内容: あらあら、大変なことになってしまいました。
龍歴院の調査員から、天空山の奥地にとんでもない大物が居座っていると報告が入ったのです。
なんでも、あの白兎獣の「二つ名持ち」……≪大雪主≫と呼ばれる大変な実力を持つ個体なのですが、どういうわけか、かつてメゼポルタの地で恐れられた『烈種』の如き、自然の理をねじ曲げるほどの超低温を操るのだとか。その影響で、天空山の周辺一帯は猛烈な吹雪に閉ざされ、麓の集落も雪に埋もれかけています。
すでに何人もの凄腕ハンターたちが挑みましたが、山が起き上がったかのような巨躯から繰り出される、雪崩の如き一撃の前に退けられてしまいました。
キリトさん、あなたのその双剣と、流体金属を纏った銀の鎧の真価を、今こそ見せる時です。あの白銀の地獄と化した峰へ赴き、極限の寒冷を撒き散らす王を討ち果たしてください。ベルナ村の、いえ、みんなの平穏は、あなたのその両腕に懸かっていますよ。
吸い込む大気が肺腑を微塵に灼き砕くかと思われた。凍てつく黒雲を真一文字に切り裂く夜嵐が、銀灰色に鈍く光る装甲を激しく叩きつけている。いまや天空山と称されたその峻険なる峰は、生者をことごとく拒む冬の奈落そのものであった。司銀龍の堅緻なる甲殻より打たれた防具は、極寒の冷気を吸って鉛の如き重さで四肢を圧迫し、関節を満たす生ける水銀は寒冷の底で凝固しかけて俺の肉体を骨ごと締め付ける。生きている実感といえば、その狂おしいまでの重みと、鉄面の奥で鼻腔を突く己の血の生臭さだけであった。
視界のすべてを猛吹雪の白が埋め尽くす中、そびえ立つ怪物の輪郭は不自然な闇を纏って雪原の真ん中に君臨していた。見上げる頭頂は夜空の星を完全に覆い隠し、ただそこに根を張るだけで周囲の万物の熱を無限に吸い上げている。通常種とは比較にならないほど黒みがかった密毛が月光を鈍く弾き、城門のように分厚い耳の先端が青黒く凍てつく。十尋を超えるその山岳の如き巨躯は、存在すること自体が周囲の自然の理を歪めていた。皮膚の下で底知れぬ脈動が蠢くたび、巨大な鼻孔から熱を持たぬ蒸気が噴き出し、空気に触れた瞬間に結晶化してパキパキと不気味な音を立てて砕け散る。
俺はゼルレウスの双刃を腰の高さに低く構え、凍りついた息を細く吐き出した。白銀の刃が放つ極光だけが、この氷の地獄において唯一の光源であり、俺の視神経を辛うじて繋ぎ止める命綱であった。怪物の長い耳がぴく、と奇怪な蠢きを見せた。俺が雪を踏みしめた微かな振動を、その巨大な聴覚が正確に捉えたのだ。突如として、地鳴りのような咆哮が大気を激しく殴りつけた。怪物が頑強なる後ろ足で大地を踏み締め、その胸壁を天に向けて大きく膨らませる。山そのものが起き上がったかのような圧倒的な威圧感が、雪原の全方位へと放射された。
ウオォォォォォォン!!
大型の飛竜を遥かに凌駕する狂暴な振動波が、地表の氷床を剥ぎ取りながら疾走した。それは単なる音の範疇に収まるものではない。風圧そのものが火を噴くような、肉と骨を直接粉砕せんとする大気の激突が生む熱風の塊であった。視界が上下に激しく揺れ、耳の奥で壊れた半鐘のような金属音が鳴り響く。平衡感覚を根こそぎねじ切られかけるのを、俺は両脚の装甲を瞬時に硬化させ、重心を氷床の割れ目に深く沈めて耐え忍んだ。
咆哮の風圧が収まらぬうちに、怪物はその巨体を前方に傾けた。腹部の厚い甲殻が雪面に接地する。
ズウゥゥン!
人の身の知覚を超えた速度であった。怪物が斜面を滑り降りてくる。その腹甲に刻まれた芸術の域と呼ばれるほどに深い溝が雪を切り裂き、接地層の雪を一瞬で排出しながら、地表との摩擦を完全に消し去っていた。迫るは白と黒の巨大な壁。俺は一歩も引かった。数多の修羅場を潜りぬけた者のみが知る極限の間合い、その恐怖の先にある一瞬を狙う。引き付け――、さらに引き付ける。怪物の鼻息が面頬を焦がすその刹那。
――閃。
俺の身体が、まるで陽炎の如く虚空にブレた。古流武術にいう『紙一重の転(まろば)し』。神技。それ以外の言葉を拒む肉体の反転が、十尋の質量を無に帰せしめた。ゴォォォッ! と鼓膜を呪う暴風が通り過ぎる。しかし、怪物はそのまま通り過ぎるような愚鈍な獣ではない。滑走の勢いと凄絶な遠心力を利用し、左腕の鋭爪を氷床に深く突き立てて身を翻した。円を描くようにして後方へと牙を剥く、凄使の制動のバックスピンだ。丸太の如き右腕が遠心力に引かれて激しくしなって襲い来る。逃げ場はなかった。俺は双剣を交差させ、刃の面でその爪線を受け止めた。
キンッ!
硬質な衝撃が両腕の芯を突き抜け、肩の骨が軋みを上げる。力で抗えば腕がもぎ飛ぶのは必定。俺は衝撃のベクトルに合わせて自ら後方へ跳んだ。足を雪面に滑らせながら勢いを逃がし、三回制動をかけてピタリと止まる。手首を回し、無事を確認する。まだ動く。
大雪主はすでに次の行動に移っていた。発達した膂力が、雪原の凍土ごと地面を抉り取る。瞬時に作り出された二つの巨大な雪玉が、まるでジャグリングのようにお手玉され、時間差を持って俺の頭上へと放たれた。一つ目は頭上から垂直に、二つ目は斜めから退路を断つように落ちてくる。俺は前方に地を蹴った。一つ目の雪玉が背後で破裂し、地鳴りが足を震わせる。二つ目の雪玉が眼前に迫る中、応ッ! と両刃を打ち合わせた。刃打ち――。キィィン、と凍てつく夜空に甲高き金属鳴りが響き、ゼルレウスの双刃から狂おしいほどの燐光が弾け飛んだ。一時的に極限まで高められた斬れ味が、迫り来る雪塊の側面へと吸い込まれていく。
斬、と手応えが走る。白銀の軌跡が通り過ぎた直後、巨大な雪玉は左右へと美しく両断され、霧散した。だが、視界が開けた先に待っていたのは、更なる阿鼻叫喚であった。怪物は、距離を置いた俺を圧殺せんと、巨獣の如き超巨大な雪塊を押し転がしながら突進してきていたのだ。迫るは、さながら城壁の如き白き質量。怪物の本尊はその背後に完全に隠れて見えぬ。まともに受ければ、ハルドメルグの秘金ごと圧し潰され、一塊の肉泥と化すは必定――。俺はあえて雪玉の正面に向かって走った。速度を上げ、衝突の直前、雪面の僅かな傾斜を利用して跳躍する。極ノ型の空中機動。双剣の光波を推進力に変え、巨大な雪玉の頂点へと飛び乗った。氷の球体の上を、滑る足元を制御しながら三歩駆ける。その先に、雪玉の押し出す大雪主の青黒い耳が見えた。俺は雪玉の天辺から、怪物の顔面へと躍りかかった。双剣を逆手に持ち替え、脳天を目掛けて振り下ろす。
ガキンッ!
手応えは最悪だった。針金めいた豪剛毛が何重にも絡み合い、刃の侵入を完璧に拒む。未知の鉱物以上の硬度で光の刃を弾き返した。怪物は鬱陶しそうに頭部を振り、俺の身体は虚空へと放り出される。大雪主は空中の俺を見上げ、後ろ足のバネを爆発させて頭上から襲いかかる。ドロップキックだ。空中で回避の足場はない。俺は防具の流体金属を全面に展開し、盾の形状へと固定した。刹那の防衛。
ドゴォォォン!!
衝撃波が視界を白く染めた。直撃は免れたものの、怪物の足の甲が掠めただけで、俺の危機感知が激しく警鐘を鳴らし、身体は弾丸のように雪原へと叩きつけられた。何度もバウンドし、岩肌に激突する。
「がはっ……ひゅ、う……」
肺から強制的に空気が搾り出され、呼吸が完全に停止した。左の肋骨が二本、鈍い軋みを立ててへし折れ、その先端が内臓を裏側から突き刺すような凄絶な痛みが走る。口内には生温かい鉄の味が広がり、鉄面の内側を赤く汚した。あまりの苦痛に視界の端が明滅し、指先ひとつ動かすことすら拒絶するような絶望が全身を支配する。怪物は着地の勢いで仰向けにひっくり返り、巨大な四肢をバタバタと悶えさせているが、その隙を突くことなど到底叶わない。
俺は折れた骨を強引にハルドメルグの堅殻で内側から圧迫し、痛みを無理やり脳の奥底へ押しやった。泥を舐め、己の血を吐き捨てながら、ただ執念だけで立ち上がる。一瞬の膠着。怪物は驚異的な復元力で巨体を反転させ、俺の接近を警戒して後方へ激しく尻餅を突いた。
ズウゥゥン!
凄まじい大震動が地表を割り、崩壊した氷床の破片が四方に飛び散る。折れた肋骨が肉を引き裂くような激痛に、一瞬だけ目の前が真っ暗になった。追撃への絶望が脳裏をよぎる。しかし、ここで止まれば確実に肉塊にされる。俺はプロハンの誇りと意地を賭け、極ノ型の抜刀ダッシュから、流れるような回避ステップを繰り出した。体内の流体金属が一時的に完全な流動性を持ち、震動の波を完全に無効化する。肉体の悲鳴を押し殺し、冷気を切り裂きながら怪物の側面へと鋭く滑り込んだ。
大雪主の眼が、いよいよ血の赤色を濃くしていく。怪物は再度、地面へ両腕を深く突き刺した。今度は先ほどまでの比ではない。このエリアに堆積した数千トンもの雪の全てを巻き上げるかのような勢いで、見上げるほどの特大の雪玉を持ち上げ始めたのだ。質量そのものが光を遮り、周囲が完全に暗転する。これを投げられたら終わりだ。避ける術はない。
だが、超巨大な雪玉を頭上へ担ぎ上げたその姿勢は、怪物の重心が最も不安定になる瞬間でもあった。
通常個体と同じく、音に敏感なこの獣は、この大質量を支えている最中の突発的な高周波に弱いはずだ。懐の音爆弾――いや、先ほどの激突でポーチごと潰れ、中身は粉々に飛散している。直感と、追い詰められた狂気による一か八かの賭け。思考を淀ませながらも、俺の肉体は勝機へと動いていた。怪物は雪玉を担いだまま、俺の正確な位置を捉えるためにのそりと二歩、地響きを立てて向きを変える。その一瞬の隙を見逃さず、正面から向かって右側の完全な死角へと滑り込む。
両の刃を十文字に交差させ、ハルドメルグの動力をゼルレウスの双刃へと最大出力で注ぎ込んだ。輝界竜の光が狂おしいほどの燐光となって弾け、互いの刃の根元を極限の力で擦り合わせる。刃打ちの応用、極限の共鳴音。
ギィィィィィィィン!!!
白銀の閃光と共に、鼓膜を破らんばかりの鋭利な高周波が夜空へ放射された。大雪主の長い耳がピンと直立し、次瞬、激しく痙攣した。
グギャッ!?
怪物の脳神経が爆音によって麻痺し、巨体が大きくよろめいた。頭上に掲げられていた超巨大な雪玉が、その自重を支えきれなくなり、大雪主の脳天へと垂直に自由落下する。
ズドォォォォン!!!
山が崩落したかのような大音響。自身の作った質量兵器の直撃を受け、大雪主は脳震盪を起こして雪原に派手に頽れた。巨躯が横たわり、地面が激しく揺れる。長い行動不能時間。最大の勝機だった。「応ッ!」俺は雪を蹴った。ハルドメルグの装甲が駆動音を上げ、肉体の限界超の速度を引き出す。横たわる怪物の懐へ飛び込み、双剣を激しく振るう。乱舞の型ではない。肉質が比較的柔らかい脇腹の皮膚の隙間、剛毛の薄い箇所を正確に見極め、ピンポイントで刃を突き立てる。ザシュ! ザシュ! ザバァッ! ゼルレウスの光刃が、今度は確かに肉を裂く手応えを返してきた。青黒い変異体の血が噴き出し、俺の銀の鎧を斑に染めていく。鉄と凍気の混ざった狂暴な臭いが鼻腔を突いた。
だが、烈種の生命力は底が知れなかった。脳震盪の霧が晴れるより早く、怪物は生存本能で狂い狂った。咆哮すら上げず、強引に巨体を立ち上げる。その瞬間、体内の陰陽の調和が破綻し、暴走する妖気の炉が完全に暴れ始めた。
その場の空気が、一瞬で変わった。大雪主の全身から吹き出す凍気が凝り固まり、禍々しき青紫色へと変じる。気圧と温度が劇的に変動し、周囲の気温は絶対零度近くまで急降下し、大気中の成分が液化して滴り落ちるのが見えた。空気が希薄になり、息ができない。肺が凍りつく恐怖。全身の剛毛衣が逆立ち、空間そのものが凍気で歪んでいた。
怪物はその青紫の空間を纏ったまま、狂暴な速度で突進してきた。前方の空気抵抗を自らの超低温で打ち消し、慣性を無視したような急制動で迫ってくる。視界は狭く、身体は冷気で動かない。防具の流体金属すら凍りつきかけている。避けることは不可能だ。なら、合わせる。
迫り来る怪物の顎が、視界のすべてを覆い尽くしていく。その巨大な牙に付着した凍土の結晶、激しく脈打つ鼻孔の粘膜までが、死線の中での極限の集中状態によって、まるで時間が止まったかのようにスローモーションで脳裏に焼き付く。折れた骨の痛みすら消え去り、世界から音が消えた。俺にあるのは、ただ敵の喉元を貫くという狂おしいまでの執念だけだった。一瞬の静寂の後、怪物の巨躯が眼前に達する。
俺は双剣の光を極限まで収束させた。輝界竜の白き光が、刃の輪郭を消し去り、純粋なエネルギーの質量体と化す。正面から迫る絶望。怪物の赤い眼が、俺の姿を捉えている。十メートル、五メートル――。「これで、終わりだッ!」突進の風圧が俺の身体を切り裂く直前、俺は前方へと地を滑るように踏み込んだ。極ノ型・回避斬り。怪物の巨大な顎の直下を、紙一重ですり抜ける。過酷な凍気が鎧を削り、皮膚が壊死していく感覚が走るが、無視した。すれ違いざま、双刃に宿る狂おしい燐光の奔流が、内側から怪物の肉を焼き切り、熱の調和を完全に破壊する。大雪主の巨体が、ビクンと大きく跳ね上がった。次の瞬間、制御を失った体内の過剰な熱エネルギーが暴走し、全身の剛毛衣を内側から凄まじい勢いで融解させていった。青紫色の凍気が一瞬で霧散し、ただの濡れた毛皮へと変わっていく。怪物の眼から赤光が消え、濁った灰色の瞳が天を仰いだ。
ズウゥゥン……。
圧倒的な質量が、力なく雪原へと沈み込む。二度と、動かない。俺は双剣を納め、返り血で汚れた面頬を乱暴に拭った。ハルドメルグの装甲の隙間から、溜まっていた熱気が濁った白煙となって夜空へ抜けていく。壊れた肋骨が激痛を訴えていたが、構わずに雪原を歩き出した。「ふぅ……まあ、メゼポルタの狂った化け物どもに比べれば、まだこいつのほうがマシだったな」俺は一歩一歩、次の獲物が待つ闇の先へと足を運ぶのだった。