内容:あんたら、頼む。もうギルドの役人どもは誰もこの声を聞いちゃくれねえ。補給線が途絶したとか、公的な救済は麻痺したとか、もっともらしいお題目ばかりを並べ立てて、高みの見物ときやがる。街の辻には、脂の抜けた皮膚を凍らせた死体が、あの日からいくつ転がっているか数え切れねえ。このままじゃ、我ら薄汚れた民から順に、この極寒の不条理に呑まれて飢え死ぬだけだ。
物知りの隠者が震えながら言っていた。
「いくら倒しても結果は同じ、死肉を強引に跳ね上げて立ち上がる不死の怪異だ」と、ギルドの書付には絶望ばかりが踊っている。だがな、我らにとって、あの峻嶺で命を繋ぐあんたら三人だけが、暗闇に明滅する唯一の灯火なんだ。
青き生体電鳴を引く弓引きの旦那。
泥のごとき大剣を構える岩穿の御仁。
そして、鏖魔の黒鎧を纏い、狂気の歓喜に目を濡らす修羅の女。
あんたらの、その泥臭い生への執念だけが、あの不滅の心臓をバラバラに解体できる。報酬なんて気の利いたものは、この寂びれた懐には何一つ残っちゃいねえ。だが、あんたらが背負う武具の重みが、我らの命の重みそのものだ。
ドンドルマで、いや、この凍土と化した世界で本当に頼れるのは、あんたらだけだ。
どうか、あの白魔の底へ沈んだ影を追ってくれ。我らの飢えた指先が、あんたらの背を押し、その足跡が新雪に埋もれぬことを、ただ祈っている。
天空山の峻嶺は、この日、白魔の版図と化していた。
乾坤を圧する猛吹雪の中、南ヨシュアは岩穿の重甲に身を包み、大剣を泥のごとく構えている。鼻腔を穿つ冷気はすでに生身の領分を超え、喉の奥を剃刀で削るように抉った。重兜の裡で、ただ、濁呼吸を吐き出すのみである。指先の感覚はとうに失せていた。そればかりか、纏う重甲の底から、己の体温と体力が根こそぎ強引に吸い上げられるような、おぞましい悪寒が背筋を駆け上がる。武具の隙間を這入る冷気ではない。この場に君臨する、あの漆黒の巨躯が放つ異常な磁場が、剥き出しの生命力を引きずり出そうとしていた。
ふと、視界の端で凍りつく千切れ雲が、あの日ドンドルマの薄汚れた街頭で自分の具足を掴んできた、痩せこけた民の飢えた指先のように見えた。ギルドの補給線はすでに途絶し、公的な救済機能は完全に麻痺している。あのとき縋り付いてきた老婆の、脂の抜けた皮膚の冷たさが、いま甲冑の隙間から滑り込んでくる死気と酷似していた。己がここで果てれば、あの街の連中もろとも、この極寒の不条理に呑まれるだけだ。そんな場違いな戦慄が、一瞬だけヨシュアの思考を掠めて消えた。
「おいおい、冗談だろ。奴の周囲だけ熱量が消えてやがる。エントロピーの法則が逆転でもしてんのかよ」
吹雪の合間から、由紀夫の怒声が途切れ途切れに響く。彼の引く青雷主の強弓は、極低温下にあってもなお、武具の芯から放たれる青き生体電鳴を絶やさぬ。だが、その強靭な腕もまた、明らかな過冷却による微震を始めていた。尋常の風ではない。彼方の雪原に四肢を張る漆黒の巨躯――獰猛化ジンオウガ亜種「不死種」が放つ、妖気の仕業であった。
宿す眼光は禍々しいまでの赤。だが、何よりヨシュアの肝を冷やしたのは、その背甲から立ち上る光の群れであった。雪結晶の乱反射の中に混じる、負の電荷を帯びた生体電流を放つ変異甲虫。すなわち「超幽明蝕龍蟲」の明滅は、あたかも冥府の灯火が宙に群れて蠢くがごとき怪異である。龍殺しの果実の成分を貪り、不死虫の驚異的な細胞修復能力を体内に宿したその虫たちは、じりじりと音を立てて体表を変色させてゆく。それは周囲のあらゆる熱量を貪り喰らい、宿主の死肉を強引に稼働させ続けるための、不滅の心臓がいくつも浮遊しているかのようであった。
「いいじゃないの。何度倒しても立ち上がるなんて、まさに至高の生命力。その美しさ、私がこのスラッシュアックスでバラバラに解体してあげるわ」
狂気を含んだ歓喜の声を上げたのは、カーズ様大好き♡であった。彼女の纏う鏖魔の黒き鎧は、宿主の猛る闘争本能に呼応するように、じわじわと赤黒い血管のような紋様を浮き上がらせている。手にしたスラッシュアックスの柄を握る指先は、凍傷の恐怖など微塵もないかのように、ただ血湧き肉躍る歓喜に震えていた。異名として「カーズ様大好き♡」などとふざけた名を自称するこの女、その実は死線を踏み越えた修羅の一人にほかならない。
地鳴りのような唸りが、足元の雪面を激しく震わせる。
巨獣の四肢が、一瞬で雪を蹴った。
質量を感じさせない初速。地を這う弾丸と化した巨獣が、一直線に突進してくる。その軸線上に位置するのは、南ヨシュアであった。
「応」
ヨシュアは地を震わせて吠え、退かぬ。大剣の肉厚なる刀身を前に出し、衝撃を正面から受け止める構えをとった。
直後、地軸を揺るがす爆音とともに、前脚が叩きつけられる。
火花、そして骨を軋ませる重低音。雪が爆散し、大剣の腹を通じて南ヨシュアの腕の骨が軋み、筋肉が引きちぎれるかと思うほどの衝撃が突き抜けた。通常、合戦における衝撃波は一瞬のものだが、この不死種の骸から這い出た黒き蒸気は、触れた瞬間に南ヨシュアの生気そのものを強奪し、己の血肉へと還元せしむる怪功を有していた。視界が不規則に明滅する。体力を吸い上げられたのだ。事実、先刻南ヨシュアが刻んだはずの胸元の創傷が、見る間に肉芽を巻き立てて塞がっていく。
巨獣は南ヨシュアを大剣ごと力任せに押し潰さんと、さらに四肢に力を込め、その背甲の毛を逆立たせた。幽明チャージであった。周囲を漂う超幽明蝕龍蟲たちが猛烈な速度で明滅し、肉体へ電気エネルギーを還元していく。傷口が塞がるどころか、その肉体そのものが、より強固に作り替えられていくかのようであった。飛び散った獣の返り血がヨシュアの覗き穴にべっとりと張り付き、凝固する獣脂の強烈な腐臭と、鉄の錆びたような臭気が鼻腔を衝いて吐き気が込み上げる。
「下がってろ、南ヨシュア」
由紀夫の叫びとともに、青き電矢が放たれた。
風を切り裂き、音速を超えて放たれた矢が、側腹部に突き刺さる。青雷主の弓から放たれた高電圧の電流が、巨獣の肉体を内側から激しく焼く。
同時に由紀夫は弓を天に向け、弦を満開に引き絞った。
狩技――アクセルレイン。
特殊な生体電流の複合作用により、彼の運動速度が限界を突破する。由紀夫の輪郭が、残像を伴ってブレ始めた。
吹き荒れる細氷の礫が、加速した彼の頬を容赦なく切り裂き、血の玉が宙で瞬時に凍りつく。速度を増した電矢の豪雨。それらは四肢に的確に命中し、超幽明蝕龍蟲の防御電界を内側から強引に突破していく。いくら再生しようとも、それを上回る圧倒的な手数が、モンスターの筋肉組織を麻痺させていく。
だが、退かぬ。
天に向かって吠える。その咆哮とともに、背甲から五つの光球が撃ち出された。超幽明蝕龍蟲弾である。
「おい、なんだあの動きは」
由紀夫の顔が驚愕に歪む。
撃ち出された五つの光球は、放物線を描くことなく、空間の一定座標にピタリと静止した。慣性を跡形もなく無視して、そこに停滞している。そして、一瞬のディレイののち、まるで意思を持っているかのように、鋭角な変態軌道を描いて由紀夫へと殺到した。
世界の時間が不自然に引き延ばされたかのように、乱舞する雪の結晶が一つひとつ、ゆっくりと宙に静止して見える。その静寂を切り裂き、由紀夫は雪上を必死に転がり、間一髪でそれをかわす。着弾した雪面は、熱で融けるのではない。龍属性の負エネルギーによって存在そのものを削り取られるように、黒い砂となって消滅した。
巨獣は回避行動で完全に動きの鈍った由紀夫を見逃さず、すぐさま次なる突進へとその巨躯を翻した。
「させん」
南ヨシュアが再びその射線へと割り込む。今度はただ耐えるのではない。大剣を天に掲げ、全身から青白い闘気を噴出させた。
狩技――獣宿し【獅子】。
己の精神力と、残されたすべての熱量を武具へと込める。大剣の周囲の空気が、その質量に耐えかねて不気味に歪み始めた。
地を揺るがす勢いで突っ込んできた巨獣の頭部へ、南ヨシュアは正面から泥臭く大剣を叩きつけ、その圧倒的な運動エネルギーを相殺せんと骨を軋ませる。巨獣の強靭な顎が大剣の刀身を噛み砕かんと迫り、南ヨシュアの足元は雪を削って深く沈み込んだ。正面での凄絶なせめぎ合い。巨獣は南ヨシュアを圧殺することに全神経を注ぎ、その巨躯を前傾させて深く踏み込んできた。これにより、四足歩行の長い背甲が、南ヨシュアの頭上へと大きくせり出す形となる。
「私の存在を忘れないで戴こうかしらッ」
その刹那、南ヨシュアの背後から黒い影が躍り出た。カーズ様大好き♡である。
彼女は正面で巨獣の顎を大剣でせき止めている南ヨシュアの、その岩穿の重厚な肩を力強く足場として踏みつけた。鏖魔の脚力が爆発的な跳躍を生み、彼女の身体は真上へと垂直に打ち上げられる。
せり出していた巨獣の頭部を完全に飛び越え、その視線は直下に位置する「背甲の幽明虫の巣」を正確に捉えていた。
空中にて、スラッシュアックスが剣形態へと変形し、内部の属性ボトルが限界まで励起される。刃はすでに属性の過負荷で赤く融けかかっていた。
「死になさい」
裂帛の気合とともに、落下重力をすべて乗せた一撃が、激しく明滅する超幽明蝕龍蟲の拠定的器官へと突き立てられた。
狩技――トランスラッシュ。
変形機構を完全に破壊しながら、刀身を直に鷲掴みにするかのごとき狂気的な執念で、最大出力の属性解放をその巣穴の奥深くへと注ぎ込む。
最大の爆発が、天空山の頂を揺るがした。
巨獣の背中から、無数の超幽明蝕龍蟲の死骸が、黒い灰となって夜空へと舞い上がった。最大のエネルギー供給源を絶たれ、巨獣の動きが、今度こそ完全に停止する。
その巨躯が、ゆっくりと、しかし確実に横倒しに倒れ込んだ。
重い質量の沈む音が、吹雪の音に消えていく。
激しい呼吸の音だけが、吹雪の中に響く。
ヨシュアは大剣に寄りかかりながら、膝をついた。全身の筋肉が、限界を超えた運動による痛みを訴えている。だが、その視線の先にある巨獣からは、もはやあのどす黒い蒸気は立ち昇っていなかった。
「終わったな」
由紀夫が弓を地面に置き、深く息を吐き出す。彼の腕は、もう矢を番う力すら残っていなかった。筋肉の各所から微細な出血が始まっており、アクセルレインの反動が容赦なくその肉体を蝕んでいる。
カーズ様大好き♡は、融け落ちたスラッシュアックスを眺めながら、その場に大の字に寝転がった。両腕の皮膚を焼け焦がしながらも、その瞳は昏い歓喜に濡れている。
「あはは!……最高。最高の戦いだったわ」
――やったか、と由紀夫は喉の奥で呟いた。
しかし、戦慄の幕引きは、彼らの安堵を嘲笑うかのように訪れた。
沈黙したはずの漆黒の巨躯が、突如として痙攣を始める。背甲の底、潰えたはずの経絡から、残存する超幽明蝕龍蟲の生体電流が火花を散らした。蘭方の医学でいう細胞の生命源、その極限の残滓が、死肉の四肢を強引に跳ね上げる。
巨獣は立ち上がらなかった。いや、立ち上がるだけの熱量を、すでに三人の刃が奪い尽くしていた。だが、奴は咆哮の代わりに、喉の奥からおぞましい龍鳴を絞り出す。
四肢を這わせ、尾を猛烈に振るい、崩落しかけた崖の縁へとその巨体を滑らせていく。追撃の刃を構える余力など、誰一人として残っていなかった。
「逃げる……気か」
由紀夫の視線の先で、巨獣は自ら千尋の谷へと身を投げた。
赤黒い蒸気の尾を引きながら、白魔の底へと沈んでいく漆黒の影。それは討伐の完遂ではなく、ただ「生」への無慈悲な執着がもたらした、不気味な一時撤退に過ぎなかった。
後世、龍歴院の書庫に収められた『天空山戦記』の一節には、こう記されることになる。
――生物の命とは、環境という巨大な閉鎖系における、一時的な熱の揺らぎに過ぎない。しかし、その揺らぎが他者を圧倒する意思を持った時、理は覆る――
三人のハンターの影は、吹き荒れる白魔の壁の向こうへと、ゆっくりと消えていった。その足跡は、瞬く間に新雪によって埋め尽くされ、何事もなかったかのように、ただ純白の静寂だけが峻嶺を支配した。