二人の守り人   作:last cinders

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恐怖の整理

 

 

 

翌日から、訓練は少しずつ具体的になった。

 

二日目は、資料を読む訓練だった。

 

久住は柳瀬美由紀のプロフィール資料を表に返し、ただし写真の部分を紙で隠した。篤志が小さく息を呑む気配があったが、久住は反応しなかった。

 

「まず文字情報だけ読む」

 

『はい』

 

「君は、知っていると思った箇所があっても反応しない。業務資料として読む」

 

『はい』

 

久住は声に出して読み上げた。

 

十四歳。

北海道出身。

趣味、ぬいぐるみ集め。

好きなもの、カニ。

都内移動に不慣れなため、初回現場では導線説明を丁寧に行うこと。

年齢相応に緊張しやすいが、本人は明るく振る舞う傾向あり。

地元や家族の話題には前向きだが、安易なキャラクター化には注意。

 

篤志は、途中で何度か揺れた。

 

特に「ぬいぐるみ」と「カニ」で大きく反応した。

 

『すみません』

 

「まだ何も言っていない」

 

『いや、出ましたよね』

 

「出た」

 

『やっぱり』

 

「ただ、名前の初回よりは小さい」

 

『進歩?』

 

「進歩」

 

『やった』

 

「喜ぶな」

 

『小さく』

 

「それは許可する」

 

篤志は、以前より喜び方が上手くなっていた。

 

それも奇妙な表現だが、久住にはそう感じられた。感情をなくすのではなく、感情を一度手元に置き、外へ出す量を調整する。篤志はその感覚を、少しずつ覚えている。

 

資料を読み終えたあと、久住は問うた。

 

「今読んだ内容のうち、業務上の注意点を三つ挙げろ」

 

『えっと、都内移動に不慣れだから導線説明を丁寧にする。緊張しても明るく振る舞う傾向があるから、表情だけで大丈夫と判断しない。地元や家族の話題を、安易なキャラ付けに使わない』

 

「よろしい」

 

『今の、ちゃんと業務っぽかった?』

 

「業務っぽかった」

 

『よかった』

 

「次。君の感情反応が強かった箇所を挙げろ」

 

『ぬいぐるみとカニ』

 

「理由は」

 

『知ってたからです。俺が見てきた美由紀ちゃんの好きなものだったから。文字で見るだけで、ああ本当にこの子なんだって思いました』

 

「その感情は業務判断に使えるか」

 

篤志は少し考えた。

 

『そのままは使えません』

 

「なぜ」

 

『俺が嬉しいだけだから』

 

「そうだ」

 

『でも、美由紀ちゃんがぬいぐるみやカニを大事にしてる可能性がある、という確認事項にはできます』

 

「よろしい」

 

久住はノートに書いた。

 

知識を"事実"として扱わず、"確認事項"として扱う訓練。効果あり。

 

三日目は、視線の訓練だった。

 

久住は写真部分を隠していた紙を外した。

 

篤志の感情が、名前のときとは違う形で揺れた。

 

それは叫びではなかった。

もっと静かで、深い。

長い間、画面越しに見ていたものが、業務資料の写真として現れたことへの、言いようのない混乱だった。

 

『……写真だ』

 

「そうだ」

 

『知ってる顔なのに、知らない資料に載ってる』

 

「資料として見る」

 

『はい』

 

「見る場所を指定する。顔全体を見続けるな。最初は資料右上の日付、次に備考欄、最後に写真を三秒だけ見る」

 

『三秒』

 

「それ以上は見るな」

 

『はい』

 

久住は指示通り、日付、備考欄、写真の順に視線を動かした。

 

写真の少女は笑っていた。

 

三秒。

 

久住は視線を外す。

 

篤志は壊れなかった。

 

ただ、深く沈黙した。

 

「どうだった」

 

『見たいです』

 

「だろうな」

 

『もっと見たいです。細かいところまで見たい。表情とか、髪とか、衣装とか、全部覚えたい。でも、今それをやったら、たぶん仕事じゃなくなります』

 

「そうだ」

 

『三秒って、短いですね』

 

「仕事上必要な確認には足りる」

 

『担当としては足りない』

 

「君の"担当"と俺の副担当を混ぜるな」

 

『はい』

 

篤志はその返事を、何度も繰り返すように胸の奥へ沈めた。

 

四日目は、プロデュース課の資料を読んだ。

 

そこには、久住がこれから関わる職務が具体的に並んでいた。

 

アイドル本人との定期面談。

レッスン方針の共有。

仕事候補の検討。

露出内容のチェック。

体調、学業、家庭とのバランス。

保護者への説明。

本人の希望と事務所方針の調整。

長期的な育成方針の策定補助。

 

篤志は、最初こそ緊張していたが、読み進めるにつれて別の種類の沈黙に入った。

 

『プロデューサーって、こんなに見るんですね』

 

「見るし、決める」

 

『俺が思ってた"プロデューサー"って、もっと応援する人だった』

 

「それも一部ではあるだろう」

 

『でも、応援だけじゃない』

 

「そうだ」

 

『仕事を取る人で、止める人で、守る人で、見せ方を考える人で、本人の希望を聞く人で、でも全部叶えるわけじゃない人』

 

「かなり雑だが、おおむねそうだ」

 

『俺、これを勝手に名乗ってたんだな』

 

「君の世界での言葉の使い方まで否定するつもりはない」

 

『でも、重さが違う』

 

「違う」

 

『……怖いですね』

 

久住は少し意外に思った。

 

篤志の声には、嫉妬や喜びよりも、恐怖があった。

 

『久住さんが美由紀ちゃんのプロデューサーになるの、最初は嬉しくて悔しかったんですけど。資料読んだら、怖いです。こんなに関わるんだって。こっちの判断で、仕事も、見え方も、たぶん未来も少し変わる』

 

「だから訓練している」

 

『はい』

 

「怖いと思えるなら、まだいい」

 

『いいんですか』

 

「怖がらずに触る方が危ない」

 

篤志は黙った。

 

それから、静かに言った。

 

『久住さんが怖がってるの、初めてわかった気がします』

 

久住は返事をしなかった。

 

正確には、返事をする必要がなかった。

 

久住はずっと怖かった。

 

頭の中に死んだ男がいることも、その男の担当だった少女を仕事として支えることになることも、プロデューサーという職責を突然背負わされることも、すべて怖い。

 

だが、怖いからといって手を止めるわけにはいかない。

怖いなら、手順を増やす。

怖いなら、確認を増やす。

怖いなら、線を引く。

 

久住がやっているのは、そういうことだった。

 

五日目、久住は篤志に一つの課題を出した。

 

「彼女に関して、君が言いたくなることを十個挙げろ」

 

『え、十個も?』

 

「挙げろ」

 

『かわいい』

 

「却下」

 

『早い』

 

「業務上の確認事項に変換できない」

 

『えっと、ぬいぐるみが好きだから、楽屋に置く小物とかで安心できるかもしれない』

 

「採用候補。ただし本人確認が必要」

 

『カニが好きだから、北海道関連の仕事に向いてるかもしれない』

 

「安易。理由を添えろ」

 

『実家とか地元の話に本人の言葉があるなら、単なるご当地じゃなくて、生活実感のある話ができるかもしれない』

 

「採用候補」

 

『都会に慣れてないなら、移動ルートは階段少なめとか、迷ったときに聞きやすい駅員窓口を含めた方がいい』

 

「採用」

 

『おしゃれ勉強中なら、衣装合わせで"似合う"だけじゃなくて"本人が安心できるか"を聞いた方がいい』

 

「採用候補」

 

『緊張しても明るく振る舞うなら、大丈夫ですって言っても休憩を確認した方がいい』

 

「採用」

 

『人を元気にしたい子だと思うので、逆に自分が疲れてるときも頑張っちゃうかもしれない』

 

「"思う"が強い。確認事項としてなら採用」

 

『……俺、けっこう知識を変換できてる?』

 

「途中まではな。続けろ」

 

篤志は考えながら、少しずつ言葉を選んだ。

 

以前の彼なら、好きだ、かわいい、尊い、見てほしい、聞いてほしい、そういう言葉が先に出たはずだった。今もそれらがないわけではない。むしろ奥では溢れている。

 

けれど彼は、それを久住へそのまま投げなくなった。

 

自分の好きだった要素を、業務上の確認事項へ変換する。

 

それは、篤志がファンであったことを捨てる作業ではなかった。

ファンとして見てきた時間を、彼女へ押しつけない形に整える作業だった。

 

十個目を言い終えたあと、篤志は疲れたように黙った。

 

「どうした」

 

『難しいです』

 

「何が」

 

『好きだったものを、仕事の言葉にするの』

 

久住はペンを置いた。

 

篤志は続けた。

 

『そのまま言うと、俺の感情になる。でも削りすぎると、美由紀ちゃんの良さまで消しちゃう気がする。かわいいとか、好きとか、大事とか、そういう言葉を全部抜くと、なんか冷たい資料になる』

 

「そうだな」

 

『え、そうなんですか』

 

「感情を全て消せとは言っていない。仕事の言葉にするとは、感情を殺すことではなく、相手のために使える形へ整えることだ」

 

篤志は、長く黙った。

 

『それ、難しいけど、いいですね』

 

「難しいから仕事になる」

 

『久住さん、たまに本当にプロデューサーみたいなこと言う』

 

「これからなるんだ」

 

『……そうでした』

 

その返事には、悔しさと、嬉しさと、ほんの少しの信頼が混じっていた。

 

六日目、久住は顔合わせの予行演習をした。

 

部屋の中に椅子を二脚置く。

 

片方には久住が座り、もう片方は空席のままにする。美由紀が座る想定だ。机の上にはノート、ペン、資料。久住は背筋を伸ばし、ゆっくりと口を開いた。

 

「久住遥真です。来月から、副担当プロデューサーとして関わります。よろしくお願いします」

 

篤志が小さく揺れた。

 

「今の反応は何だ」

 

『"副担当プロデューサー"って言葉に反応しました』

 

「まだ反応するか」

 

『します』

 

「もう一度」

 

久住は同じ挨拶を繰り返した。

 

篤志は、二度目で少し抑えた。

 

三度目で、さらに抑えた。

 

五度目には、ほとんど外へ出なくなった。

 

「次は、彼女が挨拶したと仮定する」

 

『声は?』

 

「声は出さない。俺が台詞だけ読む」

 

『はい』

 

久住は目の前の空席を見た。

 

「はじめまして。柳瀬美由紀です。よろしくお願いします」

 

その瞬間、篤志の内側が激しく揺れた。

 

声ではない。

 

久住の声で読んだだけだ。

 

それでも、台詞の形が危なかった。

 

篤志は必死にノートの四行へ意識を戻そうとした。知識と観察を分ける。感情と判断を分ける。未練と職責を分ける。声を聞いた瞬間に崩れても彼女に向けない。

 

久住は黙って待った。

 

「瀬戸」

 

『……はい』

 

「今のはかなり出た」

 

『すみません』

 

「謝罪ではなく記録」

 

『はい。台詞形式が危ないです。名前だけより危ない。挨拶される想定が、たぶん駄目です』

 

「対策は」

 

『挨拶を、俺に向けられたものだと思わない』

 

「そうだ」

 

『久住さんに向けられた仕事の挨拶。俺にじゃない。俺のための声じゃない』

 

「もう一度」

 

『はい』

 

久住は繰り返した。

 

「はじめまして。柳瀬美由紀です。よろしくお願いします」

 

篤志は揺れた。

 

だが、さっきよりは小さかった。

 

「もう一度」

 

『はい』

 

「はじめまして。柳瀬美由紀です。よろしくお願いします」

 

三回目、篤志は言葉にならない感情を押し込めたまま、ようやく久住の呼吸を乱さずにいられた。

 

久住はノートに印をつける。

 

「最低限」

 

『合格じゃないんですね』

 

「最低限だ」

 

『久住さんらしい』

 

「本番では、声がつく」

 

『……はい』

 

「声は、この訓練より強い」

 

『わかってます』

 

「おそらく、君は崩れる」

 

『はい』

 

「そのとき、最初にやることは」

 

『ノートの四行を見る』

 

「次」

 

『久住さんの呼吸を邪魔しない』

 

「次」

 

『美由紀ちゃんに向けない』

 

「次」

 

『俺のための声じゃないと確認する』

 

「よろしい」

 

篤志は長く息を吐くような気配を見せた。

 

『本番、怖いです』

 

「俺もだ」

 

『久住さんも?』

 

「当然だ」

 

『そっか』

 

篤志は、少しだけ安心したようだった。

 

『久住さんが怖いなら、俺が怖くてもいいですね』

 

「君が怖がることは最初から禁止していない」

 

『はい』

 

「禁止しているのは、怖さや感動を彼女に背負わせることだ」

 

『はい』

 

七日目、顔合わせの前夜。

 

久住はノートを開き、最後の確認をした。

 

四行の確認、呼吸制御、視線制限、発言禁止。

 

篤志は、その文章を黙って読んでいた。

 

『明日ですね』

 

「そうだ」

 

『俺、寝られないかもしれない』

 

「君に睡眠が必要か不明だが、少なくとも俺の睡眠を妨げるな」

 

『はい』

 

「明日の朝、彼女の資料は読まない。顔合わせ前に情報を入れすぎると君が崩れる」

 

『はい』

 

「挨拶では、俺が話す。君は黙る」

 

『はい』

 

「彼女の声を聞いた瞬間、何か言いたくなっても黙る」

 

『はい』

 

「泣くなら内側で泣け」

 

篤志は、少しだけ笑った。

 

『久住さん、言い方』

 

「外で泣かれるよりいい」

 

『はい』

 

久住はノートを閉じた。

 

部屋の明かりを落とし、布団に入る。暗闇の中で、篤志の気配はいつもより近かった。緊張しているのだろう。静かにしているが、眠りの端に指をかけるたび、その緊張が久住の意識へ触れる。

 

「瀬戸」

 

『はい』

 

「明日、君が壊れても、それだけで失敗ではない」

 

篤志は黙った。

 

久住は続ける。

 

「壊れたあと、彼女に向けなければいい。俺の仕事を妨げなければいい。君自身が戻ってこられればいい」

 

『戻ってこられなかったら?』

 

「戻す」

 

『久住さんが?』

 

「俺の中にいる以上、放置はできない」

 

篤志は、ひどく静かに言った。

 

『厄介な同居人だから?』

 

「そうだ」

 

少し間を置いて、久住は付け足した。

 

「それだけではなくなりつつあるが」

 

篤志の気配が止まった。

 

『久住さん』

 

「寝る」

 

『今の、もう一回』

 

「寝る」

 

『そっちじゃなくて』

 

「聞こえたなら十分だ」

 

『厳しいなあ』

 

だが、篤志の声は少し笑っていた。

 

その夜、久住はいつもより寝つきが悪かった。

 

篤志のせいだけではない。

 

自分自身も緊張していた。

 

明日、自分は柳瀬美由紀と会う。

副担当プロデューサーとして、初めて挨拶をする。

その内側では、彼女の声を聞けないまま死んだ男が、声を待っている。

 

こんな状況を説明できる言葉は、どの業務資料にも載っていない。

 

それでも、やることは変わらない。

 

見る。

分ける。

判断する。

必要な距離を保つ。

彼女の前で、こちらの事情をこぼさない。

 

翌朝。

 

久住は目覚ましの五分前に起きた。

 

篤志は何も言わなかった。

 

ただ、静かにそこにいた。

 

久住は布団から起き上がり、顔を洗い、朝食を取り、ネクタイを締めた。鏡の前で自分の表情を確認する。普段より少し硬いが、仕事に出られないほどではない。

 

『久住さん』

 

「何だ」

 

『今日、お願いします』

 

「君に頼まれなくても仕事だ」

 

『はい』

 

「だが、引き受けた」

 

『……ありがとうございます』

 

久住は鞄にノートを入れた。

 

柳瀬美由紀に関する訓練のページには、四行がはっきり残っている。

 

知識と観察を分ける。

感情と判断を分ける。

未練と職責を分ける。

声を聞いた瞬間に崩れても、彼女に向けない。

 

事務所へ向かう道で、篤志はほとんど喋らなかった。

 

電車広告にも反応しない。

人混みにも驚かない。

事務所の入口でも、いつものように余計なことは言わない。

 

ただ、彼の意識はずっとノートの四行を見ていた。

 

久住にはそれがわかった。

 

昼前、第三芸能部プロデュース課の会議室前に着いた。

 

扉の向こうに、先任プロデューサーと、鷲尾と、そして柳瀬美由紀がいるはずだった。

 

久住は扉の前で一度だけ息を整えた。

 

篤志が、内側で震えている。

 

だが、声は出さない。

 

久住は心の中で言った。

 

「瀬戸」

 

『はい』

 

「訓練通りに」

 

『はい』

 

「崩れても戻れ」

 

『はい』

 

「彼女に向けるな」

 

『はい』

 

久住はノックした。

 

「久住です」

 

扉の向こうから、先任プロデューサーの声がした。

 

「どうぞ」

 

久住はドアノブに手をかける。

 

篤志の気配が、いまにも壊れそうなほど張り詰める。

 

だが、まだ壊れていない。

 

久住は扉を開けた。

 

そして、まだ聞いたことのない声が待つ部屋へ、一歩踏み込んだ。

 




突然初対面の人が声聞いただけで嗚咽し出したら怖いよねって言う話
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