がって抗議しそうなほどの動揺を見せている。私は視線だけで彼を制し、カウンターを繰り出した。
「お気遣いには感謝いたしますが、その必要はありません」
「……断ると?当主が縁談の一つも用意できぬというのなら、私が面倒を見るのが道理でしょう」
「無理に話を進めれば、当人の反発を招くことになります。……かつての母のように家出をされ、危険な冒険者の道を歩むような事態になれば、兄として心配で堪りませんからね。ノルンはなまじ、父に似て剣術の心得もありますし」
私は横目でゼニスを見やった。クレア自身の「教育の失敗例」が今まさに目の前に座っているのだ。この論理的な皮肉に対し、彼女はぐうの音も出ないはずだ。
案の定、クレアは苦虫を噛み潰したような顔で黙り込んだ。
「それに、ノルンがもし高位の縁談を望むのであれば、アスラ王国のアリエル女王が自ら最高級の婿を用意するでしょう」
「女王自らが、一介の生徒会長に?」
「ええ。アリエル女王はノルンの前代の生徒会長であり、彼女とは個人的に大変親しい間柄です。ノルンのことを妹のように可愛がっており、私がアスラ王国を訪れるたびに『ノルンも連れて来い』とせがまれるほどですからね」
「…………」
クレアがどれほどミリス神聖国を、そしてラトレイア家を神聖視していようとも、一伯爵家が用意できる縁談と、大陸随一の強国であるアスラ王国の女王が直々に差配する縁談では、文字通り「格」が違う。
「むしろ、女王に頼むと過剰なほどの厚遇をされそうで心配なほどです。ノルンのためなら、大貴族の席を一つ『空けて』でも、喜んで迎え入れるでしょう」
クレアは、これ以上食い下がっても、自身が提示できるリソースが私の提示したものに遠く及ばないことを理解したようだ。
「……それならば、よろしいでしょう。女王陛下のお目が届くのであれば、私が口を挟むまでもないこと」
彼女は渋々と、けれど納得せざるを得ないという様子で引き下がった。
彼女の目論見を、まずは一つの「権威」という情報で上書きすることに成功した。
談話は一時の凪を迎える。だが、この老練な女性がこれだけで引き下がるとは思えない。次なる説教が何であるか、私は茶を口に運びながら、感覚を研ぎ澄ませた。
話が長くなってきたので、昼食を挟むことになった。給仕されたのは、この地方の伝統料理なのだろう、白身魚を香草で包んで蒸したものと、見たこともない形の焼き菓子だった。味付けは繊細で、貴族の食卓らしい上品さを湛えている。
クレアはこちらのマナーについてしっかりと確認しているようだった。ゼニスの所作には全く問題がない。私もリーリャからしっかりと教育を受けている。パウロは……まぁ、終始睨まれていたな。ナイフとフォークの持ち方一つで、クレアの眉がぴくりと動く光景を、私は静かに観察していた。
そろそろこの非効率な面談を終了し、次のタスクへと移行したいところだったが、クレア・ラトレイアは、まだ私の「情報」を吸い出し足りないらしい。
父――パウロがまともな対話能力を喪失している分の負荷が、すべて私に回ってきている。不条理を感じずにはいられないが、母――ゼニスの平穏を確保するためには避けて通れぬ工程だ。
「……ルーデウス様。貴方、昨日は教皇猊下とお会いになったのでしょう?」
クレアが射抜くような鋭い視線を向けてくる。
この聖都において、教皇の動静は常に監視下にある。ましてや、怪しい外套を纏う異形が中枢へ入れば、その情報は即座に有力者の元へ共有されるだろう。アイシャと密着して歩いていた情報まで拾われていないことを願うばかりだ。
「ええ。私の今後の事業展開……ミリシオンにおける傭兵団設立の件で、事前の調整をさせていただきました」
「どのようなお話をされたのか、お聞きしてもよろしくて?まさか一介の魔術師が、教皇猊下と対等に渡り合えたなどと吹聴するつもりではないでしょうね」
クレアは口を真一文字に結び、顎を高く上げた。その姿勢は、私の言葉を端から疑ってかかるという意思表示に他ならない。
「私が現在、龍神オルステッドに協力していることはご存知でしょう?」
「調査報告には上がっておりましたわ。ですが……先ほどの甲龍王ペルギウス様との交流といい、にわかには信じられません。辺境に住まう者が、伝説の英雄と知己であるなどと……虚言を並べて私を畏怖させようというのであれば、底が知れていますわよ」
クレアは値踏みするように、私の全身をじろじろと観察する。
私は無駄な問答を切り上げるため、左手の中指に嵌めた、龍神より賜った指輪を提示した。
「証明が必要であれば、こちらを。オルステッドから直接授かった紋章です」
クレアは数秒間、その腕輪を凝視した。そして、いつの間にか影のように傍らに控えていた執事に小声で確認を求めた。執事が微かに頷き、「間違いありません、龍神の――」という囁きが私の耳に届く。
クレアは僅かに顔を歪めたが、事実として受理せざるを得なかったようだ。
「甲龍王ペルギウス様との関係については、私よりもクリフ・グリモルに確認するのが最も信頼性が高いでしょう」
「教皇猊下の孫の?」
「ええ。彼は私の得難き友人であり、極めて有能な研究パートナーです。彼も定期的にペルギウス様へ研究レポートを提出し、知見の交換を行っています」
私が嘘偽りのない情報を提示すると、クレアは「ふん」と鼻を鳴らして視線を逸らした。教皇の孫という有力な名を出したことで、ようやく話の信憑性が担保されたらしい。
「……ですが、貴方の経歴には、到底人族の業とは思えぬ報告が混ざっています。魔王を殺しかけただの、シーローンでは単騎で数万の軍勢を一掃しただの……。大方、尾ひれがついた噂でしょうけれど」
「お母様が信じられないのも無理もありませんわ……。親である私たちですら、ルディのやることは信じがたいことの連続なのですから」
ゼニスがフォローのつもりなのだろうが、全肯定に近い同調をクレアに示した。パウロも「全くだ」と言わんばかりに深く頷いている。
「魔王バーディガーディとの件は――力比べのようなものでした。不死魔族の王アトーフェラトーフェについては、彼女の精鋭軍ごと制圧しましたが、これもクリフという目撃者がいます。シーローンでの殲滅戦については、生き残った兵士を数える方が早いでしょうが……正確な戦果を知りたければ、シーローン王国のパックス陛下に書状を送るのが最も合理的かと」
私の淡々とした解説に、クレアは苛立たしげにこちらを見る。
「……ミリシオンのような聖地ならいざ知らず、あのような片田舎でこれほどの『傑物』が育つなんて、世界の理が崩壊しているとしか思えませんわ」
どうやら彼女の価値観の前提には、ミリシオンやミリス教こそが世界の中心であるという、極めて局所的なドグマが存在しているようだ。
「……場所はあまり関係ないかと思われます。環境よりも、個体の初期値と経験の問題でしょう」
「そうですよ、お母様。ルディは、生まれた時からおかしい子でしたから」
……母さん、その言い方は母親としてどうなんだ?
反論を試みようとしたが、パウロは「確かにそうだ」という顔で深く頷き、リーリャに至っては表情に出さないものの、全力で同意している気配が伝わってきた。
私個人としては、自身の特性を「異常」として処理されたことに僅かな不満が残ったが、ひとまずこの疲弊を伴う顔合わせは、致命的な齟齬を起こすことなく終了した。
「……お疲れ様です、旦那様」
屋敷を後にする際、アイシャがそっと私の腕を支え、ねぎらいの言葉をかけてくれた。
振り返ると、屋敷の窓辺からこちらを見下ろすクレアの姿があった。その表情に、もはや当初のような刺々しさはなく、代わりにどこか複雑な――娘を心配する母としての、そして孫の異形を案じる祖母としての、割り切れない感情が滲んでいるように見えた。
家族という名の、論理だけでは動かせない複雑な回路。
それを攻略する難易度は、時として神級魔術の構築すら上回る。
ミリシオンの澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込み、私はようやく、明日からの拠点設営という合理的なタスクへと意識を切り替えることができた。
原作と違ってノルン、アイシャとクレアは接触はありませんでした。
アイシャはその気になれば完璧な侍従モードになれます。原作よりも精神面が安定しています。
以下駄文
もしもの世界線:ノルンがルイジェルドと出会わなかったら
その報告は、王城の一室に爆弾のように落とされた。
「――というわけで、ノルンの卒業後の縁談について、まだ何も決めていないのです。相談に乗っていただけますか?」
ルーデウスがそう告げた瞬間、山のような書類に埋もれていたアリエルの手が、ぴたりと止まった。
「……縁談、ですって?」
顔を上げたアリエルの瞳に、これまで見たこともないほどの光が宿る。
「ノルンの結婚相手を探している、ですって!?すぐに各所に連絡を!私のすぐ近くにいつでもいられるよう、王城内に特別な部屋を用意しましょう!」
「アリエル様、気が早うございます。相手もまだ決まっておりませんが……」
ルーデウスの冷静な指摘など、もはやアリエルの耳には届いていなかった。
「かしこまりました」
控えていた侍従が、大賛成とばかりに一礼するや否や、迅速に部屋を飛び出していく。
5分後には既に戻ってきた。手には部屋の間取り図と婚約者候補関連の書式一式が抱えられていた。
「おっと、これは面白いことになりそうだ」
その場に居合わせたルークが、にやりと笑って腕を組んだ。
「ノルンとは学生時代からの付き合いだ。俺が仲人役を買って出よう。なに、彼女は素直で真面目な良い子だからな。俺のネットワークさえあれば新郎側の裏情報もすぐに取れるぞ」
ルークがいつにもない真面目さで、凄まじい速度で婚約者候補一覧の書類に赤入れしていく。
翌週にはもう、王城内にノルン専用の一室が用意されていた。
その次の週には、ラノア魔法大学の生徒会執務室に、アスラ王国の紋章が入った豪華な招待状の山が届けられた。
さらにその翌週には、ボレアス家、そしてノトス家双方の当主から、揃って「祝いの品」なる贈答品が届く始末である。
「……お、お兄ちゃん、これは一体……?」
戸惑うノルンをよそに、話はとんとん拍子に進んでいく。
彼女がルイジェルドの汚名返上のために絵本を書くことも、市井の人々の声に触れることもなかったこの世界線の彼女は、良くも悪くも「箱入りの令嬢」のまま。ゆえに、この怒涛の展開に対抗する術を持たなかった。
「アリエル様、ルーク、少々性急すぎるのでは……」
ルーデウスが冷静に待ったをかけようとした頃には、既にすべてが遅かった。
こうして、ノルンの気づかぬところで着々と外堀は埋められ――彼女が気づいた時には、もう後戻りできないところまで話は進んでしまっていたのだった。