内容: 「……見ての通り、公式の書状には『急激な寒冷化に伴う、雌火竜の繁殖生態および卵膜の環境適応に関する学術調査』と奇麗事が並べてある。王立学術院の偉い学者先生方も、これなら表立って文句は言うまいよ。
なに、お主がやることはただの卵捕りだ。あの凍てついた天空山の頂から、青緑の殻を一つ、抱えて下りてくればいい。……ただし、重ねて言うが、絶対に殻を割るなよ。中身の細胞が死んで腐れば、学術院の『パトロンども』へ流す不老の秘薬の材料にならん。
生きたまま、新鮮な状態でここに届ける。それができれば、お主の滞納している武具研磨のツケはすべて帳消しにしてやる。夜逃げの旅費を出しても、まだお釣りが来るぞ。さあ、公印の乾かぬうちに、さっさとその歪な双剣を担いで行くがいい」
呼気、たちまち凍てて肺腑を刺す。
睫毛は氷針と化し、瞬きするごとに瞼を血に染めた。かつて天空山と称されたその峻嶺は、瑞々しい緑を湛えた仙境の面影を一遍に喪っている。王立学術院の異端なる古生物学者どもが『嵐龍』あるいは『白き崩龍』と呼称し、畏怖する天災の具現――その実在さえ定かならぬ超自然の権化が地脈を揺るがしたか、ただ一晩のうちに吹き荒れた不条理な絶対零度により、全山は根底から凍てつき、生者を拒む巨躯たる白骨の如き死の雪山へと変貌を遂げていた。一晩での急激な相転移により、山肌の水分は結晶格子の隙間に不純物を抱え込んだまま急速凍結し、脆さと強靭さを併せ持つ異常な氷層を形成している。
岩肌を覆うのは、数代前の冬から堆積したわけではない。つい昨日まで陽光を浴びていた樹木や獣の死骸を、猛烈な寒気がそのまま巻き込み、鉄よりも硬く凝固させた不純な氷層である。爪先を蹴り込むたびに、アケノシルムの具足がカチリと冷酷な音を立てて火花を散らす。東方の武人を思わせる白銀の甲冑、その首筋の隙間から滑り込んだ雪が、体温で溶けては背中を冷たく濡らしていった。その具足の裏、重ねられた鉄板の隙間には、いつの、誰のものとも知れぬ乾いた血の匂いがこびりついている。古道具屋の隅で二袋の端金と引き換えに手に入れたその死着の鎧は、動くたびに前主の怨嗟じみた饐えた脂臭さを放ち、男の鼻腔を絶え間なく刺激していた。
この男、なにも大義があって絶壁に爪を立てているわけではない。
要するに、銭がなかった。
事の起こりは、大都市ドンドルマの夜更け、大回廊の喧騒が死に絶えた頃、ギルドの監査の目を盗んで夜間にだけ受付を乗っ取っている闇の仲介ブローカーが、公印の抜け落ちた汚れた羊皮紙を差し出した。
「天空山が凍りついてから物資が滞ってな。お主のような身分剥奪に近い泥水すすりが遊んでいるのはもったいない。生きたまま持ち帰れ。殻を割れば王立学術院のパトロンへの薬にならん。お主の滞納しているツケを帳消しにし、夜逃げの旅費を出してもまだお釣りが来るぞ。ただの卵捕りよ」
言葉には、ギルドの看板を隠れ蓑にした密輸シンジゲートの、濃厚な毒の匂いがあった。その卵がどこぞの豪商の地下室で孵らされ、いかなる惨劇の牙になるかなど、男にとってはどうでもよいことであった。前月、砂漠での死闘において、長年愛用していた双刃の片割れが根元からへし折れ、その修理代はおろか、日々の麦飯にも事欠く有様であったのだ。職人を雇う金もなく、手元に残った二種の残骸を一本の鞘に強引に収めたのが、いま背中にある歪な二振りの大刃である。
右の背に帯びるは、かつて砂漠の地平で叩き割った角竜ディアボロスの角から削り出した、漆黒の剛刃。左の背には、氷海で仕留めた轟竜ティガレックスの爪を、無理やり接ぎ合わせた赤黒き薄刃。本来の一対であったはずの双剣は、それぞれ異なる怪物の系譜を引き、その結果として重心は完全に狂っていた。右は重く、左は軽い。この不均等な質量は、歩くたびに男の骨盤をわずかに左へと歪ませ、長年の歩行の均整を破壊し尽くしていた。まともな刀鍛冶が見れば失笑を通り越して呆れる他ないこの混成双刃こそ、男の歪んだ剣理そのものである。均整の取れた名刀では、あの化物の皮は断てぬ。右の重爆を以て青緑の甲殻を挫き、その微細な罅割れへ、左の狂刃を滑り込ませて肉をねじ切る。変則の術理は、道場ではなく、飢えと闇の中でしか生まれぬ。
一歩、足を上げるごとに、凍った革紐が肉に食い込み、骨攀の痛みが走る。天空山の垂直に近い斜面は、ただの岩壁ではない。山そのものを一夜で凍らせた不可解な寒厄によって、木の根や獣の死骸を巻き込んだままの生きた氷と化している。男の手袋が岩を掴むたび、凍りついた苔の死骸が粉となって崩れ落ちた。風は咆哮を上げ、白銀の兜の飾羽を無慈悲に毟り取っていく。
傾斜がにわかに緩やかになり、四方を切り立った氷柱に囲まれた、巨大な盆地のような空間へと出た。風が、ぴたりと止む。あまりの静寂に、己の耳の奥で脈打つ血の音が、ドク、ドクと不気味なほど大きく響いた。大気が緊張に満ち、凍りついた空間そのものが息を潜めている。空間の中央には、ねじくれた枯れ木と、飛竜の分泌物によって固められた、直径五間はあろうかという巨大な巣が鎮座していた。分泌物は寒気によって茶褐色に凍りつき、まるで巨大な獣の瘡蓋のように地面にへばりついている。
その中心に、それはあった。
淡い緑色の殻に、墨を流したような黒い斑紋が浮かぶ、巨大な楕円。表面からは、未だに親の体温の名残か、微かな水蒸気が立ち上り、周囲の氷を僅かに溶かしている。多層構造の卵殻は内部の熱対流を驚異的な効率で維持しており、その湿り気は、不気味なほどに生々しく、これから生まれるべき怪物の生命力を誇示していた。この中身が、シンジゲートの冷酷な実利、すなわち特権階級の私兵調教か、あるいは肉を腐らせぬ錬金術の触媒となるのだ。男は身を低くし、アケノシルムの白い甲冑を雪の中に同化させるようにして進んだ。鎧の擦れ合う音が、静寂を汚さぬよう、慎重に体重を移動させていく。
卵の前に跪き、アケノシルムの手甲に覆われた両腕を伸ばした。抱え上げた瞬間、腰の骨がミシリと鳴る。重い。ただの石の重さではない。内部で蠢く、粘液と骨の胎動が、腕を通じて男の肉体に直接伝ってくる。両腕は完全に塞がり、顎は卵の頭を抑えつけるように固定された。視界の半分が、くすんだ緑の殻で遮られる。胸元に押し付けられた卵の殻から、獣特有の生臭い、そして仄かに甘い羊水の匂いが鼻を突いた。
一歩、引き返そうと足を動かした、その時であった。
頭上の雲が、一瞬で引き裂かれた。
――グオオオオオオオオオオオオン!
鼓膜を直接打つのではない。胃袋をひっくり返すような地鳴りが、全天から降り注いだ。氷壁の頂に、その巨影があった。リオレイア。だが、温暖な地を好むはずの雌火竜の姿ではない。その鱗は、過酷な寒気に晒され続けた結果、くすんだ青緑色に変色し、鱗の隙間には結晶化した分泌液が氷の鎧のように張り付いている。尾の先にある猛毒の棘は、凍りつきながらも、なお紫色の不気味な粘液を滴らせ、それが雪に落ちるたびにジュウと黒い煙を上げた。その双眸は、我が子を盗まんとする侵入者への、絶対的な殺意で盛んに燃え立っている。
飛竜の巨体が、音もなく滑空した。男は走らなかった。走れば、雪に足を取られて卵を割る。男は、己の背肉を肉厚な盾とするよう、卵を自らの腹の下へと深く抱き込み、卵殻に一切の衝撃が伝わぬよう身を挺して、泥臭く背中から雪原へ転がり込んだ。
ドガァン!
直後、男がいた場所の氷床が、爆発したように弾け飛んだ。飛び散った鋭利な氷片が、アケノシルムの兜を叩き、カン、カンと高い音を立てる。首筋に、冷たい衝撃が走った。切れたな、と男は思った。しかし、手のなかの卵は、まだ割れていない。
女王は、着地の勢いのまま首をしならせた。その巨大な顎が開かれ、喉の奥の真紅の火炎袋が、不気味に脈動するのが見える。この極寒の地にあっても、その体内に宿る火の力は衰えていない。
ゴォッ!
放たれたのは、凝縮された火の塊ではない。寒気と衝突し、爆発的に膨張した、泥濁りの炎の濁流であった。周囲の酸素が一瞬で掻き消え、大気が悲鳴を上げる。男は逃げなかった。逃げる隙などない。背を向け、卵を自らの腹の下へと完全に庇い、雪原に丸まった。アケノシルムの背の装甲が、迫り来る熱波を正面から受け止める。
ジュウウウウウウウ!
猛烈な衝撃と熱が背中を襲った。アケノシルムの白銀の装甲が、肉の焼けるような臭いを放ち始める。傘鳥の素材が持つ耐火性が、熱伝導の速度を鈍らせ、辛うじて熱を外へと逃がしているが、内部のインナーは既に焦げ、背中の皮膚が引き連れるような激痛が男を襲った。皮膚が焼け、脂が爆ぜる悪臭が兜の中に充満する。男は声を出さなかった。出せば、体内の酸素が失われ、二度と動けなくなることを知っていた。歯を食いしばり、ただ嵐が過ぎ去るのを待つ。
炎が止む。男は雪のなかから顔を上げた。背中の装甲は黒く焼け焦げ、赤錆びたような色に変色している。だが、胸の中の卵は、男の肉体が盾となったおかげで、微かな煤がついただけで無事であった。しかし、眼前の巨獣はすでに次の行動に移っている。巨大な三本の指を持つ脚が、雪を蹴り立て、すでに次の獲物を踏み潰さんと迫っていた。
このままでは、ここで肉塊になる。
男の身体は、思考よりも速く動いた。腕の中の卵を、すぐ脇の、風で吹き溜まった深い新雪の中へと滑り込ませる。緑の殻が、白い雪の中に深く埋もれ、一時的にその姿を隠した。
両手が、解き放たれる。男は狂ったように、背中へと腕を回した。ガシ、と両の手のひらが、それぞれ異なる感触の柄を握る。右の手のひらにはディアボロスの乾いた骨のざらつき、左の手のひらにはティガレックスの、未だに獲物の血を吸うような冷たい金属質が伝わる。
引き抜かれた二振りの刃は、左右でその姿を異にしていた。抜刀した瞬間、凍てつく大気を切り裂くような、獣の咆哮に似た金属音が周囲の氷柱を震わせる。右手のディアボロスの黒き刃は、ずっしりとした打撃に近い重量を乗せ、左手のティガレックスの赤き爪は、触れるものを引き裂くような薄刃の鋭利さを持っていた。交差させた瞬間、男の吐息が、一際深く、長く吐き出された。
肉体の奥底、裏社会の小男に命を値踏みされた悔しさも、皮膚を焦がす激痛も、すべてを薪として、男の血が沸騰した。
それは、脳下垂体から分泌されるアドレナリンの過剰放出と、横紋筋への強制的な血流不均等配分による、肉体のリミッターの強制解除であった。男の全身から、体内の水分が急速に蒸発した陽炎のような赤い気炎が立ち上る。それが周囲の雪をまたたく間に蒸発させ、男の周囲に白い霧の帳を作った。
一歩。男の足が、氷を砕いて地を蹴った。筋肉の繊維が一本ずつ引き千切れるような代償の予感を無視し、膝までの雪を踏み越え、地を滑るように肉薄する。突進してくる飛竜の頭部に対し、男は正面からではなく、その巨体のわずかな死角、左脚の付け根へと滑り込んだ。
ギチギチギチッ!
右手の黒き剛刃が、女王の脚を覆う凍りついた甲殻を力任せに叩き割り、間髪入れず、左手の赤き爪が、その割れ目へと深く突き刺さる。異質の刃が生み出す、不揃いな二連撃。飛竜の肉を断つ手応えが、狂った重心を通じて男の腕へと跳ね返ってくる。制御しきれぬ暴れ馬を御するが如く、男は無理やりその刃を振り抜いた。
「グルルアアッ!」
リオレイアが短い悲鳴を上げ、巨体が傾く。飛び散った青緑色の鮮血が、男の白い兜の面頬を濡らし、鉄の味と、内臓の焼けるような強烈な悪臭を撒き散らした。しかし、陸の女王の真髄は地にある。傾いた体勢のまま、長い尾が、垂直に天へと跳ね上がった。宙返りざまに虚空を裂く尾。凍りついた猛毒の棘が、男の鼻先を掠めていく。風圧だけで、アケノシルムの兜の飾羽が千切れ飛んだ。わずかに遅れれば、首を撥ねられていたであろう一撃。男は上空へ逃げた飛竜の影を見上げない。着地する位置を、その影の動きだけで測っていた。
巨躯が地を踏んだ瞬間、男は既にその懐へと潜り込んでいた。二振りの狂刃を風車のごとく旋回させ、執拗に肉薄する。回転する刃の嵐が、飛竜の無防備な腹部へと襲いかかる。
ガガガガガガガガッ!
ティガレックスの爪が皮を裂き、ディアボロスの角が肉を抉る。二つの異なる怪物の怨念が、男の腕を媒介にして、眼前の女王へと叩きつけられていた。肉が裂け、脂が爆ぜる音が、吹雪の音を劈いて響く。
飛竜の巨体が、たまらず大きくよろめき、その場に崩れ落ちた。巨躯を雪原へと横たえ、悶絶の巨動を晒す。男は、追撃の手を止めた。ここで仕留めるだけの刃の残高は、この混成双剣にはない。刀身からは、激しい摩擦による白煙が上がり、限界を告げていた。赤い気炎が、霧のように霧散する。ハァ, ハァ, と、肺の底から絞り出すような荒い息が、白い塊となって虚空に消えた。戦うために来たのではない。生きるために、これを持ち帰るのだ。
男は双剣を一本の鞘へと乱暴に押し込み、雪の吹き溜まりへと飛び込んだ。冷たい雪を掻き分けると、そこには先ほどと変わらぬ、淡い緑の卵があった。再び、その圧倒的な質量を腕に抱く。背後では、転倒したリオレイアが、翼を羽ばたかせ、怒りに狂った眼差しで立ち上がろうとしていた。巨体が雪を跳ね上げ、その口から再び炎の片鱗が漏れ出す。
男は振り返らなかった。アケノシルムの具足をきしませ、岩棚の出口、あの険しい下り坂へと向かって、ただひたすらに走り出した。
一歩でも躓けば脆く爆ぜる楕円の危うさが、男の五感を呪縛していた。僅かな段差の衝撃さえ、殻に致命の亀裂を走らせる。抱え直そうと指を動かせば、凍結した手甲の鉄が滑り、すり抜けた卵は一瞬で無価値の液体へと還る。この絶対的な拒絶、少しの油断で全てが無に帰す運搬の呪いが、男の肉体を鋼のように硬直させ、走ることを許さぬはずの重圧の中、男はなりふり構わず、ただひたすらに駆け出した。背中の火傷が、走るたびに衣服と擦れ合い、脳を揺さぶるような激痛を放つ。だが、男の腕は、卵を離さなかった。足元の氷が割れ、滑り落ちそうになるのを、具足の爪を無理やり氷に突き立てて堪える。
吹き付ける雪は、さらに激しさを増し、男の視界を白一色に染め上げていく。背後からの咆哮が、吹雪の音にかき消されていく。男はただ、懐の羊皮紙にある報酬の額と、ドンドルマのあの安酒の味、そして未だに手甲の奥に残る、他者の乾いた血の匂いだけを噛み締めながら、一歩一歩、白い地獄を下っていった。その歩みは遅くとも、凍てつく大地を確実に踏み締めていた。