二人の守り人 作:last cinders
柳瀬美由紀との顔合わせは、一週間後に決まった。
その一週間という時間を、瀬戸篤志は最初、猶予だと思った。
けれど久住遥真は、猶予とは呼ばなかった。
「訓練期間だ」
辞令を受けた日の夜、久住は自宅の机にノートを広げ、いつもの平坦な声でそう言った。
『訓練期間』
「そうだ」
『俺、これから何をさせられるんですか』
「感情反応の抑制、視線の制御、発言制限、プロデューサー職責の確認、それから彼女を君の未練と切り離して見る練習」
『多い』
「多いから一週間使う」
『久住さん、死後の同居人を本当に業務研修みたいに扱うよね』
「君は業務に影響する」
『否定できない』
「なら訓練対象だ」
篤志は少し黙ったあと、観念したように返事をした。
『はい』
久住はノートの上に、受け取った資料を置いた。
第三芸能部プロデュース課の業務概要。
未成年アイドルの稼働規定。
保護者連絡フロー。
学校行事との調整ルール。
レッスン、イベント、取材、収録の承認手順。
そして、柳瀬美由紀のプロフィール資料。
ただし、最後の一枚だけは裏返しに置かれていた。
篤志の意識が、そこへ吸い寄せられる。
久住はすぐに言った。
「見るな」
『見てないです』
「見ようとしている」
『見ようとは、しました』
「正直でよろしい」
『よろしいんだ』
「修正できるならな」
久住は裏返したプロフィール資料の上に、ペンを一本置いた。紙が風でめくれるわけでもないのに、まるで封印でもするようだった。
「最初に確認する。彼女の資料を読む目的は何だ」
『美由紀ちゃんのことを知るため』
「違う」
『えっ』
「半分違う。俺たちがこれから読むのは、君が好きだった子の情報ではなく、俺が副担当プロデューサーとして関わるアイドルの業務資料だ」
篤志は黙った。
久住は続ける。
「年齢、出身地、趣味、過去の仕事、現場での注意点。これらは感動するための情報ではない。仕事を安全に進めるための情報だ」
『はい』
「君が"知っている"と思っている情報が、現実の彼女にそのまま当てはまるとは限らない。ゲームの台詞、カード、イベント、そこから想像したもの。それらを持ち込むな」
『でも、たぶん、合ってるところもあります』
「あるだろうな」
『じゃあ』
「だから危ない」
久住の声は静かだったが、逃げ道がなかった。
「合っている部分があると、人は間違っている部分にも気づきにくくなる。君は彼女を長く見てきた。だからこそ、"知っているつもり"になりやすい」
篤志の声が、少しだけ沈んだ。
『……はい』
「落ち込むな。これは糾弾ではない。注意事項だ」
『久住さんの注意事項、けっこう刺さるんですよ』
「刺さらない注意事項は忘れる」
『一理ある』
久住はノートに見出しを書いた。
柳瀬美由紀とのコミュニケーションに関する訓練。
一、知識と観察を分ける。
二、感情と判断を分ける。
三、未練と職責を分ける。
四、声を聞いた瞬間に崩れても、彼女に向けない。
篤志はその四行を見て、最後の一つで黙った。
『……崩れる前提なんですね』
「前提にする。俺は君が崩れるとある意味"信用"している。悪い方向にだがな」
『"信用"』
「それに、想定外にすると事故になる」
『事故』
「君が内側で泣くのは構わない。俺の呼吸が乱れるのは困る。俺の表情が崩れるのはもっと困る。彼女に不安を与えるのは論外だ」
『はい』
「だから、崩れても外へ出さない訓練をする」
『スパルタだ』
「必要だ」
久住はまず、プロフィール資料を使わない訓練から始めた。
最初の課題は、名前だった。
「俺がこれから、彼女の名前を口にする。君は反応を抑えろ」
『え、いきなり?』
「名前で崩れるなら顔合わせは無理だ」
『それはそうですけど』
「いくぞ」
『待っ』
「柳瀬美由紀」
篤志の感情が跳ねた。
声は出なかったが、胸の奥で何かが大きく波打ち、久住の指先がわずかに強ばる。久住はそれを確認し、ノートに小さく印をつけた。
「失敗」
『判定が早い』
「指に出た」
『指に出るんだ……』
「出る。もう一度」
『ちょっと待って、心の準備を』
「心の準備が必要な時点で問題だ。柳瀬美由紀」
今度は呼吸が乱れた。
久住はまた印をつける。
「失敗」
『久住さん、容赦ない』
「三回目」
『はい』
「柳瀬美由紀」
篤志は、今度は必死に感情を押し込めた。
それでも、喉の奥に何かが詰まるような感覚が久住へ伝わった。身体を持たない篤志に喉などないはずなのに、久住の喉が代わりに固くなる。
久住は水を一口飲んだ。
「喉に出た」
『すみません』
「謝るより、出た場所を覚えろ」
『出た場所』
「君の感情は、俺の身体のどこへ出やすいか。指、呼吸、喉、視線。外側に出る経路を把握する」
『久住さん、本当に研修みたいにするんですね』
「そうだ。君を精神論で抑えるつもりはない。仕組みにする」
篤志は、その言葉に少しだけ安心したようだった。
『仕組みにする』
「感情は消せない。なら、漏れ方を知って対策する」
『……はい』
名前の訓練は、その日だけで三十回行われた。
最初の十回は全敗だった。
篤志はそのたびに、驚き、震え、謝り、落ち込み、それを久住に叱られた。叱られたと言っても、久住は声を荒げない。ただ、「謝罪ではなく記録」「反省ではなく修正」「感動を減らせとは言っていない、外へ出すな」と淡々と言うだけだ。
二十回を過ぎる頃、篤志は少しずつコツを掴み始めた。
『名前を聞いた瞬間に、美由紀ちゃんのことを考えないようにするのは無理です』
「だろうな」
『だから、先に久住さんのノートを見るようにします』
「どういうことだ」
『名前を聞いたら、顔とかカードとか台詞じゃなくて、ノートの四行を見る。知識と観察を分ける、感情と判断を分ける、未練と職責を分ける、声を聞いた瞬間に崩れても彼女に向けない』
久住は少しだけ目を細めた。
「有効そうだな」
『補助線です』
「自分に補助線を引くわけか」
『はい』
「採用する」
篤志は小さく喜んだ。
その喜びは指にも呼吸にも出なかった。
久住はノートに書いた。
対策一、名前への反応時、感情対象ではなく訓練文へ意識を向ける。効果あり。