二人の守り人 作:last cinders
久住遥真は、会議室の扉を開けた。
まず見えたのは、窓際に立つ鷲尾課長だった。
その隣に、先任プロデューサーの三枝がいる。
机の上には資料が三部、紙コップの水が二つ、そしてまだ開かれていない小さな菓子箱が置かれていた。
最後に、少女が見えた。
椅子に座っていた彼女は、久住が入ってきた瞬間にぱっと立ち上がった。
急いで立ったせいか、椅子の脚が床を小さく鳴らす。
その音に本人が少しだけ驚いて、すぐに両手を前でそろえた。
小柄だった。
資料の写真で見た印象よりも、ずっと現実の人間としてそこにいた。
髪の流れ、制服風の衣装の布の重なり、緊張しているのに明るくしようとする表情、足元でほんの少し迷った重心。
そして彼女は、息を吸った。
その瞬間、久住の内側で瀬戸篤志が完全に凍った。
まだ声は出ていない。
ただ、声が出る直前の息だけがあった。
それだけで、篤志の世界は崩れかけた。
彼女が笑った。
「はじめましてっ。柳瀬美由紀です。今日からよろしくお願いします、久住プロデューサーさん!」
声だった。
文字ではなかった。
吹き出しではなかった。
ホーム画面の台詞でも、イベントコミュでも、カードの親愛度演出でもなかった。
画面の中で何度も読んだはずの明るさが、音になって、呼吸になって、目の前の空気を震わせていた。
瀬戸篤志は、声を知らなかった。
ずっと知らなかった。
「えへへ」も、
「頑張るよ」も、
「見ててね」も、
彼にとっては文字だった。
彼はその文字を何度も読んだ。
読み返した。
スクリーンショットを保存した。
音のない台詞に、ありもしない声を勝手に重ねて、それでもいつか本当の声が届く日を待っていた。
待っていた。
待っていたまま、死んだ。
『――』
篤志の声が、久住の内側でほどけた。
叫びではなかった。
もっと静かで、もっと深いものだった。
張り詰めた糸が、音もなく切れるように、篤志の意識が膝から崩れ落ちるような感覚がした。
久住の喉が固くなる。
指先に力が入る。
視界の端がわずかに滲む。
久住は、それを外へ出さなかった。
「久住遥真です」
自分の声が、いつもより少し低く聞こえた。
「来月から副担当プロデューサーとして入ります。こちらこそ、よろしくお願いします」
美由紀は、ぱあっと表情を明るくした。
「はいっ。副担当さんって、プロデューサーさんがもう一人増えるみたいで、なんだか心強いです。みゆき、まだわからないこともあるけど、たくさん頑張りますね!」
久住の内側で、篤志が震えた。
みゆき。
彼女は自分で、そう言った。
当然のことだ。
資料にも書いてあった。
台詞にもあった。
彼女の一人称は、何度も読んできた。
それでも、本人の声で聞く「みゆき」は、篤志の知っていたどの文字よりも柔らかく、近く、そして遠かった。
遠い。
そう、遠いのだ。
彼女は目の前にいる。
けれど、篤志に向かって話しているわけではない。
彼女が見ているのは久住遥真だ。
副担当プロデューサーとして、この部屋に入ってきた大人。
これから仕事で関わる相手。
初対面の挨拶を交わす相手。
瀬戸篤志ではない。
篤志は、そこを間違えかけた。
「俺に言ってくれた」と思いかけた。
ずっと待っていた声が、ようやく自分に届いたのだと思いかけた。
その瞬間、久住が内側で低く言った。
「瀬戸」
篤志は、崩れたまま返事をした。
『……はい』
「戻れ」
『戻ります』
その会話は、外には出ていない。
会議室の中では、三枝が穏やかに進行していた。
「久住さんは元々、管理部門でレッスン室や現場導線、イベントの調整を見ていた人です。美由紀さんの現場でも、移動や準備、打ち合わせの記録を一緒に見てもらうことになります」
「はいっ」
美由紀は真剣な顔で頷いた。
「えっと、久住プロデューサーさんは、道に詳しいですか?」
唐突な質問だった。
三枝が少し笑う。
「美由紀さん、そこから聞くんだ」
「だって、東京の駅って、出口がいっぱいあるんですもん。地図では近いのに、違う出口から出たら全然違うところに行っちゃって。前に、迷子になりそうになって、びっくりしました」
「都内移動については確認しています」
久住は答えた。
「基本出来には帯同しますが、どうしても難しい初回の現場では、乗り換えと出口、集合場所を事前に共有します。必要なら写真付きでルートを作ります」
美由紀の表情が、目に見えて明るくなった。
「写真つき!
それなら、みゆきもちゃんと行けそうです。えへへ、北海道だと道は広いけど、東京は上にも下にも道があって、すごいですよね」
篤志が、かすかに反応した。
『北海道』
久住は内側で返す。
「確認事項か」
『違います。感情です』
「なら黙れ」
『はい』
篤志は黙った。
本当に黙った。
それだけで、久住は訓練の意味があったと思った。
三枝が資料を開く。
「今日は顔合わせなので、細かい方針決めまではしません。ただ、久住さんには美由紀さんの仕事の方向性を把握してもらいたいので、最近のレッスン状況と、今後やってみたいことを少し話してもらえますか」
「はいっ」
美由紀は両手を膝の上に置き直した。
「みゆき、歌もダンスも、もっと上手になりたいです。ダンスは楽しいけど、たまに早いところで足がこんがらがっちゃうから、そこをちゃんとできるようにしたいです。
それで、お客さんにも一緒に楽しくなってもらいたいなって思ってます」
「一緒に楽しく、ですか」
久住が聞くと、美由紀は大きく頷いた。
「はい。みゆきだけが楽しいんじゃなくて、見てる人も、スタッフさんも、プロデューサーさんたちも、みんなで楽しくなれたらいいなって。ほら、雪遊びも、一人よりみんなでやった方が楽しいでしょ?」
篤志が、また揺れた。
だが、今度は外へ出さなかった。
久住は美由紀の言葉を、仕事の情報として受け取る。
一緒に楽しく。
観客参加型への適性あり。
自分だけを見せるより、場を巻き込む方向に楽しさを感じている。
久住はノートへ短く書いた。
「人を巻き込む形が得意そうですね」
美由紀は、少し照れたように笑った。
「得意って言っていいかわかんないけど、みゆき、みんなに声かけるのは好きです。知らない子でも、一緒に遊んだら友だちみたいになれるかなって思うし。お仕事でも、そういうふうにできたらいいなって」
『久住さん』
篤志の声が聞こえた。
震えているが、潰れてはいない。
「確認事項か」
『確認事項です』
「言え」
『みゆきちゃん、客席を"見る人"じゃなくて"一緒にいる人"として捉えてます。
だから、ただ歌って見せるより、呼びかけとか、手拍子とか、簡単な振りを入れる仕事が合うかもしれない。
でも、子ども向けに固定しすぎると違う気がします。本人は小さい子だけじゃなくて、大人もスタッフも含めて"みんな"って言ってるんです』
久住は、ペンを止めなかった。
「有用だ」
『はい』
篤志は、それだけ言って下がった。
久住はその指摘を、すぐにそのまま口にはしなかった。
篤志の言葉は補助線であって、久住の発言ではない。
だが、視点としては使える。
「今後、客席との距離が近い現場や、参加型の企画は相性がよさそうです。ただし、年齢だけで子ども向けに寄せすぎるのではなく、本人の"みんなと一緒に楽しむ"感覚を活かす方向がいいかもしれませんね」
三枝が頷いた。
「そこは私も考えていました。美由紀さんは、場を明るくするのが上手いですから」
美由紀は、少し驚いたように目を丸くした。
「みゆき、上手いですか?」
「上手いですよ」
三枝が言う。
「自分では普通に話しているだけかもしれませんけど、それで周りがほっとすることがあります」
美由紀は、頬を緩めた。
「えへへ、そうなら嬉しいです。みゆき、誰かが元気ないと、どうしたのかなって気になっちゃうから。楽しいことしたら元気になるかなって思うんです」
その言葉に、久住は篤志の気配が変わるのを感じた。
美由紀は、誰かの疲れに気づく。
篤志もまた、疲れに敏感だ。
そして篤志は、自分の限界に気づけなかった。
同じではない。
だが、重なるところがある。
篤志が、危うく感情へ落ちそうになる。
久住は内側で言った。
「瀬戸」
『……はい』
美由紀は何も知らない。
目の前の副担当プロデューサーの中で、一人の男が自分の言葉に泣きそうになっていることなど、知るはずもない。
だからこそ、知らないままでいさせなければならない。
それが、久住と篤志の最初の責任だった。
顔合わせは、二十分ほど続いた。
美由紀は、レッスンで苦手な振りのこと、東京の駅が複雑なこと、ぬいぐるみを持っていると少し安心すること、北海道の友だちに仕事の話をしたら喜んでくれたことを、明るく話した。
途中で、彼女は机の上の菓子箱に目を向けた。
「あの、これって、あとで食べてもいいやつですか?」
三枝が笑う。
「終わったらみんなで食べましょう」
「やったぁ。みゆき、おなか空いてきちゃって。あ、でもちゃんとお話は聞いてますよ!」
久住は時計を見る。
昼前だった。
「顔合わせの後、昼食の予定はありますか」
美由紀がぱっとこちらを見る。
「あります。今日はお弁当です。えっと、ケータリングじゃなくて、お弁当。ケータリングって、まだちょっと特別な感じがします」
「食事時間は確保してください」
久住が言うと、美由紀は素直に頷いた。
「はいっ。食べたら、午後も頑張れますもんね。久住プロデューサーさんも、お昼ちゃんと食べてますか?」
久住は一瞬だけ止まった。
篤志が内側で、ものすごく小さく反応した。
『言われてる』
「黙れ」
『……はい』
本人のありさまを棚に上げた反応をむしして、久住は外側で答えた。
「食べます」
美由紀は満足そうに笑った。
「よかったです。プロデューサーさんがくたくただと、みゆきも心配になっちゃいますから。ちゃんと休んで、また一緒に頑張りましょうね」
心配する声。
明るく、少し幼く、それでも相手をちゃんと見ている声。
篤志は、今度こそ泣いた。
久住の内側で、声もなく泣いた。
外には出さなかった。
呼吸も乱れなかった。
指も震わせなかった。
視線も逸らさなかった。
ただ、内側で膝をつき、両手で顔を覆うようにして、篤志は泣いていた。
『ごめんよ、ごめんなさい』
久住は返事をしなかった。
今は会議中だ。
そして、それは久住に向けられた仕事上の会話だった。
だが、久住は否定もしなかった。
篤志が聞いたことは事実だった。
長く待ち、待ったまま死に、二度と聞けないはずだった声が、いま確かに聞こえた。
その事実まで奪う権利は、久住にもない。
三枝が資料を閉じた。
「では、今日はここまでにしましょう。久住さん、後ほど引き継ぎ資料を共有します」
「承知しました」
鷲尾も頷く。
「久住くん、美由紀さんの初回帯同は来週のレッスン見学からだ。急がなくていい。まずは見ることから始めてくれ」
「はい」
見ることから始める。
その言葉に、久住は深く頷いた。
美由紀は立ち上がり、もう一度久住へ向き直った。
「久住プロデューサーさん」
「はい」
「みゆき、まだまだ知らないことがいっぱいあるけど、ちゃんと覚えます。だから、わからないことがあったら教えてくださいね。みゆきも、楽しいこといっぱい見つけます!」
久住は、彼女の目を見た。
篤志の感情が、奥で震えている。
だが、久住はもう揺らがなかった。
「こちらも、柳瀬さんのちゃんと見ます」
美由紀は、少しだけ不思議そうに瞬きをした。
「ちゃんと?」
「はい。何が得意で、何が不安で、何を大事にしているのか、話を聞きながら確認します」
美由紀は、ゆっくり笑った。
「えへへ。じゃあ、みゆきもちゃんとお話しますね。プロデューサーさんに、みゆきのこと、いっぱい知ってもらえるように」
篤志が、内側でまた崩れそうになる。
久住は静かに言う。
「彼女に向けるな」
『はい』
「これは仕事の言葉だ」
『はい』
「それでも、聞こえたことは否定しなくていい」
篤志は、泣きながら頷いたようだった。
『はい』
顔合わせは終わった。
美由紀は三枝と一緒に会議室を出ていく。
扉の前で一度振り返り、元気よく手を振った。
「それじゃあ、またお願いします!
久住プロデューサーさん!」
「よろしくお願いします」